岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

幸運にも熊に逢える人のために (4)

2007-05-26 05:51:40 | Weblog
幸運にも熊に逢える人のために(4)

(承前)

 愛するものをとりわけ、よく知りたいと思うのは人情である。竹の子を愛するのなら、その竹の子を好んで食べるクマをも愛し、よく知ってほしいものだ。
 「情けは他人(ひと)のためならず」ということわざがある。他人に対する優しい愛情は、その人に対してだけでなく、結局は巡ってきて「自分のためになる。」ということだが、クマに対しても同じだ。
 クマに対する愛情は、クマの為ではなく結局は、人間自身をクマの危険から守るということになる。クマと共存・共生していくためには、まず、我々がクマのことをよく理解しなければいけない。

 数年前に東奥日報の夕刊、「明鏡」欄に「幸運にもクマと出会ったら…」という題で投稿した。掲載されたのだが、何と「題」が「不幸にもクマと出会ったら…」と「改変」されていたのである。
 本当にクマとの出会いは不幸なことなのであろうか。私は「滅多に会えない千載一遇のチャンス」を得るのだから、「幸運」の何ものでもないと考えて、「幸運」としたのだが、どうして、それが「不幸」なのであろうか。…などなどと考えて「明鏡」欄担当者に「題」の訂正を求めたが「すでに遅し」ということで、それはならなかった。
 「逢える」ことは稀である。稀少価値は「幸運」である。40数年岩木山に入っていて、これまでわずかに3回しか見ていないという事実はやはり、「幸運」である。
 「不幸」とするのは、それほどクマは凶悪で、危険な獣であり、恐怖の対象なのだと、捉えているからだろう。しかし、「危険な獣」とさせる要因を作りだしているのは、人間の方であり、人間の不注意と無知に他ならない。

 さて、クマの方も気づかず、人の方も、竹の子採りやきのこ採り、あるいは釣りに夢中になっていて「運よく」-なかなか出会えないのが普通なのだから、これはやはり運良くであろう-、出会った時には、次のことに気をつけたらいかがだろうか。

 1、すぐ、クマに背を向けて逃げ出してはいけない。クマは本能的に動くものを、とっさに追いかける習性があるからである。
 2、クマは人と視線を合わせないようにするが、こちらは視線を外さないで、少しずつ後ずさりをする。クマはその間に威嚇(いかく)のための行動をすることはあるが、あくまでも慌てないでゆっくりと後ろに下がること。
 3、死んだふりをすることは、「クマを怒らせていない段階では有効」である。しかし、クマに噛まれたり、障られたり、踏まれたり、引っかかれたりすることに人間が耐えられるかが問題である。
 4、木に登ることも有効であるが、クマはブナの実を、木に登って食べるほどの木登りの名人であることを考えると、効力は少ないだろう。大体、薮や沢には登に足る樹木は少ないものだ。   
 5、鳴り物をならし、大声をあげることは、クマもこちらを相当に怖がっていることを勘案すると、逆効果である。クマは強い反撃に出るかも知れない。
 6、獣は火を恐れると言われているが、クマはそうではないと言われているので注意すべきだ。

 いずれにしても、お互いに出会わないことが最良なのである。その為には、人間がクマを知り、クマが人を発見する以上に、クマに発見される感覚を磨かなければいけない。
 97年春、大石神社付近で射殺されたクマも、第一発見者の釣り人が先にクマに発見されていたら、有害獣とされることなく、ハンターのNさんも「自分が撃った」その手負いのクマの「最期の反撃」に遭うことなく死なずに済んだのである。手負いのクマは、その致命傷を負わせた者に、命がけの「最期の反撃」を加える動物であることはよく知られた事実である。
 人間はクマを殺させないために、より早くクマに感づかれ、見つけられる術を必死で身につけなければいけない。
 野生の動物はみな、必死で生きている。人間だけが、安閑として、しかも「都市生活」の感覚で山に行くことが間違いなのである。「必死」の覚悟で行くべきだ。
 本来おとなしいクマを、怒らせ危険な状態にするのは、ほとんどが人間の手落ちであるということを肝に銘ずべきである。                    

 (この稿は今日で終わりにする予定で書き進めていたが、もっと書きたいことが出てきたので明日も書くことにする。)                                     

最新の画像もっと見る