「ミズバショウ沼公園」と公園のサクラ (その六)
新聞やテレビで案内されている岩木山湯段地区にある「ミズバショウ沼公園」(農村公園)に行ってきた。
ここは本会と岩木町、それに青森県が協議をしながら整備した場所である。本会の意見は基本的に「本来の植生」をそのまま残すことであった。
結果として、ミズバショウやザゼンソウは定着したし、夏にはゲンジボタルも回復するまでになった。その後、この「ミズバショウ沼公園」の維持・運営に、「自然観察会」や「清掃」、整備として「樹木の名札着け」「刈り払い」などをして、ずっと関わってきている。
昨年7月、青森県「あおもり水辺の郷」事業としてミズバショウ沼が選定されたことを受けて、本会に青森県「あおもり水辺の郷」事業協議会に参加してほしいとの要請があった。
そして、協議会発足のための会議を、県農村計画課長、同主査、市岩木支庁商工観光課、市常磐野町会、それに岩木山を考える会が参加して、岩木総合支所で開いた。
ところが、8月になってから、『青森県「あおもり水辺の郷」事業について常盤野町会が本会と協議会を組織したくないとの意向である。よって外れてほしい。』旨の連絡が県からあったのである。
その理由は明らかにされなかったが、担当者の口ぶりから想像するには、町会側はイベント的な、商業的色彩の強い行事をする「場所」にしたいらしく、本会の基本姿勢である本来の「自然」を護り残していくということと「折り合わない」ということのようだった。
私はとても残念であった。これからの自然保護は、その場所に暮らす生活者としての地元「住民」と相互理解の中で進めていくべきことだと考えていたからである。
青森県の考え方も、そこにあったらしいのだが、結局はミズバショウ沼を「あおもり水辺の郷」として常盤野町会と本会と協議会を結成して管理・運営していくことにはならなかったのだ。
やはり、こういう時ほど、行政が間に入って「趣旨」をよく説明して、町会側を説得すべきではないのだろうか。
ところで、出かけてみて驚いたことがある。そして協議会を結成して町会と一緒に管理していたらこんなことにはならなかっただろうにと思った。
それは、木道ぞいに植えられている低木樹木の「伐採」である。ただ単に「木道」の歩きやすさだけを狙った行為だろう。
中には樹木名札をつけたままで伐られているものもある。ミズキやサワフタギなどだ。6月には白い小さな花をつけて、秋には光沢のある薄紫色に輝く実を着けるサワフタギは、木道から至近距離で見ることが出来て、その意味では本当に貴重なのである。名前が示すように「沢をも塞いで(フタイデ)しまうほどの藪」でしか見られないからなのだ。
公園のサクラ (その六)
昨日に続けてまた、サクラについて書こう。
「サクラ」というの名前の由来には次の二つがあると言われている。…
・古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだ。
・さくらの「さ」は穀物の霊を表し「くら」は神霊が鎮座する場所を意味する「さ+くら」で、穀霊の集まるところを表す。
…という二説である。
桜の開花が農作業の目安の一つになっていたので、いにしえの人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではないだろう。どうも後者にその妥当性があるようだ。津軽でも、すでに述べたが、キタコブシを「田打ち桜」と称して、その開花時期にあわせて「田起こし」を始めていたことが知られている。
桜は昔から、日本に自生していた。そして、人間の活動によって桜はその生息域を広げたのである。人々が「定住生活」を始めた時、人々は森の木を切って生活したのである。明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない桜は、人々によって桜の生存を阻害していた暗い森から解放されたのである。それまで、桜は森の途切れる辺りとか、土石崩落や雪崩などで森が破壊された場所で人知れず花を咲かせていたのである。
人々が住み着いた集落に近いところでは、森は明るい雑木林の空間へと変貌をとげていった。桜はそこに進出し人里近くの山々に出現したのである。
桜は妖精となり、女神となり、精霊となった。いつのまにか人と桜は親密感を増していったのである。こうして、「雑木林の里山」には桜(西日本ではヤマザクラ、北日本ではオオヤマザクラ)があるという日本の原風景ができあがったのである。
残念ながら、弘前では里山がりんご園になってしまい「雑木林の里山には桜」という「原風景」は少なくなってしまった。
何を隠そう。弘前公園もかつては「里山」であったのだ。
万葉の歌人たちが、また平安の王朝貴族が愛した桜は、「貴人たちの趣味」としてそこにあったのではなく、はるか昔に形成されたこの「原風景」に根ざしていたのであろうと考えると、庶民としての私はなぜかしら救われる気持ちになる。
