岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「一人で登山するな。」ということについて (その三)  

2007-04-15 06:13:19 | Weblog
 昨日の2007年度岩木山を考える会総会、参加者の皆さん本当にご苦労さまでした。例年同様に参加された方は少なかったのですが、初めて総会に参加された方からは、市会議員立候補者に『「弘前公園入場有料化」に対する考え方を問うアンケートを実施してはどうか』という意見が出されました。
 その他には「日本の天然林の管理を環境省に移管」署名について「入山規制をすべて撤廃」することを要求するような文言のあることは認められないという意見もあり、このことについては現在、会長がを取り扱っている機関に文書で問い合わせると同時に文言の訂正・削除を申し入れていることが報告されました。なお、その回答を待って、当会幹事会で引き続き検討することになりました。

 市議会議員選挙は今日、告示されます。昨日の総会で、「弘前公園入場有料化」には反対するということが昨年に引き続いて、決議されました。
 本会としては、「弘前公園入場有料化」に反対し、いったん「白紙」に戻し、2003年の有料化開始以前の議論に戻した上で、今、一度市民から多種多様な意見を聞き、見直すということ、または完全に撤廃するということを主張する候補者を支持することになるはずです。


(本題)

「一人で登山するな。」ということについて (その三)  

(承前)

 遭難は人の数を選ばない。むしろ、集団登山の中で、「助け合い」という名目で「非力を補ってもらうこと」が日常化して、「甘えの許容」などという「もたれ合い」があると、「自力に不足がある者」までが、他を頼みにして、出かけてしまうことがあるのではないだろうか。そうなると集団全体が「非力」化してしまい、それが「遭難」の接点になることは十分考えられることである。
 
 加藤文太郎の遭難死に「同行した仲間の非力を補うために、加藤が自力以上の力を出してきって、疲弊の上に判断を誤った」または、結果から見ると「同行者が加藤の足を引っ張った」ことがあったのではないかとも考えられるのである。

 先ずは、「一人でも歩けることが登山のすべてに優先する基本条件」であることを忘れてはならない。「自助努力と自己責任」を自覚出来る「個人」が集団を組んで登山をすることが一番大切なことである。

 遭難防止には「携帯電話の利用が便利」だとか、岩木山の雪崩遭難で二名の死亡者が出た時、「救助活動のスムーズ化のため雪上車用通路確保」が提起されたこともある。これも遭難・救助に関わる合理性と利便性だけに軸足を置いたものであろう。
 また、これらの主張や発想はラインホルト・メスナーや加藤文太郎を否定することになりはしないかとも考えるのだ。まあ、彼らのことだから気にもしないだろう。
 ところが、私のような凡人「登山者」にとっては、気になってしようがないので、このようなことを書いているのである。

 自動車道路等の建設と拡大は「自分の足でという不便さと苦労」から人間を解放し、登山口を限りなく高所へと押し上げている。
 これによって自分の足に自信のない者や都市感覚しか持ち合わせていない者でも頂上を目指すことが可能となった。
 それでも登山行動の中で何らかの「自助努力」を強いられた者は山から戻った後、自分がいくらかでも「生きた時間や空間を取り戻した」と感じているらしい。

 ある年の二月、悪天の八甲田山に入って遭難した者がいた。
この原因の根本はロープウェーが冬山経験がない上に、登山の準備性や自助努力に欠ける初心者でさえ標高1300mまで引き上げてしまうという便利にあると言える。

 この捜索・救助のために、「警察官、自衛隊員、山岳ガイドら総勢195人、複数のヘリコプターが出動」という多大な陣容と機動力が費消された。
 敢えて人命尊重に目をつぶるならば、実に「無駄なことをさせられた」と言えるのである。
 登山は命がけなことも含むが「趣味であり遊び」に過ぎない。その尻拭いに多数の大人が駆り出されることは正常な行為とは言えない。このような事実(この遭難の場合は単独でなく2名であったが)に基づいて「単独山行はしないで」という注文が捜索・救助側から出されるのである。

 私は「単独山行」が出来なくなると山岳会を脱退して、山登りを止めようと常々、考えている。40数年登山行為を続けてきたが、その時期も近いだろうと最近の自分を見てよく思う。
 人間は年をとるに従って、まず体力的に「自助努力と自己責任」の自覚が薄れるものだ。
 ところが、日本の登山界を牛耳るほどに数の上で多いのが、「体力的に自助努力と自己責任の自覚が薄くなりはじめた」中高年者である。しかも、登山経験の乏しい初心者がその大半を占めるという実態は、矛盾というよりも異常な事態なのである。
 

「一人で登山するな。」ということについて (その二)

2007-04-14 06:15:48 | Weblog
 今朝は次の「お知らせ」からはじめます。

 今日、14日は「岩木山を考える会」の2007年度総会です。15時から桜大通り「参画センター」で行われます。
会員の皆さん、是非参加して下さい。会員でない人の「参加」も可能です。「岩木山を考える会」とはどんな会でどのような活動をしているのだろうと関心をお持ちの方は是非、会場にお出で下さい。
 マスコミの方の参加も自由です。

 本題:「一人で登山するな。」ということについて (その二)
(承前)
 数年前に、頼まれて青森市の文化センターで「登山教室」の講師を勤めた。
その時、開講の挨拶で…
「一人で登山が出来るようになることを目標に、カリキュラムを組んでいます。実地登山は受講生として集団で出かけますが、基本的には登山は自助努力の世界ですから、一人一人の力量が高まることにねらいを置いて実施します。」と言った。
 私にとっては「登山教室」とは、教室自体の登山行動が目的でなく、「一人で山を歩けるための養成」上の一過程(プロセス)であったわけである。
 だから、大勢集めて、どこそこの山へ行くこととは違っていた。いわゆる、「ガイド」登山ではない。
「登山教室」がガイド登山であってはおかしい。基本的なカリキュラム(教程)に則った教育的な登山活動であるべきだろう。
 当然、登山教室を開講するセンターの「大勢集めて収入を得る」という営業的な目的に十分適うわけもない。私の意思にそぐわないことを自覚した。また、一通り「単独山行」が出来る教程を終えたので、講師は止めた。

 ただし、受講生がその後「単独山行」をしているかどうかは解らない。していなくても自助努力を中心に置いて登山をしていると信じたいところである。

 いずれにしても「登山行動」の中で「講師」イコール「ガイド」という図式はおかしい。私は、自然観察会などの「講師」をやることがある。
 そのような時は、「観察ガイド」になるが、ここでのガイドと登山のガイドとは明らかに質的な違いがあるように思える。

 ところで、最近、山岳団体、警察・消防、山岳雑誌、ツアー会社、登山教室、マスコミ等が「遭難防止」を大前提にして、「単独山行」をまるで邪悪で禁忌すべきもののように取り扱う傾向が顕著だ。
 つまり、『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』などとキャンペーンをはっているという訳である。
 これは、救助隊などの発想で、『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』をそれ以外の組織・機関が受け売り的にたれ流していることでもある。

 『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』は「一人で歩きたくない」ことや「一人では歩けない」ことを口外せずに、複数名でする登山者たちの「言い訳」に利用出来るから、「一人で歩きたくない登山者」や「一人では歩けない登山者」にとっては「朗報」であろう。

 このキャンペーンには遭難と救助を結びつけ、救助の側からの視点に重きを置いた論点のすり替えがあるように思える。
 
つまり、こういうことだ。
 「単独山行」者の遭難は、広い山岳地帯における小さな「点」的な事象となる。その遭難に対応する捜索の面積は拡大し、それに比例して救助の出動回数は増加する。
 しかし、救助される人数は、「単独山行」者だから、トータルとしては相対的に少なくなる。広い範囲を、何回も出動捜索しても救助人数は少ないということは、合理背だけが求められる現代にあっては「不合理」この上ない。「労多くして効果少なし」というわけである。

