岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「一人で登山するな。」ということについて (その七)

2007-04-19 06:19:45 | Weblog
 今朝も寒い。5時の外気温は0.4℃、昨日の朝は、近くの畑では畝が霜柱で盛り上がり、白くなっていた。一時期、氷点下まで下がったのだろう。
 日中も気温は上がらない。10℃前後かも知れない。まさに前に書いたとおり、4月になっても「三月という季節」のままで推移しているようだ。
 弘前公園の桜(ソメイヨシノ)の開花予想も、私が2月にブログで予想したとおり「平年なみ」の今月24~25日であるらしい。
 「開花予想」にしても「文明」に振り回されて、古人の知恵やこれまでの体験・経験から学ぶべきものを軽視しているから、修正、修正の連続という失態を繰り返すのであろう。

「一人で登山するな。」ということについて (その七)

(承前)

先ずは、文明への質的な反省を含めて「便利さは知らないうちに他人を自己の行為そのものに、またはその行為の延長線上に巻き込むものだ。」ということを「携帯電話」の使用者が十分に認識すべきだ。
 また、製造・販売する者にはそれを認識させる義務がある。しかし、そこまでやっている業者はいないだろう。とにかく、便利さだけをあげつらった「売ること」にだけ腐心する。

今や気象情報までが携帯電話で画像と同時に見ることが出来るのだ。
かつてテントの中で気象通報を聴取し天気図を書き、明日の天気を予想したことなどは遠い昔話なのだろうか。
 自分でするには不安と苦労があったが予想した通りの天気になった時の嬉しさは感動を伴っていた。液晶面の誰かが描いた天気図と予報に従い明日を生きることは、他人に「生かされている」ことに他ならない。
 
 私たちはこれまで山で「植生、地形、地質、地層、天体、方位、地図」から自分の位置を確認してきた。
 それをGPS(Global Positioning System)の液晶面を見て、操作ボタンに触れることだけで済ますとしたら、多くの感性的な生きた空間と山の楽しさや人生の機微を失ってしまうはずだ。
 人間の自立は「自分でする」ことであるし、存在感もまたそこにしかないからである。

 自助努力の世界が遠のいていくことは文明の逆行であろう。今一度文明が人間の「する価値」の所産であることを問い直すべきだ。
 このままだと現代の情報消費社会はますます自助努力の領域を狭め、他人が肩代わりする範囲を広げていくだろう。
 そして、山からは自己が相対化されるような激しさや癒される自然の流れが次第に消えていくに違いない。

 さて、山における、いわゆる「便利なもの」には「電波利用機器」(雪崩ビーコン・携帯電話・GPS)がある。しかし、これを使うことによって、他人に煩わしい思いをかけることが多々あることも事実だ。
 
 雪に埋まった雪崩遭遇者のビーコンが発信する電波を捜索者が受信機で追尾して、埋まっている「場所」を特定するやり方。
 ところが、雪崩ビーコンも「機器」ではあるが、雪崩に埋まった遭難者が自分を他者に発見してもらうために身につけているものなのだ。つまり、「他人に自分を捜させるためのもの」である。
 数年前に岩木山の通称、「鍋沢」で発生した雪崩遭難の時、巻き込まれて埋まった人は「雪崩ビーコン」を装着していたが、埋まらなかった人は「雪崩ビーコン」を装着していなかったのである。
 埋まった者が「発信」する信号位置から場所を特定するという機能も、生き残った者が「受信」するための「ビーコン」を装着していないのでは意味がない。しかも、その人の中には「ガイド」を生業としていた者がいたというから、あきれかえる。

 私はビーコンを不要だと言うつもりはない。既に何回も体験していることだが、冬山に入ると雪崩の発生しそうな場所を、どうしても通過しなければいけない時もある。そのような時には装着すればいいのである。
 しかし、それを着けたから、どこでも安心だとして、雪崩を避ける自助努力を忘れてはいけないだろう。
 ただ、ビーコンが効力を発揮する時は、必ずそこに他者が捜索という形で動員される、つまり、他人に煩わしい思いをさせるのだという意味を使用する人は十分認識してほしいと言っているに過ぎない。

 世をあげて「携帯電話」時代である。テレビのチャンネルを廻すと携帯電話 の宣伝のないチャンネルはない。
 軽薄な現象面での便利さ追従と、それに関わる企業の利潤追求が続く限りは、到底望むべくもない。そこには、当然文化の質が問われることになるだろう。
 持つことは自由である。持つなとは言わない。しかし、原則論で言わせてもらえば、この便利さの持つ迷惑行為に気づかない者には「便利な携帯電話」は持たせるべきでないだろう。
本気で山を知り、山に親しみ、山を楽しもうとするならば、便利さに頼らないことに徹したほうがいいと思うのだが、いかがだろう。
 山である。市街地ではない。緯度と経度が解っても地図がなければ実際どこにいるのかは解らない。いくら便利なGPSでも、狭い範囲ならばいざ知らず、もう地図は不要だということにはならないだろう。

 便利さとは、自分でしなければいけないことを誰かにさせることであり、してもらうことである。
 しかし、誰もしてくれない時はそのプロセスから結果まで自分で背負い込むことになり、往々にしてそれは死に結びつく。
 死に結びつかせないためには、人間は自分でするしかない。人間の持つ社会性の基本は「自分ですることで立つことである。」ということだろう。
それを忘れ、便利さに寄りかかっている。携帯電話の発達・普及と使用人口の増加が果たして本当の意味での文明の発展といえるのであろうか。
 自助努力の世界から遠のいていくという事実がある限り、それは文明の衰退と言えるかも知れない。
 便利さは自分でするという領域をどんどん人手に渡していくことであって、これは「である」価値への逆行であると言える。
 自分が何もしないでいることは「である」という石に等しい。安野光雅は「石でありたくない。」と言う。
  
              (このテーマでのシリーズはこの回で終わります。)