岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

弘前市議会議員選挙公報を見て(その二の一 なぜ多い・岩木町からの立候補)

2007-04-21 04:18:01 | Weblog
なぜ多い・岩木町からの立候補

 なぜか、旧岩木町からの立候補者が多い。何と8名が立候補している。旧相馬村からは3名である。
 民主的な選挙というものは、出来るだけ「地縁・血縁」などという要素の少ない形が望ましいと考えてきた。ところが、「旧岩木町からの立候補者が多い」という事実に出会って少し考え方を変えなければいけないと感じ始めている。
 旧岩木町の人口比率から「地縁・血縁」を基準に考えると、立候補している8人全員の当選はおぼつかないだろう。悪くいけば全員落選かも知れない。その危惧的な思いは候補者全員が持っているだろう。
 では、なぜに落選というリスクを抱えながらも立候補したのであろう。

「旧岩木町からの立候補者が多い」という事実は、その背景に「合併」という事情があるのではと考えたからである。

 1年前の「合併」は「対等合併」であるとされて進められた。しかし、その実は弘前市が「岩木町と相馬村」を飲み込んでしまう「吸収合併」であった。
 合併論議が起きた時から、旧弘前市民の大半は無頓着だった。「吸収合併」される自治体住民の精神的な苦痛や苦悩を真剣に理解しようとする動きは皆無だった。吸収される側に立ってこの問題を受け止めた市民は殆どいなかった。
 民主主義の一番大事なことは、住民がそのプロセスに深く関わりながら結論に達するという点にある。旧弘前市民はこの点で民主主義を踏みにじったと言えるだろう。

「合併」は居住する住民を地域的、心情的にも画一化することであり、住民を共通の部品にすることでる。画一化と部品化はその根底に「合理化」を内在させている。
 岩木町や相馬村の住民は「対等」な合併だと言われても、弘前市に飲み込まれてしまう「吸収合併」であることを知っていた。
 そして、「合併」後に訪れる「画一化」と「合理化」の恐怖に怯えた。さらに、「地域性」の喪失に対する寂しさを恐れ、各町村独自の歴史的な有形・無形の文化や伝統、および自然は次第に廃れていくことにやり場のない寂しさと怒りを覚えたのである。
 さらに、行政的な「合理化」は時短、簡便、少経費などを生み出し、行政サービス低下と住民の自己奉仕と自己支出に拍車をかけるであろうことを危惧したのである。

 昨年の六月、八甲田山に登った。大岳ヒュッテの手前で、雲海に浮かぶすばらしい岩木山を見た。
 私の前を登っていた女性の二人連れも立ち止まってその「岩木山」を眺めて、「あつ、おらほの岩木山だ。…ばって、もうそうでなぐなったんだ。」と呟いた。
 私にはその呟きが、この上ないほどに「悲しく、寂しく、悔しい」韻を含んでいるように聞こえた。
「きれいですね、岩木山。ひょっとしてあなた方は、岩木町の方ですか。」と問いかける私に、二人は「はい、そうです。」とだけ応じ、「弘前市」という固有名詞は最後まで出てこなかった。
住民と地域の個性を剥奪し、独自の地域的な文化・習俗をも衰退させ、同一の価値で縛ることになる「合併」に、強く抗(あらが)っているようにも見受けられたのである。

 岩木町や相馬村から多数の立候補者が出たということは、「旧弘前市に飲み込まれまい」とする証しであろう。画一化や合理化に反対し、「地域性」を取り戻し、独自の文化や伝統と自然を守り、育てていくという意思表示ではないだろうか。そして、何よりも、八甲田山で出会った女性のように「合併」に対する強い抗(あらが)いの表出であるだろうし、合併後、喪失しかかっている岩木町、相馬村が持っていた個性回帰への挑戦だろう。

 旧弘前市の住民は以上のことをよく考えて、吸収された側の視点で、しかも暖かく迎える気持ちで投票行動に参加してほしいものである。

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