たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

母が亡くなった翌年‐2013年3月

2024年04月09日 13時12分45秒 | 祈り

「2013年3月2日(土)

 もうすぐ〇〇才。まだまだやれる。まだ若いし体力もある。やりたいことをやっておきたい。大学行きたいなあ。旅したいなあ。ほんのいくらかでも人の力になれたらなあ。現実には何もできないけど、大会社に振り回されてても仕方ないなあ。少しずつ抜け出して切り替えていけないだろうか。伝えたいことをちゃんと伝えるのって難しいなあ。もっともっと文章力を高めたい。本を読みたい。読んでいる、少しずつ・・・。

大きな地震はやがてまたどこかで突然くると思う。

1986年、木曽路、東北、塔の、仙台へと旅をしている。被災地となった場所を訪れていたのはこの頃だった。丁寧に私はとっていたんだなあ、記録を。

パンフレットを残して捨ててしまう。父と母の残したもの、Mちゃんの残したものを思うと捨てていかなければならないと思うのだ。そしてまた新たにスタートしていきたいと思うのだ。まだ幸せになれるだけの時間はある。ゆっくりゆっくりいこう。」

 

「2013年3月3日(日)

1992年の日記を捨てた。8月、帰省した時のMちゃんの幼さにがく然とし、また心配だと書いている。自分にはどうしようもないことも書いている。10月、家の中のぎくしゃくに耐えられずもう帰りたくないと書いている。もうすでに何か大きくこわれていた。でも私は若かったし、何も知らなかったし、ただ逃げた。何もできなかった。誰のせいでもない。何故なのかもわからない。血のつながりって何だろう。私は模索し始めていたことが読み取れる。時を取り戻すことはできないので、ただ今は先に逝った人の分まで自分が生きるのみ。私自身もどこに向かえばいいのかわからなくてひどく不安定だったようだ。全ては崩れ落ちた。鉄ケンをくらった感じだ。まさか死んでしまうとは思わなかった。自分を責めるでないぞ・・・」

 

「2013年3月17日(日)

マニュアル通りは無論大切だが、あまりにも心がこもっていないと気持ち悪くって仕方ない。マクドナルド式が増えすぎてあたたかさがなさすぎる。”自己コントロールの檻”を読み返したいと思う。

1989年の日記。私は自分がどこへ向かえばいいのかわからず道に迷っていたようだ。今と同じか・・・。

宝塚ステージアルバムの1992年のものもデジタル化して現物は捨てる。あきらめていくしかないのだ。

金曜日の夜、すごく疲れていたからだろうか。布団に入るとふいに父の声がきこえてくる。母の顔が浮かんでくる。昔の場面を断片的にさまざまに思い返す。こんなふわふわした状態はまだ続いていくだろう。父も母もこの世にいないのだという実感がもてない。

会社は馬鹿げている。でも他にいったらもっとひどいかもしれないし、おかしいのはどこも同じだろう。被災して住むところも仕事も失った人達がたくさんいることを思えば今は耐えるしかない。非常勤で月一回のペースでなにかできないだろうか。福島で自殺する人が後を絶たない様子をブログで知る。なにかしなければならない、できることがあるのではないか、ついそんな思いが沸き立つ。何もできないのだが、あんまりきつい話には耐えられないのだが・・・。熱いものが自分の中に流れ始める。現実の私は専門家たちの中で何を発信すればいいのか、今もわからないでいる。哲学を勉強したい・・・。」

 

「2013年3月22日(金)

なんかおかしい、なんか気持ち悪い。わたしの感性がそう叫んでいる。便利になり過ぎた分、人として退化している。おかしな人が多過ぎる。なんかみんな小さい画面ばっかりみてて内向きだし、色んなものを見過ぎている分、肝心なことが見えてないんじゃないかなあ。

震災なんてなかったかのように過ぎているが、実はみんな震災でおかしくなっているんじゃないか。

会社にこれ以上いたくないし、早く荷物を整理して今の場所から逃げ出したいが、まだまだ時間がかかりそうだ。あー、早く逃げ出したい。私はどこに行けばいいのだろう。相変わらずわからない。」

 

「2013年3月23日(土)

1992年1月から3月の日記を読み返す。私はずいぶん切羽詰まっていた。自分で自分をがんじがらめにして追い込んでいた。何が私をそこまで追い込んだのか、今となっては自分でもさっぱりわからない。Mちゃんの死によって自分を縛っていたものは音を立てて崩れ落ちた。もう忘れよう。捨て去って新しい一歩を踏み出していこう。まだ人生の時間はあある。幸せになりたい。あの会社にはこれ以上いたくない。どこかもっと自分の力を尽くすべき場所があるのでええはないか、思いが空回りするばかりで現実にはなにもできていないのだが・・・。自死遺族として専門家たちをみていると何かが違うと思うのだが何が違うのかわからない。何か発言できることがあると思うのだが、それが何か今はまだわからない。何を発信していけばいいのだろう。書くべきことがあるようにも思うのだが今はまだわからない。大丈夫、人生の時間はまだある・・・。」

 


母が亡くなった翌年-2013年2月

2024年04月07日 08時26分13秒 | 祈り

「2013年2月3日(日)

 美谷島邦子さんの『御巣鷹山と生きる』を拝読してから、あふれるような思いを伝えたくて、26日にメールをお送りした。心を込めて言葉を選んで、下書きをしてからメールをお送りした。

『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』を続けて、とりつかれたように、涙をにじませんがら読みふける。乗員名簿が巻末に掲載されている。簡単な一行、二行の行間から、一人一人の物語があること、無念さ、悔しさがにじみ出てくる。どれほどの恐怖と、悔しさと、自分の身に置きかえて考えることなど到底できないような状況があっただろう。遺族の体験もすさまじい。私なら耐えられるだろうか。『御巣鷹山と生きる』を読んでから、9歳とおぼしき男の子を見かけると、こんなに小さい子が一人で旅をして、夏休みの思い出になるはずだったのに、どれほど怖かっただろうと思うと胸がつぶされそうになる。知らず知らずに涙があふれてきてしまう。これだけ私の中にたまっているものがあるんだな。どうやって社会に発信していけるのか。

 私はMちゃんが亡くなった現場を幸いなことに見ていない。その分だけ、今も信じられない。普通に働いて、食べて、眠って、本を読んで、趣味の時間も持って・・・信じられないというのが一番だ。

やっと一歩踏み出していけそうだ。

中国旅行の日記、一人暮らしを始めようかと模索していた頃の日記、一人暮らしを始めて一年目頃の旅日記も捨てる。さよなら、愚かだったワタシ。少しずつ軽くなっていける。今まで重すぎだ。サヨナラ、若き日のワタシ・・・。」

「2013年2月4日(月)

あったかくてだるい。

変な時間に目覚めて目覚まし時計をけとばしてしまった為遅刻。すごく変な夢をみた。なぜか私がウサギの子を産み落とす。そこに心残りがあるのだろうか。もうおそい。残念ながら。かなわないことはたくさんある。仕方ない。人生はそうしたものだ。母の命日が近づいて色々と思いめぐらして不安定になっている。大変だった日々がよみがえってきてしまう。自分の幸せを考えよう。

 

1988年10月から89年2月の日記を棄てる。一人暮らしを始めようか迷った末、私は決断して家を出た。今思えばよくそんなエネルギーがあったものだ。その時母から逃げようとしているという自覚はなかったが、結果的にそれは私を救っている。身をすり減らすような思いで挑んだPSWの国家試験。何ができるだろう。どうやって思いを、経験を発信していけばいいのだろう。考え続けることをやめない。

母の病気も妹の自死も普通にはやっぱり言えない。私の中ではいつしか当たり前のようにしみこみすぎてしまった。事実は変わらないので背負っていくしかない。背負える自分で居続けるしかないのだ。

私は今普通に暮らすことができている。こうして普通にしていると全てが信じられない。夢であるかのように思える。自分の妹が自死なんてそんなことってやっぱりあり得ないんだ、自分の中で・・・。普通にあり続けることがいかに大変なことか、尊いことか。幸せになろう。自分が一生懸命生きる。それしかない。3人分幸せになろう。

母が解放してくれたんだ。背負いながら強く生きていこう。命はつながっていると思う。

隣のオジサンこわい。ドスンドスンとすごい音がするし、なぜか月曜日の5時半にすごい強い引き戸の音がする。なんだろう。夜、眠る前、部屋を出る時、不安になってついつい何度も確認してしまう。不安神経症だ。ちょっと辛いな。

早くきれいさっぱりしたいが、少しずつしか捨てられず、まだまだ時間がかかりそうだ。できれば日本を出てみたいとも思う。

『大草原の小さな家』を原文で読む。シンプルだが奥が深い。一日一日を生きることに命がけだったと思う。ローラは強くたくましく生きぬいていく。学ぶことが多くありそうだ。ゆっくり味わっていきたい。」

 

「1988年7月~10月の日記を捨てた。〇〇銀行を辞めて1ヶ月間スクーリングに出た。そのあとは家でゆっくり通信教育に取り組んでいた。母はすでに統合失調症を発症していて私は悩んでいたことが読み取れる。若くて何も知らなくってそのあと逃げることしかできなかった。それから25年が過ぎ、母がいなくなっても私の生活は変わらない。お金は慰められないが、そのことは私をとても救っていると思う。統合失調症って心の優しい人がなっちゃうのかな。今だから思える。