 それに比べて、「集団・団体・パーティ」山行の遭難は、広い山岳地帯における大きな「点」的な事象になる。大きな「点」でから捜索面積は縮小し、それに比例して救助の出動回数は減少する。
 しかし、救助される人数は、「集団・パーティ」登山者であるから、総合的には多くなる。出動捜索の回数が少ない上に、救助人数が多くなるということは非常に、「合理的」なことで、「労少なくして効果多し」という現代が求める価値に適うのである。

 『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』という「指導的な助言」は一見、「人命尊重」の風を装ってはいるが、遭難・救助に関わる合理性と利便性だけに軸足を置いた主張だと私には思われてならない。

 本当に、人命を尊重しているのであれば「捜索・救助の合理性から考えると集団登山の方が望ましい。」とはっきり、その理由を言うべきだ。
 それを言わない以上、大事なのは合理性であり、人名尊重は二の次だと解釈されても仕方がないだろう。
 救助される側も、その「合理性」を見越していて、すぐ救助を依頼するのかも知れない。
 私なら、やはり「登山は自助努力の世界。自己責任の範囲で一人で登山をして下さい。」と言うはずである。

 ところで、いつも単独山行に徹していた加藤文太郎が遭難死した時には、同行者がいたのである。単独山行をしていた時にも、死に至るような遭難をしていなかったわけではない。何とか「自助努力」で生還していた。
 しかし、「初めて複数名で山行を組んだ時」に加藤文太郎は不帰の人になってしまったのである。運命の皮肉ということで片づけられない「意味」が潜んでいるように思えてならない。

 山は生きている。雪解けによる崩落現場では、一人だから落石があり、集団だから落石がないということはない。危険は等しく存在する。
 携帯電話を持とうが、通路があろうが遭難は存在する。多人数と少人数を問わず雪崩は起きる。雪崩に巻きこまれると「犠牲者」はどちらが多いかは小学生でも解る話しであろう。

 多人数で集団を組み、みんなが同じようになれば、一概には言えないが、遭難の形態も似たようなものになり、それに対応する救助方法やその他の事項が単一化されて、捜索・救助形態が容易になるだろう。
 しかし、このことにだけとらわれた「単独山行禁止」は偏った見方だと思うのである。
(その三に続く。)

「一人で登山するな。」ということについて (その一)

2007-04-13 05:14:23 | Weblog
 先日、『あなたはいつも一人で登山しているようですが、「一人では登山するな。出来るだけ複数か集団で登山をしなさい。」とよく言われるのですが、このことについてどう思いますか。』というメールを戴いた。

 この主題については、常日頃、考えていることでもあったので、思いつくままに書いてみた。書いた結果、かなりの分量となり、一回のブログでは納まらないものになってしまった。数回に分けて掲載することにする。

 最初に断っておくが、私は自分を「単独山行をしている登山者の一人」であると考えている。
 高校山岳部の顧問を三十数年続けながら、「単独山行をしている登山者」とするには矛盾はあるが、それ以外の山行では圧倒的に「単独山行」が多いということも事実なのである。
 しかし、複数名で一緒にする山行が全くないかというとそうではない。
 今年の一月からの岩木山登山は、Tさんという相棒と一緒で、すでに四回も登っている。この四回の登山は、最近では味わったことがないほどに楽しいものであった。

 次が私の「一人で登山するな。」と最近、喧伝され、誰かによって意図的に醸し出されている風説に対する回答であるが、このような「気持ちでいる」程度の感じで読んで頂けると嬉しい。

 …「一人で登山はするな。」と言われると、私は「余計なお世話だ。」と言うはずだ。ただし、家族や親しい人の純粋な「心配」から発せられたことに対しては「ありがとう。一人でも大丈夫です。」と応じて、結局「一人」で出かけるだろう。
 それ以外の人(山岳団体、警察・消防、山岳雑誌、ツアー会社、登山教室、マスコミ関係者)たちからのものに対しては、「余計なお世話だ。単独山行の禁止なんておかしいでしょう。」と、強く反論すると思う。

 私の登山のスタンスは基本的には「単独山行(単独行とも言う)」である。それは、登山とは「自助努力に支えられた自己責任の世界で繰り広げられる行動・活動」であると考えているからだ。
 登山や山歩きをはじめてすでに四十数年になるが、この考えは今も変わっていない。単独山行が出来なくなった時には、私は「登山」を止める覚悟でいる。

 私が尊敬する登山家はラインホルト・メスナーと加藤文太郎の二人である。
・ラインホルト・メスナー (世界に14座ある8000m級の高山をすべて登頂した人。二、三山は弟と行動をともにしたが殆どが単独行であり、無酸素登山・酸素ボンベを使用しない高度順応型の登山・私もこの方法で、1988年に7000m近くまで登った。)
・加藤文太郎 (新田次郎の『孤高の人』のモデルになった人物。昭和11年1月に槍ガ岳北鎌尾根で不帰の客となる。「生まれながらの単独行者」といわれる加藤の遭難は新聞でもかなり大きく取り上げられ、「国宝的山の猛者、槍で遭難」と書いたものもあった。皮肉にもこの時、加藤には同行者がいた。山岳関係者のなかには、加藤にヒマラヤをやらせてみたいと考えていた人も多かった。)

 私は現在、集団としての、ある山岳会に入会しているが、その理由の一つは、私が創設メンバーであるということ、造った以上はそれに対して責任があるから続けている。
 もう一つは、山岳会を組織している会員一人一人が、能力的にも力量的にも単独山行が出来ること、それが集団となった時には「最大の力」を発揮出来るものになるだろうと考えているからである。
  だから、私は「単独山行」が出来なくなると山岳会を脱退して、山登りを止めようと決めているのである。
 なぜかと言うと、『単独山行の限界を認識して初めて「集団」に依拠した登山に移行するべきもの』と考えているからである。
 私は単独山行の限界も体験していると考えている。せめて、もう一人の仲間がいたら「これは出来たのに」とか「あれほどの苦労はしなくてもよかったのに」という経験を数多くしている。
                            その二に続く。
 
 明日、14日は「岩木山を考える会」の2007年度総会です。
皆さん、是非参加して下さい。会員でない人の「参加」も可能です。
 本会ホームページのとびら画面中に「14日は総会…云々」という「動く」見出しがあります。それをクリックすると詳しい案内が表示されます。そこには議案も掲示されていますので、それを一読してから参加されることをお願いいたします。

ハコベ咲く「本物の春の朝」だった。ほっとした。

2007-04-12 05:28:47 | Weblog
 昨日の朝は、本物の春の朝だった。そして日中も日差しが二時間おきぐらいに続いていた。
暦の上では「春」なのだから、偽物も本物もないのだが、ここで言う「本物の春」の朝とは「明け方にお湿り程度の降雨」があり、しっとりと地面を濡らし、植物たちにその日一日の潤いを与え、それを受けた植物たちがきらきらと輝いている朝である。だが、そのお湿りもアスファルト舗道では瞬く間に乾いてしまった。

 言わずと知れた春の七草の一つ。ナデシコ科ハコベ属の多年草、繁縷(ハコベ)が今真っ盛りだ。その白くて、六、七ミリの小さな花が重そうに雨のしずくをまとっていた。朝日をあびて、しずくはきらきらと透明な輝きを放っている。
 ハコベの学名である、Stellaria(ステラリア)は、ラテン語の「stella(星)」が語源である。花の形が星形をしていることからのようだが、しずくをまとったハコベの透明な輝きは、明けの明星にも紛うものだった。
 語源を星のしずくと転じてもいいなあと思ったりした。
 ハコベの花びらは、一見十枚のように見える。ところが、これは花びらの先端中央部から、まるで白ウサギの二本の耳のように深く切れ込んでいるためである。本当の花びら数は五枚である。
山野や路傍に自生して、背丈は十五~二十センチで下部は地に臥している。葉は広い卵形で柔らかい。「柔らかな葉に抱かれて繁縷咲く」という俳句もあるくらいだ。
 タンパク質やビタミンB、Cなどに富んでいるので、昔は食用にしていた。また、利尿剤にしたり、これを炒った粉に塩を混ぜて、歯磨き粉としても用いたといわれている。
 また、正岡子規の「カナリヤの餌に束ねたはこべかな」という俳句は、ハコベが鳥の餌になっていたことを教えてくれる。
 
