岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

会報42号発送・月刊「弘前」表紙写真・カメラに頼るということ

2007-05-31 05:13:47 | Weblog
       ・会報42号発送

 今日で5月も終わりだ。会報の発行日付は20日である。その後の処理が遅れて29日に会計係のTさんに「封筒に入れた」ものを渡し、Tさんが別紙「会費納入状況」を封入してから発送する手はずになっている。今日あたり配達されるかも知れない。

       ・月刊「弘前」表紙写真のこと

 タウン誌月刊「弘前」6月号も間もなく発行されるだろう。今号の表紙写真は「オコジョ」である。岩木山に生息する一番小さな「肉食獣」ではないだろうか。
 1月号から6月号までの写真と文章原稿は昨年の11月末に編集長のAさんに渡して、その後は、毎月出来上がってくるものを恐る恐る「待っている」日々が続いていた。ところが、今月末は残り6ヶ月分の「写真」と「文章原稿」をAさんに渡す時なのだ。原稿はすでに書いてしまっていた。しかし、使おうと思っていた私の写した写真は「見れば見るほどよくない」のである。
「暗くて被写体の輪郭がはっきりしない。」「解るのだがひどい手ぶれである。」など、表紙を飾るには堪えられない代物なのだ。
 思い悩んで、私は本会の「写真ファイル」を覗いて見た。驚くことに、そのファイルには、私が写した構図や雰囲気そのままの写真が数枚あったのだ。しかも、どれも「輪郭明瞭」「手ぶれなし」というすばらしいものであった。
 多くの人に「岩木山に棲む動物」の写真を紹介するということが、この表紙写真掲載の目的である。となれば、「いい写真」で紹介することがベターではないだろうかと考えた。私は厚顔にも、会員である撮影者のBさんとCさんに「ことの経緯」を語り、使わせてほしいとお願いをした。ありがたいことに2人は快諾してくれたのである。
 この2人の写真と私の写真が残り6ヶ月の表紙を飾ることになる。ここでは名前を伏せるが、実際の月刊「弘前」には撮影者として名前が出るので、そのすばらしい撮し手が誰なのかは、それで確認してほしい。
       
       ・カメラに頼るということ

 登山客が多くなると侵入禁止のロ-プを越えて入り込み、写真を撮るものも増える。近頃は大型カメラを持つ人が増えている。その重さを支える大きな三脚を据えるわけだから、足による踏みつけのほかに三脚によるそれも大きい。図鑑用の写真を撮るわけではないのだから、マクロレンズではなく望遠レンズで撮り、少々のぶれや不鮮明は我慢してもらいたいものである。
 
 ところで、写真を撮るという点では私も同類なのだが、写真にだけ頼っているのでは、何か大きなこと見落としているような気がしてならない。
 評論家森本哲郎が、ある文章の中で画家のF氏に、「カメラという便利な機械があると、ついそれに頼って人間は対象を見つめなくなるんだな。」と言わせている。
 カメラを持ち歩く者として、私はこの言葉に触れて思わずギクリとし、本心を見透(す)かされて足の竦(すく)む思いがした。カメラに頼れば花や風景、つまり対象を真剣に見つめなくなるのは事実である。それは単に見る、または見ているに過ぎない。
 「見る」と「見つめる」、「登る」と「登りつめる」、「問う」と「問いつめる」ではその意味に大きな違いがある。「…つめる」には徹底してするという強い意志があり、物事を最後に至るまで続けるという意味がある。
 話題は逸れるが、最近の日本人には共通して、過去の経験や教訓に学ばず、現在を条件反射的に生きるものが多いような気がする。すなわち、「…つめる」ことをしないのである。
 ここで言う「過去の経験や教訓」とは「昔からこうなっているから」とか「それが決まりだから」に見られる、いわゆる前例主義や過去志向を指しているのではない。あくまでも過去・現在・未来を見据えての未来志向の礎(いしずえ)となるものだ。
 この現在を条件反射的に生きる人たちにとって、「…つめる」という行動は辛く避けたいものであるにちがいない。足の竦む思いがしたのは、自分の中にこの人たちの影を見たからにほかならない。
 便利なカメラに頼り、目の前の事実をしっかりと捉(とら)えないで、「記録」をしたことで、その写真が虚像であるにも拘わらず、満足してしまう。
 写真とは本来虚像である。特に我々が持ち歩くカメラがとらえる像は一面的であることが多い。