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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ふんばる ふんばる

2014年02月27日 21時40分51秒 | 日記
今職場に行くのはすごくきつい。
2か月近く辛抱し続けてきて限界にきている。
いろいろとやりたいこともある。
でも、もう少し・・・。

ここでふんばることが今の自分の役割なんだと思う。
次になにをすればいいのかはまだわからない。

『木靴の樹』ストーリー(3)(1990年公開映画パンフレットより)

2014年02月25日 15時32分11秒 | 映画『木靴の樹』
 マッダレーナとステファノが結婚式を挙げた。彼らは荷馬車と小舟をつかって、ミラノへ新婚旅行に行った。ミラノの街は、労働者のストライキと、それを抑圧する軍隊とで騒然としいたが、ふたりはめざすサンタ・カテリナ修道院をたずねあてることができた。ここの修道院長であるマッダレーナの伯母の尼僧マリアをたずねてきたのである。その夜ふたりは、伯母の心づくしでわざわざベッドをふたつ、しばりつけてつくってくれたダブル・ベッドに眠った。

 翌朝、伯母は生後数カ月の赤児を抱いてあらわれた。この子は捨て子だった。ひきとり手には修道院から支払われることになっている仕度金をつけるから、この子の親になってもらえまいかと頼まれ、マッダレーナはひきうけることにした。

 農場の誰もが、新婚夫婦がミラノの修道院から授かった赤ん坊を見に来た。「もしかしたら、この子には高貴な血が流れているかもしれないよ」と言う者があったが、ドン・カルロ神父はそれを制し、いましめた。「この子は百姓のことなるのだ。大切なことは、みんながこの子を愛してやることだよ」。

 河沿いの並木から1本だけポプラの樹が伐あられていることが、ある朝、地主の目にとまった。地主は土地管理人に言って、その犯人を追求させることにした。

 アンセルモおじいちゃんのトマトは、ベッティーナに予言したとおりに、ふたつの畑より一週間以上も早く、みごとに実を結んだ。おじいちゃんとベッティーナはトマトをつんで村に売りに行った。その年はじめての真っ赤なトマトを、みんなが珍しそうに見た。最初のお客になったのはパン屋だった。パン屋の店先に並ぶ砂糖つきのドーナッツはベッティーナには別世界の食べ物のようだった。

 その日の夕方、ベッティーナとアンセルモが農場に戻ると、バティスティの一家が、荷車になけなしの家財道具をつめこんでいた。ポプラの樹のことが地主にわかったので、農場を追われるのである。ミネクは、母親が夜なべして縫ってくれた学校用のカバンをしっかりとかかえていた。それはもう彼には必要のない物になるのだが。

 この悲しい光景を、見る者は誰もいなかった。荷車が去ったあと、農場の人々はやっと外に目を向け、夜の闇のなかに遠く去っていく小さな灯を見つめつづけた。


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ストーリィはこれで終わりです。
まだ書きたいことはあるのでぼちぼちと書いていきます。

信じつづける

2014年02月23日 21時19分52秒 | 日記
今日は乳幼児精神保健学会のセミナーに参加してきました。
終わってからW先生とお話させていただくこともできました。

今の状況は大変ですが、気を抜くことはできませんが、これからの人生に必ずやプラスに働く、そう思える1日でした。
どんな人に出会うかによって人生は変わってくる。
結局人なんだなあとあらためて思います。

一部の人だけが利益を享受するような今の仕組みはおかしい。
そう気がついている人たちでつながっていけないものかと思います。

職業として何かできているわけではないですが、自分の体験を発信していく。
それが私の大切な役割なんだろうと思います。

妹の分まで私が生きる。
そこがぶれないかぎり私大丈夫だと言いきかせます。

ふんばり続ける

2014年02月22日 16時20分33秒 | 日記
年明け早々の混乱は不当な雇止めとの結論にようやく至りました。
わけがわからないまま一方的に振り回されたはずです。

事実関係がわからないままじっと辛抱して仕事を続け、休みをとってはあちらこちらへ相談に行きました。
知ること、いつ誰が何を言ったのか-記録を残しておくことは大切だとあらためてわかりました。同じ窓口にいっても人によって対応もちがってきます。今のところ幸いなことに救われています。

生活をかけて10年以上一生懸命、非正規ですが正社員以上に働いてきました。
手続きを踏んでいくにはまだ時間がかかりますが、きちんと自分の中で精算できるように
したいと思います。

