岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山の少雪異変は04年から始まった / 「何合目」という呼び方は?

2009-03-24 05:22:46 | Weblog
(今日の写真は2004年3月30日に写したものだ。場所は松代の石倉付近からのものである。前景は原野である。積雪は30cmもない。土地の人の話しだと、この辺りは5月の半ばでないと雪は消えないのだそうだ。だが、3月30日で30cmに満たない積雪となれば、4月の上旬には消えてしまうはずである。
 何故に今日、この写真を出したかというと、昨日23日にNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の下見に出かけて、この場所からの「岩木山」を見た。そして、思い出したのがこの「写真」の風景なのだ。)

       ◇◇ 岩木山の少雪雪異変は04年から始まった ◇◇   

 昨日見た風景はまさに、この写真そっくりなのである。そして、昨日は3月23日である。5年前の3月30日と今年の3月23日がしっかりとスライドされているのである。
 前面の原野は「ブナ」が伐採されて耕地として利用されたが、今は放置されて原野に戻っている場所である。その奥に横に広がっている樹木はカラマツであり、濃い緑のものはスギである。いずれも、植林されたものだ。その上部に続いている森は「ブナ」である。ブナが途切れた辺りに見える濃緑の樹林帯は「コメツガ」である。
 追子森山頂部のコメツガは樹木のすべてを露わに出している。少なくとも10年前のこの時季では、コメツガはまだ、雪を纏い、モンスターの様相を見せていたものである。
 温暖化と少雪が顕著になってきたのは2004年からである。

◇◇…「何合目」という呼び方は?「…合目」と呼ぶためには、それなりの意味を持たせなければいけない ◇◇

 一ヶ月ほど前に、東京テレビだったか、朝日放送テレビだったか思い出せないが、『「山で言う「…合目」という呼び方について調査をしている。岩木山にも「8合目」と「9合目」と呼ばれている場所があるが、他の登山道にも「…合目」表示はあるのか。また、スカイラインターミナルを「8合目」リフト終点を「9合目」としているのはどのような理由からか』という電話による問い合わせがあった。

 岩木山の登山道で、この「…合目」表示をしてあるのは「弥生登山道」だけである。「弥生地区」は約70年前から始まった入植地域でもある。弘前市の新しい町なのだ。「上弥生地区」は合併前の行政区分では岩木町であった。いずれにして、新しい居住区であることに変わりはない。
 そして、この登山道は「岩木町」と、「弥生地区」の住民によって長いこと「管理・整備」されてきた。
 「上弥生」地区から始まる弥生登山道は岩木山の登山道の中では「新参者」だ。聞くところによると、この地区に入植した人たちが「私たちの登山道」として開鑿したものなのだそうだ。
 確かに同じ登山口付近から、やや北寄りに赤倉登山道に抜ける道があった。この登山道は現在廃道化していて、夏場は利用不可だ。残雪期だと、雪消え跡に残るかつての「踏み跡」を追いながら辿ることは可能である。
 この登山道は「弥生地区」の下山麓に展開している「船沢地区」の住民たちが昔から利用し、保守していた登山道であったのだ。これは弥生の人たちが造った登山道よりも長いのである。水無沢に沿って、かなり迂回しながら、赤倉登山道の大開付近に抜けるものである。
 入植した「弥生」の人たちは、この登山道を利用すると、わざわざ「新道」を開鑿しなくてもよかったのだが、やはり、「自分たちの登山道」が欲しかったのだろう。苦労を圧して、造ったのである。
その後、「船沢地区」の人たちも「弥生登山道」を利用するようになり、昔からの登山道は廃れてしまった。それでも、今から30年ほど前には、夏場でも辿ることは出来たのである。私は数回ここをとぼり降りている。  
 かつて、岩木山の登山ルートは12本もあった。それは、山麓の各集落から思い思いに山頂に至る登山道があったのである。それは、その「集落」の登山道であり、「管理・整備」はその集落が担当していたのである。
 そこを使わせて貰う登山者はただ、単なる「通行者」に過ぎなかった。その傾向は現在も続いているようだ。登山者にその道の「管理・整備」に関わるという意識は希薄だ。

 さて、この岩木山では最も新しい「弥生登山道」にだけ、なぜ、「1合目登山口」から山頂直下、標高1580mにある「9合目」まで、この「…合目」表示が付けられたのだろうか。既存の登山道には明らかに「…合目」表示や呼び方、呼び名はないのである。
 既存の登山道はすべて、「姥石」、「坊主転ばし」、「山の神岩」、「大開」などと、そこにある岩や、その場所の地形をもとにして名付けられている。
 このことは、明らかに岩木山山麓一円に住んでいた人たちに「…合目」という概念が存在していなかったか、あるいは存在していたとしても非常に希薄だったということではないのだろうか。
 「弥生地区」の住民は、入植者であるから、すべてが、この津軽の風土を体験している者たちではなかっただろう。富士山などはすべて「…合目」表示である。「三合五勺室」などと言う場合もあると聞く。他の山でも「…合目」と呼ぶところは多い。
 入植者の中に、既に「…合目」表示のある山に登ったことのある人がいたのだろうか。その体験から「…合目」にしたのであろうか。恐らくそうであろう。
 私は、それに併せて、「新しく開鑿した自分たちの道」ということを強く印象づけるために、既存の登山道にはない「呼び名」を付けたのではないかと考えている。
 そこに、入植者たちの意気込みと「開拓精神(フロンティアスピリッツ)」を見るのである。本当に頭の下がる思いである。私の一番好きな登山道が、この「弥生登山道」であるということの理由はそこにあるのかも知れない。(明日に続く)

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