昨日から四月になったとはいえ、山はまだ冬である。「雨の冬山には登ってはいけない。雨降りの中で行動してはいけない。」というのが冬山登山の鉄則だ。それを厳守して昨日の登山はとり止めた。
例年だと、この雨を降らした低気圧が太平洋に抜けると、気温が下がり、強風が雪を交えながら吹き荒れ、雪面の氷雪を剥ぎ取りながら吹きつけるのだ。これを受けたら「撤退」しかない。四月の上旬に、この鉄則を守らなかったばかりに手ひどい仕打ちを何回も受けていた。
今頃になると吹き溜まった雪は、何層にもなって硬くなっている。山頂近くでは、強風が積雪を剥いで削り取るということはあまり知られていない。
ある年の四月二日、この時季の風は尋常ではないほど強い。頂上直下で、四角片の雪層の絨緞爆撃にあった。四角い雪層が風上から機銃弾のように飛んでくる。背を向けて屈むだけで動けなかった。風が雪の層を剥ぎ取り、それが「円盤」のように飛んで来るのだ。
目を開けていられないばかりではない。風を背にしても、後頭部にその「円盤」の直撃を食らうと、立っていられなくなってしまう。
撃ち所が悪いと、気絶し、凍死してしまうかもしれないし、滑落し全身打撲か全身擦過傷であの世往きは間違いない。
一九七四年四月二十一日早朝、、弘前南高校山岳部一年生I君が岳登山道尾根で死亡した。新人歓迎登山であった。山頂を目指して登山を開始。バスタ-ミナルで大休止、風が次第に強くなる。天候を見ながら種蒔苗代に向かい噴火口のへりまで登る。経験したことのないような強風に阻まれて、下山を始める。そして、その途中の事故であった。 私もその時、五所川原工業高校山岳部の顧問として部員生徒と一緒に岩木山に入っていた。だから、弘前南高校山岳部と同じ体験をしていたことは言うまでもない。
体験上、これまでは、四月の岩木山は大体、十日周期で大荒れとなっている。しかし、今年は、かなり違うようだ。昨日は静岡で三十度を越えたという。やはり、おかしい。
一月から三月までの間に、岩木山の、いわゆるスキー場のない尾根で、しかも夏場に「登山道」のある尾根を登ろうと計画していた。残っているのが鰺ヶ沢町松代地区石倉から、追子森を経て、西法寺森鞍部から山頂に向かう「大ノ平」ルートであった。
この「大ノ平」ルートは、かなり伐られてはいるが高木のブナ林の中をを進む。ブナが途切れて、コメツガの老木が出てくると間もなく追子森である。この途中の追子森までは一応道がある。追子森の山頂は巨岩が林立していて、社(やしろ)があるので、地元の人が参拝するからである。
しかし、参拝する人も最近とみに少なくなった。時々、この巨岩の上にはワシタカの餌食となったウサギの死骸があったりする。それほどに「人が行かない場所」と言うことである。
そこから先は、鬱蒼とした根曲がり竹の藪で、密生している場所では竹の弾力で逆に人が弾き飛ばされるほどである。
十年ほど前まではまだ、踏み跡をたどることが出来たが、一昨年から昨年にかけては踏み跡はほぼ消えている。この追子森の山頂から、長平登山道の分岐までは戦後間もなく、西北津軽地域の登山愛好者が組織した岩木山岳会が開鑿(かいさく)したと聞いている。
しかし、開鑿した当該山岳会が、「大ノ平」ルートの「廃道化」をくい止めるための手だてを講じているとは思えない。
だが、私は何もこの問題で「岩木山岳会」を批判しているわけではない。全国的に共通する最近の山岳会事情が、アフターケアを難しいものにしていることは否めないからである。
その共通する最近の山岳会事情とは、アルピニズムの衰退にはじまり、バリエーションルートの開拓などに取り組もうとするフロンティアスピリットの欠如、ホームマウンテンとホームルートの保持と保守する気概の欠如、みんなが行くところに大勢でぞろぞろとくっついて出かけることなどである。
