たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

色んな朝があった

2014年06月30日 22時46分00秒 | 日記
TBSのインターネットラジオOTTAVAが今日で終了します。

OTTAVAと出会ったのは2008年のフェルメール展(東京都美術館)がきっかけだったと思います。

去年の春までOTTAVA frescoという朝の生放送を担当されていた本田聖嗣さんが
最後ということで夜の時間帯に登場されています。

朝7時頃に起きてから出かけるまでの1時間余り、
あれやこれやと仕度をしながらの聞き流しでしたが、いろんな朝があったことを思い出しました。
全身黒の服で身を包んで鎧をまとわないと職場に行くことができなかった朝、
辛くって苦しくってそれでも生活があるので己に鞭打って出かけた、
数えきれないほどたくさんの朝、
本田さんの声とクラシック音楽にずいぶん助けられました。

夜に聴くのはちょっと不思議な感じですが、懐かしいです。

ちょっとつぶやきでした。



『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より

2014年06月30日 09時45分51秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「2013年1月22日(水)日航機墜落で9歳の男の子を亡くしたお母さんの本をむさぼるように読む。涙があふれて仕方ない。」

「2013年1月27日(日)『日航機墜落事故 朝日新聞の24時』を息を呑むようにして読む。」


今あらためて共鳴し、また考えさせられるところを少しずつ紹介させていただきたいと思います。

「(「この事故の実態と真相を公開の法廷で明らかにしたい」という遺族の要望書に賛同する)署名活動をしている最中の1989年8月12日、8.12連絡会は、前橋地方検察庁検事正宛と東京地方検察庁検事正宛に、要望書を提出した。

 単独機として、航空機史上最多である520人という犠牲者をだし、世界中の人々を震撼させた事故の公訴時効まで、1年を残すだけとなった。こんな大事故がどうして起きたのか、520人の命を取り戻すことができないのなら、せめて、再び同じ原因によって尊い命を犠牲にさせたくないという気持ちだった。事故から4年目のこの夏は、多くの仲間と気力をふりしぼって、忙しい日々を過ごした。

 しかし、マスコミは、この年の9月には、一斉に検察の不起訴処分が決定したとの報道を流した。そんな状況下、検察庁では9月29日に高検、地検の合同捜査会議が開かれ、米国への検事2名の派遣を決めている。

 私はさらに、「この事故の真の原因を、公開の法廷で明白にしてほしい」という内容の投稿を1989年10月19日の毎日新聞にした。

 万人に公開される裁判という場で、事実関係と責任の所在が明らかにされ、再発防止につながることを望んだ。起訴はあくまで「真相と責任を明らかにする入り口」と思っていた。そして、前橋・東京両地検が、事件の真相の解明に向けて、適正かつ迅速な捜査をされるよう望んだ。

 修理を担当したボーイング関係者については、氏名不詳ということだったが、修理指示書の上では明らかになっている。社内では人物は特定されているはずだ。それなのに、何故、その4人に直接話を聞いて事件の真相を明らかにすることができないのか。国が違うという理由で真実に手が届かないことに、私はあせりを感じていた。遺族からは、「できるかぎり真実にせまってほしい」、「検察は、起訴した以上、有罪にならなければ検察の権威に関わると思っているかもしれない。しかし、日本の検察が有罪率99パーセントを誇っているのが変だ」の声が寄せられる。

 ボ社の修理作業員からの事情聴取は、数次にわたる検事の派遣によっても実現していないようだった。

 捜査は、1207日に及んだ。

 1989年11月22日、検察の下した結論は、全員不起訴だった。

 事故の責任は、誰も問われなかった。だが、現実に何らかが原因で520人は死んでいったのだ。捜査が不起訴になったことについて、県警特捜の品川正光さんは、「不起訴理由は嫌疑不十分で、過失がまったくなかったということではない。航空関係者は、この事故が防ぎ得た事故たっだということを十分認識し、航空機の整備、点検に限りない努力をして事故防止を図ってほしい」と話した。