 昔の人は現代の人よりも何倍も自然からの恵みを得ていた。現代人は文明の恩恵は受けても、自然の恩恵を受けているという実感を持たない。
 文明は人間を自然から隔絶する方向で「進歩」してきた。これを逆の方向から観ると「人間の持つ自然的な要素と自然との関わり」においては明らかに「退歩」していることであろう。
 これだと、自然に対する感謝と畏敬の念が、ますます薄れていくことは当たり前といえば当たり前な話しである。

 ハコベという名前の由来は、茎がよくはびこり、種が落ちると、その年のうちに芽が出て繁茂することから「はびこりめむら(蔓延芽叢)」と呼ばれたが、それが変化して「はこべら」になったという説がある。別名には、朝日が当たると花が開くことから「朝開け」。それが変化しての「朝しらげ」(日出草とも書く)もある。 
 名前の由来を調べてみると、昔の人たちの「自然との濃密な関係」や「畏敬の念」がよく分かるのである。 

 明後日、14日は「岩木山を考える会」2007年度の総会です。
15時から、桜大通り参画センター3階中会議室で開かれます。多数参加して下さることをお願いいたします。
 議案は2月上旬に発送した会報で、すでに提案済みです。

 事務局や幹事会だけでは気がつかないことが、たくさんあるはずですから、議案に対する皆さんの意見を討議の中で発表してほしいと思います。
 また、一~二のマスコミから「取材に行ってみようかな」というコメントもありました。取材は自由なのでどうぞお出で下さい。

 なお、総会後、懇親会を計画しています。10日を参加申し込み締め切りとしてありましたが、忘れていた人、まだの人は当日、会場に来たらすぐに事務局長に「参加する」と申し込んで下されば、間に合うはずです。

弘前公園入場有料化を考える・囲いのない郷土精神を取り戻すために

2007-04-11 05:09:44 | Weblog
 弘前出身でルポライター、ジャーナリストである鎌田慧は、本会が開催した講演会「私の岩木山」で、「囲いのない郷土精神を取り戻すためには公園入場有料化は撤廃すべきだ。」と語った。
 また、同じ年の2004年10月31日の朝日新聞「環境ルネサンス」に「故郷の風景 カネにかえるな」という題で次のように書いている。長いので抜粋する。
 
『 …本丸にあがってみようと、追手門までいった。と、市の高札があって、本丸への入場は「大人三〇〇円」とある。公園の中には生活道路があるのでおかねはとれない。だからといって、いちばん景色のいいところだけを有料にするというのは姑息というものである。わたしは手ひどく裏切られた気がして、棒立ちになっていた。
 環境権や日照権や景観権があるように、眺望権というものもあるはずだ。これまで、市民がこころのふるさととしていた風景を、だれかが勝手に囲いをつくって出入りを禁じ、カネを要求するなどできないはずだ。
 それは故郷を売る行為でもある。カネ、カネ、カネ。郷土の精神を形成してきた風景までカネにかえようとする貧しさが悲しい。』

 私もそのとおりだと思うのである。だれもが、これまでは金銭的な束縛のない中で、自由に「本丸に上がり、岩木山に向かい合掌して岩木山を拝む」という信仰的な行為を、きわめて当たり前にしてきた。これは弘前市民にとって廃藩置県以来の長い長い歴史的な慣習であり、無形の文化でもある。
 このような歴史的な慣習・文化をいったい誰が、勝手に一方的に、まるで「拝観料を取るような決まり」にしてしまうのか。

 岩木町と合併して「これで岩木山は自分たちのものになった。岩木山に関わる有形・無形のすべてのことが自由になる。」と市行政当局は考えているのではあるまい。ゆめゆめそうは考えないでほしい。
 岩木山は有形だが、津軽の人にとっては無形の象徴なのである。みんなが共有できる象徴なのである
 市長の言う「新しいまち」に「旧岩木町を加えた」という意味が込められているならば、合併前から「弘前公園入場有料化」に対する反対や批判は岩木町でも根強かったということを知ってもらいたいものだ。

 それは「我が町の象徴で我が町にある岩木山を、つまり他の町の山を、弘前市は公園の本丸から見せてお金を取っている。許されない。入場料の半額を我が町に還付してもらわねばならない。」という岩木町のそれなりの立場いた人が言っていることからも読み取ることが出来るだろう。
これはただ単に「拝観料的に入場料を徴収していることへの羨望」ではない。岩木山を拝ませて金を取るということが許せないのだ。
 岩木山は見せ物ではない、対価を超えた崇高な存在なのである。

 この台詞(セリフ)には岩木山を金銭の対象とした冒涜(ぼうとく)的な行為に対する激しい憤りが籠もっている。
 岩木山を誰にも売り渡したくないという深い愛情の吐露だろう。
やはり、「本丸に上がり、岩木山に向かい合掌して岩木山を拝む」という行為には、金銭という囲いは馴染まない。売り渡してはいけない。

花名に思う…外来種オオイヌノフグリ

2007-04-10 06:01:03 | Weblog
 昨日のブログに登場した道端に咲いている花の中に、「オオイヌノフグリ」というのがあった。漢字で書くと「大犬の陰嚢」となる。

 陰嚢は睾丸(こうがん)のことで、扁円形で中央が大きくへこんでいる果実(種)の形を犬の陰嚢「睾丸(こうがん)」に見立てたものである。
 ゴマノハグサ科クワガタソウ属の二年(越年)草で、北海道、本州、四国、九州、奄美、沖縄に分布し、道端や空き地、田畑に生える。草丈は十~二十センチだ。
 花の寿命は短く一日で、日だまりでルリ(コバルトブルー)色に咲いて春の訪れを告げるのである。その可憐な花姿に、花名は何となくそぐわない感じがして、名前の由来を知らないままでいたほうがいいような気もする。

 日本人の花名の付け方は情緒的、心情的なものが多い。ザゼンソウ(座禅草・花姿を座禅をする達磨大師になぞらえたもの)などはその好例だろう。
 ところが、英語圏では、このザゼンソウのことを「スカンク・キャベツ」という。花の出す匂いを「強烈な匂いのおならをするスカンクに喩え、全体の姿をキャベツの見立てた」ものである。この命名には情緒性はない。そのもの「ずばり」である。
 「オオイヌノフグリ」という花名もまた、そのもの「ずばり」である。細い花柄にぶら下がり中央がへこんでいる果実を見ると、やはり、「陰嚢(ふぐり)」だなあとうなずいてしまうのだ。そこには即物的な意味はあるが情緒性はない。
 …だが、名前の由来に則して「ユーモラスなその形と命名の妙」を感じ取ると、途端に、「情緒性」が生じて、多くの人は「微笑む」はずである。

 別名として瑠璃(ルリ)唐草・天人唐草・星の瞳などがある。別名のほうが何だか味がある。英語名では、オオイヌノフグリが太陽が出ると一斉に花を開くことから、それを鳥の目に見立ててバード・アイ(鳥の目)というそうだ。

