岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

弘前市議会議員選挙公報を見て (その一)

2007-04-20 05:01:41 | Weblog
弘前市議会議員選挙公報を見て(その一)

 弘前市議会議員選挙公報を見て思った。
前市議で立候補している者は、おしなべて「経験」を、どこかで主張している。
 それは、略歴や経歴の中で触れられているし、はっきりと「○期○年の経験を…」と言っている者もいる。 

 相馬市長が誕生した時に、朝日新聞は見出しで「弘前市長選・旧市長への批判票結集」と報じた。
 これは反金澤候補三人の得票数は有効投票数83、748票中54、864票であり、得票率は66%となった事実を語っている。それは、実際に、市民の七割近い人々が金澤市政に批判票を投じたことであった。
前市議の大半(1名の無所属議員と共産党議員、それに合併によって市議となった旧相馬村と岩木町の議員は除く)は、その金澤市政に追随していた。世間的には社会的な革新を標榜していると認識されている政党議員までが、金澤前市長にべったりだったことはかえすがえすも残念である。
相馬市長の誕生は、市民が金澤市政の推し進めてきた行政的な事業および根本理念の転換と金澤市政とは違う何か新しいことを求めていることでもあったのだ。

 前議員で立候補している人に言いたい。
あなた方が無批判に追随しながら、支持してきた金澤前市長は、昨年4月に市民から「否定・拒否」されたのである。ということは、それを支持してきたあなた方も「否定・拒否」されたことを意味しているのである。
 そこに気づくこともなく、反省もなく、「相馬市長の課題は、議会対策であろう」という「マスコミの予想」を裏切って、新相馬市政に、また、べったりである。
 それなのに、どの面下げての市民に対しての立候補なのか、おそらく市民のことなどは、最初から毛頭なく、「市議になりたい」との思いだけなのであろう。
 その無神経と厚顔無恥にはあきれ果てる。
市民の願いや痛みが分かれば、あなた方のとった「支持」ということがどれほど罪深く、誠意に欠けて、非人間的であったかを理解し、辞職するところであろう。
 にもかかわらず、反省もなく、謝罪もなく、過去の実績を吹聴するような「選挙公報」での弁は許されまい。

 驚くことに、中には「実績」と「経験」を混同している者までいる。市民の負託に応えるという実績のないものほど「経験」年数を誇りたがるものであるらしい。
「選挙公報」の下欄には「この選挙公報は、候補者から提出された掲載文を、そのまま写真製版して印刷したものです。」とある。いわば、直筆で真の心情や政治信条を語ることが許されているものであろう。その意味からも「選挙公報」は、掲載枠と字数の制限もあるだろうから、ミニ・マニフェストでなければいけないはずだ。
 ところが、前議員ほど、マニフェスト的な文意は少なく、掲載枠と字数制限の中で「過去の経験」を主張しているのである。

 私は、これまでの市政と市議会を注視してきた。それ故に、「過去何期の実績」を押し出している前議員には投票しない。
 彼らは前市政の「市税の無駄遣い、弘前の歴史的な町並みの破壊、地元以外の資本による弘前市商店街の停滞、公園有料化」などに手を貸して、それらを推進してきたからである。

 私は、新しい人、若い人、弘前を愛しながらも一方で客観的に弘前を捉えることが出来る人、利益団体と関わりがない人、市民の痛みが解る人、そして、決定的な決め手は、行動基準に「善」を置く人に一票を投じたい。
 それは、民主主義とはその根底に「性善説(人間の本性は善であり仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治:岩波広辞苑)」を求めるものだからである。
 民主主義は「善」を信ずることから始まり、「善」を基準的な価値として行使されることで存在する。
 それ故に、「善」を信ぜず、別な価値基準のもとで政治が動いたり、「善」を軽視するような風潮や行動が蔓延してくると民主主義は崩壊する。これが民主主義の脆弱な面である。
 だから、市民が「善」を否定し、数の論理による損や得という価値観で行動するようになれば、弘前市の民主主義は壊れてしまう。
 議員が市民に率先して「善」を行動の基準にして、市民の付託に応えていくことに、議員が「選良」と呼ばれる意味があるのだ。
私は民主主義を守る人が、より多く当選してもらいたいと思っている。