たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ドイツライン川マインツからケルンまでの中部ライン地方(2)

2023年11月17日 17時52分10秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス

ドイツライン川マインツからケルンまでの中部ライン地方(1)

2007年10月20日(日)から27日(土)まで、大手旅行会社の、ドイツロマンティック街道・スイスアルプス・パリを巡る周遊ツアーに一人参加しました。

出発日は成田空港からフランクフルトに到着して市内のホテルに宿泊。
翌日がライン川のクルーズでした。リューデスハイムからサンクト・ゴアースハウゼンまで、
約1時間50分の船の旅でした。

ご一緒した女性の二人連れとお喋りしたりしながらの楽しい時間を過ごしました。
10月後半ですが、すでに風は冷たく、甲板に長くいることはできませんでした。

(現地で購入した日本語ガイドより)

 

「ブリュール

アウグストゥスブルク宮殿、1725-1728年にクレメンス・アウグスト大司教が建設、バルタザール・ノイマン設計の大階段が有名。宮殿内のコンサート開催、ファルケンルスト狩猟部、遊園地ファンタジアランドなど。」


ドイツライン川マインツからケルンまでの中部ライン地方(1)

2023年05月02日 01時01分00秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス

旅の思い出写真_ドイツライン川の旅
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b476ee7058dbfacf3324fb7b995ae3d8

2007年10月20日(日)から27日(土)まで、大手旅行会社の、ドイツロマンティック街道・スイスアルプス・パリを巡る周遊ツアーに一人参加しました。

出発日は成田空港からフランクフルトに到着して市内のホテルに宿泊。
翌日がライン川のクルーズでした。リューデスハイムからサンクト・ゴアースハウゼンまで、
約1時間50分の船の旅でした。
写真は船の中からの一枚です。

ご一緒した女性の二人連れとお喋りしたりしながらの楽しい時間を過ごしました。
10月後半ですが、すでに風は冷たく、甲板に長くいることはできませんでした。

(現地で購入した日本語ガイドより)

「ラインの語源は、ケルト語にあり、「流れ」という意味。ライン川はドナウ川とともに、ローマ帝国(紀元前50年-紀元4世紀)最北の国境の大部分を形成していた。ライン川は重要な内陸水路であると同時に、欧州で最も美しい景観を誇る。全長1,320キロメートル、流域圏の面積は252,000平方キロメートルと、欧州大陸でも最大級だ。スイス、グラウビュンデン州のアルプス内に源のある前部ライン(ゴッタルド山岳)と後部ライン(ライン・ワルトホルン・アドゥラ・アルプス)に端を発し、低地ライン地方の広大なデルタを経て、オランダで北海に注ぐ。シャフハウゼンで観られる幅150メートル、高さ21メートルの中央欧州最大の滝は有名。マインツとケルンの間の中部ライン地方は風光明媚な村々とロマンチックな城砦が並ぶ魅力的観光コースだ。この地域は2002年にユネスコによって世界文化遺産に指定された。」

「ケルン

ラインラント地方の大都市。大学都市。大司教座。国際専門見本市や美術と芸術の中心地。紀元50年にローマ帝国により都市権を与えられ、コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンジスと名付けられた。中世期、ドイツ最大の都市であり、後には重要なハンゼ都市であった。1248年に建設が開始され1880年に完成した大聖堂は世界的に有名な文化遺産。この種の建造物としてはアルプス以北で最大(南塔の高さは157メートル、貴重なステンドグラス、参事会席、3人の賢者の聖遺物宝庫など、多数の宝物。)美術史上同様に重要な多数のロマネスク様式の教会やルネッサンス時代の入り口ホールを残し市庁舎およびギュルツェニヒも見所。ローマ・ゲルマン博物館(ディオニソスのモザイク)、建築学的にも興味深いルードビッヒ美術館、ワルラフ・リヒャーツ美術館(ラインラント地方では最も有名な絵画ギャラリー)およびツォイクハウス(旧武器庫)、そしてチョコレート博物館など。活発な劇場、オペラ、コンサート活動(フィルハーモニーなど)。収容人数1万8千人のスポーツ、コンサート、ショーその他のイベントのホールであるケルンアレーナ、シネドームとケルンタワーのあるメディアパーク、ケルンのカーニバル、「ケルシュ(地ビール)」が名物のクナイペ(居酒屋)やオーデコロンも有名。」