(「公園のサクラ」については今日で終わりとなる。)
新聞やテレビで案内されている岩木山湯段地区にある「ミズバショウ沼公園」(農村公園)に行ってきた。
ここは本会と岩木町、それに青森県が協議をしながら整備した場所である。本会の意見は基本的に「本来の植生」をそのまま残すことであった。
結果として、ミズバショウやザゼンソウは定着したし、夏にはゲンジボタルも回復するまでになった。その後、この「ミズバショウ沼公園」の維持・運営に、「自然観察会」や「清掃」、整備として「樹木の名札着け」「刈り払い」などをして、ずっと関わってきている。
昨年7月、青森県「あおもり水辺の郷」事業としてミズバショウ沼が選定されたことを受けて、本会に青森県「あおもり水辺の郷」事業協議会に参加してほしいとの要請があった。
そして、協議会発足のための会議を、県農村計画課長、同主査、市岩木支庁商工観光課、市常磐野町会、それに岩木山を考える会が参加して、岩木総合支所で開いた。
ところが、8月になってから、『青森県「あおもり水辺の郷」事業について常盤野町会が本会と協議会を組織したくないとの意向である。よって外れてほしい。』旨の連絡が県からあったのである。
その理由は明らかにされなかったが、担当者の口ぶりから想像するには、町会側はイベント的な、商業的色彩の強い行事をする「場所」にしたいらしく、本会の基本姿勢である本来の「自然」を護り残していくということと「折り合わない」ということのようだった。
私はとても残念であった。これからの自然保護は、その場所に暮らす生活者としての地元「住民」と相互理解の中で進めていくべきことだと考えていたからである。
青森県の考え方も、そこにあったらしいのだが、結局はミズバショウ沼を「あおもり水辺の郷」として常盤野町会と本会と協議会を結成して管理・運営していくことにはならなかったのだ。
やはり、こういう時ほど、行政が間に入って「趣旨」をよく説明して、町会側を説得すべきではないのだろうか。
ところで、出かけてみて驚いたことがある。そして協議会を結成して町会と一緒に管理していたらこんなことにはならなかっただろうにと思った。
それは、木道ぞいに植えられている低木樹木の「伐採」である。ただ単に「木道」の歩きやすさだけを狙った行為だろう。
中には樹木名札をつけたままで伐られているものもある。ミズキやサワフタギなどだ。6月には白い小さな花をつけて、秋には光沢のある薄紫色に輝く実を着けるサワフタギは、木道から至近距離で見ることが出来て、その意味では本当に貴重なのである。名前が示すように「沢をも塞いで(フタイデ)しまうほどの藪」でしか見られないからなのだ。
公園のサクラ (その六)
昨日に続けてまた、サクラについて書こう。
「サクラ」というの名前の由来には次の二つがあると言われている。…
・古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだ。
・さくらの「さ」は穀物の霊を表し「くら」は神霊が鎮座する場所を意味する「さ+くら」で、穀霊の集まるところを表す。
…という二説である。
桜の開花が農作業の目安の一つになっていたので、いにしえの人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではないだろう。どうも後者にその妥当性があるようだ。津軽でも、すでに述べたが、キタコブシを「田打ち桜」と称して、その開花時期にあわせて「田起こし」を始めていたことが知られている。
桜は昔から、日本に自生していた。そして、人間の活動によって桜はその生息域を広げたのである。人々が「定住生活」を始めた時、人々は森の木を切って生活したのである。明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない桜は、人々によって桜の生存を阻害していた暗い森から解放されたのである。それまで、桜は森の途切れる辺りとか、土石崩落や雪崩などで森が破壊された場所で人知れず花を咲かせていたのである。
人々が住み着いた集落に近いところでは、森は明るい雑木林の空間へと変貌をとげていった。桜はそこに進出し人里近くの山々に出現したのである。
桜は妖精となり、女神となり、精霊となった。いつのまにか人と桜は親密感を増していったのである。こうして、「雑木林の里山」には桜(西日本ではヤマザクラ、北日本ではオオヤマザクラ)があるという日本の原風景ができあがったのである。
残念ながら、弘前では里山がりんご園になってしまい「雑木林の里山には桜」という「原風景」は少なくなってしまった。
何を隠そう。弘前公園もかつては「里山」であったのだ。
万葉の歌人たちが、また平安の王朝貴族が愛した桜は、「貴人たちの趣味」としてそこにあったのではなく、はるか昔に形成されたこの「原風景」に根ざしていたのであろうと考えると、庶民としての私はなぜかしら救われる気持ちになる。
(「公園のサクラ」については今日で終わりとなる。)