岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「一人で登山するな。」ということについて (その二)

2007-04-14 06:15:48 | Weblog
 今朝は次の「お知らせ」からはじめます。

 今日、14日は「岩木山を考える会」の2007年度総会です。15時から桜大通り「参画センター」で行われます。
会員の皆さん、是非参加して下さい。会員でない人の「参加」も可能です。「岩木山を考える会」とはどんな会でどのような活動をしているのだろうと関心をお持ちの方は是非、会場にお出で下さい。
 マスコミの方の参加も自由です。

 本題:「一人で登山するな。」ということについて (その二)
(承前)
 数年前に、頼まれて青森市の文化センターで「登山教室」の講師を勤めた。
その時、開講の挨拶で…
「一人で登山が出来るようになることを目標に、カリキュラムを組んでいます。実地登山は受講生として集団で出かけますが、基本的には登山は自助努力の世界ですから、一人一人の力量が高まることにねらいを置いて実施します。」と言った。
 私にとっては「登山教室」とは、教室自体の登山行動が目的でなく、「一人で山を歩けるための養成」上の一過程(プロセス)であったわけである。
 だから、大勢集めて、どこそこの山へ行くこととは違っていた。いわゆる、「ガイド」登山ではない。
「登山教室」がガイド登山であってはおかしい。基本的なカリキュラム(教程)に則った教育的な登山活動であるべきだろう。
 当然、登山教室を開講するセンターの「大勢集めて収入を得る」という営業的な目的に十分適うわけもない。私の意思にそぐわないことを自覚した。また、一通り「単独山行」が出来る教程を終えたので、講師は止めた。

 ただし、受講生がその後「単独山行」をしているかどうかは解らない。していなくても自助努力を中心に置いて登山をしていると信じたいところである。

 いずれにしても「登山行動」の中で「講師」イコール「ガイド」という図式はおかしい。私は、自然観察会などの「講師」をやることがある。
 そのような時は、「観察ガイド」になるが、ここでのガイドと登山のガイドとは明らかに質的な違いがあるように思える。

 ところで、最近、山岳団体、警察・消防、山岳雑誌、ツアー会社、登山教室、マスコミ等が「遭難防止」を大前提にして、「単独山行」をまるで邪悪で禁忌すべきもののように取り扱う傾向が顕著だ。
 つまり、『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』などとキャンペーンをはっているという訳である。
 これは、救助隊などの発想で、『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』をそれ以外の組織・機関が受け売り的にたれ流していることでもある。

 『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』は「一人で歩きたくない」ことや「一人では歩けない」ことを口外せずに、複数名でする登山者たちの「言い訳」に利用出来るから、「一人で歩きたくない登山者」や「一人では歩けない登山者」にとっては「朗報」であろう。

 このキャンペーンには遭難と救助を結びつけ、救助の側からの視点に重きを置いた論点のすり替えがあるように思える。
 
つまり、こういうことだ。
 「単独山行」者の遭難は、広い山岳地帯における小さな「点」的な事象となる。その遭難に対応する捜索の面積は拡大し、それに比例して救助の出動回数は増加する。
 しかし、救助される人数は、「単独山行」者だから、トータルとしては相対的に少なくなる。広い範囲を、何回も出動捜索しても救助人数は少ないということは、合理背だけが求められる現代にあっては「不合理」この上ない。「労多くして効果少なし」というわけである。

 それに比べて、「集団・団体・パーティ」山行の遭難は、広い山岳地帯における大きな「点」的な事象になる。大きな「点」でから捜索面積は縮小し、それに比例して救助の出動回数は減少する。
 しかし、救助される人数は、「集団・パーティ」登山者であるから、総合的には多くなる。出動捜索の回数が少ない上に、救助人数が多くなるということは非常に、「合理的」なことで、「労少なくして効果多し」という現代が求める価値に適うのである。

 『単独山行は厳禁。絶対にしてはいけない。』という「指導的な助言」は一見、「人命尊重」の風を装ってはいるが、遭難・救助に関わる合理性と利便性だけに軸足を置いた主張だと私には思われてならない。

 本当に、人命を尊重しているのであれば「捜索・救助の合理性から考えると集団登山の方が望ましい。」とはっきり、その理由を言うべきだ。
 それを言わない以上、大事なのは合理性であり、人名尊重は二の次だと解釈されても仕方がないだろう。
 救助される側も、その「合理性」を見越していて、すぐ救助を依頼するのかも知れない。
 私なら、やはり「登山は自助努力の世界。自己責任の範囲で一人で登山をして下さい。」と言うはずである。

 ところで、いつも単独山行に徹していた加藤文太郎が遭難死した時には、同行者がいたのである。単独山行をしていた時にも、死に至るような遭難をしていなかったわけではない。何とか「自助努力」で生還していた。
 しかし、「初めて複数名で山行を組んだ時」に加藤文太郎は不帰の人になってしまったのである。運命の皮肉ということで片づけられない「意味」が潜んでいるように思えてならない。

 山は生きている。雪解けによる崩落現場では、一人だから落石があり、集団だから落石がないということはない。危険は等しく存在する。
 携帯電話を持とうが、通路があろうが遭難は存在する。多人数と少人数を問わず雪崩は起きる。雪崩に巻きこまれると「犠牲者」はどちらが多いかは小学生でも解る話しであろう。

 多人数で集団を組み、みんなが同じようになれば、一概には言えないが、遭難の形態も似たようなものになり、それに対応する救助方法やその他の事項が単一化されて、捜索・救助形態が容易になるだろう。
 しかし、このことにだけとらわれた「単独山行禁止」は偏った見方だと思うのである。
(その三に続く。)