たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

高い空(2)

2013年06月30日 21時39分33秒 | 祈り
このささやかなブログに訪問してくださる皆さま、ありがとうございます。

母とのお別れの後の自分をもう少し振り返ってみたいと思います。その時手帳に綴っているものは、まとまりがなくリアルでここまで載せなくてもいいのかもしれないですが、その時の自分の腹の底から出てきたもので、その時々で精一杯日々を生きていました。


2011.3.11の揺れの恐怖と、繰り返し起こる余震・原発事故・計画停電・食べる物が買えなくなるのではないかという不安、平常心を保つのがやっとこさの日々を体がまだ色濃くおぼえている頃で、心の中はかなり混乱状態の私がいます。


それでもなんとか仕事に行き続けていた。今も3.11を体がおぼえているし、当たり前だと思っていた生活が当たり前のことではなかったとあらためて気づかされた。普通の生活を送って行くのって大変なことなんですね。




「2012年3月某日 嵐のような雨

毎晩2時過ぎにねていてはすごく体に悪い。でも不気味な揺れが続いているし落ち着かない。本当にいつどうなってしまうのだろう。すごく不安だ。自分の親はもういないのだという実感がわかない。よくわからない。なんとも足元がおぼつかない、心もとない感じだ。20年以上にわたって心の葛藤を続けてきた。母の病気を受け取めたいと必死になってきた。家族って何だろう。ずっと問い続けてきた。気づけば結婚も出産も逃してしまった。そこを責められてもどうしようもない。だって私自身が一番わからないのだから。こんな人から産まれなければよかった。母に対してどれほどそう思ってきたことか。それはつまり自分自身を否定することだった。ようやく受け取められて、よくがんばったね、ってお別れできてよかった。灰になっていく、その扉を見つめ続けていた。父の扉を見つめたその記憶もまだ生々しい。わずか1年半だ。自分がこうして生まれてきたことを、自分の家族をどう考えればいいのかわからない。自分はこれから何をするべきなのか。拠り所をどこに求めればいいのか。本を書きたい、とずっと思っている。思い上がり、ただの思い込み・・・?!
私の経験は多くの人がもつことではない。どちらかといえば少数派だろう。だから社会に向けて発信したいのだ。誤解があったり、偏見があったり、小さくなっていたり、電車の中や道で出会ってもわからないだけでたくさんいるはずだ。受け容れるには時間がかかるんだよ。堂々と生きていけばいいんだよ。自分自身に言いきかせ続けていくためにも棚卸をしてみたい。それが自分の役割のような気がする。思い上がりだろうか・・・。AMはあたたかだったが、夕方になって寒い。自分を守らねば・・・」




妹のこともごっちゃになっているので、読みづらいですが、この頃からの思いがこうしてブログを始めるに至りました。



今週も平日はハードな日々が続きます。それでもこうして何かしないではいられない。いつの間にか体にしみついてしまった性分ですね。私の中にまだまだたまっているものがあるということなんだろうと思います。



中井久夫さんの『「つながり」の精神病理』(ちくま学芸文庫)から教えられることも多く引用したいのですが、またの機会にします。





オーウエル・コーナー歴史村でもう一枚、高い空を見上げながら写真を撮りました。





秋(10月)のプリンス・エドワード島で北海岸沿いの一番淋しい所をひた走っている時の一枚です。




『レ・ミゼラブル』-2度目の観劇

2013年06月24日 22時59分17秒 | ミュージカル・舞台・映画
新演出版、もう一度みたくなって本日夜の部観劇しました。

下層社会に生きる人々の物語が幾重にも折り重なって展開されていきます。
一人一人が主人公。
せつなく、心にしみいる宝石のような場面の連続、楽曲の余韻がいつまでも心に残ります。

一生懸命生きていかねばなあ、と心を新たにしてくれる物語です。
25年前の初演を見た時には若くて大きな喪失体験もなく、よくわかっていませんでした。
年齢を重ねて色んなことがあった今、その奥深さがより深く心に入ってきます。
観客である私たち一人一人も役者さんたちと同じ時間と空間を共有し共に生きる。