シルクロードの写真もようやく捨て始めている。ぴちぴちだけど愚かだったワタシにサヨウナラ・・・。すっきりして新たな一歩を踏み出していきたい。」

 

「2013年2月12日(火)

母の一周忌は終わった。昨年の今頃告別式が始まろうとしていた。今日と同じ、雪がちらすきそうな寒い日だった。今だ信じられない。実感がわかない。いつもの部屋で寝ていないのが不思議だ。Y君はすぐに救急車を呼ばなかったことを後悔している。自分を責めている。時が癒してくれるのを待つしかない。救急車で運ばれたら家で最期を迎えることはできなかっただろう。母の本望ではなかっただろうか。ただ傷のあったことは痛ましい。

父と母の衣類を整理していたらMちゃんの遺品が出てきた。母だろうか、細々とした物が箱にまとめられていた。Mちゃんがまとめた物を母がタンスの中にしまっていたのか、よくわからないが奥の部屋にあった。日記が出てくる。亡くなった年の5月6日から9月18日まで。私には辛いシロモノだ。ウツにとりつかれて幻聴も起こっていたようだ。自殺したいと思っていることが綴られている。私に相談事をしたことも綴られている。まともには読めなかった。やめよう今さら自分を責めるのは。その分まで一生懸命生きればいい。それでいい。それしかないんだ。言いきかせる。」

 

「2013年2月16日(土)

自死遺族の会に行った。日の浅い方が多くて、あふれるような思いを伝えることができなかった。言葉を失ってしまった。時間をかけて受けいれていくしかない、ということを伝えたかったのだがちゃんと伝えられなかった。人が多くていろいろな人の話をきいているうちにちょっと気持ち悪くなってきてしまったような感じもあって、私はNKでアホ大会社っていいながら働いて時々旅に出る。そんなスタイルがちょどいいのかな。家に暮らすのは辛くってできないかな、と思う。カナダで暮らすって無理かなあ。

母の病気と妹の自死-受けいれる自分であり続けるためにずいぶん無理を重ね続けてきた。自分を責めてもどうしようもない。写真に向かって、なんでこんな苦しみを残して逝ってしまったんだと話しかけても何も答えはかえってこない。ただ見守っていてくれると信じて、自分が一生懸命生きていくしかない。それでいいんだと思う。区切りをつけていこう。自分が幸せになっていくんだよ。」

 

「2013年2月18日(月)

悲しみ、苦しみ、辛さ・・・言葉に言い尽くせない色んな思いといつしか私は同化していた。それらはみんな私の体の一部になっていた。これらかも共に生きていかなければならない。なぜなのかはわからないが、背負うというよりも一緒に生きていく感じに今はなっている。

幸せになりたいと思う。天命を全うしたいと思う。ゆっくりいこう。あせることはない。できることを少しずつ・・・。

深く生きる人生になったことに感謝・・・。

土・日・祝日の予定が続いている。ちょっときついな。休みをとろう。

警察博物館の前を通りかかったので震災活動記録写真展をみた。私たち日本人は忘れっぽい。私は忘れないでいたい。こうして生きていることは当たり前ではなく奇跡なんだ。

『アンナ・カレーニナ』悲しい結末だった。なんともやりきれない思いが残るが舞台としてのグレードは高かった。一路さんのドレス姿が美しかったあ。男役の面影を残しつつ、すごく素敵に着こなしていた。最後は主人公と同化。すごいね、役者さんって・・・。」 

 


母が亡くなった翌年‐2013年1月

2024年04月05日 01時17分45秒 | 祈り

「2013年1月5日(土)

長い休みが明日で終わろうとしている。断捨離をがんばったがそれほど大量にはやれなかった。読んだり振り返ったりして、これは必要か、過去にはこんな自分がいたんだ、考えながらやるのでけっこう疲れた。それでも愚かだった自分とサヨナラするために、母がいなくなった今ひと区切りつけて、本当に自分のために生きていきたくて、今年もがんばろうと思う。まだ無理が効く今のうちだと思う。もう少し年をとれば今抱えているものを管理できなくなる。その前に捨ててしまいたい。捨てようとしているものをみると、これだけのモノを一人で抱えてきて本当に苦しかったなあと思う。よくがんばってきた、えらいよなあ。もう少し進んで落ち着いてきたらまた東北に行きたいし、放送大学で学ぶなどしたい。私がやるべきことはあるはずだ。自分自身の体験を少しずつ発信していきたい。

このまま埋もれてしまってはいけない。ドロドロのきついことに耐え切れなくなったら逃げればいい。そんな立ち位置でやれることからやっていきたい。もう自分を責めてもせんない。私の命にも限りがある。色々思い始めれば切りがないがもうやめよう。ただ、母と妹がおしえてくれたことをつないでいきたい。それだけだ。

夜になると、家を出ようとすると不安がおそってくる。今年も不安神経症との闘いは続く。」

 

「2013年1月13日(日)

 休み明け、狂騒曲は終わって日常に戻る。仕事がたまって忙しいせいもあるが、マニュアル通りのあいさつ、心のこもっていない、頭を使っていない店員や色々な問い合わせのコールセンターの対応はやっぱり気持ち悪い。ご本人様様確認っていちいち言われるの面倒だし、なんか変な世の中になったね。人と人との関係はドロドロとしたものでマニュアル通りなんてあり得ない。理屈では説明し切れないことばかりだ。直感が働く、感性ってすごく大事だと思う。あんまりマニュアル通りばっかりやってると応用がきかない、頭でちゃんと考えられない人があふれかえった世の中になっちゃうよ。人はいつかみんな死ぬんだ。そう考えたら何が大事か自ずとみえてくると思う。死の自覚、こわいが大事だと思う。

 初めての一人旅、昭和59年2月14日~16日倉敷・宮島。今でもおぼえている、父に許してもらうのにドキドキして途中で母に電話したりした。カナダまで一人で行く私が笑っちゃうよね。その旅の記録をすてる。父も母も妹も、もういない。新しく踏み出して行くために、思い切って捨てていく。さよなら、若き日のわたし。歳月は流れた。」

「2013年1月15日(火)

 人が生きていく営み-それは先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめた命なんだと思う。

 河合隼雄さんと小川洋子さんの対談集を読んであらためてそう思った。日本の祭りには、そうした命への鎮魂がこめられている。

 日航機墜落から25年以上が過ぎた。9歳、はじめての一人旅で事故に巻き込まれた男の子のいたことがでてくる。お母さんは行かせなければよかった、その悔いをずっと背負っていかなければならない。

 なぜそうなったのか、答えはない。理屈では説明し切れない。宇宙の中で理屈で説明できることなんてほんのぽっちりだ。だから、理屈を一生懸命語ろうとする人たちに違和感を感じている。きちんと理論立てて言えるなんてまとまりすぎだ。現実は混沌としたもので偶然の重なり合いで幸運だったり不運だったりする。それは人間の力ではどうすることもできない。9歳で逝ってしまった男の子の命は次の命へと、どこかでつながっていっていると信じたい。

私は家族の命をつないで行きたいと思う。」

「2013年1月19日(土)

晴。昨夜はすごく寒かったが今日はわりと暖かい。布団をほしたらふっかふか。生きていることを実感する。

インターネットで日航ジャンボ機墜落を検索したら、亡くなったスチュワーデスさんとその遺族の物語に出会った。事故現場の生々しい記述もあって頭の中に残ってしまう。夏休みで子供たちもずいぶんいたのが痛ましい。現場近くの自衛隊が拠点とした小学校に通っていた子供たちは亡くなった子供たちの分まで一生懸命生きているそうだ。助かった当時中学生だった女の子は亡くなったお母さんと同じナースになって、阪神淡路大震災の時不眠不休で働いたそうだ。なぜそういう巡り合わせになったのか、答えはどこにもない。全ては神さまが決めた偶然の重なり合いだ。理屈ではない。

人が亡くなるということは、事故でも病気でも自殺でも、遺族、つながりのあった人はみんなきつい。受けいれて生きていかなければならない。

私にできることがあるのではないか。発信していくべきことがあるのではないか。具体的になにをどうすればいいのかわからないが、気持ちだけ熱くなっている。現実にはそんなにドロドロに耐えられないと思うが・・・。

命はつながっている。母の命も妹の命も父の命もムダではなかったはずだ。残った者は一生懸命生きるしかないと思う。」

 

「2013年1月20日(月)

 とりつかれてしまっているのだろうか、はたまた勝手に思いだけが空回り?突然人がいなくなる。理由はいかにせよ、残った人がどんなに大変か、共鳴してしまう。ノンフィクションを読めば追体験して自分に引き寄せて深く心に沈殿し疲れてしまう。私にできることがあるのではないか、どこに行けばいいのかわからないが手伝えることもあるのではないか。ドロドロの現実にどこまで耐えられるのか・・・。

愚かだった頃の私を忘れたい。過去は消えないが忘れていくことはできる。昨日は1991年2月の北海道の旅日記を処分。立風書房を辞めた後、バブル崩壊の前でハケンでテキト‐に気楽に働ける所をみつけられるだろうぐらいにしか考えていなかった。なんて愚かだったんだろう。断捨離の実感がようやくもててきた。まだまだあるが少しずつやっていくしかない。