「ケルン・ボン空港

 ケルン・ワーン地区にコンラート・アデナウアー空港。近代的チェックインホール。1938年に建設、1950年にドイツ初の民間航空の空港に。最近ではドイツで最も近代的で成長率の高い空港のひとつ。」


日本語ガイドの表紙、



日本語ガイドの裏表紙、



ケルン、







これがチケットだったかな。


旅の思い出-セーヌ川クルーズ

2021年06月24日 14時22分41秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
旅の思い出写真_ローザンヌからパリへ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/3a8a6bdb99234b4ed04fcefbd7c85d78


旅の思い出写真_パリ市内
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c7237e4e6a3e7f92b8287b0d52e2d8c8


旅の思い出写真_ルーヴル美術館
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ddbaf36c2dd3d66d478a561f628ecb5e


 2007年10月27日(土)、6泊8日の旅の最終日、ドゴール空港から20時発の全日空206便で帰国、ホテルをチェックアウトした後大きな荷物はホテルに預けたまま、出発まで自由時間でした。

 思い出を振り返ってみると、旅の最終日は午前中ヴェルサイユ宮殿の日帰りバスツアーに一人で参加、パリへ戻ってきてからは午後ツアーメンバーの女性ふたり連れとたまたま一緒にセーヌ川クルーズに参加。たどたどしい英語でなんとか乗り切り、夕刻ドゴール空港へ。20時発の成田空港行きの飛行機に乗ったのでした。成田空港の文字が見えた時、現実が戻ってきた時、「いよいよ日本へ帰っちゃいますね」「現実ですね」「帰りたくないですね」とツアーメンバーと会話。帰る場所があればこその旅。同日日本を出発する予定だった同じツアーは、台風のため出発できなかったとのこと。わたしはやっぱり運のいい、晴れ女でした。

宙組『アナスタシア』に登場した「アレクサンドル3世橋」の下を通っていました。月組『ピガール狂騒曲』でも別の名前で登場していました。なんだったかな、ちょっと思い出せず・・・。

セーヌ河に架かる橋、下を通るたびに、石に獅子の顔などが彫られていて重厚感たっぷり、橋も芸術でした。







フランス観光開発機構【公式】
@franceiine

https://twitter.com/franceiine/status/1407596659597398020

「フランス国旗2021年6月21日より、エールフランス航空が羽田-パリ便の運航を再開しました!飛行機7月7日までは羽田、関西、成田からそれぞれ週3便、合計週9便運航。7月7日以降はパリ発から羽田便を週5便に増便し、週11便を運航予定です」

 叶うならばこの世にいる間に今一度だけパリにも行きたいです。一周間ぐらい滞在してルーヴル美術館とオランジェリー美術館をゆっくり鑑賞、公園を散歩するのはちと危ないですが散歩したい。日帰りでモネが睡蓮の絵を描いたところも訪ねたい。もう叶うことはほぼほぼきびしい願いのひとつ。もともと右の股関節が悪いの、昨日ようやく整形外科に行ったら手術した方がいいって言われて思考がとまっています。てんがいこどくののわたしがどうすればいいのか・・・。

「紀元前300年頃、セーヌ川を行くケルト人パリシィ族のフナ人が、舟の形をしたシテ島を見つけ、上陸した。これが、のちに花の都と呼ばれる国産都市、パリの歴史の幕開けであった。
やがて、シテ島には王宮や大聖堂が造られてパリの心臓部となり、周辺をとり巻くセーヌ川はその動脈としてパリの街を育み続ける。
光り輝いた時代も、革命の嵐が吹き荒れた時代も、ただセーヌの流れだけは、常に変わらず穏やかだった。」




旅の思い出写真-アルプス登山電車

2021年06月17日 07時50分42秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
旅の思い出写真-アルプス登山電車
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1b20dc3ad2e2cecb93c0b2b29acb4f1d

