(今日の写真は3月の耳成岩である。これは頂上直下の北東側から撮ったものだ。雪解けが早く、岩陵を覆っていた氷雪もすっかりと溶けて剥がれ落ちている。このような時季には、一層荒々しさを顕著にする。
少し前の厳冬期には、すっぽりと氷雪に覆われて「白一色」の世界であり、岩陵には屹立感がなく、「丸み」を帯びていて優しさが漂う。しかも、「メリハリ」がない、ただの「雪陵」でしかない。
晴天が続いて、シュカブラもその凹凸をすっかりと摩耗させている。何と変哲に欠けることだろう。ただ、所々に見える「ダケカンバ」は氷雪に全身を押しつぶされながらも、「しなりに撓って」それに耐えている。
先端を撓(たわ)ませて、積雪に首を突っ込んでいるではないか。樹上にはもはや、「雪」はないのである。だから、「すくっと」立ち上がっていいはずなのに、それが出来ない。
これは、積雪が沈み込んでいるからだ。樹上の積雪に圧されて、撓んで沈んだのだ。その枝や梢を、今度はその沈下する積雪が「引きずり込んで」いるのである。
大概の樹木の枝はこれで折れてしまう。しかし、ダケカンバやミヤマナラの類は、強靱である。「楕円」を描くほどに曲がっても、折れることはない。
そんなことを考えたら、この岩陵を取り巻くすべてのものが「強靱」に見えてきたのだ。何と、不思議なことであろうか。)
◇◇「岩木山の生き物・立体、総合的重層型シンポジウム」の報告(最終回)◇◇
(承前)「岩木山に分布を広げた猿」について笹森耕二氏(本会会員)が語る…。
昨日、私は『単独行動の「離れサル」に出会うことはこの「山域以外」でも度々あるが、群れと出会うことは「岩木山の北西域」以外ではまずない』と書いた。
これには訳があった。それは私が単なる登山者であり、その守備範囲が「サルの生息調査」という目的を一義的に持っていないことに因るだろう。
それでも、登山道のほぼ無いこの北西域には「二子沼」というすばらしい自然景観と貴重な水辺植物が豊富なのでしばしば訪れているし、前述したように環状道路を十数年連続して歩いてはいたのである。
笹森氏は、最近の調査で、「岩木山には大きな群れが3群、南西から北西にかけて生息している」と報告した。
ここで言う「北西にかけて」という場所は私が確認しているところと同じである。二子沼からブナ林、環状道路を跨いで、鰺ヶ沢町芦萢にかけての範囲である。
南には松代から入る「松代(大ノ平)登山道」がある。この尾根では、秋にヤマブドウを食べているクマに遭遇したことはあるが、まだサルの群れには出会っていない。
この登山道には二子沼からの道がある。沢を挟んだ向かい尾根なのだから、「北西域の群れ」が移動してきてもいいように思うのだが、いまだに出会えないでいる。なお、この道は、現在、廃道化している。
南西にはスカイライン自動車道路や岳登山道がある。この尾根やブナ林内でも、「サルの群れ」とはまだ出会っていないのである。
断っておくが、笹森氏は言葉で「南西から北西」と言ったわけではない。オーバーヘッドプロジェクター画像で示した地図上の範囲がそうだったのである。もちろん、私の見間違いもあるだろう。
ただ、その画像が示す「三つの群れの生息」範囲は、白神山地から日本海に向かって「北上」する「中村川」に沿っていたことは確実である。
この群れは、恐らく「西目屋村の桧森」方面や「旧岩木町の中村川上流部」、「鰺ヶ沢町の中村川上流部と赤石川に挟まれた尾根」方面から移動してきて、この場所を「生活の場所」としたものだろう。
笹森氏の見解と私の考えは、この点で一致している。生活の場所にするには、その場所に「確定的」な「餌」がなければいけない。
その「餌」が、人間によって「生産や栽培された」ものである場合は、群れの移動、つまり「サル」を引き寄せた理由は、「人間の行為」ということになる。根本的にはこれは「餌付け」行為と同じだろう。
天然記念物である「下北半島のサル」の捕獲や駆除も、観光目当ての「人の餌付け」の結果である。クマやシカの捕獲や駆除も、その大半は「餌付け」等の学習から、彼らが人に近づき過ぎた結果である。この点でも私は笹森氏と同じ見解だ。
笹森氏は言う…。
一端、移動してきて、その場所に群れとして定住したものの「完全な駆除」は出来ない。間引き的な駆除は、その群れの中の「弱い個体」が対象となるので「群れ全体の繁殖能力」は低下しない。「強い個体」は容易に捕獲されない。
人間が栽培するものが「餌」である場合、その「餌」の栽培を止めると「別な餌」を人里に求めるようになる。これはサルのみならず、クマも同様だ。
昔といっても、明治時代くらいまでは「サル」は人の食料の対象であった。つまり、人は「サルを捕獲」して「食べて」いたのである。
ところが、食糧事情の変化で「サルを食べる」ということがなくなった。「サルが必要以上に繁殖することを人が抑止し、自然の餌で間に合うバランスを保っていた」のであると…。
逆にいうと、「サル」にとって「人」は天敵だったわけである。『「人」は恐ろしいものだから、近づくな』がサルの掟だったわけだ。
「サルの食害」を防ぐには「このような関係を人間側が構築するする」しかないのである。電気柵などで防備しても、費用対効果は薄い。無駄な努力かもしれない。
