岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

食べて美味しい、眺めて楽しいユキザサ(雪笹)

2007-05-05 09:48:46 | Weblog
 食べて美味しい、眺めて楽しいユキザサ(雪笹)

 先日と昨日、友人のKTさんから旬の山菜を戴いた。その中に「ユキザサ」もあった。私は積極的に山菜採りをすることはない。しかし、この「ユキザサ」だけは採ることがある。
 先月末に久渡寺山に出かけた。書くまでもないが、登山道を少し登った雑木林の林縁や開放地、日当たりのいい斜面ではキクザキイチリンソウなどのスプリングエフェメラルズ(春のはかない命たち)は、全身を太陽に突き出して、曝して咲いていた。
 この時季は下草が出ていない。歩きやすいので登山道を逸れて林内を登ることにした。ミズナラなどの葉はまだ出ていない。林の中は明るい。「春のはかない命」たちはこの樹木が葉を出す直前の明るい林下でしか花を着けない。
 葉が出ると早々と花を散らし、子孫を残して長い長い来年の早春までの休眠生活に入り、他の植物にその場所を譲る。これらはフクジュソウなどキンボウケ科の仲間たちである。
 中には、キュウリグサのように咲いては種を落とし、年中繰り返して花をつけるものもあるが、これとてきわめて「小さい」草本で花はわずかに2mmといういでたちからすれば奥ゆかしいともいえるが、このように植物は実に奥ゆかしい。まさに、「時所位」を完璧に知り尽くしている。これほど出しゃばらないことを弁(わきま)えた生き物はいない。
 人はこの地上に発生してから、ずっと「植物」に助けられながら生きてきた。しかし、これらの植物の持つ「時所位」を弁えるという奥ゆかしさとは縁のない生活をしてきている。植物に比べると人は強欲である。長生きしたい・他人よりいいものがほしい・おいしいものが食べたい・あれがほしい・これがほしいと飽くことを知らず、自分の「時所位」以上のことを求め、満足することがない。
 
 ところで、他人(ひと)様は「三浦さんはしょっちゅう山に行っているようですが、何を採るんですか。」と訊くことがある。
 この質問を受けることは結構多く、そのたびに、心中は穏やかではなくなる。
「山は人に恵みを与えてくれるけれども、山の植物も動物も人のためになろうなどと考えて生きているわけではない。そのことを厳密に捉えると人は、自然物を何の断りもなく略奪しているのだ。私は山菜を採る目的で山に入ることはない。私にとって山とは登るための場所であり、自然と同化して癒される場所である。そのような優しい場所で略奪行為をすることは出来ないのではないか。」
 …などと心中で反論しながらも口では…
「何も採りません。登って帰ってきます。」
「えっ、勿体ないでしょう。せっかく山に行くんですから何か採ってくればいいじゃないですか。」
「せこい。転んでもただでは起きない、というやつだ。」と思いながらも「…。」(無言)で応える。
もっとひどい言いぐさはこれだ。「冬山に登ったって何も採るものがないでしょう。馬鹿らしく無駄ですよ。」まさに極めつけだろう。価値観は多様で広いものだと諦めの境地である。

 キクザキイチリンソウがまばらになってきた林下である。白い根元を見せてすくっと立っている緑の小さな塔、中には少し葉を広げて緑の花芽を出しているものもある。「ユキザサ」だ。小さな花芽、つぼみである、が風に微かに揺れる。
 急がない山登りだ。大体を数えてみた。少なければ採らない。何と、200本以上はあるではないか。よし、30本程度は戴こう。
 私は丹念に一本二本と数えながら全部で35本採取した。
 夕食にその30本を茹であげてお浸しとして、鰹の削り節とお醤油で食べた。甘いのである。とろりとした優しい甘さが何とも言えないほどに美味しいのである。今年の初物だ。思わずそのおいしさに微笑んだ。「初物」を食する時は笑えというが、その所為では決してない。
 残りの5本は蕾が大きくなっており、咲きかかっていたものだ。これは最初から食するつもりはなかった。小さな花器にいけて「ユキザサの花」を楽しむためのものであった。

 岩木山には、このユキザサ(雪笹)の他にオオバユキザサ(大葉雪笹)とミドリユキザサ(緑雪笹…花色が緑色をしているもの)がある。

 ユキザサは「名と実を躰で表す真の白花」であると感じたユキザサとの出会いは…

 『何人かが私の前を登っているようだ。歩き始めや平坦なところでは会話が絶えない。途絶えるのは勾配がきつさを増した時か危険な場所である。総じて疲れている時は人語は控えめになるようだ。こんな時だけ人は自然と同化するらしい。
 自然とは静かなものである。草木は語らず、動物は寡黙(かもく)。鳥は歌うが場所と時をわきまえている。人語にはそれらが欠けているように思う。
 ことに、人間が集団をなした時に、なかなかわきまえ方ができないこと、つまり自然と本質的に同化できない資質があるような気がする。
 一人の時には会話の騒然さと煩(わずら)わしさがない。足許の草や花、木の実、昆虫やその死骸などを眼に止めてはものを思う。
 風を感じては雲に想いを馳(は)せ、したたり落ちる汗に体の鼓動を感じ、それを大地に伝え、山の鼓動を知る。
「白い花との出会いが多いなあ。」との思いがその日にはあった。花の名称に詮索が及ぶのもそんな時だ。
 ユキザサは目にしただけで名前の由来が解ってしまう素朴な花だ。
清楚の一語に尽きる。「花を雪に、葉を笹に見立てた花名」であることは誰にでも解る。
 花の名称で一番解りやすく忘れないものは、その名と色彩や形象・形状が直接対照されているものであろう。』

 春に、花は細雪に紛う純白で人を楽しませ、秋には透き通った赤いしょう果が山道の可愛らしい案内人として変身する。ありがたいことである。