 なお、名前のオオイヌノフグリは「犬のふぐり」より花の大きいものという意味で「大きな犬のふぐり」ではない。「大きな犬のふぐり」だと、まさしく大きい睾丸となり、可憐な花姿とは似ても似つかぬグロテスクな「おちんちん花」となってしまう。
大きいイヌフグリがあるということは、小さいイヌフグリもあるということである。こちらは、単に「イヌフグリ」と呼ばれて、小さい小さいピンク色の花をつける。これは在来種である。しかし、最近はなかなか見ることが出来なくなっている。
 「オオイヌノフグリ」は、外来種の帰化植物で、日本へはヨーロッパか米国経由で侵入したらしい。
 外来種のオオイヌノフグリは、セイヨウタンポポと同じようには「イヌフグリ界」を席巻し、我が国を乗っ取る勢いである。
 在来種のイヌフグリはこれに追い立てられ細々と命をつないでいる。「孤高を保ち」というよりは今まさに絶滅の縁に追いやられ、風前の灯火のように柔らかい春風に全身を震わせて咲く、小さな花の一輪を思うといじらしく悲しい。
「在来種古来に馳せる懐かしさ」だけの花には決してしてはいけない。

 日本の植物界はすでに何十年も前から、「グローバル化」にさらされている。私たちは少し立ち止まって、経済や文化、文明などの「グローバル化」がもたらす「負の部分」について考えないと…「美しい日本」などは単なる言葉に終わり、画餅に過ぎないものになることは明らかである。

 俳句の世界で「犬ふぐり」と詠まれているのは、ほとんどがオオイヌノフグリである。
高浜虚子の俳句に「犬ふぐり星のまたたく如くなり」というのがあるが、これもオオイヌノフグリであろう。何と美しい句意ではないか。
           
 イヌと名の付く植物にはイヌノフグリ、イヌブナ、イヌガヤ等など六十種以上あるそうだが、イヌノフグリは「犬のふぐリ(陰嚢)に似る」という意味だが、後ろ二つは「犬」ではなく、「否ぬ」(…でない・…似ている)という意味である。
 イヌグワ(やまぼうし)、イヌウド(ししうど)、イヌクズ(つたうるし)、イヌノエンドウ(すずめのえんどう)などがそうである。
 さて、ドクダミを津軽地方ではイヌノヘというが、この「イヌ」は「犬」、「否ぬ」どちらだろう。

路傍の草花と首相の言う「美しい日本」…

2007-04-09 05:48:45 | Weblog
 昨日、県議会議員選挙の投票に行く途中、路傍でオオイヌノフグリ、ミチタネツケバナ、タンポポ、ヒメオドリコソウに出会った。
これらは日本全国、どこにでも見られるものだ。すっかり日本人には馴染みの草花である、と一般的に言われている。
 投票所に向かっている私の前後には「歩いている人」は誰もいなかった。その道を歩いていないのだから、その「路傍に咲いているオオイヌノフグリなど」を見ている人はいないのである。
 ところが、投票所となっている小学校の玄関前は、「投票に来た人」でかなり混み合っていた。分校(分教場)などの例外を除けば、小学校は地域のコミュニテイスクールであり、年端のいかない一年生でも「歩いて行ける距離範囲にある」のが普通である。いわば老若男女を問わず、歩いて行けるところという近距離に投票所はあるはずだ。
 しかし、徒歩で往復する人は、限りなく少ない。大半が自動車である。歩いて来なかった人は道ばたに咲いていた「オオイヌノフグリ、ミチタネツケバナ、タンポポ、ヒメオドリコソウ」に出会うことはない。これでは馴染みの草花とはなり得ないだろう。
 案外、オオイヌノフグリなどは、移動の手段にまだ「徒歩」が君臨していた三、四十年前は「馴染み」の草花であったかも知れない。
 だが、年を追うごとに、外来種が幅を利かせて、日本では草花が増えているにも拘わらず、「馴染み」の草花は、日本人から減ってきている。

 恐るべきは、この「歩ける距離範囲」を自動車で送り迎えをする「我が子に優しく、物わかりのいい、教育者のような父母」が結構いるということである。
 このような父母に「子供だけでの登下校は危険だ。」というすばらしい口実を与え、子供たちから道草の楽しみと様々な自然観察から学ぶべきことを奪ったのが、「幼児誘拐」や「小学生や幼児の殺害者」という犯罪者たちである。
 この口実には学校も、行政も与(くみ)している。子供たちは、道草などの楽しみと自然観察からの発見の喜びを、親や学校からも奪われているといってもいい。このような状況に置かれた子供では、安倍首相のいう「美しい日本」の本当の国民には、決してなれまい。
 ところが、案外「自動車で子供を送り迎えする父母」やそれを推進しようとする「学校関係者」は、この「美しい日本」論(?)を支持したりしているから、政府には反省がないのである。
 教育改革といって些末な規則をいじったり、給料で差をつけたり、格付けをしたってどうにもならないだろう。「美しい国」の前に、まずは「安全な国」を確立しなければならないだろう。
 戦争のない、殺人のない、拉致のない、誘拐のない、そして何よりも子供たちが安心して自然と戯れ、生きていける安心で安全な国である。安全が脅かされている国内事情に目をつむり、「美しい国」を唱えるとは、このかけ離れた矛盾に呆れかえる。
 ただ…、「安全な国」と言い出したら、もっと危険かも知れない。「安全な国」を守るために軍備を拡大し、「安全な国」に必要な秘密を厳守するように、国民をきびしく監視するようになるよりは、まだましだろうか。

 日常見ることが出来る路傍の草花、いわば足許に咲くものには目もくれず、我も我もと遠隔地や深山や、または高い山に出かけて、「高山植物はいい。深山の花は神秘的だ。」と悦に入っている人の何と多いことか。
 足許つまり身近な花への感動や共感を持てずに何が、高山植物であろう。身近な人への思いやりや近隣の人たちへの共同・共存、助け合いの気持ちに欠けていながら、皇室やアイドルを追いかけたり、有名人と親しくしたがる人も多い。
 そのような人たちが「美しい日本」という時、いったいそれは何なのだろう。 

 ところで、冒頭の草花四種はいずれも外来種で、最近どんどんと増えているものだ。放っておくと「美しい日本」から、すべて在来種が放逐されてしまうかも知れない。ああ、日本人はどこへ行くのか…。

弘前公園入場有料化を考える・姿を消した多くの蝶たち

2007-04-08 07:03:24 | Weblog
 蝶類は、幼虫の食べる草や木の葉の種類が決まっている。その草や木がなくなるとその場から蝶は消える(絶滅する)。
 だから蝶類を調査すると、草花の盛衰を類推することが出来るのである。

 本会会長の阿部東の報告では…
 かつては、カシワには、ウラジロミドリシジミ、オオミドリシジミが、オミグルミには、オナガシジミ、ニレ(春ニレと思う)にはC-タテハ、カラスシジミ、エノキ(エゾエノキと思う)にはゴマダラチョウが発生していた。
 また、ヒオドシチョウ(カラハナソウ)、エゾスジグロチョウ(コンロンソウ)、スジグロチャバネセセリ、ヘリグロチャバネセセリ(イネ科)、オオチャバネセセリ(ササ)、アゲハチョウ、カラスアゲハ(サンショウ)、ミヤマカラスアゲハ(キハダ)、オオヒカゲ(スゲ)、ツマキチョウ(タネツケバナ)、メスグロヒョウモン、オオワラギンスジヒョウモン(いずれもスミレ)なども見られた。(   )内は食草。
…しかし、最近は殆ど見られなくなってしまったという。

 …ということは食物としている草や樹木がなくなってしまったということである。 

 弘前市には1700余名の職員がいるという。それに現在は60人近い市会議員もいる。その中の誰もが、弘前公園が持つ「自然豊かな里山、生態系がしっかりと確立されていた緑の里山」であると考えなかっとすれば、「自然的な遺産」という視点で弘前公園を捉えていなかったとすれば、市民にとって、これくらい不毛な「行政」はないと言える。
 最近、弘前市が行った公園有料化見直しのアンケートの質問項目には、「有料化」を継続していくという立場でのものがつらなっている。この点でも「不毛」は顕著であろう。
この「不毛」を生み出しているものは、前金澤市政を支えてきたものであり、ヒラメのように金澤市政に従って、無批判に行政を施行してきたものたちなのである。