 しかし、たとえ事故を捜査した警察がそう言っても、不起訴になってしまったら、安全のために論議を交わす機会がなくなってしまう。企業は人命軽視の思想を温存させてしまうのではないかと危惧し、やりきれない思いがした。法律っていったい、誰のためにあるのだろうと思った。ごく普通の市民の生活や命が守られるためにあるはずなのに。法律を守り日々生活している善良な人たちの暮らしを守るためにあるはずなのに。市民の感覚をもっと取り入れて行く司法の仕組みが必要だと思った。

 時代は、変わりつつある。技術も産業も、そこで起こる事故も、今までのものとは違う。個人の責任だけを問い、組織の責任を問うことができない業務上過失致死罪には、限界がある。個人の責任は、肥大した組織の中に埋没してしまっているのだから。法は、時代の変化に追いつかなければならないのに、法と現実が遠ざかっていると感じた。また、航空機産業に国境の壁はないはずなのに、事故の責任だけは、国境の壁に阻まれて問えない。国家間の法体系の違いも、責任追及における限界を生んでいた。

 このまま不起訴になると、群馬県警や前橋地検が、これまで蓄積したキャビネット30個に及ぶ膨大な調書・写真・証拠品などの捜査資料が生かされない。何としても、事故調査の膨大な資料を生かしたいと思った。

「安全」は、どうしたら守れるのだろうか。事故原因の真相究明は、刑事責任を追及する公開の法廷では無理なのだろうか。事故調査と刑事捜査の区分を明確にすることへの議論を高めたいと思った。」

(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』2010年6月25日新潮社発行、115-118頁より引用しています。)

 

『モンゴメリと花子の赤毛のアン展』

2014年06月29日 16時34分17秒 | 『赤毛のアン』
5月27日に三越で開かれていた『モンゴメリと花子の赤毛のアン展』に行ってきました。

モンゴメリさんと村岡花子さんの生い立ちには、色々と共通点があるんですね。

『赤毛のアン』との出会いは、高校生の夏、昭和29年7月20日発行の村岡花子訳『赤毛のアン』(新潮文庫)でした。
原題は、『Anne of Gables』(グリーンゲイブルズ農場のアン)。
『赤毛のアン』と翻訳のタイトルがなったのは、花子さんの娘さんの発案によるものという紹介もありました。

手元にある本を見ると、帯に「フジテレビ系放映中」とあります。テレビアニメで放送されて
いた頃でもあるんですね。
夢中になって、シリーズ10巻を読破し、モンゴメリさんの自叙伝『険しい道』を繰り返し、繰り返し読みました。モンゴメリさんの教員生活を送りながら、詩や小説を書き続ける姿に憧れ続けました。

18歳で銀行に就職してからも海外に行くなど夢のまた夢のようで、いつかプリンス・エドワード島に行きたいと思いながらも全く現実感はありませんでした。

家族の中がざわざわしてくるようになって、いつの間にか『赤毛のアン』は心の奥の方にしまいこまれていきました。

母の病気と妹との突然のお別れ。必死に生きる日々でした。

モンゴメリさんの孫のケイト・マクドナルド・バトラーさんが、モンゴメリさんはうつ病のため睡眠薬の過剰摂取で自殺したと正式に発表したという記事を数年前に雑誌で偶然読みました。この記事を読んだ後、あれほど繰り返し繰り返し読んだ『険しい道』を手放しました。二度と『赤毛のアン』に触れることはないと思いました。
(今手元に持っている『険しい道』は、インターネットの中古販売で購入したもので、高校生の私が読みこんだものは、どなたかが大切にしてくださっていればと思います。)

再会したのは、英会話「『赤毛のアン』への旅」を偶然みたことがきっかけでした。
それから、原書で読むセミナーに参加するようになり今に至ります。
仕事量オーバーワーク状態のきつさもかなり限界に来ていた頃で、振り返ってみると土曜日の午後早めの時間に都心に出るのはきついものがありました。忙しさから申し込んだつもつもりが実は申し込んでいなかったのに、申し込んだつもりで単語帳が届かないと連絡して主催されている方に迷惑かけたこともありました。(今さらですが申し訳なかったです。)
体はきつかったですが、原文を読むことは私の心の糧になっていきました。