人のウワサをしたり、悪口を言ったりするその黄色い声は赤の他人であってもすごく疲れるね‐。」

 

「2013年1月23日(水)

 日航機墜落事故、関連本を読み始める。9歳の男の子を亡くしたお母さんが書かれた本。事故をすごい自分のエネルギーに変えて強く生きておられる。旦那さんのお兄さんは統合失調症だったそうだ。50歳を過ぎてPSWの資格をとり、今は施設を運営されているそうだ。本を出す後押しをされたのは柳田邦男さんだとあとがきにある。自死をした息子さんの臓器提供するまでを綴られた『犠牲』とつながってくる。私の中で色々な思いが湧きあがってきていて今ここでは書き切れない。ただ今自分が感じていることをちゃんと言葉にして外に出していかなければならないような気がする。

誘われてしまっているのだろうか。私にはこういう本を読むのはすごくきついはずだ。でも何かしら湧きあがってくるものがある。身近な人間との突然の別れを経験しないかぎり、死に対する意識を持ちながら生きている人はそれほどいないだろう。だが、私たちは東日本大震災を経験した。日本的な弔いにちゃんと向き合うべき時にきているのではないだろうか。

悲しみは乗り越えていくものではなく、同化しながら生きていく‐もう一度だけと思っても逝ってしまった者は二度とは帰ってこないからだ。でもいつも見守られている。空から見ていてくれるのだ。

私のこの命があるうちに何かやるべきことがあるのではないか、それは何か・・・現実には誰も私を必要としていない。思いだけが空回りし続けている。」

 

「2013年1月25日(金)

 心が揺さぶられ言葉がオリのように沈殿していて書かずにはいられない。私にできることが、やるべきことがあるのではないか、でもそれが何かわからない。発信できることがあるのではないか、何をどうやって・・・、思いは空を舞い空回りし続ける。

心が揺り動かされてどうしようもなく、Y先生に電話して話をきいてもらった。物事には出会うべくして出会うタイミングというものがある。本との出会いもそうだ。

断捨離を続けて母の一周忌を機にあらたに生き直していきたいと思い続けている今、亡き人と共に生きていく、そのことがようやく自分の中にストンとおりてきた。自分を責め始めればキリがない。真っ白な時間を体が忘れることはない。その事実を引き受けて生きていかなければならない。引き受けられる自分でいるためにはピアカウンセリングも必要かな。私の話は普通に喋るにはとりとめもなく、内容もきついようだ。のたうち回るような思いの日々を糧に生きていくしかないんだ。どうしてなのかはわからないが、それが私に与えられた役目なんだ。

アルジェリアの人質事件、80歳を過ぎて我が子に先立たれた母がいる。こんな地獄のような時が何故訪れるのか、その答えはどこにもない。思いは空をさまよってどこにもたどり着くことができない。心がいたい。どんなに大変だろうと思うと言葉にならない。

1985年5月3日から一週間の北海道旅行の日記を間もなく棄てようとしている。Mちゃんのbirhdayじゃないか。それから6年後に自死する日が訪れようとは、こんな思いの日々が訪れることになろうとは夢にも思わなかった私がいる。家にTELしたら母の様子が変だった、と私は書いている。発症の予兆はあったのだろうか。今となっては、もう何をどうすることもできない。愚かだった私、若かった私とサヨナラするために断捨離を続ける。

サヨナラ、若かりし頃の私・・・ひとつひとつ別れを告げていく。新しい一歩のために・・・。」

 


父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年‐2011年12月

2024年02月22日 16時30分50秒 | 祈り

「2011年12月3日(土)雨

 これ以上やっていても病気になっちゃうようなあと思いながら、やるとなるとマジメになってしまう。かといって、誰もほめてくれない。弱い者に矛盾のシワ寄せがきえいるのを上の人たちも見て見ぬふりだ。それにしてもどうしてわざわざねじれ現象を起こすのか不思議でならない。上に行くと、ほんとに下のことがみえなくなるんだなあ。隣の席の人と話をしないというのはアメリカ式だそうだが、日本はいつからこんな国になってしまったのか。支え合うという文化があったはずだ。

それにしても目がチカチカしてつらい。明け方、大きな地震があった。不安だなあ。スキャンをどんどん進めて整理していきたいが今日はやれない。

自分にお休みをあげないと病気になってしまう。これからヨガに行くぞ!

それにしてもあの席はいやだ。

こんなにがんばってやってきて、今さらいやな思いをしながら、こらえながら、やらなければならないなんて、さっぱり意味がわからない。

私はこれからどうすべきなのか、何をやるべきなのか、今だみえず。意味のわからないことをやらされる、あるいはただ振り回されるってつらいよね。こういう怒りをかたちにできないものだろうか。

気づいた方が負け。

ほんとのバカってバカだっていうことに気がつかなくってバカなんだよなあ。」

「2011年12月10日(土)at.イタトマ

疲れている、ヘタっている。

ガチャ目からくる偏頭痛。アホくさい、面倒くさい、へんちくりんな組織の中での矛盾との闘いの日々。矛盾は誰かが引き受けることで成り立つ。それは弱い者の立場にくることが多い。全く上にくる人達ってどうしてばかなんだろう。何かがおかしい。気持ち悪い。それを感じて、外に向かって表現していくことは難しい。

私がストレスの固まりとなって坐っていれば周りもさぞかしやだろう。何しろあいさつがってろくにしないのだから。でも私はこの怒りを自分の中でごまかしていい顔するつもりなんかない。だってヘンなモンはヘンだ。同化することなんかできない。非常に疲れるが自分を曲げるつもりはない。

社会の中のシステムもシステムも組織の中も電車の中もヘンだらけ。なんだかヘンで気持ち悪いと感じているのは私だけではないようだが、少数派なのかなあ。

あんなにすごい地震と津波と原発事故。何事もなかったかのように時がすぎているが、もうその前に戻ることなんてあり得ない。たしかに何かが変わったのだ。日本がいい方向へとより深くあたたかい国へと生まれ変わっていけばいいのだが残念ながらそうではないようだ。この国は大丈夫なのかなあ。荷物を減らして移住したい。

自分はどこへ行くべきなのか。何をすべきなのか、わからない。生きられる時間はかぎりがある。この感性の揺さぶりを忘れてはならない。能面で過ごしているがその内側にはすごく深いものがあおる。それが私なんだ。何が悪い・・・!!」

「2011年12月14日(水)くもり

全く暑苦しい。ヒマな奴らはうるさい。プリンターの廃熱と空調の風邪で暑くて仕方ない。この面倒くささに耐えられないなあ。

震災孤児が1500人いるという報道をみた。被災地に行けない自分、何もできないでいる自分がもどかしい。不安が強くて仕方ない。なんだか世の中の空気が不快で仕方ない。何かが間違っている。そう私の体が叫んでいる。それをこらえなければならない。きついなあ。組織は疲れる。もういやだ。上の言うことに有無を言わせない。風通しの悪い会社なんて最低だ。

水よう日、いちばんつらい。自分は本当になにをすべきなのかわからない。あまりねてないし生理がきたがっているのにこないのがすごくつらい。

土よう日、ちゃんと長野に行けるだろうか。」

「2011年12月18日(日)13時32分 善光寺近くにて

なんとか予定通り新幹線に乗って長野へ来た。雪がちらちら降って寒い。信州の山々に囲まれて久しぶりの小さな旅。非日常の時間を過ごしている。

軽井沢になると、山々が広がってきて嬉しくなった。なんだかすごーく懐かしい空気感。佐久平では小海線の文字。清里、よくきてたよなあ。

駅からホテルまでの道が最初はわからなくて、思いのほか、やはり時間がかかった。14時からの吉村さんの講演会になんとか間にあった。1枚1枚に込められた撮影に至る裏話と熱い語り。なつかしさと斬新さが入り混じった。展示スペースに一枚一枚飾られた写真は、本でみるよりもさらに生活感にあふれ、エネルギーをもってせまってくる。石巻の光景を思い出しながら、一枚一枚じっくりみていく。美しいなあ。日々の営むに裏打ちされた人の持つエネルギーにあふれていて美しいなあと思った。

当たり前の生活、それがどれほどかけがえのないものであるか、あらためて思う。色んな物が規則正しくごちゃ混ぜになった日本だけがもつ美しさ。そこに気づいた吉村さんの感性に脱帽。

組織の中で感性は邪魔だと思う。それでも私は感性をみがき続けることを忘れてはならない。だって、私はMちゃんが自死したことを背負って生きていかねばならない。のたうち回るような思いで過ごしてきた時間。やわらいではいるが事実は変らないのでこれからも葛藤は続いていく。私にはMちゃんがおしえてくれていることを受けとめ、社会に還元していく義務がある。ただ今は方法がわからない。具体的に何をすべきかがわからない。

闘いの日々、自分がつぶれないために『赤毛のアン』とPEIは必要だ。

ベストしょっと8枚のうちの1枚、フレンチリバーに鉛筆で丁寧にサインをしてくれた。差し出した時吉村さんは8枚セットであると思ったようで、「これだけ」とびっくりされた。あとの7枚はまた次回。申し訳なかったです。すみません。ありがとうございます。額に入れます。

『光るふる郷』と『リンゴの里の物語』も購入してサインをもらった。絶版になっているんだ、勿体ない。夜ホテルの部屋で一枚一枚堪能した。

雪がちらつく中を2時間ぐらいかけて善光寺参り。真っ暗な御戒壇巡はこわかったが、光がみえた時何か突き抜けたような思いがあった。仏様の手とカウンセリング・・・。

色々な思いの中から私の言葉はふりしぼって出てくる。ひとつひとつが重く、かんたんではない。

自分を信じてこれからも闘い続けていく。エネルギーをふりしぼって帰路につこう。なつかしい信州の息吹き、しばしば幸せだった。Mちゃんを思い、母の病気を背負いながら闘いの日々は続いていく。」

 

手帳に書き留めていた『赤毛のアン』の原文、

'But it,s so easy to imagine there is,'said Anne.

