岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

路傍の草花と首相の言う「美しい日本」…

2007-04-09 05:48:45 | Weblog
 昨日、県議会議員選挙の投票に行く途中、路傍でオオイヌノフグリ、ミチタネツケバナ、タンポポ、ヒメオドリコソウに出会った。
これらは日本全国、どこにでも見られるものだ。すっかり日本人には馴染みの草花である、と一般的に言われている。
 投票所に向かっている私の前後には「歩いている人」は誰もいなかった。その道を歩いていないのだから、その「路傍に咲いているオオイヌノフグリなど」を見ている人はいないのである。
 ところが、投票所となっている小学校の玄関前は、「投票に来た人」でかなり混み合っていた。分校(分教場)などの例外を除けば、小学校は地域のコミュニテイスクールであり、年端のいかない一年生でも「歩いて行ける距離範囲にある」のが普通である。いわば老若男女を問わず、歩いて行けるところという近距離に投票所はあるはずだ。
 しかし、徒歩で往復する人は、限りなく少ない。大半が自動車である。歩いて来なかった人は道ばたに咲いていた「オオイヌノフグリ、ミチタネツケバナ、タンポポ、ヒメオドリコソウ」に出会うことはない。これでは馴染みの草花とはなり得ないだろう。
 案外、オオイヌノフグリなどは、移動の手段にまだ「徒歩」が君臨していた三、四十年前は「馴染み」の草花であったかも知れない。
 だが、年を追うごとに、外来種が幅を利かせて、日本では草花が増えているにも拘わらず、「馴染み」の草花は、日本人から減ってきている。

 恐るべきは、この「歩ける距離範囲」を自動車で送り迎えをする「我が子に優しく、物わかりのいい、教育者のような父母」が結構いるということである。
 このような父母に「子供だけでの登下校は危険だ。」というすばらしい口実を与え、子供たちから道草の楽しみと様々な自然観察から学ぶべきことを奪ったのが、「幼児誘拐」や「小学生や幼児の殺害者」という犯罪者たちである。
 この口実には学校も、行政も与(くみ)している。子供たちは、道草などの楽しみと自然観察からの発見の喜びを、親や学校からも奪われているといってもいい。このような状況に置かれた子供では、安倍首相のいう「美しい日本」の本当の国民には、決してなれまい。
 ところが、案外「自動車で子供を送り迎えする父母」やそれを推進しようとする「学校関係者」は、この「美しい日本」論(?)を支持したりしているから、政府には反省がないのである。
 教育改革といって些末な規則をいじったり、給料で差をつけたり、格付けをしたってどうにもならないだろう。「美しい国」の前に、まずは「安全な国」を確立しなければならないだろう。
 戦争のない、殺人のない、拉致のない、誘拐のない、そして何よりも子供たちが安心して自然と戯れ、生きていける安心で安全な国である。安全が脅かされている国内事情に目をつむり、「美しい国」を唱えるとは、このかけ離れた矛盾に呆れかえる。
 ただ…、「安全な国」と言い出したら、もっと危険かも知れない。「安全な国」を守るために軍備を拡大し、「安全な国」に必要な秘密を厳守するように、国民をきびしく監視するようになるよりは、まだましだろうか。

 日常見ることが出来る路傍の草花、いわば足許に咲くものには目もくれず、我も我もと遠隔地や深山や、または高い山に出かけて、「高山植物はいい。深山の花は神秘的だ。」と悦に入っている人の何と多いことか。
 足許つまり身近な花への感動や共感を持てずに何が、高山植物であろう。身近な人への思いやりや近隣の人たちへの共同・共存、助け合いの気持ちに欠けていながら、皇室やアイドルを追いかけたり、有名人と親しくしたがる人も多い。
 そのような人たちが「美しい日本」という時、いったいそれは何なのだろう。 

 ところで、冒頭の草花四種はいずれも外来種で、最近どんどんと増えているものだ。放っておくと「美しい日本」から、すべて在来種が放逐されてしまうかも知れない。ああ、日本人はどこへ行くのか…。