日常生活の雑事を離れ、普遍性をもつ力強い生の舞台に触れる時間をもつことは大切ですね。


戦う者の歌が聴こえるか?
鼓動があのドラムと響き合えば
新たに熱い生命が始める
明日が来た時 そうさ明日が!
              ♪
 
(「民衆の歌」より)


ファンティーヌがコゼットを思いながら神に召されていくシーン、ちびっ子ガブローシュが撃たれるシーン、仲間を失い一人生き残ったマリウスがカフェ・ソングを歌うシーン、マリウスへの届かぬ思いを胸に最後までりんと生き抜いたエポニーヌ、己の正義を貫き最後は自ら死を選んだジャベール、前科者で司教に救われたことをきっかけに生まれ変わり、ファンティーヌとの約束を果たしてコゼットを守り誇り高く生き抜いたジャン・バルジャン・・・。



「『レ・ミゼラブル』の群像劇は、端役にすぎない人間たちが無限をめざす物語といってよいでしょう。そこには、より良き社会とより良き人間を切望する大いなる祈りがこめられています。恐るべき震災が日本を襲ったいま、ともすれば挫けそうになる精神を、『レ・ミゼラブル』の遠い無限をめざす物語が少しでも励ましてくれるような気がします。」
 (2011年・帝国劇場100周年記念公演『レ・ミゼラブル』プログラムより)


「登場人物たちは、波乱の時代を生き抜こうと踏ん張りながら前に進む。その熱いエネルギー
が今、私たちに必要なのかもしれない。」
 (2013年6月23日・産経新聞・美の扉「波乱の時代 リアルな舞台で共鳴」より)



7月10日の千秋楽までチケットは完売となったようです。
こうして観劇を楽しむ時間が持てたことに感謝、そして出演者の皆さんが怪我や病気なく、最後まで走りぬけられることを祈りたいと思います。





  


遠く流れる雲(1)

2013年06月23日 13時29分02秒 | 祈り
今日は初めて自死遺族の会に参加した後の自分を振り返ってみようと思います。
母とのお別れから3ヶ月後でちょっと無理をしてしまったかもしれません。

2011年の秋に、いのちの電話の公開講座に参加した時に初めて同じ立場の方と話をする機会があり、一度行ってみようかなという気持ちになったことがきっかけです。

平日の参加はなかなか機会がなかったのですが、2012年5月たまたま職場の公休日と重なったため参加してみました。その時手帳に書いているものをそのまま引用します。気持ちが揺さぶられてどうにも書かずにはいられなかった私がいます。

そのままの引用はわかりづらい所もありますが、こうしてブログに書くことで自分自身も振り返ることができます。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら一生懸命に生きてきたんですね、私。やっと自分をほめてあげることができようになりました。




「2012年5月某日 少しムシムシする

 はじめて自死遺族の会に行ってみた。本当によかったのかどうかはわからない。子供を亡くされたという方が多かった。世の中にいるんですね、同じ立場の方が。思わず自分のことを喋ってしまって疲れている。夢をみていたような気がする妹の死がリアルに自分の中で蘇ってきてしまった。そういう自分を引き受けながら私はこれからも生きていかなければならない。普通の生活を営む。営むことができている。それってすごいことだし、十分じゃないか。私はのたうちまわりながらも外に出て経済活動を営み、家賃を払い続け、人に迷惑をかけることなく、通信教育を続けPSWにも受かり、人の2倍も3倍も働き続けている。私ってえらいじゃん、すごいすごい、十分じゃないか。

ずっと自死遺族の方の話をきき続けるのは私にはきついかな。

今の職場でいいのか。違うだろう。

6月はこりずに(土曜日の)某市(の自死遺族の会)に行くかもしれない。ドロドロに耐えられなくなった時には逃げられる、そんな立ち位置で風の向くままに、そんな気持ちになったら足を運べばいい。それでいいんだ。母がいなくなったばかりで時間のかかる話だ、ゆっくり行こう。そんなに簡単ではないんだからさ。」




