岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

嬉しいメールと失礼と思える言動

2007-04-01 06:10:59 | Weblog
 先日、ある人から、東奥日報に連載した「厳冬の岩木山」シリーズについて、次のようなメールを戴いた。

 『 まずは、14枚の一回のシリーズですが…欲求不満が起こります。実際の写真展を見た私としては、とても我慢が出来るものではありません。確かに四季の良さに感動するには、その季節にマッチした掲載が一番ベターな選択だと思います。(しかし)ワンシリーズでは収めてほしくはありません。
 今後の、掲載が新聞社の方との折り合いで実行できれば、これ以上ない喜びにを、私たちもあじあわせて戴けるのですから! 』
『 先日の「東奥日報」に掲載された新聞の切抜きを、知人から戴きフィイルして読み返しています。前回のHNKの写真展に出されていた写真の説明も家に戻れば記憶が薄れていまい分らないですが、今回のように写真と説明文を、対比して見られることの感激は、又別物でした。
 さすがに国語の先生らしく、写真の≪タイトル≫説明文がマッチングして、より写真を引き立てている事が分りますし、以前も申し上げたと思いますが、展覧会らで説明文がついていることは皆無と思いますが…、写した人の息遣いが、興味の有る者の一人としてほんとうに、幸せに感じます。』
                  (注:本ホームページ「厳冬の岩木山」参照)
 このような内容のものはメールのみならず(メールが一番多いが)、電話やハガキ、封書でも届けられている。正直、嬉しいし励みにもなる。ありがたい思いでいっぱいだ。

 ところが、当のNHK弘前ギャラリー企画「厳冬の岩木山」写真展では、次のようなことに出会った。

 それは…まるで駆け足のような速さで写真を見て…その上、「フィルムは何だ。」「きわめて普通のネガフィルムです。」「カメラは何だ。」「35mm用のペンタックスです。」「リバーサルフィルムでなく、大判カメラでもないんだな。」「はい。」「写真に手ぶれがあるな。」「…。」と言って帰った人のことである。
 私はその時、心底「失礼な人」だなあと思った。

 「見る」とは英語の「See」にあたるだろう。「see」は、「I see.」というふうに使われ、「私は理解した。」と訳される。つまり、日本語の「見る」という語にも「理解する」という意味があるわけだ。展示の56枚の写真と解説文を「駆け足の速さ」で見て、理解できるとは思えない。
 ところで、速さについては、この人を「通行人」と考え、ギャラリーを道路の「延長線」と捉えることで、あまり、「失礼」という感じはなくなる。道路というところはいろいろな人が歩くことが普通だからである。

 問題はその言い分である。 プロまたセミプロ級の人は「リバーサルフィルムを使用して、大判カメラで写す」のだそうだ。
 リバーサルフィルムとは高価で、そのままスライドプロジェクターで使用が可能なフィルムだ。
 大判カメラとは4cm x 6cmとか4cm x 9cmと大きくて広いフィルムを使用できるもので、どちらも全紙判やワイド4つ切り判という大きな写真に「引き伸ばす」のには好都合である。大きな写真に引き伸ばすと、少しの「手ぶれ」も「拡大」されるから、プロまたセミプロ級の人はそれを防ぐために、カメラを固定させる「三脚」を使うことになる。
 私のすべての写真(デジタルカメラ以外)は、すべて安価で誰でも使えるきわめて普通の「35mmのネガフィルム」で、いつもカメラは首に提げて、手持ちで写したものである。
 「厳冬の岩木山」のみならず、花でも野鳥でも、動物でもすべて三脚は使わない。花を写す時など、三脚を使うと周りの植生を、その分だけ押しつぶすことにもなるので、使わないことに決めたのである。
 ただ、手持ちであることからの「手ぶれ」を出来るだけ、少なくするために、シャッタースピードを高速にしてもいい「明るいレンズ」を使っている。

 この人(私が通行人と捉えたい人)は私の写真展「厳冬の岩木山」の主題と写し手の心情をまったく、理解しようともしていないし、理解もしていないと思える。
 理解していないが故に、使用している「カメラとフィルム」を「素人が使う普及品」と決めて、「手ぶれ」という技術的なミス捜しに終始したのだろう。
 写真展「厳冬の岩木山」の主題と私の心情は…、
「遠景の岩木山はいつでも見ることは出来る。だから厳冬でも見ることは出来る。しかし、遠景としての岩木山でなく、その中に入って見る近景は、そこに行かないと見ることが出来ない。しかも、実際に岩木山に入る人は多くはない。さらに、厳冬期の岩木山となれば、殆ど入山者はいない。仮にいたとしても、山頂まで辿る人は数名に過ぎない。その数名がすべて写真に写しているわけではない。市民の99%以上は見たことがない厳冬の岩木山を写真で紹介し、多くの市民に見てもらいたい。」
 …にあったのだ。

 写真技術を駆使して「技術的に素晴らしい作品」をみんなに見てもらおうという気持ちはさらさらない。猛吹雪の中をただ、自分の「足」で登り、その中で「手に持ったカメラ」で写したものを、一瞬の晴れ間に見せる岩木山の素顔を、厳冬の岩木山の事実を、みんなに見てもらいたいという思いだけであった。

 これは『NHK弘前ギャラリー企画「厳冬の岩木山」写真展』パンフレットの挨拶文にも、次のように書いてある。
 『 それは…岩木山は日常的に遠くから眺めることが出来る山だが、その現場に行ってみなければ、絶対見ることができないものやことがたくさんあるということ。遠くから眺めるだけでは「現場」を知ることが出来ないということ。現場で何が起きてどうなっているのかには関心の示しようがないということ等を…内包していることに因る。
 私はこれらを「見ることの横着さ」と言っている。「見ることの横着さ」は往々にして我々を現場に背を向けさせ、観念的主観に陥らせる。だが、この「見ることの横着さ」とは人の性(さが)であって攻められることではあるまい。
 間接的だが展示された写真に接して「ああ、厳冬の岩木山はこうなのだ。」と知ることで「見ることの横着さ」はいくぶん減少するのではないだろうか。津軽人が愛してやまない「岩木山」の遠くからは見えない部分に触れてもらえると幸いである。ただそれだけである。』
この人(私が通行人と捉えたい人)は、受付でもらえるパンフレットの挨拶文を読んでもいないし、写し手の心情を気づかないばかりか、まったく無視した言動をとったのである。
 この言動は、非常に失礼なものと私には映ったのである。

 主題(話題)と話し手(書き手)の心情を理解している、理解しようと努めている上での「感想や意見」はいくら自由な発想でも、決して失礼なことにはならないだろう。
 理解したい、知りたいと思うから、解らないことが自覚されるのだ。だから、次々と質問が湧いてくる。それが、いくら初歩的で幼稚な質問であっても、「失礼」とは縁遠い、その人の深慮からの心情であるはずである。
 この経験から学んだことは大きく多い。私も十分「言動」には気をつけなければならないと、肝に銘じたのである。