 都会からやって来る観光客は、無顔貌、無個性で画一化された都市公園の構造や建築様式には飽きてしまっているのだ。
「松の梢ではオオタカが鳴き、草むらや竹藪から子連れのタヌキが出てきて、ちょろちょろ、よちよちと目の前を歩いている」という光景に出会える場所が弘前公園となるように、公園の自然的な遺産の回復に腐心すべきだろう。

 弘前公園に行くと、蝶が舞い、濠にはトンボが飛び交い、野生のオオタカやタヌキなどに出会えて、生きた「里山」の風情とお城を実感出来る。タヌキの親子などとの出会いは微笑ましいことである。これらの集客効果は抜群だろう。かつては珍しいキイトトンボまで生息していたというから弘前公園の「自然」はすばらしかったのだ。

 弘前公園の自然遺産を昔の「里山」に戻そう。そのためには過剰な整備を止めよう。 公園整備は「自然植生」を中心に行おう。下草を刈りとらない、藪を剥ぎ取らない、別種の植物を植えない。。人が歩きやすいだけの道にしない、歩道も拡幅しない。
 公園の「自然的な遺産」が自己治癒と回復していくことに、行政が手助けをしていくことにすれば、これまでの「整備費用」は大幅に浮くだろう。
 入場料は必要でなくなるはずだ。

弘前公園入場有料化を考える・消えたラショウモンカズラ

2007-04-07 05:46:40 | Weblog
ところで、首都圏在住の人たちから「青森県の津軽地方、特に弘前市を中心に緑が多くて、自然がいっぱいでいいですね。」とよく言われる。見た目には都会よりも「緑」は多いのであろう。ところが、こと「里山」となると首都圏近隣の自治体の方が、はるかに多い。
 弘前市には「里山」が、殆ど存在しない。秋には団栗(どんぐり)をつけるミズナラやコナラ、春にはきれいな花を咲かせるクロモジやマンサクなどが育っている雑木林、林縁には竹が繁茂して春先にはウグイスが鳴き交わすという「里山」が弘前にはないのである。本当に寂しいことだ。
 昨年の「東北自然保護の集い」で「弘前には里山がない」と言ったら、仙台市から参加した人に、「えっ!本当ですか。」と半ばあきれ顔で言われ、すごく恥ずかしい気持ちになったものだ。

 弘前市周辺の「緑」は、大半が全国一という生産量を誇る「りんご園の緑」である。特に岩木山を中心とする「津軽地方の緑」はそれであり、毒性が強く益虫までも殺してしまうという「農薬」の使用も全国で一番多いといわれている。
 津軽地方からは「りんご園の開発」によっていわゆる「里山」がほぼ消滅してしまった。唯一残っている「里山的な自然」は岩木山麓だけである。
 しかし、その貴重な山麓もりんご園や畑の開墾、スキー場、ゴルフ場、ゴミ処分場、または人工物の建設で消滅しかかっている。
 そのような状態の中で、唯一、弘前旧市街地地区に残っていた貴重な「里山」が弘前公園地なのである。だが、弘前公園の「緑」は、東京の名だたる公園等の緑よりもはるかに少ないのである。
 首都圏のみならず、仙台、名古屋、大阪、福岡等の大都市で、「都市の自然を護れ」ということは、ほぼ直裁的に「里山をまもれ」であり、行政自体が積極的に取り組んでいるという報告は多い。ところが、弘前市は造園的な方向に走り、弘前公園本来の自然史や植生を無視した過剰な整備を年々続けてきた。
 里山の風情を失い、緑が減少したのはその整備が招いた結果である。

 弘前公園には、里山に育つ植物も、スプリングエフェマラルズから秋に実をつけるものまで、多種多様に存在していた。主なものを挙げてみよう。
 フキノトウ・フクジュソウ・ハシバミ・スミレ(・ツボスミレ・ナガハシスミレ・タチツボスミレ・オオバキスミレ・スミレサイシン)・キクザキイチリンソウ・キバナノアマナ・ツルシキミ・モミジイチゴ・ホタルカズラ・ヒトリシズカ・フタリシズカ・ツクバネソウ・エンレイソウ・オキナグサ・ネジバナ・アケビ・ラショウモンカズラ・キケマン・ムラサキケマン・エゾエンゴサク・タネツケバナ・クズハナ・ヨツバヒヨドリ・キバナノイカリソウ・マイヅルソウ・ツリフネソウ・オオウバユリ・ノリウツギ・ナガボノシロワレモコウ・カラハナソウ・コンロンソウ・サンショウ・ミズヒキ・キンミズヒキ・ガガイモ・ツルシキミ・クサノオウ・オドリコソウ・キジムシロ・ヒメアオキ・ミズバショウ・エゾエンゴサク・ニリンソウ・ゲンノショウコなどである。
 他にもあったはずであるから、その植生は何と豊かなことだったであろう。
そして、最近はどうなのだろう。
 私のある受講生が「弘前公園で毎年咲いていたラショウモンカズラがなくなってしまっていた。」と報告してきた。
 講座が終わってから、二人で現場を確認に行ったのだが、驚くかな「毎年咲いていた」場所から、竹藪そのものが消えていたのだ。すっかり、きれいに剥ぎ取られているのである。
 私も他にもう一カ所咲く場所を見つけていたので、そこに行ったのだが、同じように藪が消えていた。これが整備の実態である。
 残念ながら、笹藪に咲くラショウモンカズラはまったく影を潜めてしまった。もうこれ以上の整備は止めにしよう。そうすれば「整備に金がかかるので、入場料を徴収しなければいけない」という主張は意味を失う。
 
 入場有料化という「囲い」をやめて、しばらく「ほったらかし」て、公園の自然の回復につとめ「自然のままの公園」として、開放しようではないか。

ヴァーナルグロースは大丈夫か

2007-04-06 06:45:26 | Weblog
 今朝の気温はマイナス0.6℃だった。薄曇りだからこの程度だろうが、晴れていれば放射冷却も加わり、この程度ではないだろう。本当に寒い。
 三月三十一日のブログの最後に「ひょっとすると、このメリハリのない三月がそのまま、四月にずれ込んでしまうのかも知れない。冬の名残りと、惰性だけの春となったらどうしようかと、幾分心配している。」と書いた。

 四月になって六日目である。なぜ日にちに拘るかと言えば、それは四月に入ってからの、朝方の降雪と積雪に因るのだ。昨日の朝も雪が降っていた。一昨日の朝は2~3cmの積雪があり、気温もマイナス1.3℃だった。しかも、日中か結構、北寄りの風が強い上に、冷たい。気温も上限で7℃程度にしかならない。そして、おもてを明るい日差しと翳りが交互に横切っていく。

 それに誘われて外に出て見る。青空には動きのない凍て雲はない。だが西には、曇り空に現れてあまり動かない寒雲がゆっくりとわき出している。まもなく、雪しぐれを降らせる雲の塊に変化するだろう。
 青空、輝く太陽。その下にはむくむくと湧き出し、底を低くし、周囲の山々を舞う雪に透かして進んでくる大きな雲の塊がある。その塊の上空は抜けるように明るい。そして、いつのまにか横殴りの淡雪に誘い込まれるが、それも一時のこと、天上すべてが青空に変わる。…という情景なのだ。
 だが、これは「キラキラと輝く三月が雪しぐれの奥にいて、それらを押し出し天上の主にとって変わろうとしている」三月特有の風情なのである。