まだどうなっていくのかわからず気が抜けません。
これからのことを考えるのはそのあとでもおそくはないと言いきかせています。
私自身がどうしたいのか具体的には今はわからずフラフラしていて苦しいです。

法律と行政の手続きを理解するのはややこしくてなかなか大変です。
国家試験受験のために勉強したことが間接的にですが役に立っているように思います。

まずは自分自身のために、今の流れを最後までやり遂げようと思います。

自分の感性を信じ続けます。

浅田選手、笑顔で終われてほんとうによかったです。





『木靴の樹』ストーリー(2)(1990年公開映画パンフレットより)

2014年02月22日 15時40分55秒 | 映画『木靴の樹』
 ルンクの後家さんの家の末娘ベッティーナは、おじいちゃん子。アンセルモおじいちゃんのひみつを、彼女だけは知っている。おじいちゃんはニワトリの糞を集めて、雪が降るのを待っている。雪が降って大地が凍えても、ニワトリの糞をまいた地面だけは冷えないので、そこへ、春になったら、トマトの苗をうえて、一番トマトの収穫をねらっているのだ。「みんな、きっとビックリするだろうネ、おじいちゃん」。

 寒い冬の夜は、農場の人々は畜舎に集まって宵のひとときをすごす。女たちは編物をし、男たちはタバコを吸い、夜話をする。いちばんうまいのは、バティスティであった。
 しかし、バティスティには心配事があったーミネクに暖かい服をつくってやりたい。だが、妻にはもうじき、またひとり子供が生まれる。

 雪の日も、ルンクの後家さんは小川で洗たくをしていた。ドン・カルロ神父が傘をさしかけて言った。「6人のうち、2人の子を養育院に預けたらどうかね」。一家の窮状を見かねての、神父の親切心だった。心迷った彼女は、その夜、長男のベビーノにこの話を打ち明けた。「かあさん、ぼぐが昼だけでなく夜も働くよ。だから・・・」このベビーノのことばに、彼女はもう何も言えなかった。

 早春の日ざしに子供たちが大地を駆けまわる頃、ルンク家の牛が病気にかかった。獣医は、手遅れだと言った。「早めにして銭にしたほうがいい」。しかし、ルンクの後家さんはあきらめなかった。彼女は、小さな礼拝堂に参り、そのわきを流れる小川の水を汲んで、病気の牛に飲ませた。その祈りが神につうじたか、牛はすっかりよくなった。

 端ぎれ、縫布など雑貨を満載した行商人フリキの馬車が来たのは、聖母祭の数日前だった。布を買うマッダレーナ。その母親ブレナ夫人は「もうじき結婚する娘のために、少しまけてやっておくれな」と誇らしげに言った。

 祭りの日、村の広場にはメリー・ゴーランドが設けられた。その年、人々にとって珍しかったことは政治演説集会が同じ広場でひらかれたことである。見物していたフィナールは、人混みの下の地面に、金貨が落ちているのを見つけた。拾って農場に戻った彼は、金貨を馬のひづめの泥の中に隠し、ひとりほくそ笑んだ。

 バティスティに子供が生まれた。男の子である。夕方、学校から帰ったミネクは新しい弟を見せられるが、彼の表情は暗い。一足しかない木靴を、学校の石段で割ってしまったのだ。バティスティは、夜になってから河の畔りに並ぶポプラの樹の1本を伐ってきた。深夜おそくまでかかって、彼はミネクのための木靴を作ってやることができた。

 ある朝、フィナールが大騒ぎを演じた。ひづめに隠しておいた金貨が、いつの間にか落ちてなくなってしまったので、逆上した彼は馬を殴りつけたのだが、逆に馬に追いまわされ、すんでのところで蹴り殺されるところだったのである。寝こんだフィナールは、医者でなく祈祷師を呼び、おまじないをしてもらった。

→まだ続きます。

 

ふんばる

2014年02月20日 12時27分07秒 | 日記
ブログへの訪問ありがとうございます。

詳細を書けませんが、わたしへの応援と受けとめさせていただいています。
自分自身のために、もう少しふんばる。

葛西選手は41歳、7度目のオリンピックで銀メダルをつかみました。

20年以上、血を吐くほどの努力をされてきたことと思います。
あきらめない、自分を信じてやり続けることのすごさを教えられました。

浅田選手には自分自身のために精一杯の演技をしてほしい、と祈るような思いです。
結果はいい、マスコミのいうことなんかどうでもいい、
自分自身のために楽しんでがんばってほしい、そして笑顔で終わってほしいです。

『「甘え」と日本人」より_(2)