サルと共存するには生活の場をお互いが違えねばならい。時間をかけて『「人」は恐ろしいものだから、近づくな』をサルに学習させるしか、手立てはないだろう。(この稿はこれで終わりとなる)
少し前の厳冬期には、すっぽりと氷雪に覆われて「白一色」の世界であり、岩陵には屹立感がなく、「丸み」を帯びていて優しさが漂う。しかも、「メリハリ」がない、ただの「雪陵」でしかない。
晴天が続いて、シュカブラもその凹凸をすっかりと摩耗させている。何と変哲に欠けることだろう。ただ、所々に見える「ダケカンバ」は氷雪に全身を押しつぶされながらも、「しなりに撓って」それに耐えている。
先端を撓(たわ)ませて、積雪に首を突っ込んでいるではないか。樹上にはもはや、「雪」はないのである。だから、「すくっと」立ち上がっていいはずなのに、それが出来ない。
これは、積雪が沈み込んでいるからだ。樹上の積雪に圧されて、撓んで沈んだのだ。その枝や梢を、今度はその沈下する積雪が「引きずり込んで」いるのである。
大概の樹木の枝はこれで折れてしまう。しかし、ダケカンバやミヤマナラの類は、強靱である。「楕円」を描くほどに曲がっても、折れることはない。
そんなことを考えたら、この岩陵を取り巻くすべてのものが「強靱」に見えてきたのだ。何と、不思議なことであろうか。)
◇◇「岩木山の生き物・立体、総合的重層型シンポジウム」の報告(最終回)◇◇
(承前)「岩木山に分布を広げた猿」について笹森耕二氏(本会会員)が語る…。
昨日、私は『単独行動の「離れサル」に出会うことはこの「山域以外」でも度々あるが、群れと出会うことは「岩木山の北西域」以外ではまずない』と書いた。
これには訳があった。それは私が単なる登山者であり、その守備範囲が「サルの生息調査」という目的を一義的に持っていないことに因るだろう。
それでも、登山道のほぼ無いこの北西域には「二子沼」というすばらしい自然景観と貴重な水辺植物が豊富なのでしばしば訪れているし、前述したように環状道路を十数年連続して歩いてはいたのである。
笹森氏は、最近の調査で、「岩木山には大きな群れが3群、南西から北西にかけて生息している」と報告した。
ここで言う「北西にかけて」という場所は私が確認しているところと同じである。二子沼からブナ林、環状道路を跨いで、鰺ヶ沢町芦萢にかけての範囲である。
南には松代から入る「松代(大ノ平)登山道」がある。この尾根では、秋にヤマブドウを食べているクマに遭遇したことはあるが、まだサルの群れには出会っていない。
この登山道には二子沼からの道がある。沢を挟んだ向かい尾根なのだから、「北西域の群れ」が移動してきてもいいように思うのだが、いまだに出会えないでいる。なお、この道は、現在、廃道化している。
南西にはスカイライン自動車道路や岳登山道がある。この尾根やブナ林内でも、「サルの群れ」とはまだ出会っていないのである。
断っておくが、笹森氏は言葉で「南西から北西」と言ったわけではない。オーバーヘッドプロジェクター画像で示した地図上の範囲がそうだったのである。もちろん、私の見間違いもあるだろう。
ただ、その画像が示す「三つの群れの生息」範囲は、白神山地から日本海に向かって「北上」する「中村川」に沿っていたことは確実である。
この群れは、恐らく「西目屋村の桧森」方面や「旧岩木町の中村川上流部」、「鰺ヶ沢町の中村川上流部と赤石川に挟まれた尾根」方面から移動してきて、この場所を「生活の場所」としたものだろう。
笹森氏の見解と私の考えは、この点で一致している。生活の場所にするには、その場所に「確定的」な「餌」がなければいけない。
その「餌」が、人間によって「生産や栽培された」ものである場合は、群れの移動、つまり「サル」を引き寄せた理由は、「人間の行為」ということになる。根本的にはこれは「餌付け」行為と同じだろう。
天然記念物である「下北半島のサル」の捕獲や駆除も、観光目当ての「人の餌付け」の結果である。クマやシカの捕獲や駆除も、その大半は「餌付け」等の学習から、彼らが人に近づき過ぎた結果である。この点でも私は笹森氏と同じ見解だ。
笹森氏は言う…。
一端、移動してきて、その場所に群れとして定住したものの「完全な駆除」は出来ない。間引き的な駆除は、その群れの中の「弱い個体」が対象となるので「群れ全体の繁殖能力」は低下しない。「強い個体」は容易に捕獲されない。
人間が栽培するものが「餌」である場合、その「餌」の栽培を止めると「別な餌」を人里に求めるようになる。これはサルのみならず、クマも同様だ。
昔といっても、明治時代くらいまでは「サル」は人の食料の対象であった。つまり、人は「サルを捕獲」して「食べて」いたのである。
ところが、食糧事情の変化で「サルを食べる」ということがなくなった。「サルが必要以上に繁殖することを人が抑止し、自然の餌で間に合うバランスを保っていた」のであると…。
逆にいうと、「サル」にとって「人」は天敵だったわけである。『「人」は恐ろしいものだから、近づくな』がサルの掟だったわけだ。
「サルの食害」を防ぐには「このような関係を人間側が構築するする」しかないのである。電気柵などで防備しても、費用対効果は薄い。無駄な努力かもしれない。
サルと共存するには生活の場をお互いが違えねばならい。時間をかけて『「人」は恐ろしいものだから、近づくな』をサルに学習させるしか、手立てはないだろう。(この稿はこれで終わりとなる)