'Every night,before I go to bed,I look out my window and wonder

if the dryad is really sitting here,

combing her locks with the spring for a mirror.

Sometimes I look for her footprints in the dew in the moring.

Oh,Diana,don,t give up your faith in the dryad!'(P.146)

 

「でも妖精がいると想像するのは何でもないことよ」アンはいった。

「私は毎晩寝る前に窓から見ているのよ。木の要請が本当のここにすわって、泉に姿を映しながら髪をといているんじゃないかと想ってね。朝は朝で朝霧の中に足跡が残っていないか、探すこともあるわ。おお、ダイアナ、木の陽性がいないなんて言わないで!」

(松本侑子訳『赤毛のアン』第21章「風変わりな香料」より)

 

思い出すと苦しいカイシャ、思い出すたびに苦しいカイシャ、こうして無印良品の手帳に『赤毛のアン』の原文を書き付けて持ち歩くことでなんとか自分を奮い立たせていました。

長野で購入したサイン入りの写真集は、他の写真集とあわせて一昨年バリューブックスに売りました。いつかこの世での旅は終わるのでずっと持ち続けるわけにはいかず仕方なかったと思います。残念ですがコロナワクチン3回目接種の投稿をみてからSNSのフォローもブログをのぞくこともやめました。ほぼ食塩水のロットでなにも起こっていなければいいですが知るのがこわいですわ、接種しなければ海外にいくことができなかったという事情がありますが亡くなる方後遺症で苦しむ方の声があがるようになってからも海外にいくために接種を推奨されていたのはちょっと信じられませんでした。残念です、ものすごく。コロナ騒動によっていろいろなことがあぶりだされました。震えます。

30年間衰退してきた国、政策が悪すぎるのを巧みに自己責任ということばにすり替えてきた自民党政治、自民党はグリーバリズムの政党、日本はアメリカの傘下にあり今だ独立することができていない国、今だ戦後が続いている国。働いた方が負けな国、働くの苦しすぎました。

 

善光寺

 


母が亡くなった年-2012年1月~2月

2024年02月10日 15時21分16秒 | 祈り

母が突然いなくなって12年が過ぎました。過去を振り返っても仕方ないとわかっているなれどいまだ成仏しきれない思いの数々、1か月後に突然母がいなくなることなど全く思いもしなかった時の長いひとりごと。会社でのストレス、凄すぎました。生まれる前からの右足股関節脱臼を今さら恨むこともできず、さりとて自分の気持ちの頑張りでどうできることでもなくさらに気持ちのやり場なし。

 

「2012年1月21日(土)雨時々雪かなり寒いatスタバ

今被災地はどうなっているのだろう。何もしていない私。でも忘れない、考え続けている。それもまた私にできることだ。

ここにいると病気になりそうだ、そう思っても今はやめられない。次にどこへ進んだらいいのかが見えてこないからだ。ただ永遠の場所ではない。自分に与えられている役割を見つけ出そうとする心の旅を私はやめない。だってのたうちまわるような思いをしてきたのだ。何か社会に還元したい。発信したい。仕事以外は不快なことも不要なこともしたくない。

秋のPEIに行こうと思う。10月中旬。紅葉のPEI。一人で行こうとしている。大丈夫だろうか。できるだけ無理のない日程を組みたい。カナディアンロッキーにも少し足を延ばしたい。アンが9月と11月の間にあってよかったと言っている10月のPEI。日本の12月ぐらい寒いだろうが美しいだろう。

『赤毛のアン』の原文を最初から少しずつ読み始めている。わからない箇所もたくさんあるが、翻訳ではわからない細かな気づきがあり、作者の踊るような息づかいが伝わってきて何かエネルギーが満ちあふれている。アンが、マシューが、マリラが、私の前に立ち上がってくるようだ。季節感あふれる自然描写、妖精の描写などにも注目したい。今どの季節が描かれているのかに注意しながら読み込んでいきたい。一生の間に全文を読んでみたい。何度も何度も読みたい。本を読む時間をできるだけつくっていきたいと思う。

2012年1月24日(火)

朝は昨日のべた雪が残っている。寒さはそれほどでもない。断捨離中。必要のないものはもういい。でかい地震がくる前にすべてを整理してさっぱりしたい。4年以内に70%の確率でくるという発表がなされた。研究者たちは千年に一度という3.11を何故予測できなかったのだろう。2日前に大きく揺れた。前兆はあったのに何故?

人は愚かなものだ。過去の教訓を忘れていく。どうしてこんなにくだらないオヤジや男が多いのだろう。世の中何かがおかしい。なのに時は過ぎていき何でもないような顔して生きている。でも3.11は現実だ。自然への謙虚さを私たちは忘れてはならないはずだ。

どこに逃げ出せばいいのか、どこに行くべきなのか、今だ見えず。

指示的なことを言われるのがいやなのでそういうつきあいはもやめたい。アケさんから繰り返し手紙がくるのでそっとしておいてほしいという便りを書いた。どう受けとめられるのだろう。

被災地ではご遺体の捜索がまだ続いているのだろうか。胸が痛む。みんなもっと考えるべきだ。何かがおかしい。」

 

「2012年2月4日(日)晴、川和グループに行った

こらえなければならない。悔しいが必死でこらえなければならない。更年期障害と状況とでうつにとりつかれてイライラしてしまっていてすごくつらい。それでも私はその先にやるべきことがある。だから今負けるわかにはいかないのだ。女性ホルモンを補う薬を処方してもらった。楽になるといいな。

地震がくるかもしれないという警告に対しても人によってかなり感度は違うようだ。私はいま自分のできる範囲で自分のできることをやりたいと思う。一人一人がそう考えたら事態は少し違うんじゃないかという気もするが、状況によって、年齢によって、受けとめ方に広がりがある。今の社会のシステムの中でどこまで人の命は守られるのか。最悪の状況にならないことを、自分が巻き込まれないことを祈るのみだ。

オヤジは気持ち悪い。会社も気持ち悪い。色んなことが気持ち悪くって仕方ない。今はこらえるんだ。逃げながら、息を抜きながらこらえるんだ。この先ずっとこの会社にいるわけではないのだ。

本を書きたい、漠然とだが思っている。妹の死と正面から向き合うのはつらい。でも何か自分だからやらなければならないことがあるような気がする。思いあがりだろうか」

 

 2011年3月11日午後2時46分、ぼろビルの6階だったか、突然の大きな揺れ、一度目よりさらに大きな横揺れにこれで死ぬのかと一瞬よぎった時の恐怖を忘れることができず怯えていました。「絆」に違和感しかなく、色々なことをおかしいと感じていました。残念ながら今の日本はこの頃よりもさらに陰湿で気持ち悪くて異常です。この頃、政治腐敗がひどくてどうしようもないという政治学者の嘆きを某一流大学の講演会でききましたが、2024年になった今さらにどうしようもないほど腐敗していることがつまびらかとなってきました。脱税行為をしている犯罪者たちが国会の場で増税を検討しているなど終末期の様相を呈しています。コロナ騒動になるまでわかっていませんでしたが、人口動態をみればこの国の先は真っ暗、この10年間でさらに凋落した結果の当然の帰結。失われた30年間をなんとか生き延びてきましたが、滅亡まっしぐらの日本がわたしよりも先に終りそうです。希望をもてる要素がほぼありません。

 


母が亡くなった年-2012年2月~3月

2024年01月15日 16時22分59秒 | 祈り

 突然訪れた母とのお別れの直後の手帳日記、東日本大震災から11か月後、一部上場の大会社で働きつづけていました。日本が相当おかしくなっていることにうすうす気づいてはいました。その後労働紛争となり、行政の仕組みは私たちを守るためにあるのではないのだと思い知らされることになりました。でもここまでおかしい国だとは思いませんでした。どこかに希望があると信じたい気持ちがありました。衰退途上国、失われた30年間、この頃はまだ20年でした。このあと10年で日本はさらに坂を転がるように自ら首をしめあげて衰退してきていたのだということをコロナ騒動が知らしめてくれたのでした。東日本大震災で生まれ変わることができなかった日本、今が生まれ変わるほんとうに最後のチャンス。もう後はありません。

