たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夢と希望が消えていく

2022年12月09日 19時28分38秒 | 日記
撮影時のみマスクを外しております!

 あくまでもわたしの邪推ですが、どうやら、〇〇プロ主宰の公演は、マスクしていない舞台裏写真をSNSに投稿するときは、この注釈を必ずつけるようにというルールをキャストに課しているようです。東宝主催の公演ではそんなことしていなかった方々が、突然やりはじめてびっくり。主催者を確認すると〇〇プロ。子どもたちに夢と希望を届ける舞台を長年上演してきたはずのプロダクションが、間接的に子どもたちの虐待に加担していることに言葉がありません。キャストの方々のSNSをのぞくことはささやかな楽しみのひとつであり、応援したいという気持ちでいいね!をクリックしてきましたがもういっさいやめましょうか。

 私の中で最後の砦だった劇場も夢と希望の場所ではもうなくなっているのかもしれません。今まで夢と希望を届けてくれたキャストの方々を応援したい気持ちに変わりはありませんが、みなさまが命がけで舞台に立っていることに変わりはないとわかっていますが、マスクだらけの稽古場写真や映像もつらいばかり。

 そんなことぐらいと思う方は思うような些細なことかもしれませんが、マスクとワクチンは日本のコロナ茶番劇の象徴。正体がわからなかった2020年までは仕方ないですがここまできたら、ここまできたらコロナ騒動のゴールはワクチンは打たせること、コロナ騒動はワクチンを打たせるための壮大な茶番劇だということがはっきりしたと思います。国はどうやら本気で8回目までワクチンを打たせにかかってきています。未来ある子どもたちのために大人たちからマスクとワクチンをやめる以外にない、大人たちが意識を変えてこのコロナ騒動から降りていくよりほか日本のコロナ騒動を終らせる道はないと思います。

 コロナ騒動が始まったとき、一番最初に社会から不要不急と糾弾された舞台が過剰なカンセンショウタイサクに走っているのは無理からぬ面はあると思います。舞台を愛する者として応援してきましたが、意味のないルールを課すことはもはやマスクしていない人をまるで犯罪者のように扱う航空会社やデバートと根本は同じだと思います。社長が昨年みなさんワクチン打ってくださいとツィートしているのをみてしまいましたが、バリバリのコロナ脳のまま思考停止状態でしょうか。キャストの方々が職域で接種を実質強制されていなければいいですが・・・、考えたくありませんが舞台芸術緊急ネットワークは国からの圧とかあるのかなとか・・・、せめて宝塚だけは目をさましてほしいと願いいていますが・・・、もし蜷川幸雄さんがご存命だったらこの事態をなんとされるだろうかとふと思います。


 世界一マスクして世界一ワクチン打って世界一カンセンショウタイサクをしている日本が世界一の陽性者。それでもなお御用達学者たちは第八波だと煽り、国はモデルナワクチンの対象年齢を引き下げる始末。このままだと日本はカンセンショウタイサクで滅んでいくでしょう。生まれ前からの右足股関節脱臼のわたしはなす術がありません。コロナ騒動であらわになった日本の姿に言葉がありません。このまま生きていても気がふれてしまいそうです。



 ワクチン非接種、飛行機の搭乗以外はノーマスクを貫いている中川淳一郎さんの寄稿文、全文に同意します。


⇒日本がおかしいのはなぜかと考えると、それはわが国が「法治国家」ではないからである。日本は世界でも類まれなる「空治国家(くうちこっか)」なのである。韓国の「国民情緒法」によく似ている。


⇒一体この国は何がしたいのか? 「問題が起こらないこと」のみを重視し、娯楽も基本的人権も放棄したとしか考えられない異常事態である。それなのに、これに対して異議を呈すと「ルールを守らないならず者」と糾弾される。実にくだらない国に成り下がったものである。



2022年12月9日現代ビジネス、

「あばよ、日本…!「コロナに感染しないことが人生でもっとも大切」だと? こんな異常な国は出ていくに限る。」

https://gendai.media/articles/-/103067?imp=0

『土』より-11

2022年12月09日 01時21分50秒 | 本あれこれ





『土』より-7
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/0458354921833601790a5c20bdc306dd

「勘次はきわめて狭い周囲を有している。しかし彼のやせた小さなからだは、その狭い周囲と反発しているような関係が自然に成り立っている。彼は決して他人と争闘をひき起こしたためしもなく、むしろきわめて平穏な態度を保っている。ただ彼らのような貧しい生活の者は相互に猜疑(さいぎ)心と嫉妬との目をそばだてている。勘次は異常な労働によって報酬を得ようとする一方に一銭といえども容易にそのふところを減じまいとのみ心がけている。彼らのような低い階層の間でも相互の交誼(こうぎ)を少しでも破らないようにするのには、そこには必ずそれに対して金銭の若干が犠牲に供されねばならぬ。絶対にその犠牲を惜しむものは他の憎悪を買うに至らないまでも、相互の間は疎略にならねばならぬ。しかしそんなことは勘次を苦しめてそのさもしい心のある物を挽回させる力を有していないのみでなく、ほとんどなんの響きをも彼の心に伝うるものではない。彼はただその日その日の生活が自分の心にいくらでも余裕を与えてくれればとのみあせっているのである。彼の心を満足せしめる程度は、たとえば目前にある低い竹の垣根を破壊して一歩足をその域内に跡つけるだけのことに過ぎないのである。しかも竹の垣根は朽ちている。朽ちた低い竹の垣根はその強い手の筋力をもって破壊するになんの造作もないはずであるが、手の先端を触れしめることさえできないでいるのである。

彼は長い時間氷雪の間を渉った後、一杯の冷たい鶴瓶の水を注ぐことによって快い暖気をその赤くなった足に感ずるように、僅少(きんしょう)なある物が彼の顔面のひがんだ筋を伸べるに十分であるのに、彼はその冷水の一杯をさえむなしく求めつつあったのである。自然に形づくられている階級の相違を有している者または長い間彼の生活の内情を知悉(ちしつ)している者からは彼は同情の眼をもって見られているけれども、こせこせとしたその態度と、狐疑(こぎ)しているいるようなその容貌とはそこにあえて憎悪すべき何物も存在していないにしても到底彼らの仲間のすべてと融和さるべきゆえんのものではない。彼は彼らの仲間にあっては、幾たびかいいふらされているごとく水に落とした菜種油の一滴である。水が動く時油は従って動かねばならぬ。水が傾く時油はまた傾かねばならぬ。しかし水が平静の度を保つ時油はさらに恐れたように一所に凝集する。両者の間には何らその性質を変化せしむべき作用の起こるでもなく、それは水が油を疎外するのか、油が水を反発するのかついに溶け合う機会がないのである。これを攪乱(こうらん)する他の力が加えられねば両者はただ平静である。村の空気が平静であるごとく、勘次と他のすべてとの間もきわめて平静でそれで相容れないのである。勘次はその菜種油のように櫟妃林(くぬぎばやし)と相接しつつ村の西端に僻在(へきざい)して親子三人がただ凝結したような状態を保って落ち付いているのである。」


(長塚節(たかし)『土』、1970年月16日第1刷発行、1978年12月10日第9刷発行、岩波文庫、154-155頁より)