 今日はすでに四月の六日である。しかし、毎日が三月の風情で過ぎていく。これではもう三月が四月にずれ込んで、冬の名残りの四月だと言ってもいいようなものだ。
 私が心配していることは、日本列島の植物群は「晩から朝方にかけて降る春の雨に対応して生きる」ということなのである。

 毎年四月に入ると、しとしとと細かい雨が、晩から朝方にかけて降る。土砂降りのように地表を穿ち、根を洗い流したり、芽を出したばかりの種子を痛めつけるような降り方はしない。
 地表に芽を出そうとする植物たちを「いたわるように優しく、静かに降る」のである。春の女神というが、私はこの雨が女神なのではないかと思っている。
 その優しい雨にしっとりと潤された植物は、日中の暖かい日差しを十分浴びてぐんぐん育つのである。
 地球の歴史が始まり、日本海が誕生して気象事情が定まってきた頃から、悠久の時を越えて、日本列島の植物たちは、この「気象」に適合する形で進化して、現在に至ったのだ。

芽を出そうとしたり、芽を出して伸びようとしているヴァーナルグロースが、毎朝のように降雪や積雪と寒気に苛まれている。本当に大丈夫だろうかと心配の日々が続く。
 四月だというのに春の女神はまだ、この津軽地方にやって来てくれない。

 また、二月二十六日のブログには『「一日の平均気温が5℃から9℃」にならない限り、桜の花芽は目を醒まさない。私は弘前公園の開花時期を「若干早まるか、あるいは平年並み」と予想している。』と書いたが、こちらも「毎朝雪で、寒冷な三月のような」四月が続くと、そうなるかも知れない。

弘前公園入場有料化を考える・オオタカの棲む森に戻そう

2007-04-05 07:46:01 | Weblog
 先日、公園の外周を巡ってみた。今年は雪が少ない、というよりも「ない」のでこの時季だというのに「土塁」の状態がよく見えた。
 市役所付近から見える土塁には、もちろん裏側がどうなっているかは見えないが、ササが繁茂していた。それから、外濠ぞいに亀甲町へと下る。驚いた。土塁からかなりの面積でササが消失している。亀甲町ぞいの土塁も同じようにササは削がれていた。

 弘前公園は場所として、昔、鷹ヶ丘と呼ばれていた。この地名は何を私たちに語ろうとしているのか。

 弘前公園は昔、鷹ヶ丘と呼ばれる自然の丘陵(里山)だった。
茂森町の「山観」と同じように高台に位置していて、かつては鷹が生息するうっそうとした森だった。
 鷲鷹類は生態系の頂点にいるものである。そこでは鷹狩がされていたそうだ。その名残を示す「鷹匠町」という町が公園のすぐ下にある。
 鷹が生息し、鷹狩りが出来るということはそれだけ自然生態系が正常で、しっかりした自然度100パーセントの場所であった。
 そこはタヌキ、オコジョやテンやイタチ、アナグマ、ヒミズやモグラ、ホンドリスが生息していた場所である。

 本会会長阿部東の報告によると…
 今から50年ほど前の大学四年生の時、公園内に仕掛けたトラップでジネズミ、ヒミズ、コモグラ、ハタネズミ、アカネズミの5種類を捕獲出来た。
 ところが、1997年11月に弘前高校の生徒と仕掛けたトラップではドブネズミとハツカネズミしか捕獲出来なかった。
…ということである。

 このことは明らかに、自然生態系が壊されてきたことの証明であろう。
 猛禽類の餌となる小動物が生息していない環境には猛禽類は生息出来ないのである。鷹が生息出来ない弘前公園、ここに鷹ヶ丘という地名はその意味を失ったのである。
 「公園の整備」という時、平川市の「白岩公園」や弘前市の「座頭石」などに、その典型を見ることが出来る。それは「下草をきれいに刈りとってしまう」ことや「竹藪などの剥ぎ取り」などである。これをするとその藪を生活の場にしている昆虫を含めた小動物は生活の場を失うのだ。死んでしまうのである。
 「弥生地区自然体験型拠点施設」建設計画の中にも、「整備して昆虫等の観察をする」というあほらしい一項があったが、整備したら昆虫はいなくなるのである。

 弘前公園もご多分に漏れず、しかも主に「ソメイヨシノ」という一種の保護と育成のもとに、道の拡幅と路面の固定化、草地・竹藪の剥ぎ取り、樹木の伐採、建造物建設などをしているのである。
 これらは、あくまでも観光客の見た目に呼応するものであって、整備の主眼は「集客」であり、公園の「自然生態系」を保護するという視点はまったく欠如しているものである。
 過剰な整備であり、しかも片手落ちで間違った整備をして、そのために費用がかかるので「入場料」を取らねばならいのだという弘前市の姿勢はおかしい。

 ところが、その一方で、弘前市の鳥「市鳥」選定ということが考えられているそうだ。そこでは「オオタカ」を指定したいという動きがあるといわれている。
 現在、弘前公園の森に「オオタカ」はいない。「かつてはいた」というのでは、絵に描いた餅に等しいではないか。
 公園の自然を取り戻すと、彼らの餌は「回復」する。となれば彼らはきっと公園に戻ってくる。松の梢にとまり、眼光鋭く鳴き交わすオオタカの姿を、いつも見ることが出来る公園、この方が格段に「集客」効果がありそうに思えるがどうだろう。

 有料化(を推進するため)のアンケートを市民からとる前に、公園の自然史と植生から、本来の自然を取り戻すことの手だてを速やかに実行しないと、歴史的な「天守閣」だけを持つ人工の都市公園になってしまうだろう。オオタカの棲む森に戻そう。

 断っておくが、必要な整備と保守管理までをするなとは言わない。
2007/02/27付の東奥日報が報じている『弘前公園桜再生の切り札「空気圧」掘削機を導入』などは大事なことである。



弘前公園入場有料化を考える

2007-04-04 07:00:51 | Weblog
 弘前公園は歴史的・文化遺産であると同時に、自然的遺産でもある。有料化の議論には、この視点が必要である。だが、どうも、「都市公園」的な視点が中心にあり過ぎて、しかも「観光開発」と「集客」という方向に傾斜し過ぎているように思える。

 まず、歴史的・文化的遺産という面で、「風水」(山川・水流などの様子を考え合せて、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及。風水説。岩波・広辞苑から)に関して見てみよう。

 天守閣が立つ弘前公園は、風水をうつしとっている。風水では東北の方向が鬼門なので、天守閣周辺の堀は西、南、北の方角で「角」になっている。それに対して、東の方角だけは「角」がなく五角形のような「角」があまり目立たない構造になっている。
 これを「鬼門くずし」と言うそうだ。更にその東北には鬼門くずしの神社が祭られている。
 「有料化の是非」と「有料化による隔絶化」を考える時、次のことが非常に重要になってくるだろう。
 「鬼門くずし」のさらに、東北には「茶畑町」がある。本州最北の地、この津軽に「茶畑」という町名は私たちに、「違和感」を与えないだろうか。私はこの「茶畑町」という町名に接した時、まずは「怪訝」な思いがした。そして、次には「なぜ、どうして」という疑問にとらわれた。
 事実、この場所では茶が栽培されていたのである。

 その昔、「茶」(ちゃ)が転訛して「邪」(じゃ)と読まれていた。そして、「茶を摘む」は「邪を摘む」に転じ、「邪悪なものを摘み取ってしまう」という意味を持っていたのである。
 この「風水説」からも「弘前公園天守閣や本丸」は町並みから「隔絶」された場所ではないことは明らかである。
 弘前市の旧市街は「弘前公園天守閣や本丸」を含んだ「同一区画」と捉えられるものだ。ここに立脚して考えると、精神的にも物理的都市構成性からも「有料化」という「鬼門」で区切られるものではない。
 有料化を撤廃して、自由に出入りが出来るようにしておかないと「邪を摘み取る」ことが出来なくなって、「弘前公園天守閣や本丸」に災いが起きるかも知れない。
 有料化していなかった時に戻して、以前同様を維持して開放すべきである。