2014年02月16日 12時40分17秒 | 土居健郎・齊藤孝著『「甘え」と日本人』
 甘え上手の基盤には、他者に「触れる」身体感覚がある。お母さんのおっぱいを吸ったり、体にくっついていて離れないのは、甘えている典型だ。このとき自分の体とお母さんの体は一つに張り付いている。張り付かれているほうからすれば鬱陶しい気もたまにはするが、基本的にはかわいく感じる。自分の体重を軽く相手にあずけてみるのも甘えの行為だ。恋人同士でもこれが見られる。おねだりを上手にするのも甘え上手だ。おじいちゃん、おばあちゃんは、孫におねだりされると弱い。相手のいわば「お世話欲」を誘発するのが、甘えの技である。

 甘えはいわば一つの技だ。使うタイミングや加減が肝心になる。成人式で大暴れをすれば告訴もされる。もう子どもではなくなるという境目の日にあばれてしまうのはタイミングが悪すぎる。暴れた側には甘えの心理が働いたであろうが、甘えの技があったとは言いにくい。甘えを技と見たときに、彼はあまりに甘え下手だと言える。

 
 従来日本の庶民の家屋は狭く、お互いが関わり合わずにはいられない空間になっていた。そのうえ、外からも家の様子が丸見えの開放的な家屋であった。皆が嫌でも関わり続けなければやっていけない状況の中での甘やかしは、一人部屋で勝手に快楽だけを享受する環境を与える甘やかしとは自ずと質的に異なってくる。

 
 日本の親は子どもをむち打たない。これは西洋人には不思議なことのようだった。こうした「子どもの楽園」は、基本的には悪いことではないとわたしは思う。ただしかつては、そこに礼儀作法のしつけが伴っていた。他人に対してどのように挨拶をしなければいけないのか、きちんとした席ではどのように振る舞わなければないけないのか、といった事柄が作法として身体に教え込まれていたのだ。特に公共的な感覚についてはしつけが行き届いていたように思われる。そうしたしつけができていれば、あとはかわいがればよかった。こうした風土の中から甘えが上手に生まれ、それを可能とする大人が育っていった。
 
 過去の日本社会をすべて肯定するわけには当然いかないが、甘えを一つの技と見ることによって、この社会に起こっているひずみの在処を明らかにすることができるのではないだろうか。

 
 土居健郎・齋藤孝『「甘え」と日本人」(2004年朝日出版社、5-10頁より抜粋)

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 いつの間にか数字、数字で一握りの人だけが得して、一生懸命に働く人たちが置き去りにされるような仕組みになってしまった。勝ち組・負け組といういやな言葉も生まれた。
ここで短絡的に論じることはできないが、今すごくどこかおかしい。

 昨日の夕方本を読むために入ったカフェのお隣の席で、日本の良さを見直していこう、歴史を見直していこうという動きが今生まれてきている、という内容の会話をしているのがきこえてきた。
おかしいと気づいている人たちはいる。気づいた人から声を上げていくことはできないだろうか。弱い立場の人が置き去りにされている流れを食い止めることはできないだろうか。
具体的にどうすればいいのかわからないが、自分自身の雇用さえ守れなかったら話にならないが、そんなことを考えずにはいられない。
人は機械のパーツのように一方的に都合よくいつでも取り替えられるものではない。
雇用するということは、雇用形態にかかわらず、その人の人生の一部をあずかるということであるはずだ。仕事=生きる。何をすべきか、何ができるのか考え続ける。

ふたたびの春の雪の日に思う

2014年02月15日 21時42分58秒 | 祈り


先週に続いて雪の週末。出かける予定がないので部屋で片付けなどしながら過ごす。
年明け早々の混乱はまだ終わらない。
1カ月以上、一方的に振り回されて何も納得できないまま契約終了の通知だけもらって、
正当な理由説明など大事なことは全部すり抜けられたままだ。
最終的に行くべき窓口に二度相談に行き、いろいろと教えてもらった。
幸いなことに窓口の人はいい人で、私を心配してくれている。
教えてもらったことの要点を材料としてつっこみどころを関係者に提示したら、ようやく動こうとしている。
なんのために、なにをしたかったのか、なにをしたのか、事実関係を知ることができるかもしれない状況にやっとなった。
今の日本の仕組みの中で労働者はきちんと守られていないので、残念ながらこうして自分で動くしかない。
もう吐き気がしそうだが、胃潰瘍になりそうだが、自分自身の尊厳を守るためにもう少しふんばるしかない。
10年以上という実績は、雇用形態に関係なく、そこの労働者として法的にはみなされるようだ。
法律はややこしい。ひとつひとつ勉強しながら進んでいる。
少しずつのタイミングが幸いしている。


