岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

雨の日には雨の日の発見があるものだ…

2007-05-18 05:44:41 | Weblog
 雨の日には雨の日の発見があるものだ…(自然観察会の報告)

 とにかく集合時間から解散時間まで土砂降りではないが「雨」に歓迎された催しごとになってしまった。
 自然を相手の行事や催事は「晴天」が何よりの贈り物であって、少々計画にずさんさがあっても、案内や主題に不備があっても「終わってみれ」ば「よかった」ということになるものだ。
 ところが、「雨天」だとそうはいかない。最初から「雨天」ということで参加者には不満と残念さがある。主催する側は否応なく参加者のこの天気に対する「不満と残念さ」を取り除くことに気を配らなければいけなくなる。つまり、余計な仕事が増えてしまうというわけである。

 こういうことがあった。PTAの登山教室で八甲田山に登った時である。登りはじめから雨であった。最初は参加者同士のおしゃべりが続いていたが、しばらくして、登山道の勾配がきつくなり、かなり「高い場所までやって来ている」のだろうと感じはじめ出すと、その「おしゃべり」はとぎれとぎれになり、次第に無言になっていった。
 そして、時折、「何にも見えない」(雨天で濃霧、そのため周囲がまったく見えないということ)といううめきにも似た声が参加者から聞こえ出した。

 高いところに登って、そこから「360度の眺望を楽しむ」ということも「登山の目的」であるに違いない。その日はその目的を放棄しなければならない状況にあった。しかし、「登山の目的」はそれだけではないだろう。目的はそれほど一元的なものではない。一つの目的にだけこだわると心が「全盲」状態になってしまうのだ。
 このような時は、見るという「心の窓」を広げるのである。周りが見えなければ足元を見ればいい。時は6月の中旬だった。八甲田山では高山植物が咲き出す時季である。
 私は「足場が悪くて滑りますから、気をつけて下さい。」と言いながら「足元や手元に注意しましょう。その時見える花に注目しましょう。」とさりげなく言って、参加者の関心を「花や植物」に向けるようにした。
 すると、誰からともなく「この黄色の花はなんですか。」とか「まあ、何ときれいな花だこと。」とか「これは家の庭に咲いている花に似ている。」と言うセリフが聞こえ出したのである。参加者の「心の窓」は広がり、関心は手元・足元に移動したのである。
 参加者たちは、その開かれた目で「観察」を始めたのだ。登山の目的が高みを目ざし、眺望を楽しむということから、足元、手元に咲いている花を楽しみながら登るということに変わったのである。何も見えないのではなく「見よう」としていなかっただけなのである。

 ところで、嬉しいかな、さすがに「自然観察会」に参加する人たちは、登山者とは違う。何よりも「単眼」ではない。いろいろな角度から自然を「複眼」的に眺める。
 トンボ類の複眼では360度が見えていると言われるが、そのような目で自然を見ようとしているのだろう。だから、雨の日でなければ「見えないこと」もしっかり見ようとするのである。

 今年は特に早くて里山では、すでにスプリングエフェメラルズと呼ばれるキクザキイチリンソウもカタクリもその開花期を終えていた。しかし、今回の観察地域の林道脇にはまだ咲いているのだった。しかも、カタクリは道路の両側に延々と群生しているのである。標高があり、雪解けが遅い場所だからである。
「時季外れのスプリングエフェメラルズの鑑賞と観察」をもって「雨天」というマイナス要因をプラスに変えて、差し引きゼロ程度にしたいと考えていた。
 もう一つ、「嗅ぐ」という感覚を使い、山道で香りから早春を発見してもらい、「雨天」というマイナスをプラスにしてもらうということだった。ただ、暖かい陽気の時ほどその「芳香」は強さを増す傾向にあるので、この天気でその植物たちが「香り」をどこまで発散させてくれるかは不安であった。
 さらに加えて、雨天で視界があまりよくないが、見えない時は「聴く」という感覚での「観察」があるわけだ。それは野鳥の鳴き声に耳を澄ますということだった。会員の「野鳥のプロ」が2人参加していたので対応は十分であった。

 ところが、その日、「カタクリやキクザキイチリンソウは人の友だち」ではなかった。群生するそれらすべてが、堅く花弁や萼片を閉じて、俯(うつむ)き、頭を深く垂れ、雨のしずくを涙として、埋葬に集う参列者のように立ちつくし、歩いて行く我々をまるで葬送の列であるかのように見送るのであった。
 「カタクリやクザキイチリンソウは曇天や雨天の時は、花弁や萼片を開かない」ということは誰もが知っていることであろう。だれもが「知識としていること」を目の前で、現実として確認できたこと、これを私は、「本物の観察」だと考えている。
 そして、目の前の、これらの花が「心を許し、心を開く友だち」は「太陽であり虫たち」であることを事実として受け入れざるを得なかったのだ。
 寂しいことだが…、それは言い換えると「カタクリやキクザキイチリンソウ」が心を開く友だちは、決して私たち「人」ではないということであった。

(この稿、明日に続く。)