場所を変えてさらに私は次のように書き続けています。まとまりがなく、長くなりますがそのまま引用します。




「それにしても神様は私に何をさせたくってこんな試練を与えているんだろう。私は命ある限り問いかけ続けながら生きていかなければならない。色々な思いがめぐって終わることはない。今の社会のシステム・スピード・機械的なマニュアル通りのことの多いドライさは私にはこたえる。そんな中を私は生きていかなければならない。どうしてなのかはわからないけれど、神様に試練を抱えられる人として選ばれてしまった。私は生きていかなければならない。ありがたいことに職場でガタガタと働いていれば何も考えなくてすむ。仕事があるってすごいことなんだな。
それにしても、はじめての場で、自分のペースで喋ってしまって本当によかったのかな・・・。

私には逃げられない現実がある。あんまりまともに考えてるときついから時々忘れてしまうことも許してしまおう。私は一生懸命生きている。それでいいんだ。自分の幸せをこれからは探して行こう。妹の分まで幸せにならなくっちゃね。きっといつも見守っていてくれる。こんなねえちゃん、笑いながら応援してね。
子供を自分が死なせてしまったと責めている方の話をきいてしまったら自分のことを話さないではいられなくって話してしまった。そしたら自分がすごくきつくなっている。リアルに色々と思い出してしまった。きつい。このきつさと私はこれからもつきあっていかなればならない。また終わらなくなってしまった。母もいなくなったばかりでやめとけばよかったのかな・・・。
本当に行ってよかったんだろうか。
壊れそうになりながら、それでも私は生きていかなければならない。
ひと一人の死、簡単なことじゃあないんだ。この事実が変わるわけではない。どうあがいても変わらない。それでも私は命ある限り生きていかなければならない。経済活動もしなければならない。きついっすよ。自分をほめてあげよう。胸かきむしるように自分を責め続けた日々があった。もうやめよう。幸せになろうよ。妹も泣いている。私がいつまでも泣いていたら妹だってきっと悲しい。

10数年にわたるのたうちまわるような時を過ごしてきた。
自分を責めて責めてせめ続けてきた。
次に妹に会う前に幸せにならなくっちゃ。
おこられちゃうよ。
笑われちゃうよ。
幸せになることを考えなくっちゃ。
時間がそれを許してくれる。それでいい。それでいいんだ。」





写真は、オーウエルコーナー歴史村で、映画『赤毛のアン』の撮影も行われました。
プリンス・エドワード島は風の島で、雲はこんなふうに遠く遠く流れていきます。
赤土と緑と青空、わけもなくなんだかとっても幸せ・・・。










秋のプリンス・エドワード島_ハロウィーン

2013年06月22日 23時00分37秒 | プリンスエドワード島への旅


10月のプリンス・エドワード島をドライブしていると、民家の庭先でハロウィン・パーティの楽しそうなテーブルが目に留まったので写真を撮らせていただきました。
お金をかけずにある物で楽しんでしまう島の人たち。
小雨の中で寒かったですが、黄葉の美しさと共になんとも楽しく心に残る旅でした。

旅日記はもう少し先に載せていこうと思います。

高い空(1)

2013年06月16日 13時16分57秒 | 祈り
今日は父の日。もう贈り物することないんだな、って自分の中であらためて気づかされながら、デパートの父の日イベントの広告の前を通り過ぎます。

父の日と12月の父の誕生日には贈り物をしていました。
デパートで下着を選んだりしていましたが、お酒の方がいいと父に言われてからは、
弱めのお酒を選んで贈っていました。

病気の母に会いたくなくて、何年も実家に帰らなかった時があります。自身、大学を卒業してからはカウンセリングスクールに夜間通ったり、その後はソーシャルワーカーの勉強したりと、フルタイムで二人分ぐらいの業務量をこなしながらやってきたので、忙しかったこともありましたが、一番の理由は母の顔をみるのがいやでいやでたまからかったからです。

父には申し訳ないような気持ちがあって、せめてもの罪滅ぼしのような思いからでした。

母とのお別れから一週間余り経った日(2012年2月)のメモ帳にこんなふうに私は書いています。


「がんばってフォーウインズ(乳幼児精神保健学会)のセミナーに行った。半分ぼうっとしていて、なぜだか最初(信濃町の隣の)千駄ヶ谷駅で降りてしまった。何度もきている(セミナー会場の)信濃町駅のはずなのに・・・。やはり、どこか普通ではないのだろう。ぼうっと行ったが内容は深くて情動的に揺さぶられ、感慨深いものがあった。