「アイガー北壁、ヨーロッパ三大北壁の一つ、私たちのあこがれの的。

 ヒマラヤ鉄の時代。ハーケンを打ち、アブミを使い、手と足を使うだけではどうしても登ることのできない垂直を超えた世界、この世界が存在する以上、それを見たい。

 幾多の山々の頂が、人々によって踏まれつくされても、それらの行程はそれぞれの一つの線でしかない。つまり頂は一つであってもその行程は千差万別、そのなかで、より魅力的な道こそ、私たちの求めるところ。

 あこがれの北壁、アイガーと、垂直を超えた世界へのあこがれが、私たちの仲間の中で結びついたのは1968年の夏のころからだった。

 近代登山の進歩とともに世界の山々はつぎつぎに登られた。そして世界一高いヒマラヤのエベレストも1953年、イギリス人ヒラリーとネパールのシェルパ、テンジンによって征服された。ある一部の人たちは、これで世界の山に未知の世界はなくなったという。

 たしかに、この地球上ではもう、高さを求める意味でのパイオニア・ワークはすでにこのとき終止符を打ったといえる。

 しかし、山という自然は、そんな簡単に、その全容を人間にあかしてはくれないものだ。同じ山の、同じ道さえ、登るたびに、そこにはいつも目新しいものが待ちうけている。その道が遠かったらなおさらのこと、さらにそれが、新しい場所であれば、この山は想像することもできなかった別の魅力を展開してくれる。山とはそんなものだと思う。だから私はそれを見たい。」

「アイガー北壁は日本的な山だ。黒い湿った岩肌、青白く光る雪面、一日じゅう日の当たらない陰気なその岸壁は、きりに巻かれた夜明けの谷川岳一の倉沢にも似ている。それが第一の印象だった。」

(今井通子『続私の北壁』、昭和57年11月20日第一刷発行、朝日新聞社)

 20歳前後の頃だったと思います、まだ郷里で暮らしていた時、今井通子さんの公演を聴いたことがあります。壇上に現れた時歩幅が広く背筋まっすぐ、颯爽としていて素敵でした。この頃山への漠とした憧れを抱いていました。アイガー登頂の隊員のお一人だった加藤保夫氏の『雪煙をめざして』も、今は手元にありませんが読んでいました。20年以上の時を経て、登山電車でアイガーのお腹を通り抜けた時は、なんとも不思議な感覚でした。二度と戻らない時、この頃を振り返ってみると今また居場所を見つけられたとしてお給料はこの頃の半分、だからプリンス・エドワード島にも三度行くことができました。つらくてつらくて仕方なかったですが、だから自分から辞めるとは言えませんでした。その自分をこれ以上責めることはもうやめようと思います。こうしてヨーロッパにもカナダにもアメリカにも行くことができました。だらかそれはそれでよかったのです。アルプスの山々、この世にいる間にもう一度出会うことはないでしょう、この時しかありませんでした。後悔はありません。

 15年ぐらい前山歩きをしていた時期がありました。トレッキングシューズ、ザックなど、今井通子さんのご主人が開いた登山用具専門店のカモシカスポーツで購入しました。トレッキングシューズ、この旅にも持参し登山電車に乗る時履きました。真冬のカナダを往復した時も持参して、雪のモントリオールを歩くのに役立ったかな。何年も使っていないのでザックの内部はごわごわ、シューズの底はすっかりはがれてしまいました。シューズは革のしっかりしたものなのではり直せばまた履くことができます。いつかまたこの世にいる間にカモシカスポーツではり直してもらって、その時と仲間と山歩きを楽しみたいという密かな思いがずっとあります。そんな穏やかな時が訪れてほしいです。






旅の思い出写真-アルプス登山電車

2021年05月25日 00時32分39秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
旅の思い出写真_グリンデルワルドとユングフラウ鉄道
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ea0f6916ebf842f50dc557c18e4d323c

旅の思い出写真_ユングフラウ鉄道
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4638c183d59c746c125bf48557c1016b

旅の思い出写真_ユングフラウヨッホ駅
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/aedef9b2770bd8b6eef56e4af2996a02