自分なりにがんばってきたつもりでしたがなにもできなかった人生、たどりついたのは「損益分岐点は80歳です」、生まれる前からの股関節脱臼による変形性膝関節症末期。与えられた役割があるとかきれいな話は幻想にすぎませんでした。

 

「2012年2月19日(日)晴・寒い

 がんばってフォーウインズ(乳幼児精神保健学会)のセミナーに行った。半分ぼうっとしていて、なぜだか最初(信濃町の隣の)千駄ヶ谷駅で降りてしまった。何度もきている(セミナー会場の)信濃町駅のはずなのに・・・。やはり、どこか普通ではないのだろう。ぼうっと行ったが内容は深くて情動的に揺さぶられ、感慨深いものがあった。

あらためて自分はしなくていい苦労をし、無理を重ね続けてきたんだと思う。自分が普通に生きることとに目が向かず、母と妹のことを受け容れたい、理解したい、その一心で葛藤し続けてきた。もう何年もそういう時間が続くのだと思っていたのが突然幕が降りた。今はどうすればいいのかわからない。きっとこれから3人分生きることが自分の役割なんだろうが今はよくわからない。気づいたら子供は産めない年齢になってしまった。でも、ここまでやっていなかったら、自分を責め、悔やむことになっていたように思う。母に病気の症状が出始めた頃は、くそばばあとののしり、この人から産まれたことをどれほどのろわしく思ってきたかしれない。20年以上かけて、お別れの時には78年間よくがんばったね、産んでくれてありがとう、と言うことができた。
父と同じ週末、同じぐらいの時間、タイミングと状況があまりにも似ていて、これ以上子供に苦労させるな、と父が迎えにきたのか、母が淋しくて父のそばに行きたかったのか、その両方なのか。

母との最後の会話は11月、フォーウインズの大会のために帰省した時だ。「お母ちゃん、人に迷惑かけんようにがんばっとるけど、最後はたのむね」。
母に何か予感があったのだろうか。この不思議なめぐり合わせは言葉では説明がつかない。科学では解明できない、神様が決められた“縁”のようなものがある。

結婚と出産には縁遠かったが、母と妹はたくさんのことを教えてくれた。それらを受けとめつないでいくことが私に与えられた役割なのだろうが今はわからない。母がいなくなって涙がでるなんで思わなかった。こんなに空虚感を味わうなんて思わなかった。幼い頃のことなどやたらとフラッシュバックしたり、色々にどよめいている。がんばってきた自分をほめてあげながら、今は思いの中にどっぷりつかっていよう。

きっとこれから新しい人生の始まりなんだろう。何ヶ月か先、気持ちが落ち着いたら自分にできることを見つけていこう。利潤追求とは違うところで、ボランティアなど、やれることをやっていこう。今はPEIにいくこと、『赤毛のアン』を原文で読むことが心の支えだ。これ以上のことはやれない。精神世界への扉を開いてくれた。そのことをどうやって受け取めればいいのか今はわからない。

今はPEIに行くこと。アンの原文を読むことが心の支えだ。これ以上のことはやれない。精神世界への扉を開いてくれた。そのことをどうやって受けとめればいいのか、今はわからない。

                ドトールにて、

 

W先生は心があつい。すごい方なんだとあらためて思う。」

 

「2012年3月3日(土)晴、時々くもり

少しあたたかくなった。

久しぶりに5日間フルにはたらいたのでかなりへばっている。職場の空気はすごく悪い。上のバカなオヤジたちの思い付きで行き当たりばったりに動かしたり切ったりするからだ。こんなに変ちくりんなのに気づかないなんて、組織の上に立つ者たちの考えることは全くわからない。これまでのやり方、考え方ではもう組織も日本もやっていけない。震災と原発事故をきっかけにみんなで考え変わっていく時なのに、もっと本を読んで話し合って方向性を見つけていかなければならない時なのに、そのことにどれだけの人が気づいているのだろう。なぜ上に立つ者たちは自分を守ることしか考えていないのか。日本に希望を感じられないのでできれば逃げ出したいがどこに向かって何を目指してこれから生きていくべきなのか今はわからず、相変わらず悶々としている。私は何をすべきなのだろうと。神様はどんな役割を与えてくださっているのだろう。社会に目がむいていない小さい人とは話できないなあ。

組織のつまらないことはどうでもいい。

哲学書と文学書を読みふけって”怒り”について考えていきたい。先ずは今背負っているものを全部おろしたい。それだけでもまだまだ時間がかかりそうだなあ。あせることないか。

私に残された時間は30年か40年か。どれだけのことができるだろう。仕事でへばっている場合ではない。PEIにもイタリアにも行きたい。負けるもんか!!」

 

手帳に書き留めていた『赤毛のアン』の原文、

Anne permitted herself to be led down and comforted,reflecting that it was really providential that Mrs.Allan was a kindred spirit.Nothing more was said about liniment cake and whe the guests went away.Anne found that she had enjoyed the evening more than could have been expected,considering~


母が亡くなった年‐2012年5月~7月

2023年10月31日 00時34分57秒 | 祈り

無印良品の手帳に書きつけないではいられなかった、いまだ成仏できないでいる思いの数々。結局なにもできませんでした、どこにも辿り着くことができませんでした。

残念ながらこの頃おかしいと感じていたことは間違っていなかったとコロナ騒動を通して確認することになりました。コロナ騒動を通してみえてきた日本の姿は肌で感じていたよりも絶望的。東日本大震災の翌年、生まれ変わる最後のチャンスだったのに全てを「絆」で覆い尽くした日本はさらに後退しました。なにも変わらないどころかさらに悪くなりました。30年間衰退への道を歩んできた日本の先は人口動態みれば真っ暗。

 

「2012年5月22日(火)雨、寒い

場所によって、日によって、すごく冷房がきいていたり、寒かったりですごく体が冷えている。

変な天気が続いていて、夜になるとたまらなく不安になって落ち着かない。隣のオジサンのいびきやドスンというでかい音が聞こえるたびにびくっとして恐ろしくなる。家を出るとき火事で部屋がなくなってしまうのではないかと不安になる。何度も何度もコンセントや鍵を確認してしまう。出かけるのはすごく疲れる。

古い日記はスキャンしたら現物は捨てていこうと思う。いつか捨てねばならぬものだ。荷物を減らしてすっきりしたい。身軽になりたい。そしてあらたな人生を歩き始めたい。まだまだかかるなあ。

 

2012年5月26日(土)晴

急に夏になった。電車の中と会社の中がつらくって仕方ない。着れば汗だくになってくるし、でも風があたるとひやっとして気持ち悪い。火曜日まで寒かったし、すごく体が冷えている。突然、一年半ぶりぐらいかなあ、生理がきて軽いが一週間ちょっと続いた。

変な天候が続いているし、夜一人で部屋にいるとすごく不安になる。自然の猛威の前に私たちは無力だ。原発もまだわからない。国外避難勧告が出る時、あるいは自ら国外に出ようと決める時のために身軽になりたい。

母がいなくなって私は自由になった。もう縛られるものはなにもない。これからどう生きていくべきか、何をすべきか、わからない。NKは内向きすぎる。いやNKだではない。上の世代が下の世代を食いつぶす。年金を払わされてもそれは戻ってこない。そんなことはとっくにわかっているのに、今組織の上にいる年寄りたちは自分さえよければいいのだ。それはNKにとどまらない。若い世代がツケを払わされる。そんな社会のありようは少しは改善されていくのだろうか。なんでみんなそんなに何も見えないフリをしているのだろうか。それとも本当に見えていないのか。

久しぶりに何もない休日、スキャンと読書を進めたい。『赤毛のアン』を日本語で読み返し、さらには原書もあたってみたい。シェイクスピアの朗読CDも購入したい。今はそんなことに夢をふくらませている。あんまり病気のことや自殺のことを考えているのはきつい。忘れて楽しむんだ、時には。

古い日記ノートを一冊捨てた。忘れたい若かりし頃の私。それなりに一生懸命生きていたが愚か過ぎた。少しは荷物が軽くなっただろうか。

 

2012年5月28日(月)

機械的なマニュアルどおりのことが多すぎて気持ち悪くって仕方ない。アメリカ式のマクドナルド化がますます増えてきている。コンビニ、ファーストフード、色々なモノはあるが、何かが大きく違っているような気がする。なにか大切なものが欠けているような違和感。

心のこもっていない「ありがとうございます」「また起こしくださいませ」の繰り返し。それを心地いいろ感じている人はあまりいないのだろう。無言で立ち去っていく人が多い。

自然がいつまた牙をむくかわからないし、すごく不安で落ち着かないこの頃。荷物を軽くして海外に逃げたいなあ。このまま日本で暮らし続けるのは不安で仕方ない。まだまだ時間がかかりそうだ。あー、落ち着かない。

2012年6月2日(土)

くもり、変テコな天気が続いている。昨日も大きな地震があった。なんか不気味だなあ。こわいなあ。3.11を思い出してしまった。風化しつつある震災、原発事故。なにかがおかしい。

思いのこもっていないオウム返しのような言葉の繰り返しの気持ち悪さ。それを本にしている作家がいることを知ったのでさっそくアマゾンで買ってみた。マニュアル通り、機械的ね、なんか気持ち悪い。社会の仕組みがおかしい。もう限界だ。私にはこの変テコな世の中を上手く切り抜けていく力はこれ以上ないと思う。これ以上無理だ。明らかに変テコなのに、現実と合わないのに梅が決めてしまったタテマエに合わせなければならない組織。