あらためて自分はしなくていい苦労をし、無理を重ね続けてきたんだと思う。自分が普通に生きることとに目が向かず、母と妹のことを受け容れたい、理解したい、その一心で葛藤し続けてきた。もう何年もそういう時間が続くのだと思っていたのが突然幕が降りた。今はどうすればいいのかわからない。きっとこれから3人分生きることが自分の役割なんだろうが今はよくわからない。気づいたら子供は産めない年齢になってしまった。でも、ここまでやっていなかったら、自分を責め、悔やむことになっていたように思う。母に病気の症状が出始めた頃は、くそばばあとののしり、この人から産まれたことをどれほどのろわしく思ってきたかしれない。20年以上かけて、お別れの時には78年間よくがんばったね、産んでくれてありがとう、と言うことができた。
父と同じ週末、同じぐらいの時間、タイミングと状況があまりにも似ていて、これ以上子供に苦労させるな、と父が迎えにきたのか、母が淋しくて父のそばに行きたかったのか、その両方なのか。

母との最後の会話は11月、フォーウインズの大会のために帰省した時だ。「お母ちゃん、人に迷惑かけんようにがんばっとるけど、最後はたのむね」。
母に何か予感があったのだろうか。この不思議なめぐり合わせは言葉では説明がつかない。科学では解明できない、神様が決められた“縁”のようなものがある。

結婚と出産には縁遠かったが、母と妹はたくさんのことを教えてくれた。それらを受けとめつないでいくことが私に与えられた役割なのだろうが今はわからない。母がいなくなって涙がでるなんで思わなかった。こんなに空虚感を味わうなんて思わなかった。幼い頃のことなどやたらとフラッシュバックしたり、色々にどよめいている。がんばってきた自分をほめてあげながら、今は思いの中にどっぷりつかっていよう。

きっとこれから新しい人生の始まりなんだろう。何ヶ月か先、気持ちが落ち着いたら自分にできることを見つけていこう。利潤追求とは違うところで、ボランティアなど、やれることをやっていこう。今はPEIにいくこと、『赤毛のアン』を原文で読むことが心の支えだ。これ以上のことはやれない。精神世界への扉を開いてくれた。そのことをどうやって受け取めればいいのか今はわからない。」



母との最後の会話は、私に心を病むことの深さを教えてくれました。心の中にはちゃんと自分の世界があったんだとようやく気づかされました。



写真は、オーウエル・コーナー歴史村で、赤土の上に寝転びながら撮った高い高い北の空です。
春(6月)といっても気温13度。でもなぜか背中に赤土の温もりを感じていました。


きっといつも見守ってくれているんだろうな、空を見上げながら今はそう思います。



平日は10時間ぐらい働く日々が続いています。また週末に更新できればと思います。





秋のプリンス・エドワード島_郵便受けと黄葉

2013年06月16日 12時54分44秒 | プリンスエドワード島への旅
プリンス・エドワード島をドライブしていると、道端に立っているこんな個性豊かなメール・ボックスを楽しむことができます。

島への旅日記は、もう少し先にあらためて載せていきたいと思います。

写真を整理しながら、旅日記を読み返していると、言葉にならないなんとも幸せ感に満たされた時間を思い出し、穏やかな気持ちになります。

こんな場所に出会うことができて幸せです。

まっすぐに伸びる木

2013年06月09日 15時19分19秒 | 祈り
妹とのお別れから1年5月が過ぎた1996年2月、東京カウンセリングスクール(現セスク)の3泊4日のフォーカシング合宿に参加しました。
スクールに提出したレポートをそのまま引用したいと思います。私自身も久しぶりに読み返します。