来週何がでてくるのやら・・・、ぞっとする。
雇用は守れないかもしれない。
これからどうしていくのか、どうしていきたのか、まだ具体的にイメージできない。
乳幼児精神保健学会で学ぶようになってから、子供の笑顔がほんとうにいとおしく思える。
見知らぬ子供たちとすれ違うたびに、心の中で健やかであれと祈り続ける。
さりとて自分が職業として何をすべきか、何ができるかを考えても今はわからない。


歯を食いしばって生きてきた自分自身の過去からエネルギーをもらえます。


「1995年3月2日(木)

弥生3月、季節はめぐりいつしか春の気配。
雪が降りそうなほど寒いがなんだか嬉しい。
ほんとに春が訪れるようで嬉しい。
明日はひなまつり。
ちらしずしを作って、Mちゃんの前に供えてやろうと思う。お菓子とお花をこれからは欠かさないようにしよう。
今も涙は枯れることなくつらい。
夢をみる。ここ2度ほど続いている。
夢の中のMちゃんは、何もいわず、黙ってどこか手の届かない所へ消えて行きそうになる。
ひきとめようと、どれほど叫んでも、呼び戻そうとしてもふわりといってしまう。
姉として力になってやろうとしなかったという事実は今も胸をしめつける。時折、かなりつらくなる。十分に睡眠をとれなくてつらい。
眠いのにね、眠れなかったりする。
でも、この部屋に移って、ほんとに環境がガラリと変わったせいか、変化があったなあ、としみじみ思う。
いろいろとこの部屋のためにほしい物もあるし、
もっともっとここで過ごしたいな。なんだか学生みたいな気分だ。古くてちょっと不便なところがいい。
あらたな思いで・・・と意気込んでみたところですぐになにもかも上手くいくはずがない。
いくつかの方向から仕事をさがしているがまた短期で派遣をやるかもしれない。
福祉をと考えたりもしたが、いくつかの意味でなかなかに厳しい。
勉強にもスパートをかけたいが、なにはともあれ休養だ。
あせらないで、のんびりいこうよ。
長距離ランナーでしょ。
もうすぐMyBirthday-
それなりにいろんなことを学んだと思う。
31年生きてきたんだなあと思う。
これからは二人分ー
ひとりでしょってるみたいに思うとつらくなってしまうなあ。
風のように流れるままにフワフワと生きていけたらいいな。
ふわり、ふわり、ぽわあんとね。」


こうして読み返してみると、わたし本当につらかったですね。
つらくって、つらくって、でもどうにかこうにか生きてきている。
今も道に迷ったままでなさけないといえばなさけないですが、こうして自分の足でちゃんと立っている。それだけでもすごいことなんだと、自分をほめてあげようと思います。


そんな状況でよく仕事してますね、と言ってくれた人がいます。
ほんとうにそのとおりです。


今の状況が収束したら、もちろん仕事がまた見つかってからの話ですが、
ほんとうになにかできることないかなと思います。
なにかおかしいと感じているのは私だけではないはず・・・。


いつの間にかオリンピックが始まり、競技が次々と行われている。
メダル、メダルと新聞やテレビが勝手にプレッシャーかけているのは相変わらずだ。
そこにいくまでに、きっと血のにじむような努力を選手たちはしてきている。
残念な結果にいちばん悔しいのはきっと自分自身だ。
一生懸命な姿こそ、光輝いている。
テレビないのでラジオとネットからの情報だけですが、10代ががんばっているのは嬉しい。
日本まだ大丈夫かなと思える。ひとりひとりに拍手を送りたい。


寒空の下で思う

2014年02月11日 14時32分10秒 | 日記
10日(日)に母の三回忌は終わった。
土曜日から日曜日にかけて都心は大雪。そんな中、荷物をもっての移動は長かった。
タクシー会社にやっとこさ電話がつながる→階段を下りてタクシー→地下鉄一回乗り換え
→新幹線→地元の私鉄→またタクシー、この往復。
こうして困らせるなんて母らしいと思ってしまう。

読経をききながら、家の襖や柱をあらためてながめた。家を建て替えた時、この絵柄は母がはりきって選んだものだったと思う。Mちゃんも一緒だったと思う。Mちゃんは家ができたらお友達をたくさん呼ぶって言っていると、母はすごく嬉しそうにしていた。本当に張り切っていて、一生懸命だった。統合失調症の最初の症状を発する前の元気な頃の母を思い出して涙がにじむ。