人はなんと愚かなのだろう。わたしの感性ではもう無理だ。私には自分にウソをつきながらテキトーに上手くやっていくこともエライ人達にいい顔することもできない。だってそのせまい世界の中だけのことだぜ。つまらねぇ話じゃないか。第一私は自分の思いがなければことばとして発することはできない。こんな変テコな状況を我慢するだけで必死なんだ。もうやめてほしい、こんな気持ちの悪い、自分が何のためにいるのか、自分の役割が何なのかわからないような状況は私にはもう無理だ。真面目に働くのがばからしくなってきた。なんかやってられない。色々気づいてしまう分だけ損している感じがする。気づかなければいいし、もう少しいい加減に、テキトーにやっていればいいんだよな。なんか変テコな世の中。一生懸命、真面目に働いていればいつか報われるという社会ではなくなった。上の奴らがちゃんとみえていない。どうして権力をもつと人はみえなくなってしまうのか・・・。

もうすぐ〇〇才、私はこれからどうやって生きていけばいいのか・・・。

Mちゃん、おしえてほしい。

私はこれから何をすべきなのか。限りある人生の時間。あんまり無駄にストレスためてもしょうがないや。

2012年6月28日(木)

なんか変なの、すごく変なの。この怒りをこらえなければ勤め続けることはできないのだがこの気持ち悪いイヤーな気持ち、もう限界だ。なんだかなあ、だっておかしいよ。株主様のために立派なじゅうたんが敷かれているのをみて、シュルシュルとやる気がうせている。株主様の利益のために私らは働いているのか、株主様からの数字の追及のためにさんざんリスクを背負わされてきた。複雑な気持ちだ。数字のためにいちばん底の一生懸命働いている人に灯りがともらないなんてすごくおかしいよ。私は今怒りでいっぱいだ。こらえるしかないのだが、おかしいよ。会社って誰のもの?だ?

2012年6月17日(日)

言葉は記号化し魂がなく、のっぺらぼう、発する人々に個(主体)がない。同じ言葉の繰り返し。集団化。デジタルが進んだ一方言葉に対する関心が薄くなった。3.11を表現し得ている言葉がない。私たちはそれに耐えるだけの言葉をもっていない。やっと自分が感じ続けている気持ち悪さの理由の一端がみえてきたような気がする。一言一言、真実味のない言葉を機械的に発せられることに、いつの間にか私たちは慣れ過ぎてしまっていた。今の社会のシステムの中では、ひとつひとつの言葉のもつ重みが希釈されすぎている。

U田さんに言われた「不安の先取り」という言葉がずっと残っている。彼が批評しようとして言ったわけではないことはよくわかっている。だが、私にはこう聞こえてしまった。

相次ぐ両親との別れ、しかも突然に、妹は自殺している。震災・原発自己。事故は終わっていないのに再稼働。自分の中でどう消化したらいいのかわからない。人の命が関わることでどう受けいれていけばいいのかわからないことが続いている。こういう私の全体の中から、仕事用の顔だけを切り取って仕事用に合わせていくなんて器用なことは私にはできない。気持ち悪い。おかしい。変てこりんだ。神経症な面はたしかにあるがおかしいではないか。実態の伴わないタテマエにこれ以上ついていくことができない。二者択一の選択肢しかないドライなシステムの中で決めるしかないのだが、なんとも気持ち悪く言葉に言い表しようながない。実態とタテマエの乖離に私はこれ以上ついていくことができない。私はこれから何をすべきなのか、どこに向かえばいいのかわからない。わからない、みえてこない。私はこれからどう生きていきたいのか。

日本を逃げ出したいなと思う。このままがんばっても行きつくところがみえてこないのだ。地震と原発もあるし、いつ今の生活をあきらめて難民にならなければならないのだろう、と不安でどうしようもなくなる。荷物減らしを必死でやっている。人に読まれたくない日記はデジタル化して捨てている。ただのデータいなってしまうが仕方ない。

過去の会いたくない自分に出会うのは疲れる。だが今ここを超えなければ次はみえてこない気がする。今しばらく辛抱して進めていこう。1994年9月21日以降のものはどうするんだろう。もう少し考えてもいい。

モンゴメリさんの魂の中から紡ぎ出された言葉が『AnneofGreenGables』にはある。だから難しくても読むことができる。真実を見極められる感性をこれからも磨き続けていきたいと思う。魂のない、のっぺらぼうな言葉たちにはうんざりだ。残念ながらそういう言葉をたくさん我慢しないと現実には生きていけないのだが、現実にまみれた中からみえてくるものでなければうすっぺらなものになってしまうと思う。

 

2012年6月24日(日)

昨日最寄り駅で人身事故、それでもこうして何事もなかったかのように時は過ぎていく。人が一人いなくなっても何も変わらない日常。インターネットで検索したところでは、女性が下りの特急に飛び込んでしまったらいい。停車しないからスピードでてたよね。運転士は、乗客は、ホームにいた人は・・・、考えるだけでぞっとする。私は幸いなことに救急車、消防車、パトカーをみただけだ。搬送されるのもみていない。自分が毎日利用している駅できついよな。駅ビルの中で爪の手入れをして少しすっきりしてほっとしたあとだったのに、ずっといやな気持が続言え要る。あんまりきついことに私は耐えられないなあ。きついことを仕事としてやっている人はたくさんいる。普段仏さんと対面することのない人たちがたくさん震災で死と対面してPTSDになっている。どれほど地獄のような有り様だったのか、私たちは目をそむけてはならない。きつい話だが、むごい話だが、人がモノ化する。いつ、いかなる時にそれは起こるかわからない。私もその一人だ。やめよう、今はきつい。母が亡くなったばかりで受けとめられない。私に何ができるのか、なにをすべきなのか。人が人のためにできることなんてたいしたことない。これから何をすべきなのかわからない。ただ明白なのは妹の死という事実とおりあいながら生きていかなければならない。親がいなくなってなんとも足元がおぼつかない。ほんとに一人なんだと思う。夜半すごく不安におそわれてこわくてたまらない。落ち着かなくなって眠れない。PEIを写真をみてなんとか平常心を取り戻せる。いつも身構えていてすごく疲れる。本を読みたくて予定のない休日はすごく嬉しい。寺田寅彦の『天災と国防』、震災の記述を集めた本を本屋で見つけて読み始めた。生きた言葉は80年たった今もエネルギーを放つ。エネルギーにあふれた言葉をたくさん読みたい。今そういう言葉にかつえている。何かひとつ自分の中にストンと落ちないとただ楽しむなんてもうできない。それがいつ来るのかはわからない。とにかく今本を読みたい。本物に触れたいのだ。上っ面だけはもういい。私の感性ではこれ以上無理だと思う。

『AnneofGreenGables』はエネルギーに満ちあふれている。モンゴメリさんは楽しんで書いた。ゆっくりと長く付き合っていこう。時間はたぶんまだある。

 

2012年7月1日(日)

砂をかむような思いで契約更新を伝える。なにかがおかしい。仕組みがおかしい。私の感性には耐えかねる。それでも、もっと悔しい思いをしている人がたくさんいると思えば、生活を守っていかなければならないことを考えれば、ぜいたくは言えない。他に選択肢はない、今は。

26日(火)は休みをとって「そよ風」のスタッフ養成研修に行ってきた。しかも前日残業しているし、早寝早起きができなくって・・。ほんとうによかったのかはわからない。ただ被災地で自死へと追い込まれるというニュースをきくと、自殺という文字が目に入ると、いわき市を訪問したという話をきくと、仙台で息子を自死で亡くした人が震災で子供を亡くした人も呼んで集いをひらいているという話をきくと、救急車のサイレンの音をきくと、自分に手伝えることがあるのではないかと思ってしまう。心がざわめく。そんな私がいる。正解も不正解もない。それが事実だ。現実にはリアルなきつい話には耐えられないし、自分のことも精一杯でへたっていてなにもできない。怒りでいっぱいでイライラしながら日々を過ごしている。ただ本当は自分にはやるべきことがあるんじゃないか、そう思ってしまう。

早く身辺をすっきりさせて次へと進みない。

こうして次の災害がくるまで何事もなかったかのように時は過ぎていくのだろうか。なんにも考えていない、あるいは考えないようにしている人の方が多いのだろうか。本を読んで色々と考えたい。真意のある言葉を欲している。ずっと不安と孤独んで緊張しながら生きているのですごく疲れる。

妹が自殺した。

その事実を背負いながら普通の生活者でいるってけっこう大変なことなんだ。がんばれ、自分。どこに行けばいいのか、どこに行き着けばいいのかわからないが、がんばるしかないのだ。」

 


はじめて自死遺族の会に参加した日のこと

2023年10月22日 01時53分25秒 | 祈り

 10月6日に下書きしていた記事、状況が少し整理できてくると事実は変わらないのだという重さにわたしなりにどうしても気持ちが揺さぶられ、とても苦しくなることもあります。ずっと浮いたり沈んだり、どこにも絶対的な答えはない、なにがよくてなにが悪いという白黒はっきりしたものはどこにもない、なにがどうしてなのかわからない、どこにも答えのない答えを探し求めながら生きる、この曖昧さを引き受けていく強さがこの世に残されたものには必要なのだとあらためて思う日々。