心のお休み時間を求めて2009年7月には初めてプリンス・エドワード島への旅にも出ました。大手旅行会社の個人プランを利用して、往復は一人、現地の日本人ガイドさんがお世話をしてくださいました。

この時、モンゴメリさんが『赤毛のアン』と『アンの青春』を書いた家の跡で、ジェニー・マクニールさんにたまたまお会いしました。
(ジェニーさんの夫のジョンさんは、モンゴメリさんを育てた祖父母のひ孫にあたります。
JTBパブリッシング、松本侑子著『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』41頁を参照。)

おぼつかない英語で声をかけさせていただいて本当に失礼でしたが、マクニールさんが話してくださった中に、ジャーナルという言葉が繰り返し出てきました。モンゴメリさんはこの家でジャーナルを書いたということを話してくださったのだと思います。そのジャーナルが今回展示されていて、大きな日記帳のことだったとようやくわかりました。マクニールさんは、一緒に写真も撮ってくださいました。

プリンス・エドワード島の穏やかな景色は、ささくれだった心のエネルギーを満たしてくれました。(そろそろ旅日記を載せて行こうと思いながら、なかなかです・・・。)


テレビを処分してしまったので、『花子とアン』のドラマは観たことがありませんが、
オープニングで毎回プリンス・エドワード島の美しい景色が映るとのこと。
そう私に教えてくださる方には、島に行けば本当にそんな美しい景色が広がっていますよ、
と答えています。


気がついたら長くなっていました。


今さらどうでもいいことですが、三越で洋食器販売の仕事をしたことがあります。今回行った三越だったかどうかはよく思い出せませんがたぶんそうだったと思います。妹とのお別れが訪れる前、愚かだった頃のことでした。







寺田寅彦著『天災と国防』より(2)

2014年06月28日 15時38分41秒 | 寺田寅彦著「天災と国防』
巻末の畑村洋太郎さんの解説より引用します。

「今回の東日本大震災でも、日本の社会が内部基準を持っていないことの弱さがあちこちで露呈しているように見える。風評に踊らされて必要のないものを買いだめしてみたり、その反対に放射能汚染を恐れてさほど危険性のない農産物や海産物まで敬遠している人々の姿はその典型である。また深刻な状態がいまなお続いている「福島第一原発」のケースにしてもそうである。この事故は、東京電力という会社が内部基準を持っていなかったことに起因しているように見える。

 寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性がある」と書いているが(「災難雑考」)、福島第一原発の事故は、これとは反対に人間の力で被害を大きくしているケースであるといえる。事故のきっかけになった津波は、確かに避けることができない自然現象である。しかしながら、東京電力が事前の措置とその後の対処を誤らなければ、これほどまでに問題が大きくなることはなかったと思えるからである。

 私はここで東京電力のことをことさら責める気はない。ただし、そこから多くの人が学ぶことができるように、失敗の中身はきちんと明らかにしておきたいと考えている。東京電力のそもそもの過ちは、外部基準のみに極端に頼ってきた姿勢にあるのだ。それは簡単にいうと、
「国が示している基準にだけ従っていればいい」という態度で原発を運営していたから、ここまで問題が大きくなってしまったということである。

 外部基準への極端な依存は、じつは福島第一原発だけの問題ではない。これは日本の原発すべてが抱えている共通の問題として見なければならない。背景には、日本全国で行われている原発反対運動という大きな縛りがある。どこもそうだが原発を運営する電力会社は反対派に対抗するために「原発は絶対に安全」という建前を貫き、その根拠を国の基準に求めて、これを盾にするようなことをしてきた。外部基準に極端に依存する電力会社の姿勢は、このようないびつな運営を強いられてきたことにそもそもの原因があるのかもしれないが、だからといって
電力会社の過ちが許されるということではない。