 今日は「岩木山を考える会」の幹事会である。ボルネオに出かけていた会長も帰国したので、それを待っての幹事会である。
 来年度の活動方針案審議が中心になる。その中で「弘前公園有料化」も討議される。それに関連して市議会議員選挙のことも話題になるだろう。

 自然的な遺産としての側面については、今日以降のブログで書くつもりだ。

 昨日、「日本の天然林を救う全国連絡会議」の事務局長、長沼氏から電話があった。「林野庁による国有天然林破壊を告発する」署名活動の最新事情と本会の取り組みに対する返礼であった。
 その中で前会長の正木進三先生の取り組みについて、いたく感謝していた。本会会員も同じように頑張っている。
 署名の第一期集約は先月末で終わったが、第二期を今月末として継続中である。まだの人はこれからはじめ、すでに送付した人も、もう一度署名集めをして送付してほしい。用紙の請求は事務局まで。

登山道は歩くことで保持される

2007-04-03 06:12:32 | Weblog
 昨日の続きという意味を込めて「廃道」のことを書こう。

 登山道は「人」が歩くことで保持されるものだ。適度な人数が春から秋まで歩いてくれると道は確実に整備される。だから、わざわざ登山道整備などといって予算化したり、労働力や人集めの必要もないのである。
 登山人口が増えている割には、「適度な人数が、その登山道を春から秋まで歩いてくれる」ことが出来ない理由は「登山道の一極集中化」である。岩木山の場合、山頂に立つ登山者は、その97パーセントが「スカイライン・リフト」利用者である。これだと「岩木山の他の登山道」は整備されない。
 この「一極集中化」には登山道を廃道化(または荒廃化)させる二面性がある。
 一つは、多数の登山者が集中することで、いわゆる「オーバーユース」で道が、植生や地形、地質的に荒廃することである。
 もう一つは殆ど、登山者が歩かないので植生の繁茂等によって道が消失、荒廃してしまうことである。
 岩木山では松代からの「大ノ平」コースのみならず、鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ沿いの「長平」コースも、竹藪に覆われて一部「登山道」が消失状態にある。

 登山道の荒廃を登山者の多くは、「地図や案内書に登山道の記載があるのならば、当該自治体、森林管理署、各団体で登山道確保として、最低限の藪の刈り払い程度はしなければならない。」などと主張して、地元の自治体にその責任を求める(使えもしない林道をやたらに造る役所もあることだから、これは正しいかも知れない。)が、まずは、特定の「登山道に集中」している自分たち自身のことを考えるべきだ。
 また、登山道とは「登山する者」にとって必要な道であるがゆえに、本来は「登山者」が「歩くこと」で整備するべきものであるだろう。
 岩木山の赤倉登山道は赤倉信仰に依拠する講および信者が主体的に関わりながら「整備」して来たという歴史がある。
 作今、特定の信者が「過剰な整備」をしたが、信者が自分で自分たちの道を整備したのであり、古来から山に関わる道の整備は「行政とかの第三者」がすべきものではなかった。「当該者」がすべきものなのである。自分たちは何もしないで「あそこは荒れている。」「あそこに標識を建てろ。」などと言うが、虫がよすぎるというものだ。
 登山道の荒廃に手助けをしているのは、特定の登山道に「一極集中化」している登山者自身であるとも言える。
 私は常々不思議に思う。どうして、みんな同じコースを登りたがるのだろうと。自分の登山道くらい持ってもいいだろう。それとも、全国一律、同顔貌でいる方が安心とでも言うのだろうか。個性を失い、同質化している日本人にあっては、それが一番の幸せなのだろう。
 藪になってしまい廃道と化している松代大ノ平登山道については、次のような意見が寄せられている。

「誰もが登れる登山道をめざす必要はない。どうしても登りたい人は現場の状況・条件と自分の力量(体力・技術・経験)を勘案して登ればいい。」

「送り(目印の赤布)」が着いていれば登ることが可能な場合があるので、それを確保するために、毎年確実に送り(目印の赤布)を補填していく程度でいい。」
 だが、「送り(目印の赤布)」は基本的に、付けた者が回収すべきものである。この基本的な送りの性質との整合性が問題として残る。

「刈り払われた道や送りなどがなくても登れる人もいるだろうから、何もしないで、自然があるがままに任せるべきだ。自然にとってこの方法がもっとも望ましいことだろう。」
 …などである。 

昨日の登山は中止

2007-04-02 07:13:33 | Weblog
 昨日から四月になったとはいえ、山はまだ冬である。「雨の冬山には登ってはいけない。雨降りの中で行動してはいけない。」というのが冬山登山の鉄則だ。それを厳守して昨日の登山はとり止めた。
 例年だと、この雨を降らした低気圧が太平洋に抜けると、気温が下がり、強風が雪を交えながら吹き荒れ、雪面の氷雪を剥ぎ取りながら吹きつけるのだ。これを受けたら「撤退」しかない。四月の上旬に、この鉄則を守らなかったばかりに手ひどい仕打ちを何回も受けていた。
 今頃になると吹き溜まった雪は、何層にもなって硬くなっている。山頂近くでは、強風が積雪を剥いで削り取るということはあまり知られていない。

 ある年の四月二日、この時季の風は尋常ではないほど強い。頂上直下で、四角片の雪層の絨緞爆撃にあった。四角い雪層が風上から機銃弾のように飛んでくる。背を向けて屈むだけで動けなかった。風が雪の層を剥ぎ取り、それが「円盤」のように飛んで来るのだ。
 目を開けていられないばかりではない。風を背にしても、後頭部にその「円盤」の直撃を食らうと、立っていられなくなってしまう。
 撃ち所が悪いと、気絶し、凍死してしまうかもしれないし、滑落し全身打撲か全身擦過傷であの世往きは間違いない。

 一九七四年四月二十一日早朝、、弘前南高校山岳部一年生I君が岳登山道尾根で死亡した。新人歓迎登山であった。山頂を目指して登山を開始。バスタ-ミナルで大休止、風が次第に強くなる。天候を見ながら種蒔苗代に向かい噴火口のへりまで登る。経験したことのないような強風に阻まれて、下山を始める。そして、その途中の事故であった。    私もその時、五所川原工業高校山岳部の顧問として部員生徒と一緒に岩木山に入っていた。だから、弘前南高校山岳部と同じ体験をしていたことは言うまでもない。
 体験上、これまでは、四月の岩木山は大体、十日周期で大荒れとなっている。しかし、今年は、かなり違うようだ。昨日は静岡で三十度を越えたという。やはり、おかしい。

 一月から三月までの間に、岩木山の、いわゆるスキー場のない尾根で、しかも夏場に「登山道」のある尾根を登ろうと計画していた。残っているのが鰺ヶ沢町松代地区石倉から、追子森を経て、西法寺森鞍部から山頂に向かう「大ノ平」ルートであった。
 この「大ノ平」ルートは、かなり伐られてはいるが高木のブナ林の中をを進む。ブナが途切れて、コメツガの老木が出てくると間もなく追子森である。この途中の追子森までは一応道がある。追子森の山頂は巨岩が林立していて、社(やしろ)があるので、地元の人が参拝するからである。
 しかし、参拝する人も最近とみに少なくなった。時々、この巨岩の上にはワシタカの餌食となったウサギの死骸があったりする。それほどに「人が行かない場所」と言うことである。
 そこから先は、鬱蒼とした根曲がり竹の藪で、密生している場所では竹の弾力で逆に人が弾き飛ばされるほどである。
 十年ほど前まではまだ、踏み跡をたどることが出来たが、一昨年から昨年にかけては踏み跡はほぼ消えている。この追子森の山頂から、長平登山道の分岐までは戦後間もなく、西北津軽地域の登山愛好者が組織した岩木山岳会が開鑿(かいさく)したと聞いている。
 しかし、開鑿した当該山岳会が、「大ノ平」ルートの「廃道化」をくい止めるための手だてを講じているとは思えない。
 だが、私は何もこの問題で「岩木山岳会」を批判しているわけではない。全国的に共通する最近の山岳会事情が、アフターケアを難しいものにしていることは否めないからである。
 その共通する最近の山岳会事情とは、アルピニズムの衰退にはじまり、バリエーションルートの開拓などに取り組もうとするフロンティアスピリットの欠如、ホームマウンテンとホームルートの保持と保守する気概の欠如、みんなが行くところに大勢でぞろぞろとくっついて出かけることなどである。