『フォーカシング合宿を終えて』

 「合宿から、ほぼ1カ月が過ぎようとしている。抱えている問題が解決したわけではないし、むしろ、合宿中の素直な自分でいられた心地良さを思い出すと、無理ばかりしている日常生活を、一段とつらいと感じるようになってきてもいる。が、わたしは、とても元気になった。ずっと、うつむき加減で歩いていたのが、今は無意識のうちに、背筋を伸ばしている。このお腹の中に感じた、上に伸びていこうとする木は、たしかにずっとわたしの中にあるのだ。以前とはちがって、どこかいつも心地良いものを身体の中に感じている。これまでのわたしは、頭の中だけでぐるぐると理屈を回して、すぐに肯定したり否定したり、・・・しなければならないと、自分に強制したり、気づかない間に、自分で自分をがんじがらめにしてきた。閉じ込めてしまうことにばかり必死になっていたのだ。しかし、開放されたいと望んだのも、確かに同じわたしだ。だから、合宿に参加した。合宿中の、評価も解釈もしない、自分をいたわり、感じるままをことばにして、お互いに批判することもなく、ただあるがままに過ごした時間は、本当に意味のあるものだったと思う。少し長くなるが、ここで体験を振り返ってみたい。

 最初は戸惑いもあった。が、その気持ちをことばにしたことがよかったのだろう。身体をほぐし、緊張が解けてくると、身体の中に自然となにかが生まれ、勝手にことばになってあふれ出していた。すごく無理してるなあ、本当は誰かの背中にもたれかかりたいんだあっていうわたしを、最初に感じた。頭の中だけで考えてきたことを、身体でわかってきた。優しく自分をいたわってあげて楽になると、一番無理している部分をさらに感じて、二度目の体験は辛かった。壁にもたれながら、右の肩がいたくてたまらないのに、どんどん左の方へも身体がひっぱられていくようで、なおかつ頭は右の方へ行こうとしていて、腰の負担は重くなるばかり。ぱたっと倒れてしまいたいのを、腰が必死でふんばった。痛くてたまらない。誰かが支えてくれたらどんなに楽だろう。でも、助けてあげるのはわたし自身だ。わたしはがんばった。そうしたら、お腹の中に、白い木が生まれていたのだ。まっすぐ上に伸びようとしている白い木ー。

 その後も、どこかで、緊張し続けてはいたけれど、すこしずつ楽になってきたようだ。身体をほぐしてもらって安らかになってくると、静かに涙がにじんていた。そして、胸につかえていたものがあふれてきてしまった。重いよう~、辛いよう~、お腹の中にしまい込んでいることばが上にあがっていった。どんどん、どんどん。いつも、妹の安らかな寝顔が左の方に浮かぶようになっていた。なぜだか、左・・・、いつも・・・。たまっているものを出し切ってしまうなんて到底できなかったけれど、 その時あふれた辛い具体的なものをことばにしてしまうと、わたしの中に、海が広がっていた。青い海・・・。気がつくと、わたしは朗らかに笑っていた。笑っていることに戸惑いつつも、気持ちがよかった。
 五度目の体験では、さらにいいものを見つけることができた。頭が緊張していると感じたのでほぐしてもらっていると、中にランプのほのかな灯りがともった。お腹の中には、小さな木が生まれ、次第に身体ごと木になっていく。やがて、大きな枝葉が茂ってきて、真ん中に一本まっすぐに伸びたほどよい太さの枝。その枝にまたいっぱいの細い枝。いつしかその木には甘ずっぱいリンゴの実がたわわになっている。そのリンゴを食べている後姿の女の子が見えてくる。足を伸ばして空に向かって甘ずっぱいリンゴをかじっている。そして、その後姿を静かにみているわたし。二人の間には、確かな一定の距離がある。女の子はわたしに少しも気づいていないが、わたしは女の子から発せられるエールを感じている。やがて、女の子は妹であることがわかってきた。後姿なのに、ほほえんでいることがわたしにはちゃんと見えている。いつしか妹の笑顔は、ゆらゆらとゆれる風船の中に浮かんでいた。風船の糸は切れていて、下にいるわたしにはつかめない。そうとわかっているからつかもうとしない。ただ、妹の声をじっと聞いているだけ。「おねえちゃん、がんばって、何にも気にすることないんだよ」って言っていた。やがて、風船からキラキラ光る星屑があふれてきて、わたしに向かって流れてくる。わたしは、それらを全身ですくっと受け取めようとしている。わたしの中に真っ直ぐな一本の線を感じた。受け取めようとする線を―。