 妹が自宅にて自死したのは1994年9月、父親が88歳で亡くなったのが2010年9月、統合失調症を発症していた母親が78歳で亡くなったのは2012年2月、妹の亡くなった現場を最初に発見したのは母親、病気の症状が強くなることでしが自分を保つことができなかったのかもしれません。

 自死遺族の会の参加要件は、その立場であること。自治体が運営している会で事務職として採用された職員2名と精神科医2名が同席、ファシリテーターは遺族支援をしているNPO法人。同席していた自治体職員が壮絶な体験を聴き続けていてご自身がわからなくなり亡くなってしまったことが以前あるという話をその後常連さんからききました。それぐらい重いこと。現場の第一発見者となった方もいらっしゃるので、わたしも自死遺族という立場でなかったらとても聴くことはできないだろうと思います。この日子供を亡くされたという親御さんがたくさんいらして、こんなに若い人が自死で亡くなっているのかと驚いたこと、今もよくおぼえています。この時は知りませんでしたが、若者の死因の第一位は自殺という日本の姿を反映しているということでした。

********************************************************

 2013年6月母の一周忌が終わってなんとなく少し気持ちが一段落したかなというところで始めたこのブログ。それまであふれるような思いを手帳やメモ帳に書かないではいられませんでした。そんな手帳日記の一ぺいじ、久しぶりに振り返り。この世にいる時間の終わりもみえてきたので、この世にいられる間に可能な範囲で振り返りもやっていきたい。もがきにもがいてきた挙句どこにも辿り着くことができなかった一個人の長い長いひとりごとです。終着点は生れる前からの右足股関節脱臼による変形性膝関節症の末期、普通に歩くことができない身で終末期の日本にもはやなす術なし。

「2012年5月1日(火)少しムシムシする

 はじめて自死遺族の会に行ってみた。本当によかったのかどうかはわからない。子供を亡くされたという方が多かった。世の中にいるんですね、同じ立場の方が。思わず自分のことを喋ってしまって疲れている。夢をみていたような気がする妹の死がリアルに自分の中で蘇ってきてしまった。そういう自分を引き受けながら私はこれからも生きていかなければならない。普通の生活を営む。営むことができている。それってすごいことだし、十分じゃないか。私はのたうちまわりながらも外に出て経済活動を営み、家賃を払い続け、人に迷惑をかけることなく、通信教育を続けPSWにも受かり、人の2倍も3倍も働き続けている。私ってえらいじゃん、すごいすごい、十分じゃないか。

ずっと自死遺族の方の話をきき続けるのは私にはきついかな。

今の職場でいいのか。違うだろう。

6月はこりずに(土曜日の)某市(の自死遺族の会)に行くかもしれない。ドロドロに耐えられなくなった時には逃げられる、そんな立ち位置で風の向くままに、そんな気持ちになったら足を運べばいい。それでいいんだ。母がいなくなったばかりで時間のかかる話だ、ゆっくり行こう。そんなに簡単ではないんだからさ。

                        アフタヌーンティーにて


それにしても神様は私に何をさせたくってこんな試練を与えているんだろう。私は命ある限り問いかけ続けながら生きていかなければならない。色々な思いがめぐって終わることはない。今の社会のシステム・スピード・機械的なマニュアル通りのことの多いドライさは私にはこたえる。そんな中を私は生きていかなければならない。どうしてなのかはわからないけれど、神様に試練を抱えられる人として選ばれてしまった。私は生きていかなければならない。ありがたいことに職場でガタガタと働いていれば何も考えなくてすむ。仕事があるってすごいことなんだな。
それにしても、はじめての場で、自分のペースで喋ってしまって本当によかったのかな・・・。

私には逃げられない現実がある。あんまりまともに考えてるときついから時々忘れてしまうことも許してしまおう。私は一生懸命生きている。それでいいんだ。自分の幸せをこれからは探して行こう。妹の分まで幸せにならなくっちゃね。きっといつも見守っていてくれる。こんなねえちゃん、笑いながら応援してね。
子供を自分が死なせてしまったと責めている方の話をきいてしまったら自分のことを話さないではいられなくって話してしまった。そしたら自分がすごくきつくなっている。リアルに色々と思い出してしまった。きつい。このきつさと私はこれからもつきあっていかなればならない。また終わらなくなってしまった。母もいなくなったばかりでやめとけばよかったのかな・・・。
本当に行ってよかったんだろうか。
壊れそうになりながら、それでも私は生きていかなければならない。
ひと一人の死、簡単なことじゃあないんだ。この事実が変わるわけではない。どうあがいても変わらない。それでも私は命ある限り生きていかなければならない。経済活動もしなければならない。きついっすよ。自分をほめてあげよう。胸かきむしるように自分を責め続けた日々があった。もうやめよう。幸せになろうよ。妹も泣いている。私がいつまでも泣いていたら妹だってきっと悲しい。

 

10数年にわたるのたうちまわるような時をすごしてきた。自分を責めて責めて責め続けたきた。次に妹に会う前に幸せにならなくっちゃ、おこられちゃうよ、笑われちゃうよ。幸せになることを考えなくっちゃ、時間がそれを許してくれる。それでいい、それでいいんだ。

                              スパにて」

                                                                                                                                                                                                

「2012年5月13日(日)

 土日も東京に出て気持ちは充たされているが体はへばり気味。一週間前のことだが川和グループはどうにもなんだか今ぎこちない感じだ。N島さんの話をまあ辛抱してきいている間に何を本当は言いたかったのか忘れてしまう。心の中で言葉を整理しながら自分に語りかけるように言いきかせるように話すので一度違うところにいってしまうとわからなくなってしまう。

スキがないというU田さんの指摘だがそれも仕方ない。なんだか責められているように私が感じてしまうのも仕方ない。どうしてなのかわからないが、ある日突然妹は自ら命を絶ち、母は統合失調症になった。私が選んだわけではない。なぜなのかはわからないがそういうものを背負いながら生きていかなければならない人生に気づいたらなっていた。そんなに簡単に受け取れることではない。

昨日のアンセミナーで、over繰り返しという説明が侑子先生からあったがなんどもなんどもリフレイン。終わることはない、自分が生きているかぎり。ただ時々忘れたい。自分が生きているためにはそうしないときつ。そういうことも許される時期にきたと思う。

フォーウィンズのセミナーをききながらなぜか2014年のエジンバラ大会に自分が行くことを想像してしまった。そんなことはありえないのだが・・・

今は私の力をNKに注いでいる。母が亡くなってまだ時間がたっていないし仕方ない。でも、もう少し時間がたったら自分の役割がみえてくるような気がする。色々なことがつながっているような気がする。だって私は自由になった。思ったよりも早く。残りの人生に経験値を還元させていく。それでこそ、妹の死も母の病気にもムダにならない。「すべての精神障害のルーツは乳幼児期にある。」私にはきつい話だが、私自身は病気ではない。妹と母が私の分も背負ってくれた。その分私が生きていく。ただし無理はいけない。逃げ道を持っていること。富木島の子供たちのために手伝えないかなあ、東北の復興にお金を出しつつ手伝えることないかなあ、子供を産んだことのない私がこんなことを考えるのもヘンかもしれないが・・・。 」

 


2009年7月を振り返る

2023年03月11日 18時06分45秒 | 祈り

「2009年2月14日(土)
 〇〇医院、あたたかな日よりで空を眺めながら『赤毛のアン』を読んだ。ゆったりと雲が流れる時間。

 2009年2月20日(金)
 なんか気持ち悪い、言葉で説明しようがないし、他の誰にもわからないが私の身体がそう感じている。そういうものをやり過ごしながら、自分の生活を守るために働き続けなければならない。目標は7月、カナダのPEI。友達もいない状況でグチをこぼせる相手もなく、私ってほんとによくやっているなって思う。

 2009年3月10日(火)
 まだ火曜日、ヘンなストレスが充満して早くもつらい。疲れた。ボロボロ。布団に入ってすぐにはねつけなかったので5時間ねてないし、女の子扱いはくやしい。

 2009年3月12日(木)
 睡眠が5時間切っているので相当きつい。頭痛もちになった。なんかすぐには寝つけないんだな。早寝しようとがんばるとダメなんだから、がんばらない。

 2009年3月25日(木)
 矛盾の中、アンのように、自分を信じて、自分自身に忠実で納得できていれば、まっすぐな心にいつでも戻れれば、それでいい。人と自分を比べたりしないことだ。

 2009年4月14日(火)
 会社の真向かいでクレーン横転事故。11時10分ごろから1時間余り7階の窓から現場を見続けた。自分が生きていることは偶然の重なり合いの結果だとあらためて感じた。大切に生きなければならない。通りかかって巻き込まれた人がその後どうなったか気になる。情報がない。

 2009年4月30日(木)
 色々とやりたいと思うことが頭の中だけで空回りしている。世の中が本当に面倒くさくなって疲れる。

 2009年5月3日(日)
 連休という非日常。インフルエンザのニュース。落ち着かなくて疲れる。なんだか世の中が騒がしくて慌ただしくて忙しいなあ。PEIには行けないかな。日々情報は変わっていく。緊急に対応できるだけの英語力がない。所詮へぼい、悔しいけど・・・。夕べは変な夢をみた。疲れている。