嬉しいメールと失礼と思える言動

2007-04-01 06:10:59 | Weblog
 先日、ある人から、東奥日報に連載した「厳冬の岩木山」シリーズについて、次のようなメールを戴いた。

 『 まずは、14枚の一回のシリーズですが…欲求不満が起こります。実際の写真展を見た私としては、とても我慢が出来るものではありません。確かに四季の良さに感動するには、その季節にマッチした掲載が一番ベターな選択だと思います。(しかし)ワンシリーズでは収めてほしくはありません。
 今後の、掲載が新聞社の方との折り合いで実行できれば、これ以上ない喜びにを、私たちもあじあわせて戴けるのですから! 』
『 先日の「東奥日報」に掲載された新聞の切抜きを、知人から戴きフィイルして読み返しています。前回のHNKの写真展に出されていた写真の説明も家に戻れば記憶が薄れていまい分らないですが、今回のように写真と説明文を、対比して見られることの感激は、又別物でした。
 さすがに国語の先生らしく、写真の≪タイトル≫説明文がマッチングして、より写真を引き立てている事が分りますし、以前も申し上げたと思いますが、展覧会らで説明文がついていることは皆無と思いますが…、写した人の息遣いが、興味の有る者の一人としてほんとうに、幸せに感じます。』
                  (注:本ホームページ「厳冬の岩木山」参照)
 このような内容のものはメールのみならず(メールが一番多いが)、電話やハガキ、封書でも届けられている。正直、嬉しいし励みにもなる。ありがたい思いでいっぱいだ。

 ところが、当のNHK弘前ギャラリー企画「厳冬の岩木山」写真展では、次のようなことに出会った。

 それは…まるで駆け足のような速さで写真を見て…その上、「フィルムは何だ。」「きわめて普通のネガフィルムです。」「カメラは何だ。」「35mm用のペンタックスです。」「リバーサルフィルムでなく、大判カメラでもないんだな。」「はい。」「写真に手ぶれがあるな。」「…。」と言って帰った人のことである。
 私はその時、心底「失礼な人」だなあと思った。

 「見る」とは英語の「See」にあたるだろう。「see」は、「I see.」というふうに使われ、「私は理解した。」と訳される。つまり、日本語の「見る」という語にも「理解する」という意味があるわけだ。展示の56枚の写真と解説文を「駆け足の速さ」で見て、理解できるとは思えない。
 ところで、速さについては、この人を「通行人」と考え、ギャラリーを道路の「延長線」と捉えることで、あまり、「失礼」という感じはなくなる。道路というところはいろいろな人が歩くことが普通だからである。

 問題はその言い分である。 プロまたセミプロ級の人は「リバーサルフィルムを使用して、大判カメラで写す」のだそうだ。
 リバーサルフィルムとは高価で、そのままスライドプロジェクターで使用が可能なフィルムだ。
 大判カメラとは4cm x 6cmとか4cm x 9cmと大きくて広いフィルムを使用できるもので、どちらも全紙判やワイド4つ切り判という大きな写真に「引き伸ばす」のには好都合である。大きな写真に引き伸ばすと、少しの「手ぶれ」も「拡大」されるから、プロまたセミプロ級の人はそれを防ぐために、カメラを固定させる「三脚」を使うことになる。
 私のすべての写真(デジタルカメラ以外)は、すべて安価で誰でも使えるきわめて普通の「35mmのネガフィルム」で、いつもカメラは首に提げて、手持ちで写したものである。
 「厳冬の岩木山」のみならず、花でも野鳥でも、動物でもすべて三脚は使わない。花を写す時など、三脚を使うと周りの植生を、その分だけ押しつぶすことにもなるので、使わないことに決めたのである。
 ただ、手持ちであることからの「手ぶれ」を出来るだけ、少なくするために、シャッタースピードを高速にしてもいい「明るいレンズ」を使っている。

 この人(私が通行人と捉えたい人)は私の写真展「厳冬の岩木山」の主題と写し手の心情をまったく、理解しようともしていないし、理解もしていないと思える。
 理解していないが故に、使用している「カメラとフィルム」を「素人が使う普及品」と決めて、「手ぶれ」という技術的なミス捜しに終始したのだろう。
 写真展「厳冬の岩木山」の主題と私の心情は…、
「遠景の岩木山はいつでも見ることは出来る。だから厳冬でも見ることは出来る。しかし、遠景としての岩木山でなく、その中に入って見る近景は、そこに行かないと見ることが出来ない。しかも、実際に岩木山に入る人は多くはない。さらに、厳冬期の岩木山となれば、殆ど入山者はいない。仮にいたとしても、山頂まで辿る人は数名に過ぎない。その数名がすべて写真に写しているわけではない。市民の99%以上は見たことがない厳冬の岩木山を写真で紹介し、多くの市民に見てもらいたい。」
 …にあったのだ。

 写真技術を駆使して「技術的に素晴らしい作品」をみんなに見てもらおうという気持ちはさらさらない。猛吹雪の中をただ、自分の「足」で登り、その中で「手に持ったカメラ」で写したものを、一瞬の晴れ間に見せる岩木山の素顔を、厳冬の岩木山の事実を、みんなに見てもらいたいという思いだけであった。

 これは『NHK弘前ギャラリー企画「厳冬の岩木山」写真展』パンフレットの挨拶文にも、次のように書いてある。
 『 それは…岩木山は日常的に遠くから眺めることが出来る山だが、その現場に行ってみなければ、絶対見ることができないものやことがたくさんあるということ。遠くから眺めるだけでは「現場」を知ることが出来ないということ。現場で何が起きてどうなっているのかには関心の示しようがないということ等を…内包していることに因る。
 私はこれらを「見ることの横着さ」と言っている。「見ることの横着さ」は往々にして我々を現場に背を向けさせ、観念的主観に陥らせる。だが、この「見ることの横着さ」とは人の性(さが)であって攻められることではあるまい。
 間接的だが展示された写真に接して「ああ、厳冬の岩木山はこうなのだ。」と知ることで「見ることの横着さ」はいくぶん減少するのではないだろうか。津軽人が愛してやまない「岩木山」の遠くからは見えない部分に触れてもらえると幸いである。ただそれだけである。』
この人(私が通行人と捉えたい人)は、受付でもらえるパンフレットの挨拶文を読んでもいないし、写し手の心情を気づかないばかりか、まったく無視した言動をとったのである。
 この言動は、非常に失礼なものと私には映ったのである。

 主題(話題)と話し手(書き手)の心情を理解している、理解しようと努めている上での「感想や意見」はいくら自由な発想でも、決して失礼なことにはならないだろう。
 理解したい、知りたいと思うから、解らないことが自覚されるのだ。だから、次々と質問が湧いてくる。それが、いくら初歩的で幼稚な質問であっても、「失礼」とは縁遠い、その人の深慮からの心情であるはずである。
 この経験から学んだことは大きく多い。私も十分「言動」には気をつけなければならないと、肝に銘じたのである。