岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

・シャガは不思議な花だ

2007-05-29 09:56:43 | Weblog
・シャガは不思議な花だ

 今を盛りと咲き誇っている花の中で、特に「異彩」を放っているものといえばシャガ(著莪)かもしれない。私はこの時季にこのシャガを見るたびに「美しい」というイメージの前に、その「奇妙」な風姿と外花被の不思議な模様に「変な花」だなあという印象を持ってしまうのだ。
 これはアヤメ科アヤメ属の多年草で、シャガは漢字で「著莪」と書く。この漢名からして奇妙で不思議な印象を与える。シャガは漢字では「射干」とも書く。別名を「胡蝶花」「胡蝶蘭」ともいうが、私はシャガよりも別名の方が気に入っている。
 ところが、本来「射干」はヒオウギの漢名の「シャカン」のことで、扇形の葉のつきかたが似ているので、誰かがシャガをヒオウギと間違って「射干」の字を充ててこう呼ぶようになってしまったのだろう。
 間違って命名した上に、まともな「漢字」力では読めないような難読語を充てられた後の世の私たちにとっては「いい迷惑」な話しである。
 学名はIris japonica Thunbで「日本のアイリス」という意味である。アヤメ属をあらわす「Iris」はギリシャ語の「虹」の意味で、Iris属の植物は、花色の変化が多く美しいので、ギリシャ神話の虹の精「Iris」の名をもらったといわれている。しかし、学名の「日本のアイリス」とは真っ赤な「ウソ」である。もっと私がシャガに好感を持っていたら、きっと、この「ウソ」を暴かないだろう。

 奇妙な花の印象は、私にこの花の「秘密」を語らせるのである。シャガは中国の原産である。れっきとした「外来種」なのだ。ジャポニカではない。これは「種子や球根」ではなく、遠い昔に誰かが生きたままのものを中国から海を渡って持ち込んだものなのだ。
 当時は、生きては帰れない覚悟で、いわば「命がけの航海」であった。そのような時代に、一体誰がどんな目的で、生きたままのこの花を日本に持ってきたのだろう。こう思うと、ますますこの花が奇妙で神秘なものに見えてくるのである。
 人の手で日本に持ち込まれた花だからだろう、竹林や杉林、神社やお寺の境内など、人の手の入った場所によく生えるが、人の手の入らない「自然林」などではあまり見かけないことも頷けるのである。
 高さ30~60cmの茎の先に直径5~6cm程度の白地に「紫と黄橙の絵の具を垂らしたような」妙な紋様のある花を数個つける。
 花期は季節感的には春なのだが、俳句の季語では夏である。晩春も初夏も、移ろいにはっきりした「区切り」などないのだから、それでもいいだろう。
 花びらは六枚あるが、緑色の萼はない。外側の三枚が萼に相当する外花被(片)で、この三枚に「紫と黄橙の紋様」がある。紋様のない内側のものを内花被(片)と呼ぶ。この花びらの相当している花片の並び方も奇妙といえば奇妙である。

 奇妙なことはまだ続く。
日本のアヤメの仲間ではシャガだけが常緑である。葉は剣型で長さは30~60cm。肉質で光沢がある。しかも、この葉は裏表のないように見える。まるで、紙を折るように内側に折られて、表面同士がくっついてしまって一枚の葉になっているのだ。こういう造りの葉を「単面葉」という。「ネギ」も単面葉だが、葉は折りたたまれているのではなくこちらは「円筒形」になっている。
 だが、よく見ると表・裏の区別があり、表の方の方の「つや」が濃い。長い葉は一方に傾く。上を向く面は表皮細胞の「クチクラ」が厚くなり、肉質で光沢が出てくる。こちらが「生態上の表」で、もう一方の下面には「気孔」が多く見られることから「生態上の裏」であると言えそうである。
 新緑が夏緑に変わる頃、久渡寺の長い石段の脇や境内の「日陰」で沢山のシャガの花が見られるようになる。「日陰」で見られることも奇妙なことだろう。しかも、日陰の花というとイメージは、「日陰の女」など「薄幸の女性」というイメージと同化して、あまりよくない。…などと「歌謡曲・演歌」の世界がちらつくのだが、しばらく立ち止まって丹念に見てみると「ほの暗い木陰だから清楚感が目立つ」ことに気づくのである。明るい陽光に燦々と照らされては「存在感が薄く、短命」というイメージが強まるかも知れない。
 短命というと、シャガはそのとおりなのだ。朝から夕方までしか咲かない「一日花」なのだ。だが、眺める私たちは、あまりそれに気づかない。それは、繁殖力の強い花で群生し、日ごとに咲き変わり、まるで「常時」咲いているように、目を楽しませてくれるからである。
 一日花であることは、茎ごと数本切り取ってきて、「生け花」として飾ってみると、よく分かる。朝にしぼんだ数輪が沢山落ちていることに気づくだろう。

 奇妙なことはまだ続く。花は咲くのだが、受粉もしないし、実をつけない。それでは雌しべや雄しべはないのかというと、ちゃんと子房を持ったものが「ある」のである。
 子房の先にある花柱は上部で三本に分枝して花柱枝(花柱分枝)をなし、分枝は花弁状で裏側(外側)上部に柱頭があり、その先はさらに二分し、さらに細かく裂けた状態になっている。
 私は、再三言っているが「植物」の専門家ではない。素人である。だから詳しいことは分からない。詳しいことが分からない人は「幸せ」である。それは、自由な発想や想像が許されることだ。今の私がそうであり、勝手にあることないことを「想像」に任せて書いている。
シャガは「受粉」による生殖機能を早々と「放棄」した植物なのであろう。しかし、進化の過程で形成された「雌しべや雄しべ」の形質をまだ残しているのだ。
 シャガは種子ではなく、根茎から匍匐枝を伸ばして株分けし、増殖する。染色体が三倍体なので受粉せず、実をつけないのでコピーで増える、つまり、クローンなのだ。奇数の染色体だと、半分がキチンと分裂できず、種(実)にならないのである。
 桜のソメイヨシノと一緒で、種から子供をつくることは出来ない。ヒガンバナ(彼岸花・別名、曼珠沙華・マンジュシャゲ)も同じで、染色体が三倍体で実が出来ない。球根で増えてきたということは、ヒガンバナはみんなクローンで、有史以前に中国から持ち込まれた個体が延々と生き続けて、日本で咲いているヒガンバナは中国からきた「一株」から分かれたとされている。

 シャガには個性がない。みな「同顔貌」であり、兄弟も親もすべて、「自分」なのである。「自分」の周りで沢山咲いている花々がすべて自分なのである。私たちの周囲にいるものが、すべて「自分」と同じ「顔貌」をしているとしたら、それは恐怖だろう。
 だが、そのような「国民」を育てるもくろみが、この日本でも「密かに」行われている。「花」どころではない。
 自分ばかりのコピーが、いつも横にいるのは、淋しいを越えて「絶対」の孤独の中にいることだろう。シャガの花に漂う「わびしさ」はそこから生まれるものかも知れない。 

 花言葉は「友人が多い」と「反抗」の二種類あるようだが、これも奇妙なことではある。



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