岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山麓・ミズバショウ沼にはイベント的な価値を求めないことだ

2007-05-01 05:14:49 | Weblog
岩木山麓・ミズバショウ沼にはイベント的な価値を求めないことだ

 ミズバショウ沼公園の自然的な価値とは…
 水辺(上流からの清水の流入と沼)と湿原、野原、それに林という四つの自然的な要素が、お互いに関連し合いながら動物(昆虫「水棲昆虫も含む」・野鳥・水鳥・魚類など)と植物(水生植物・湿原植物・草本類・木本類)がお互いに調和を保っていることである。…それらは、一つ一つの(多様な)植生を形成し、一つ一つの(多様な)生態系を形成していると言ってもいい。
 このミズバショウ沼公園の自然的な価値を考えると、この場所は人間にとって「自然への共感能力を養うため」にはもっとも適した場所であるといえる。

 あくまでも私が考えている「自然への共感能力」であるが、それは…

1. 自然物が好きで、それを自分と平等に扱い、返すことができないものを奪わないこと。
2. 植物や動物をとる者はお詫びを言いいつか自身が役立ちたいという気持ちを持つこと。
3. 同じ命を持つものへの優しさで、生命の相互依存の連鎖という生物世界をとらえること。
4. すべての生き物の時間をそのままとらえ、人間の時間を尺度にしないということ。
5. 目の前の自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
6. 自然の生命体を通約された一元的な価値でとらえず、生命がみな別個の価値であるとすること。
  つまり、対価を求めないということである。
7. 動物や植物のデリケートな反応を人間の拡大された感性と理性の延長だととらえること。
…などであろう。
 ミズバショウ沼公園に出かける人は、是非これら、「自然への共感能力」を養い、研ぎすますように心がけてほしいものである。「ああ、ミズバショウきれいだった。」で終わるのならば、多質で多様な自然的な価値を与えてくれる「ミズバショウ沼公園」に対して失礼というものだろう。

ところで、水芭蕉(ミズバショウ)とはどのような植物なのだろう。
 南方系のサトイモ科ミズバショウ属の多年草で日本が北限である。北海道・本州(兵庫県以北の日本海側に分布する。石川県が分布の南限)に分布し、低地~山地の湿地や水辺に生える。花期は四~七月である。

 「ミズバショウ、白い清楚な花」というのは間違いだ。白い花のように見えるものは花ではない。それは花穂を包んでいる「仏炎苞」である。それに包まれて、奥にある棒状のものが花穂である。
これに小さな淡黄色の花(中心部の黄色)がたくさんついている。大半が雄花で雌花は下方に一つだけある。
 草丈は普通は40cm~80cm程度である。名前の由来は葉によるが、大きくなるものは1mにもなるという。
 実際、花が終わったあとに葉は伸びだして1m以上にもなるのだ。しかも、この葉には有毒成分が含まれている。だから、ほ乳類や昆虫から捕食されることがないのでどんどん大きくなれるというわけである。
 岩木山の高所、貧栄養湿地に生えているミズバショウは、背丈が小さく10cm程度のものもある。一見同じサトイモ科の「ヒメカイウ」を思わせるが違う。
 同属ではないが姿、形がよく似ているものには、エンジ色の仏炎苞を持つザゼンソウがある。
名前の由来は花後に展開する大きな葉がバショウの葉に似ている上に、水辺に生えるので「ミズ」がついたのである。バショウは中国原産の大型の植物で、葉は2m位の大きな楕円形である。

 ミズバショウを主題にした歌は万葉集や古今集には殆ど登場していない。現代短歌では佐藤佐太郎の「漸くに暗きにみゆる草むらや水芭蕉あり葉はものものし」がある。
 解釈すると「薄暗くてかろうじて見える程度の草むらである。その中でも白い水芭蕉の花はなんと目立つのだろう。その清楚な存在はいったい何ものだろう。驚きは止めどもない。それにしてもこの仰々しいほどの葉の大きさと猛々しさはどういうことか。」とでもなろうか。
 これも「自然への共感能力」によって呼び起こされた世界であろう。

 この短歌にはバショウの生態を確実に観察している眼がある。驚きとは感動のなにものでもない。観察直視は作者の感動の連鎖を生み出している。薄暗いが、あれは何だ。何という白さ、あざやかな緑と白の対比、清楚。溢れ出る生気。
 丈夫で大きな葉には物々しいほどの驚愕を覚えているのである。感性が眼前を直視させているのではないだろう。目の前のあるがままの姿が作者の直視につながり、作者の感性を呼び起こしているのに違いない。

 また、伊藤凍魚の俳句には「水芭蕉逞しく出て白きかな」というのがある。これにもやはり、「自然への共感能力」を感ずる。
句意は…
「逞しさを感ずる時、人は苦境に耐えてというイメージをそのものに持つものだ。作者はこのミズバショウにどのような苦境を見たのだろう。圧雪に打ちひしがれ、寒気にさらされ、湿地の泥にまみれてだろうか。しかし、花(仏炎苞)はそんなことを微塵も感じさせないほどに清らかな純白なのである。作者はそれゆえに逆に、苦境を想像する。」となろうか。
非情に淡泊な語句による俳句だが、「自然への共感能力」を持つと観察に深まりと広がりが出てくるという典型的な一句である。
 あのミズバショウ沼公園を2~30分程度で散策して帰ってくるようでは、深みのある短歌も俳句も出来ないだろう。