 2007年10月24日にスイスアルプスを訪れました。『ホテルスヴィッツラハウス』のライブ配信を視聴しながら思い出しました。ユングフラウ鉄道に乗り、今井道子さんの『私の北壁』の舞台、アイガーのおなかを通り抜けました。今となっては遠い日の夢、幻のように思えますが、たしかにわたし自分で稼いだお金でいきました。この世にいる間に今一度という気持ちがありましたが、体力的にも経済的にも無理で、この時行っておいてよかったと心の底から思います。写真家の吉村和敏さんは今年の夏スイスへの取材旅行を断念せざるを得ないという結論になったそうです。ブログを拝見していると、そうとうきびしいご様子。誰もがきつい時。もう無理だとわかっていても、この時を超えられたら、またいつか、またいつか、この世にいる間に今一度地球の裏側を目指して大空に飛び立ちたいです。


パンフレットの写真が美しいのでいつかブログに載せたいとずっと思っていました。
































旅の思い出写真_ノイシュバンシュタイン城で購入した絵葉書

2020年06月23日 09時21分53秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
2015年5月17日:旅の思い出写真_ノイシュヴァンシュタイン城
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6dca1ae239cd6c0c63855846dd2e1085


「ドイツロマンティック街道とゆったりスイスアルプス・パリ9日間」、
振り返ってみると自分へのご褒美のぜいたくな旅でした。
(家賃払いながらどうやっていけたのか、今となっては自分でも不思議・・・)。

日本を出発してから四日目の2007年10月23日(火)、

ライン河クルーズ→ロマンティック街道・ヴュルツブルク市内見学→ロマンティック街道・ローテンブルク市内の見学→スイスアルプスへとバスで長期離移動している途中でノイシュバンシュタイン城を訪れました。
移動途中からだんだんと雪が舞い始め、どんどんと降りしきる感じになっていって、
お城に着いたころにはすっかり雪に包まれていました。
雪が降ると静寂感もあって、途中の雪景色も、雪に包まれた城も、すごくきれいでした。

 この頃はまだデジカメを持っていなかったし、写メの容量も少なかったし写メ自体がまだそれほど浸透していなかったかな、内部は撮影可でしたが一枚も撮りませんでした。現地で購入した絵葉書をアップ。切手を貼るところにはこの城を建てたバイエルン国王ルートヴィヒⅡ世の晩年の肖像画のあるとことがお茶目。

 本物のシンデレラ城、グルグルと階段を登っておりて見学、終わって下に降り立った沖には時には目が回ってしまっていた記憶があります。細かいところの装飾までこだわりぬいていて豪華、とにかくすごいものを造ったもんだという印象でした。これは国のお財布はそうとうきびしかったでしょうねと思いましたが、日本語のガイドブックによると王は私財と王室費(国家君主の給料)を使い、さらに借金をし、借金は死後家族により返済されたとのこと。

 王は『エリザベート』のシシィの従妹、劇中の「戦争はよその国にまかせておけばいい、幸運なオーストリアは結婚によって絆をふかめるのです」というシシィの義母でフランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィーの台詞にあるように、親族同士の婚姻を繰り返して領土を広げていったハプスブルク家の一員。病的な気質はあったのでしょうね、謎めいたところが多い分、惹きつけられずにはいられない魅力のあるところがシシィと同じ。

 「ノイシュバンシュタイン城、調理場」で検索をかけると画像がいっぱい出てきますが、特に印象的だったのが調理場のすごさでした。

日本語ガイドブックより

「リンダホーフヤヘレンキームゼー宮殿の調理場は当時のまるまま残っていないが、ノイシュヴァンシュタインの台所は完全にそのまま保存されている。がっしりとした円天井を化粧しっくいのみかげ石の柱が支えている。温水のでる給水設備、完全自動回転車の野鳥獣肉グリルがあり、当時の厨房としては最新の設備であった。煙道の上昇熱風が羽根車を動かし、回転を歯車で串に伝えた(レオナルド・ダビンチ)の発明による。
真中になる大ストーブの煙は床下より外に導いた。煙突のストーブの熱は、パン焼きオーブン横の壁に埋め込んだプレートウォーマーで食器を暖めた。出口の扉の横にみかげ石の魚槽があり、蛇口は白鳥の頭の形をしている。台所は2年間だけ使用された。台所の外に次の間があり、従業員の休憩室であった。窓横の一角は厨房シェフが事務をとる所で、ガラス壁で仕切ってある。