 以上が合宿中の体験だ。終えたから、この胸につかえているものがなくなるわけではない。そのままにちゃんとある。このままずっと持ち続けていくことは辛い。辛いという思いを、そのまま受け取めていきたいと思う。その重い荷物を誰かと分けあえたらいいなと思うわたしも、日常生活ではそんな思いを閉じ込めなければやっていけないよな、と思うわたしも、どちらもわたしだ。そのどちらも受け取めてあげたい。肯定も否定もしないで、ただそのままに・・・。雪景色は、雪景色のままに静かに眺めていよう。そうしていれば自ずと、雪の下に隠れている春がみえてくるにちがいない。自分を知るということが、体験を通して、ようやく、わかりかけてきたようだ。」



 私がどうにかこうにか自分の足で立って、大学を通信教育をやり続けて卒業し、その後は通信教育によってソーシャルワーカーの資格も取得し、こうして今生き続けていられるのは母がまじめに一生懸命育ててくれたからなんだあとようやく気がつきました。


なぜ妹が先に逝ってしまって私がこうして今ここにいるのか、その答えがどこかにあるに違いないと思いずっとさがしつづけてきたけれど、どこにもなかった。どこにもないということと共に、自分の足でぶんばり続けながらこれからも生きていきます。



大学の卒論のこと、ソーシャルワーカーの試験合格を目指してひたすら無理を重ねながらふんばり続けてきたこと、書きたいことがあふれてきます。
時間に限りがあるのでぼちぼちです。



高い高い北の空に伸びる木々と真っ青な空にぽっかり浮かぶ雲は、ブルーウインズティールームで撮ったものです。ティールームでは、『赤毛のアン』にヒントを得たというムーンプティングを美味しくいただきました。

 


風のささやき_(2)

2013年06月08日 19時58分04秒 | 祈り
前回のブログに載せたくてうまくいかなかった写真をあらためて貼付します。

春(6月)のプリンスエドワード島・プリザーブ・カンパニーの庭から撮った写真です。
水面はキラキラとゆらめき、風のささやき声が聴こえました。

穏やかに流れる時間、青空の下で庭のベンチに座ってぼんやりと輝く水面を眺めていると、なんとも幸せな感じで、なんだか気持いいっていう感じでした。

時差と移動の長さ(日本からプリンスエドワード島にたどり着くまで片道25時間かかります。)で体はへロヘロなのに、わけもなく体中で幸せ感に満たされたひと時でした。

風のささやき_(1)

2013年06月02日 22時30分38秒 | 祈り
今年(2013年)の2月、母の一周忌から数日後、私は手帳にこんなふうに書いています。

 
 「悲しみ、苦しみ、辛さ・・・言葉に言い尽くせぬ色んな思いといつしか私は同化していた。それらはみんな私の身体の一部になっていた。これからも共に生きていかなればならない。なぜなのかはわからないが、背負うというよりも一緒に生きていく感じに今はなっている。

 幸せになりたいと思う。天命を全うしたいと思う。ゆっくりいこう。あせることはない。できることを少しずつ・・・。

 深く生きる人生になったことに感謝・・・。」


母の一周忌の一カ月程前、私の心はどうしようもなく激しく揺れ動いていました。何か私にできることが、やるべきことがあるのではないか、そんな思いに突き動かされていました。思いだけが空回り、何をすればいいのかはわかりませんでした。ただ、何か自分の役割があるような思いにとらわれ続けていました。

本との出会いが、私の心の中に転機をもたらしてくれていたのです。

本屋さんの平積みの中からたまたま見つけた、小川洋子・河合隼雄著『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)を読んだことがきっかけで、美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる-日航機墜落事故遺族の25年‐と出会いました。

美谷島さんの著書の帯にはこう紹介されています。

520人の命を奪った、史上最大の航空機事故-。9歳の息子を失った私は、悲しみを、力に変えた。

本との出会いのこと、次の機会に詳しく書きたいと思います。

平日は連日忙しく働いているので本当にちょっとずつです。



プリンス・エドワード島の春(6月)を思い出します。いろんな緑にあふれ、風のささやき声が聞こえました。ただそこにいるだけで穏やかな気持ちになれる、そんな場所は他にありません。PEIプリザーブ・カンパニー(ジャム屋さん)の庭からの眺めは、水面がきらきらと風にゆれていました。