 技術論でいうと、原子力はかなり安全なものになってはいるが、基本的な視点が欠けているように見える。それは安全の実現手段は、基本的に「制御安全」に依存し、「本質安全」の考えを取り入れられていない点である。失敗やトラブルが起こったとき、自動的に安全の側に働くような仕組みをつくらず、制御技術によってコントロールしようとしていたのである。制御安全のみに頼る方法は、想定外の問題が起こったときには非常にもろいが、このような基本的な問題があるのに、建前としての安全を真実安全だとして議論をしていたことが問題なのである。

 私は「原発は絶対に安全」というのは、単なる建前だと思っていた。しかし原子力を運用する組織が本気でこれを前提に動いていたら、これほど危険なことはない。実際、東京電力の場合はそのような姿勢で動いていたように見えるが、それが福島第一原発の深刻な事故に結びついたとすると当然の成り行きとしかいいようがない。

 安全対策というのは、危ないことを前提に動いているから効果のあるものになる。安全であることが前提になると、管理が形式的なものになって意味をなさなくなってしまうのだ。それでも国から与えられた外部基準、すなわちマニュアルがあればなんとかなると思うかもしれないが、マニュアルは想定している条件の中でのみ力を発揮する。今回のような想定外の問題が生じたときには非常に無力なのである。

 想定外の問題が起こったときに正しく対処を行うには、進むべき道を自分で考えるための内部基準が必要になる。ところが、東京電力の場合は、この内部基準つくりをまったく行っていなかったように私には見えてならない。福島第一原発では、すべての電源が喪失するという想定外の問題が生じたとき、だれもなにも手を打たず、専門知識のある者なら当然予想できたはずの水素爆発が起こるのを許してしまった。そう考えると、この事故は想定外の問題に対処できるための内部基準を備えることを怠った「組織不良」によるものであるのはまちがいないのである。

 内部基準を備えることは、安全対策の強化にそのままつながる。これを使って仮想演習や逆演算などの見方で起こりうることのシュミレーションを行えば、じつは起こさせたくない最悪の出来事を回避するのはそれほど難しくない。東京電力が日頃からやらなければならなかったのは、「悪意の鬼」になったつもりで原発に深刻な被害を与えるシュミレーションを行うことだったのである。

 かつて十万人以上の死者を出した1945年3月10日の東京大空襲は、米軍が江戸時代の大火や関東大震災による大火で学んで風の強い日を選んで空襲を行った結果とされているが、原発をあらゆることから守るにはこのような発想でシュミレーションを行うことも必要だったのである。そして考えられる最悪の事態を想定し尽くし、同時にそれを回避するための方法を検討していれば、深刻な事態になる前に様々な手を打てるし、組織としてあれほどまでの大きなダメージを受けることも防げただろう。」

(『天災と国防』講談社、2011年6月9日発行、197-198頁より引用しています。)

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重大事故の主要な共通要因として以下のような点が挙げられる。

・スケジユール(工種)優先
・会社に損害を与えたくないという使命感
・疑目を感じつつも(楽観し)、確認・再考しない
・手順・標準通りしないことが日常的になっている
・最大の滞在リスクに対するな意識低下
・個人・階層間・組織間のコミュニケーションが疎
・チェックする立場の管理者の独断・多忙
・安全バリアの経慢な後退・無力化
・通常とは違う状況(切迫感を与える状況)
・過去のニアミスの教訓を学んでいない

技術的な問題は起こっておらず、全て人の問題、組織の問題である。


この話は、2011年秋慶応義塾大学公開講座で「組織事故防止に向けた安全文化醸成に向けた戦略的取り組み」として聴いた内容です。


組織が過ちに蓋をしようとする時、個々人とは関係なく組織というものに働く得体の知れない力ってなんでしょう。(蓋をしようとすればするほど傷口は深くなっていくのにそれに気づかない・・・?!)
今それを的確に表現する私自身のことばも引用も見当たりませんが、本質はどの場合も
同じなのかもしれません。
私なりに考えて行きたいと思います。


秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(5)