2009年6月4日(木)
 欠勤、結果的に有給休暇。前夜寝つけずきついので休んでしまった。
 かなり疲れとストレスがきている。

 2009年6月5日(金)
 上野の西洋美術館でルーヴル美術館展、仕事が終わってからみに行った。

 2009年6月14日(日)
 『赤毛のアン』のDVDを2日間にわたって繰り返しみた。原語の字幕をみると美しい言葉の連続。目覚ましよりも早く目がさめてしまって、睡眠が5時間を切る日が続いた。きつかった。(会社の)引っ越しあとの不慣れさ、天井の低さからくる圧迫感、1.5人分の仕事、暗い空気、相当にストレスがきていておかしくなっている。

 2009年6月23日(火)
 偏頭痛と胃痛、食べたいものがない。辛い一日だった。それでもお昼におにぎり三個食べることができた。急に30度を超えたし、よくがんばった。

 2009年6月24日(水)
 昨夜は1時に寝たのに起きる時つらかった。疲れがオリのようにたまっている。電車がおくれると冷房で体が冷え切ってしまうし、でもなんとかやっている。もうすぐPEI。がんばれ私。自分を責めないことだ。

 2009年6月25日(木)
 木曜日、頭がくらくらしてつらい。PEIが待っている。がんばれ、自分。

2009年6月30日(火)
 午後になってからなぜかシュルシュルと力がぬけて辛かった。がんばった。自分をほめてあげよう。おにぎり2コ食べたら生き返った。

 2009年7月2日(木)
 昨夜は2度も目がさめて、5時間ねてないなあ。ぼうっとしている。やっと木曜日、イラつく自分への自己嫌悪感。いつも同じではいられない自分への嫌悪感。カナダ、大丈夫かな、こわれてしまうかもしれない不安・・・。

 2009年7月3日(金)
 午後、せきこみはじめたら止まらなくなって手足がしびれてきて、ソラナックスでおちついた。諸々の雑務をほうりなげられて、関係ないからあとはよろしくねって人は出て行って、一人ストレスをためながら留守番している自分がすごくミジメに思えて、たまらなくなる。この気持ちは誰にもわからない。カナダ行くぞ・・・。

 2009年7月4日(土)
 〇〇医院。
 こわれそうになっている。
 こわれる前に逃げ出さなければならない。
 蒸し暑さと冷房の差はこたえるなあ。
 PEIが待っているぞ。
 行くしかない、やるしかない。

 2009年7月5日(日)
 川和グループ、
 終わってからR先生に40分ほど話をきいていただいた。
 ストレスのふきだまりで自分がおかしくなっているような気がする。
 逃げ出そう、早く。
 私は大丈夫だ。ストレスをためながら一人ぼっちで坐っていると、たまらなくみじめな気持ちに
 なる。変なストレス・・・。PEIが待っている。

 2009年7月9日(木)
 AM、またもやセキこみはじめたら止まらなくなった。前回と同じ。
 小さい体にはこたえる。気力でカバーしきれない。
 スタミナの限界。あと2日でPEIという実感が全くない。

 2009年7月10日(金)有給休暇

 2009年7月11日(土)カナダへ出発

 2009年7月13日(月)~17日(金)有給休暇、カナダ滞在

 2009年7月18日(土)カナダより帰国

 2009年7月19日(日)やっとお布団の中でいっぱい寝た。

 2009年7月21日(火)
 二度、目がさめた。今私はどこにいるのだろう。
 一瞬PEIにいるような錯覚を夢の中でおこしていた。

 2009年7月23日(木)
 夢の中を漂っていたような気がする。
 変なストレスがくると脳ミソの変なところがぎゅっとしびれてくる。
 解消するには汗をかくか、笑うか、泣くかするしかないんだよね。
 何がいいかな。あっまりお金をかけずにやりたい。
 それにしても日本は気持ち悪い、無表情にケータイばっかりみて。
 モノが多すぎるし、うるさいし・・・。
 SWとしての経験をつんでいけないかあ、少しずつ・・・。

 2009年7月25日(土)
 〇〇医院、
 お風呂場修理、
 ▽▽歯科

 2009年7月26日(日)
 セントラル整骨院でマッサージ 5,250円
 YUMEYUIでカット・カラー

 2009年7月29日(水)
 今月はなんだかやたらと長いし、平日はどうしても疲れとヘンなストレスが たまってくる。
 フレンチリバーの景色を思い描きながらがんばっている。
 1日7.5時間、十分だ。

 2009年7月30日(木)
 水曜日にヨガ体験(20:00~21;15)
 建物が古くてクサイのにはまいるが身体は気持ちよくて楽だなあ。」

戦後昭和史 - 2009年・平成21年の出来事 (shouwashi.com)


















2008年8~12月を振り返る

2022年10月15日 11時17分45秒 | 祈り

2008年8月のメモ、
・あと16か月年金を支払えば、受給要件25年満たせる。
・○○銀行に支払った厚生年金基金保険料がどうなったか、年金基金連合会に確認すること。

2008年8月29日(金)
 ▽▽▽▽駅で足止めをくう、深夜1時過ぎに帰宅。

2008年9月7日(日)
 パリ行き、飛行中。

2008年9月8日(月)
 シャルトル大聖堂、モンサンミッシェル泊

2008年9月9日(火)
 モンサンミッシェル、パリ泊。

2008年9月10日(水)
 午前:フォンテーヌブロー城
 午後:ベルサイユ宮殿、パリ泊

2008年9月11日(木)
 午前:ルーヴル美術館
 午後:オランジェリー美術館、パリ泊

2008年9月12日(金)
 午前:サン・ジェルマン・デ・プレのカフェ・フローラルで過ごす。
 午後;アムステルダム経由成田行飛行

2008年9月13日(土)
 成田空港着

2008年9月28日(日)
 かなり疲れているのを感じてひきこもっていた。誰とも話すことのなかった一日。
 アンに少しばかりの元気をもらった。

2008年11月12日(水)
 またうっかりJALSuicaを落としてしまった。TELにて紛失届済。

2008年12月10日(水)
 東京都美術館『フェルメール展』

2008年12月15日(月)
 休み明けでぼうっとしているせいか、今ひとつ頭が回らないまま、あっという間に終わった。人手が足りない。早くもヘンなストレス。ねじれている。つらい。


***************************************************

 過去の回想ばかりになるのは死が近づいている年齢ということなのでしょう。働きながら勉強して勝ち取ったはずだった諸々の修了証も、もう必要ないので捨てています。未練がましく一応スキャナーで読み取っています。

 手帳の回想録、読み返すと短い日記のように、誰にも言えない気持ちをメモっていました。一人お昼休みに過ごした時間だったり、休日カフェに行った時間だったり、2009年以降もそうですが、わたしずっとつらい、苦しい、なにかすごくヘンだということを書いています。結果的に13年間就労した会社の中がどんどんおかしくなってきていることを感じていました。高齢化が進みピラミッドが逆三角形になっていったのは社会の縮図でした。

 コロナ騒動であらわになった日本の凋落、30年間給料が上がらないどころか、税金と社会保険料の天引きは上がっているので手取りは下がっているという日本の姿。バブル崩壊後、小泉政権下の規制緩和と派遣の自由化が日本の劣化を加速させたと思います。どこかの大きな会社の中では、団塊の世代と呼ばれる方々が役職者となり、自分たちを守るために20代、30代をきっていく様を目の当たりにしました。高学歴の優秀な若者たちが会社に翻弄され、あるいは自ら見限って次々と会社を離れていきました。就職氷河期と呼ばれるこの世代が年を重ねてきています。厚労省が就職氷河期の支援しますとプロモーションを流していますが20年遅い。彼らを見捨てた社会のツケはこれからです。自分たちの保身のために彼らを見捨てた世代は後期高齢者に突入。やってられん。

 利権まみれのコロナ騒動がここまできて、欧州議会のファイザー公聴会の件がいっさいテレビや新聞にでることなく、コロナワクチンを乳幼児にまでうてうてどんどんやっている日本は絶望的、静かに沈みゆく泥船。生まれる前からの右足股関節脱臼により医療に頼らざるを得ませんが、役所と病院で、コロナワクチンを何度も接種している人から出るにおいだけで具合悪くなるので病院にいけないとも言えず。晩年になって、こんな苦しみに見舞われるとは思いませんでした。軟骨が摩耗していくって幼少期のわたしを診察した医師はなんで言ってくれなかったのか、あるいはきいても親が理解できていなかったのか、今となってはどうすることもできません。

 飛行機に乗って地球の裏側へ旅できたこと、今となっては奇跡でした。こんなバランスが悪い体だからよりいっそう生きるのがつらかったはずです。モンサンミッシェルなどなど、石だらけのところをよく歩けました。翌年はじめてプリンス・エドワード島を訪れました。苦しみながら稼いだささやかなお給料で贅沢もしました。十分すぎるのかもしれません。


戦後昭和史-2008年-平成20年の出来事

 https://shouwashi.com/2008.html