どうしてこうなってしまったのだろう。
ついそこへいってしまう。でも答えはどこにもない。
もうやめよう。悲しいが、つらいが、私がその分生きればいい。
色んな偶然の重なり合いでそうなってしまったんだ。
守ってくれるように、なんどもなんども手を合わせた。

母は私たちが小学校に行くようになると着物の仕立ての内職をずっとしていた。
発症してから手つかずで眠り続けている母が仕立てた着物たちはきれいなままだった。
今回は手をつける時間がなかったが、遠からず無駄にはしないように整理していきたいと思っている。どんな方法が最善なのだろう・・・。


今の混乱状態はもう少しやれることがありそうだ。ほんの少しのタイミングでまた救われたかもしれない。守られている。
自分一人ではこれ以上なにもできないが、中で一緒に動ける人があれば何かしらありそうだ。
どうしてもそこにいたい、いたくないは別にして、もう少し納得できなければ別の道を歩もうとしてもやはりどうにも気持ちの切り替えができずに先へ進むことができない。
自分自身のために、せっかくここまできたのだから、苦しいところではあるがもう少しふんばってみよう。
ずっと一生懸命、真面目に働いてきた。小さな体をすり減らすような思いで、だれにも言わずに勉強と両立させてきた。その姿をみてきたひとたちの中で逃げる人は逃げるが、後押ししてくれる人たちもいる。今すごく学びの機会を与えられているのだと思う。


母とのお別れの後、揺れ動き続けている自分にあらためて立ち返ってみます。

「2013年1月5日(土)

長い休みが明日で終わろうとしている。断捨離をがんばったが、それほど大量にはやれなかった。読んだり振り返ったりして、これは必要か、過去にはこんな自分がいたんだ。考えながらやるのでけっこう疲れる。それでも愚かだった自分とサヨナラするために、母もいなくなった今ひと区切りをつけて、本当に自分のために生きて行きたくて、今年もがんばろうと思う。まだ無理がきく今のうちだと思う。もう少し年をとれば今抱えているものを管理できなくなる。その前に捨ててしまいたい。捨てようとしているものをみると、これだけのモノを一人で抱えてきて本当にくるしかったなあと思う。よくがんばってきた。えらいよなあ。
もう少し進んで落ち着いてきたらまた東北に行きたいし、放送大学で学ぶなどしたい。
私がやるべきことはあるはずだ。自分自身の体験を少しずつ発信していきたい。
このまま埋もれてしまってはいけない。
ドロドロのきついことに耐えきれなくなったら逃げればいい。そんな立ち位置でやれることからやっていきたい。
もう自分を責めてもせんない。私の命にも限りがある。色々思い始めればきりがないがもうやめよう。ただ母と妹がおしえてくれたことをつないでいきたい。それだけだ。

夜になると、家を出ようとすると不安がおそってくる。今年も不安神経症とのたたかいは続く。」

井村君江著『ケルト妖精学』より_フェアリーランドへの道(1)

2014年02月08日 14時00分51秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
 それまでにケルト民族が、先史時代から持っていた土着の信仰は、ドルイド教であった。ジュリアス・シーザーがこの古代信仰について書いた記録が残っているが、その中で彼は「ドルイドたちは、霊魂は滅びず、一つの体から他の体へと移っていくことを信じている」と言っている。

 これはすなわち、ドルイドたちが「霊魂不滅の思想」と、生命は「転生」し再生しめぐっていくという考えを持っていたことを示していよう。彼らの信仰は太陽崇拝であり、占星術を重んじ、自然は霊的な力を持つという汎神論であった。自然すなわち太陽・星など天体の軌道の上の運行、四季の移ろい、そうした悠久の円環の動きを崇拝し、すべての霊はこの軌道と同じサイクルを迎えるとドルイドたちは信じていたのである。こうした霊魂不滅・転生思想が、今日までケルト民族の根元に流れており、彼らの死生観や自然観を形成しているのである。

 ケルト民族たちは死というものを終わりとは見ず、もう一つの生への入口とし、また死は永い生の中心であるとする。従って人間の生命と自然や動植物の生命には、密接な関係があり、さらに眼に見えぬ力が生命のすべてを支配し、動かしているという考えが生まれてくる。われわれが死んだとみなす魂も、それは次の転生を待つ間の休息状態にあるのだと考えた。

(講談社学術文庫 1996年発行39頁より引用)