2014年06月27日 10時11分10秒 | プリンスエドワード島への旅
きったまたプリンス・エドワード島が私を手招きして呼んでくれる日も訪れる、
そう信じて今をやり抜いていこうと思います。


ここに行かないと味わうことのできない、夢の中にいるような時間でした。
吹きすさぶ風はかなり冷たかったです。




秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(4)

2014年06月26日 14時25分08秒 | プリンスエドワード島への旅
橙色の夕陽がゆっくりゆっくり沈んでいきます。

雲は紫色、ピンク色、日本では見られない光景ですね。




自作童話『コスモスゆれて』(1)

2014年06月25日 15時52分33秒 | 自作童話
高校三年生の頃に書いた童話の下書き原稿が出てきたので、何回かに分けて書いてみます。
もう出てこないとあきらめていたので、残っていたとわかって嬉しいです。

市の文芸際で入選しました。入選作自体はコピーを取っておくなど高校生の私が思いもつかなかったのでありませんが下書き原稿とほぼ同じだったと思います。

新潮文庫の百冊で村岡花子訳の『赤毛のアン』に出会い、アン・シリーズ10冊を読破。

その後、モンゴメリさんの自叙伝『険しい道』を繰り返し、繰り返し読みました。
教員生活を送りながら、詩や小説を書き続け、出版社に送り続けた姿にあこがれました。

書くことが大好きで、アン・シリーズに触発されて心から楽しんで書いた作品です。
夏休み、縁側で汗をかきながら書いたことを今でもおぼえています。

実につたないものですが、よろしかったら読んでください。

家族は幸せだと思っていた高校三年生の夏。
その記憶は大切に私の中にしまっておこうと思います。


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「絶対にいけません」

父さんはきっぱりといった。

「だってみんないくんだよ、よっちゃんもケンちゃんも、よういちくんも、どうしてぼくだけ行っちゃいけないの」

 マサオは、けんめいにいいはった。

「そんな朝早くから汽車の写真をとりにってけがでもしたらどうするんだ」

「そうよ、ブルートレインなんて別に明日でなくったってみることできるんだから。それに、マサオちゃん、そんなに早く起きられないでしょ」

 マサオは、がっくりと頭をたれた。父さんと母さんの意見が一致していることは明らかだった。明日の朝、ブルートレインの写真をとりにいくことはあきらめなければならない。マサオは、父さんと母さんをじっとにらみつけた。二人とも憎らしいほどに平気な顔をして夕食を食べている。マサオの目は怒りでいっぱいだった。

 マサオとよっちゃんとケンちゃんとよういちくんは、大の仲良し、そして、みんな汽車や自動車が大好きなのである。マサオたちの通う小学校の近くには線路が走っている。午後四人は、運動場であそんでいた。そのとき、ケンちゃんが、線路を指して「あそこを毎朝四時ごろ、ブルートレインが通るんだぜ。そいで、ぼく、あしたの朝写真をとりにいくんだ」、と得意顔でいった。「すごいなあ、ぼくもいきたいや」。みんなが口々に言った。

「じゃあ、みんなで行こうよ。明日の朝三時半に線路んとこへ集まるんだぜ」

 マサオの心はうきうきとした。明日の朝が待ち遠しくてたまらなかった。父さんにカメラを借りよう、きっとすばらしくてすてきな写真がとれるにちがいない。ところが、たった今にべもなくいけないと言われたのだ。父さんも母さんも汽車のことなどてんで問題にならないという顔をしている。そうだ、さちこ姉さんならわかってくれるにちがいない。マサオはすがりつくように、さちこ姉さんのほうを見た。だが、姉さんはただ笑っているだけで、マサオに味方してくれるような気配は少しもない。さちこは、無邪気なマサオをながめて、かわいいもんだなと思っているのだった。だが、マサオは、子供扱いされているのだとしか感じない。