 台所出口にむかって食器洗い場をのぞくことができる。1884年にはすでに地下、つまり1階から温風の中央暖房があった。通気縦杭を通って温風が上階の部屋へと流れる。大量のまきを運ぶために専用の昇降機があった。」













ノイシュヴァンシュタイン城-このカタカナ表記、現地で購入した日本語ガイドブックにそっています。

旅の思い出写真_ロマンティック街道_ローテンブルクのクリスマスマーケット

2020年06月17日 17時26分36秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
2016年10月29日:旅の思い出写真_ロマンティック街道_ローテンブルクの町並み

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/preview20?eid=b11d661aa3308145fad4aba686ee7678&t=1592380525791


「ケーテ・ヴォールファールトKathe Wohlfahrt

 ローテンブルクで一番人気の見どころともいえるショップ。世界で最初の1年中オープンしているクリスマス用品専門店。1日中いても飽きない楽しさ。店内にはドイツ・クリスマスミュージアムもオープン。」

 2007年10月に訪れたドイツロマンティック街道のローテンブルク、一年中クリスマスのお店で自分のために木彫りの香を焚きしめるサンタクロースの置物を買いました。大きなものを買ってしまうとあとが大変なので記念に小さなものを一点だけと思い、おぼつかない英語でお店の人とやりとりして買いました。レジの女性が、こうして香りを焚くのよ、足はかけられるようになっているのよ、と笑顔でおしえてくれたことを今も思い出します。小さなサンタクロースの木のぬくもりが自分でやさしく呼んでくれたような感覚でした。このサンタクロースの置物が入っていた外箱。この旅に辿り着くまでのけわしい道のり、ようやくたどり着いた自分の想いを考えるとなかなか整理することができませんでした。わたしがこの世からいなくなるときにはただのごみなのでここにようやくお別れ。でもまだ人生はあるはずなので、何度も棚から落っことしてしまっていますが置物とはこれからも一緒にと思います。

 この世にいる間に訪れることはもうなさそうなロマンティック街道、遠いヨーロッパはいろいろな条件をクリアしないとむずかしいのでこの時でなければと旅立ったことは正解でした。この世にいる間に、イタリアのトスカーナとフェルメールの絵を訪ねる旅をしたいという夢があるのですがもう無理かな・・・。






 まだ書き残している感のあるルーヴル美術館、イギリスへの旅のこともまた振り返っていきたいと思います。

旅の思い出写真『ロマンティック街道』_ローテンブルクの街並み

2020年04月11日 09時09分20秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
(『地球の歩き方‐南ドイツ編』より)

「ドイツが見えてくる旅のお話~ドイツの看板

 ドイツの街をぶらぶらと歩くのは楽しい。何度も旅した人でも歩くたびに楽しい発見がある。ましてや初めてドイツを訪れた人には、見るもの聞くものすべてに強烈な異文化の香りを味わうことだろう。街でまず目につくのはお店の前に掲げられた看板である。昔は単なる実用品で旅人の目印として役立てばよかった。しかし今では精巧な細工によって装飾品、いや芸術作品になっている。これは金細工のマイスターの手によってできるのだろうか、あるいは鍛冶屋だろうか。いずれにしてもマイスターの国ドイツならではの作品である。

 ドイツで看板といえば、何はさておきロマンティック街道のローテンブルクである。町なかの看板を見て歩くだけでも楽しい。特に市庁舎前の広場からSchmiedgasse鍛冶屋小路にかけての商店街の看板が見ものである。この町では看板を付ける高さ、場所、大きななどが統一されているようで、それでいながら商店のデザインは個性豊かな都市景観となって、観光客たちを魅きつけている。例のマクドナルドの看板もすっかりローテンブルク流に溶けこんでいる。そのいくつかをここで紹介し、簡単なコメントをつけたいと思う。ローテンブルクを訪れる読者のみなさんは、この看板にも目を向けてもらえたらと思う。