例年だと、この雨を降らした低気圧が太平洋に抜けると、気温が下がり、強風が雪を交えながら吹き荒れ、雪面の氷雪を剥ぎ取りながら吹きつけるのだ。これを受けたら「撤退」しかない。四月の上旬に、この鉄則を守らなかったばかりに手ひどい仕打ちを何回も受けていた。
今頃になると吹き溜まった雪は、何層にもなって硬くなっている。山頂近くでは、強風が積雪を剥いで削り取るということはあまり知られていない。
ある年の四月二日、この時季の風は尋常ではないほど強い。頂上直下で、四角片の雪層の絨緞爆撃にあった。四角い雪層が風上から機銃弾のように飛んでくる。背を向けて屈むだけで動けなかった。風が雪の層を剥ぎ取り、それが「円盤」のように飛んで来るのだ。
目を開けていられないばかりではない。風を背にしても、後頭部にその「円盤」の直撃を食らうと、立っていられなくなってしまう。
撃ち所が悪いと、気絶し、凍死してしまうかもしれないし、滑落し全身打撲か全身擦過傷であの世往きは間違いない。
一九七四年四月二十一日早朝、、弘前南高校山岳部一年生I君が岳登山道尾根で死亡した。新人歓迎登山であった。山頂を目指して登山を開始。バスタ-ミナルで大休止、風が次第に強くなる。天候を見ながら種蒔苗代に向かい噴火口のへりまで登る。経験したことのないような強風に阻まれて、下山を始める。そして、その途中の事故であった。 私もその時、五所川原工業高校山岳部の顧問として部員生徒と一緒に岩木山に入っていた。だから、弘前南高校山岳部と同じ体験をしていたことは言うまでもない。
体験上、これまでは、四月の岩木山は大体、十日周期で大荒れとなっている。しかし、今年は、かなり違うようだ。昨日は静岡で三十度を越えたという。やはり、おかしい。
一月から三月までの間に、岩木山の、いわゆるスキー場のない尾根で、しかも夏場に「登山道」のある尾根を登ろうと計画していた。残っているのが鰺ヶ沢町松代地区石倉から、追子森を経て、西法寺森鞍部から山頂に向かう「大ノ平」ルートであった。
この「大ノ平」ルートは、かなり伐られてはいるが高木のブナ林の中をを進む。ブナが途切れて、コメツガの老木が出てくると間もなく追子森である。この途中の追子森までは一応道がある。追子森の山頂は巨岩が林立していて、社(やしろ)があるので、地元の人が参拝するからである。
しかし、参拝する人も最近とみに少なくなった。時々、この巨岩の上にはワシタカの餌食となったウサギの死骸があったりする。それほどに「人が行かない場所」と言うことである。
そこから先は、鬱蒼とした根曲がり竹の藪で、密生している場所では竹の弾力で逆に人が弾き飛ばされるほどである。
十年ほど前まではまだ、踏み跡をたどることが出来たが、一昨年から昨年にかけては踏み跡はほぼ消えている。この追子森の山頂から、長平登山道の分岐までは戦後間もなく、西北津軽地域の登山愛好者が組織した岩木山岳会が開鑿(かいさく)したと聞いている。
しかし、開鑿した当該山岳会が、「大ノ平」ルートの「廃道化」をくい止めるための手だてを講じているとは思えない。
だが、私は何もこの問題で「岩木山岳会」を批判しているわけではない。全国的に共通する最近の山岳会事情が、アフターケアを難しいものにしていることは否めないからである。
その共通する最近の山岳会事情とは、アルピニズムの衰退にはじまり、バリエーションルートの開拓などに取り組もうとするフロンティアスピリットの欠如、ホームマウンテンとホームルートの保持と保守する気概の欠如、みんなが行くところに大勢でぞろぞろとくっついて出かけることなどである。