「このサラダもおいしいわよ、お食べなさいマサオちゃん」

 母さんがやさしく言った。

「そんなもんいらないや」

 マサオは叫んだ。

「あら、こんなにおいしいのに。もっとたくさん食べなきゃ大きくなれないのよ」

 さちこが、横から口をはさんだ。

「そうですよ、マサオちゃん、うんとたくさん食べて大人になったら、写真だって好きなだけとれるのよ。だから、明日はがまんしなさいね」

 母さんが言った。

生きていくって大変・・・

2014年06月25日 15時15分58秒 | 日記
まだまだ終わりは見えません。

自分の感性を信じていくしかないですね。

これからどうやって生きていけばいいのか・・・。

普通に生きていくってむずかしいですね。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(9)

2014年06月24日 13時18分44秒 | 東日本大震災
「向き合うということ Iさん

6月12日からの続き

 何も無くなってしまった川下から、北上川を上って行くように、市内へと向かう。少しずつ残された建物が見えてきて、休憩する道の駅に着いた頃には、内地の穏やかな景色に戻っていた。ショッピングモールから、市内バスに乗り換え仙台駅へ向かう。また、傷痕が遠ざかって行く。市内に向かうバスからの景色は、どんどんと建物が増え、街が復興しているかのように錯覚してしまいそうだった。傷は、浅いものから少しずつ癒えて行ったのだな、とわかった。しかし、擦り傷と切り傷では何もかもが違う。表面をかするような傷と、肉をえぐりとるような傷・・・極端なその2つが、津波がここまで来た、という一線で分かたれていたのだ。僕はそんなことすら知らずにいたんだったな、震災の傷跡をどこも一緒くだに考えていたんだよな、と石巻に来る前のことを思い出していた。そんなことを考えながら、石巻での合宿は終わった。

 人のために、今度こそ動こう。そう思って石巻にやってきた。しかし、僕に何が出来たどいうのだろうか。物理的な話をしてしまえば、僕が行っても行かなくても、石巻は何も変わらず、少しずつ復興の道を歩むだけである。何をしてきた訳ではない。確かなことである。僕のおかげで被災地に家が建つとか、船が大漁で帰ってくるとか、そういうことはない。嘘をついても仕方ない。しかし、それでも石巻に行ったことは見えないところで僕を変えてくれた。空撮でしかなかったガレキを、目の前で見て、臭いを嗅いだ。日常の風景が、常識が、いかにして裏切られ、壊されていったかを直接教わった。そして、海の美しさと、その広さに身を委ねた。海が与えてくれる生きる力、そして海から生き残る力・・・それを感じた。こうして変わった僕は、石巻をこれから陰ながら応援することができる。石巻に起こったことを、あの地震で何が起こったのかをリアルに伝えることができる。そのことがいつかどこかで、未来の大川小学校を、家族を救うことになるかもしれない。これまでとはきっと見える世界が違う。日常の生き方が違う。僕はそういう力を貰えたと思う。きっと、余計な気負い無く、かつ親身に災害と向き合って行けるだろう。支える力になろうと思う。石巻の日常は壊れてしまった。しかし、日常とはなんだったのか。日々向かう風景こそが日常ではないのか。地震が来る前の僕達や石巻の姿も、地震が来たことも、復興のために立ち上がったこともすべて日常だったのである。被災地の人々は、今まっすぐに進んでいこうとしている。海から視線などを背けること無く、自然と向き合い、日々の生と対峙している。そのすがたを僕は見てきたのだ。石巻の人々は、日常がいつかの姿に回帰することも、新たな喜びが生まれることもすべて希望として前に進んでいた。僕も、自分の日常から、目をそらさずにいよう。これからは、日常が失われたなどと泣き言は言わない。何が起きたとしても、見てきたもの、今見ているものから逃げたりはしない。それが、僕が石巻の人々から受け継いだ力である。

 安藤さん、遊佐さんをはじめとする石巻の人々への感謝とともに、この文を結びたい。」


(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)

秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(3)

2014年06月24日 13時08分26秒 | プリンスエドワード島への旅
ゆっくり、ゆっくりと陽は沈み、雲が色と形を変えながらぐいぐいと流れて行きます。