岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

昨日は「花」三昧の一日だった。(その一) 公園のサクラ

2007-04-24 09:38:04 | Weblog
 昨日は「花」三昧の一日だった。まずはサクラである。次いでナニワズ、ミスミソウ、そして最後が、キュウリグサという次第だった。

 毎月第二と第四月曜日は「NHK弘前文化センター」で、「山野・路傍の花々を愛でる」という講座を開いている。
 別に開花にあわせたわけではないが「サクラ」が主題だった。サクラといえば「弘前公園」ということで、講座の導入部で次のような話しをした。
 今日はそのことについて書こう。
 まず、いつごろからサクラが植栽されたのかその歴史について簡単な説明とそれに関わる私のエピソードなどから入った。

 五代藩主、信寿(のぶひさ)の時代、1715年(正徳5年)京都から桜の苗木25本を持ち込んで城内に植栽したという記録があるというから、公園のサクラの歴史はここから始まったといっていい。
 その後1882年(明治15年)菊池楯衛(弘前のリンゴ栽培の祖といわれる人物)がソメイヨシノ1000本植栽している。
 1895年(明治28年)に弘前公園が開園しているが、ソメイヨシノは大体10年ほどで花を咲かせるから、この頃から「サクラと弘前公園」の関係が始まったのだろう。
さらに、1901年から1903年(明治34~36年)にかけてソメイヨシノ1000本を植栽している。
 その後、約80年の間にシダレザクラ、ヤエベニシダレ、昭和桜、八重桜などが植栽されている。
 また、その間の1956年(昭和31年)福士忠吉がソメイヨシノ1300本寄付している。
1989年、鷹揚園(弘前公園)が都市公園100選に選ばれ、昨年の2006年、弘前公園が日本の歴史公園100選に選ばれている。
 弘前市は弘前公園が「都市公園」とか「歴史公園」に選定されることを望んでいたわけある。これだと「自然公園的な要素」つまり、里山的な風情が年次的に減少する「整備」をするのは当たり前である。
 しかし、厳密には「サクラ」というバラ科の樹木は、他の多くの植物(草や木)と共存することで生命力を旺盛にしていくものなのである。「都市公園」や「歴史公園」に偏るとこの視点を見失ってしまうというものだ。

 今から30年ほど前、市民の間では「公園のサクラは5000本とか、いや6000本ある」ということが常識的に語られており、誰も疑念を持たなかった。私もその一人であった。
私の趣味の一つに「アマチュア無線」がある。
外国局との交信が主であって、外国との交信局数も約40,000局に達した。始めたころは無線「電話」が主体で、春になると交信内容が「弘前公園のサクラ紹介」であった。
 その中で「弘前市民はすばらしい公園を持っている。そこには約6,000本のサクラの木があり、毎年4月下旬から5月のはじめにかけて美しい日本一の花を咲かせる。日本一ということは世界一だろう。」というアナウンスを下手な英語やドイツ語、スペイン語で「胸を張って」したものである。
 ところが実際は2,500本から3,000本しかなかったというのだから大変な話しである。私は胸を張って「ウソ」と「誇大広告」を外国に向けてしていたことになる。私と交信をしたアメリカ人、イギリス人、ドイツ人の何人かは、その後、実際に弘前を訪れている。
 幸いにも彼らは「公園」のサクラの本数を数えてはいなかった。よかった。

 (30年続けたアマチュア無線は自分で設備のメンテナンスが出来なくなったので、2年前にやめて、無線局も閉局した。最初の10年間は無線「電話」での交信だったが、残りの20年間は無線「電信」での交信が中心となっていた。)

最新の画像もっと見る