岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

昨日は「花」三昧の一日だった。 公園のサクラ (その二)

2007-04-25 09:37:56 | Weblog
 昨日は「花」三昧の一日だった。公園のサクラ (その二)

 万葉集の時代にも桜は人々に愛されていたようで、四十五首も登場する。

・あしひきの山桜花日並(なら)べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(万葉集巻八・山部赤人)
「もしも山の桜が何日も咲いているのだったら、こんなに恋しいとは思わないでしょうに。」とでも訳されようか。
・春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも (万葉集巻十・読み人知らず)
「春雨(はるさめ)よ、はげしく降らないで。桜の花をまだみていないのに、散ってしまったら惜しいことです。」となろうか。
また、古今和歌集には、つとに有名な…
・世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
・ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀 友則)
…などがある。これらは解釈不要だろう。
サクラのことを万葉の時代は「山桜」とか「桜花」と呼んでいたが、平安の御代になると「桜」または、ひと言の「花」と呼ぶようになった。
 数え切れないほどある花の総称である「花」をもって「桜」としたのである。それほど桜への思いが強かったのだろう。他はたとえば、橘の花という呼び方をしていたのである。

 春を待つ、桜を今咲くか今咲くかと待つ。その落ち着かない心。そして忙しく散っていく花、それにまた落ち着かないでいる心は、昔も今も変わらない日本人の心である。
 ぱっと咲いてぱっと散る、その散り際の美しさ、はかなさも、日本人の心にひときわ響くようだ。桜の咲く時季は、新しいことに向かって人やものごとが動き出す季節。春が来たことを喜びながらも、散っていく桜には、なんだか切ない気分にさせられる。
 だが、ここに登場しているサクラは弘前公園に2500本以上もあるとされる「ソメイヨシノ」ではない。
 与謝蕪村の「山守の冷飯寒きさくらかな」という俳句もまた「ソメイヨシノ」を吟じたものではない。 

 「ソメイヨシノ」は漢字で「染井吉野」と書く。そのの歴史は新しく、幕末維新のころに登場した。サクラの世界ではまだ「青二才のひよこ」である。江戸の豊島郡、今の巣鴨あたりにあった染井村の植木屋が作ったものだ。命名は「染井村で産した、有名な吉野山の桜」ということだろう。
 この「ソメイヨシノ」は花を咲かせるが実をつけない。だから、花が終わると来年の花芽はすぐに「休眠」に入る。生命体にとって命がけである「子孫残し」を割愛して、そのエネルギーをすべて「咲いて散る」ことに傾注する。これが「ソメイヨシノ」である。
 「果実をつけない」というが、一本の木に数は少ないが一つ二つと実をつけているものも中にはある。定かではないが、これは何らかの理由で「他種の桜」と受粉して結実したものであろう。しかし、これはあくまでも「不妊」と同じで、その実(種)からは芽が出ないはずである。

その果実をつけず「種子」を残さない「ソメイヨシノ」は今や、全国のサクラの80%を占めているといわれている。
 80%を占めるに至ったのは戦前よりむしろ戦後だという。高度経済成長、列島改造論で地面は掘り返され、河川敷や公園や沿道には桜が植えられたことに因るのだそうだ。
 その意味では弘前公園のサクラも、どこにでもある大して「珍しくもない」戦後生まれのサクラということになるだろう。

 それでは、種をつけない「ソメイヨシノ」はどうして「増えていく」のだろうか。
「ソメイヨシノ」はすべて江戸時代末に染井村の植木屋が作った原木の「クローン」である。枝を切り取り、「接ぎ木」や「挿し木」で増やしていくのだ。「取り木」でも増えるかも知れないが、私はその道の専門家でないので詳しくは解らない。

 あまり当たらないが、気象庁は「桜の開花予報」を出している。
これは「ソメイヨシノ」の特性が「原木のコピー」なので同じ環境ならば「同時に咲く」ということに因っている。
 つまり、南に位置するAという気象的な環境と北に位置するBという場所の気象的な環境や条件が同じになると、「Bでも咲き出す」と予想して「開花予報」をしているのである。
ところが、「植物」はそんなに単純で単調なものではないし、「地域」的に見ても千差万別で「単一、同一化」という物差しは反故(ほご)になることが多い。「植物」も「地域」もみな、個性的で独創的な顔貌と特性を持っているものだ。
地域の個性や特性を無視し、気象庁などからの情報を鵜呑みにしてしまうから、弘前市の開花予想も外れに外れ、3回目を出すに及んだのだ。

                (このシリーズは、明日に続きます。)