岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「一人で登山するな。」ということについて (その三)  

2007-04-15 06:13:19 | Weblog
 昨日の2007年度岩木山を考える会総会、参加者の皆さん本当にご苦労さまでした。例年同様に参加された方は少なかったのですが、初めて総会に参加された方からは、市会議員立候補者に『「弘前公園入場有料化」に対する考え方を問うアンケートを実施してはどうか』という意見が出されました。
 その他には「日本の天然林の管理を環境省に移管」署名について「入山規制をすべて撤廃」することを要求するような文言のあることは認められないという意見もあり、このことについては現在、会長がを取り扱っている機関に文書で問い合わせると同時に文言の訂正・削除を申し入れていることが報告されました。なお、その回答を待って、当会幹事会で引き続き検討することになりました。

 市議会議員選挙は今日、告示されます。昨日の総会で、「弘前公園入場有料化」には反対するということが昨年に引き続いて、決議されました。
 本会としては、「弘前公園入場有料化」に反対し、いったん「白紙」に戻し、2003年の有料化開始以前の議論に戻した上で、今、一度市民から多種多様な意見を聞き、見直すということ、または完全に撤廃するということを主張する候補者を支持することになるはずです。


(本題)

「一人で登山するな。」ということについて (その三)  

(承前)

 遭難は人の数を選ばない。むしろ、集団登山の中で、「助け合い」という名目で「非力を補ってもらうこと」が日常化して、「甘えの許容」などという「もたれ合い」があると、「自力に不足がある者」までが、他を頼みにして、出かけてしまうことがあるのではないだろうか。そうなると集団全体が「非力」化してしまい、それが「遭難」の接点になることは十分考えられることである。
 
 加藤文太郎の遭難死に「同行した仲間の非力を補うために、加藤が自力以上の力を出してきって、疲弊の上に判断を誤った」または、結果から見ると「同行者が加藤の足を引っ張った」ことがあったのではないかとも考えられるのである。

 先ずは、「一人でも歩けることが登山のすべてに優先する基本条件」であることを忘れてはならない。「自助努力と自己責任」を自覚出来る「個人」が集団を組んで登山をすることが一番大切なことである。

 遭難防止には「携帯電話の利用が便利」だとか、岩木山の雪崩遭難で二名の死亡者が出た時、「救助活動のスムーズ化のため雪上車用通路確保」が提起されたこともある。これも遭難・救助に関わる合理性と利便性だけに軸足を置いたものであろう。
 また、これらの主張や発想はラインホルト・メスナーや加藤文太郎を否定することになりはしないかとも考えるのだ。まあ、彼らのことだから気にもしないだろう。
 ところが、私のような凡人「登山者」にとっては、気になってしようがないので、このようなことを書いているのである。

 自動車道路等の建設と拡大は「自分の足でという不便さと苦労」から人間を解放し、登山口を限りなく高所へと押し上げている。
 これによって自分の足に自信のない者や都市感覚しか持ち合わせていない者でも頂上を目指すことが可能となった。
 それでも登山行動の中で何らかの「自助努力」を強いられた者は山から戻った後、自分がいくらかでも「生きた時間や空間を取り戻した」と感じているらしい。

 ある年の二月、悪天の八甲田山に入って遭難した者がいた。
この原因の根本はロープウェーが冬山経験がない上に、登山の準備性や自助努力に欠ける初心者でさえ標高1300mまで引き上げてしまうという便利にあると言える。

 この捜索・救助のために、「警察官、自衛隊員、山岳ガイドら総勢195人、複数のヘリコプターが出動」という多大な陣容と機動力が費消された。
 敢えて人命尊重に目をつぶるならば、実に「無駄なことをさせられた」と言えるのである。
 登山は命がけなことも含むが「趣味であり遊び」に過ぎない。その尻拭いに多数の大人が駆り出されることは正常な行為とは言えない。このような事実(この遭難の場合は単独でなく2名であったが)に基づいて「単独山行はしないで」という注文が捜索・救助側から出されるのである。

 私は「単独山行」が出来なくなると山岳会を脱退して、山登りを止めようと常々、考えている。40数年登山行為を続けてきたが、その時期も近いだろうと最近の自分を見てよく思う。
 人間は年をとるに従って、まず体力的に「自助努力と自己責任」の自覚が薄れるものだ。
 ところが、日本の登山界を牛耳るほどに数の上で多いのが、「体力的に自助努力と自己責任の自覚が薄くなりはじめた」中高年者である。しかも、登山経験の乏しい初心者がその大半を占めるという実態は、矛盾というよりも異常な事態なのである。