「2013年3月2日(土)
もうすぐ〇〇才。まだまだやれる。まだ若いし体力もある。やりたいことをやっておきたい。大学行きたいなあ。旅したいなあ。ほんのいくらかでも人の力になれたらなあ。現実には何もできないけど、大会社に振り回されてても仕方ないなあ。少しずつ抜け出して切り替えていけないだろうか。伝えたいことをちゃんと伝えるのって難しいなあ。もっともっと文章力を高めたい。本を読みたい。読んでいる、少しずつ・・・。
大きな地震はやがてまたどこかで突然くると思う。
1986年、木曽路、東北、塔の、仙台へと旅をしている。被災地となった場所を訪れていたのはこの頃だった。丁寧に私はとっていたんだなあ、記録を。
パンフレットを残して捨ててしまう。父と母の残したもの、Mちゃんの残したものを思うと捨てていかなければならないと思うのだ。そしてまた新たにスタートしていきたいと思うのだ。まだ幸せになれるだけの時間はある。ゆっくりゆっくりいこう。」
「2013年3月3日(日)
1992年の日記を捨てた。8月、帰省した時のMちゃんの幼さにがく然とし、また心配だと書いている。自分にはどうしようもないことも書いている。10月、家の中のぎくしゃくに耐えられずもう帰りたくないと書いている。もうすでに何か大きくこわれていた。でも私は若かったし、何も知らなかったし、ただ逃げた。何もできなかった。誰のせいでもない。何故なのかもわからない。血のつながりって何だろう。私は模索し始めていたことが読み取れる。時を取り戻すことはできないので、ただ今は先に逝った人の分まで自分が生きるのみ。私自身もどこに向かえばいいのかわからなくてひどく不安定だったようだ。全ては崩れ落ちた。鉄ケンをくらった感じだ。まさか死んでしまうとは思わなかった。自分を責めるでないぞ・・・」
「2013年3月17日(日)
マニュアル通りは無論大切だが、あまりにも心がこもっていないと気持ち悪くって仕方ない。マクドナルド式が増えすぎてあたたかさがなさすぎる。”自己コントロールの檻”を読み返したいと思う。
1989年の日記。私は自分がどこへ向かえばいいのかわからず道に迷っていたようだ。今と同じか・・・。
宝塚ステージアルバムの1992年のものもデジタル化して現物は捨てる。あきらめていくしかないのだ。
金曜日の夜、すごく疲れていたからだろうか。布団に入るとふいに父の声がきこえてくる。母の顔が浮かんでくる。昔の場面を断片的にさまざまに思い返す。こんなふわふわした状態はまだ続いていくだろう。父も母もこの世にいないのだという実感がもてない。
会社は馬鹿げている。でも他にいったらもっとひどいかもしれないし、おかしいのはどこも同じだろう。被災して住むところも仕事も失った人達がたくさんいることを思えば今は耐えるしかない。非常勤で月一回のペースでなにかできないだろうか。福島で自殺する人が後を絶たない様子をブログで知る。なにかしなければならない、できることがあるのではないか、ついそんな思いが沸き立つ。何もできないのだが、あんまりきつい話には耐えられないのだが・・・。熱いものが自分の中に流れ始める。現実の私は専門家たちの中で何を発信すればいいのか、今もわからないでいる。哲学を勉強したい・・・。」
「2013年3月22日(金)
なんかおかしい、なんか気持ち悪い。わたしの感性がそう叫んでいる。便利になり過ぎた分、人として退化している。おかしな人が多過ぎる。なんかみんな小さい画面ばっかりみてて内向きだし、色んなものを見過ぎている分、肝心なことが見えてないんじゃないかなあ。
震災なんてなかったかのように過ぎているが、実はみんな震災でおかしくなっているんじゃないか。
会社にこれ以上いたくないし、早く荷物を整理して今の場所から逃げ出したいが、まだまだ時間がかかりそうだ。あー、早く逃げ出したい。私はどこに行けばいいのだろう。相変わらずわからない。」
「2013年3月23日(土)
1992年1月から3月の日記を読み返す。私はずいぶん切羽詰まっていた。自分で自分をがんじがらめにして追い込んでいた。何が私をそこまで追い込んだのか、今となっては自分でもさっぱりわからない。Mちゃんの死によって自分を縛っていたものは音を立てて崩れ落ちた。もう忘れよう。捨て去って新しい一歩を踏み出していこう。まだ人生の時間はあある。幸せになりたい。あの会社にはこれ以上いたくない。どこかもっと自分の力を尽くすべき場所があるのでええはないか、思いが空回りするばかりで現実にはなにもできていないのだが・・・。自死遺族として専門家たちをみていると何かが違うと思うのだが何が違うのかわからない。何か発言できることがあると思うのだが、それが何か今はまだわからない。何を発信していけばいいのだろう。書くべきことがあるようにも思うのだが今はまだわからない。大丈夫、人生の時間はまだある・・・。」