 ローテンブルクは名だたる観光地だけあって、やはりホテル、ガストホーフが目につく。

 代表的なものとしてホテル・ティルマン・リーメンシュナイダーを挙げる。おかみが日本に住んだことがある由で、このホテルはいつも日本人でごった返している。看板はライオンが何かを掴んでいる。よく見るとそれは赤い城壁をデザインした紋章だ。赤い城、つまりそれはローテンブルク市(赤い城を意味する)の紋章なのである。ホテルの場合、看板を見ればその名前(屋号)までわかることが少なくない。1年中クリスマスグッズを売っているお店の前に、変な看板がぶら下がっている。よく見れば鉄でできた帽子Eisenhutであり、ホテル「鉄帽子館」なのである。そのほか熊が描かれていればHotel` Baren、つまりホテル「熊の屋」、また金色の鹿の看板がぶら下がっていればGoldener Hirsch「金鹿館」というわけである。

 次は薬屋。マルクト広場の華麗なゲオルクの泉の前にあるマリア薬局。コップに描かれた印は何だろう。杖に蛇が巻きついているのはアスクレピオスの杖と呼ばれ、ヨーロッパ中の薬屋のマークになっている。ギリシア神話の医の神の名前に由来するが、蛇と医薬のかかわりは蛇が毎年脱皮するのが若返りを連想させるのではないかと言われている。

 ひとめ見ればワイン酒場とわかるのは、Burgar Kellerと呼ぶワイン酒場である。中央にワイングラスがあり、その左右にブドウの葉とつるが描かれたデザインは典型的なワイン酒場の看板である。

 パン屋は、二匹のライオンが支え王冠をかぶっているBrezelがパン屋のマークとなっている。私はこれを「8の字パン」と呼んでいるが、ロマンティック街道のあるバイエルン州など南ドイツでよく食べる。塩味の効いた8の字パンはビールのつまみによく合う。その下のプレートには「パン屋・カフェ」と書かれている。

 そのほか鍛冶屋小路からいくつか挙げれば、銀行までハーモニーのとれた看板を出している。ドレスデン銀行の先にあるグリフィンという架空の動物の看板は旅館。体はライオンで頭と翼がワシである。

 ともかくローテンブルクではメルヘンチックな看板巡りをおすすめしたい。

                             藤代幸一」




 わたしが当時持っていた解像度の低い携帯電話で撮ったのはこの2枚だけなのですが、ドイツの看板で検索すると可愛い画像がいっぱい。癒されます。

旅の思い出写真『ロマンティック街道』_ローテンブルグの日時計

2020年04月10日 18時59分53秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 2007年10月22日(月)に訪れたローテンブルグ市内、マルクト広場にある市庁舎の日時計にまつわる伝説。現地で添乗員さんが紹介してくれたお話が『地球の歩き方‐南ドイツ編』にも載っているので振り返り。書きたかったんですね、このお話。

「マイスタートルンクの伝説と祭り

🍷大酒飲みの市長、ローテンブルクを救う

 市議宴会館にあるマイスタートルンクの仕掛け時計に見るように、「マイスタートルンク」はローテンブルクのシンボル。「マイスタートルンク」とは、三十年戦争の時代にローテンブルクを破壊から救ったという大酒飲みの市ヌッシュのこと。

 三十年戦争のさなか、敵軍に囲まれたローテンブルクはついに陥落。敵方の将軍ティリーが、市庁舎に乗り込んできた。しかし、町のお偉方にローテンブルク自慢のフランケンワインでもてなされたティリー将軍はホロ酔い気分で「この特大ジョッキに注がれたワインを一気に飲み干す者がいたら、町を焼き払わずにいてやろう」と言い出した。ジョッキはなんと3.25ℓ入り。受けて立ったヌッシュ市長は、見事にワインを飲み干して、町を破壊から救ったという物語。このときの大ジョッキといわれるものが、郷土博物館に展示されている。

🍷マイスタートルンクの祭りを見物しよう

 この伝説は、毎年行われる「マイスタートルンク」で歴史劇として上演され続けている。祭りの日は、兵士姿や中世の衣装を着た人たちが町中にあふれて、ローテンブルクはまさに中世の世界。祭りのクライマックスは豪華な時代衣装を着た人たちによるメインストリートのパレードや、マルクト広場で披露される羊飼いのダンス。歴史劇のチケットは€6‐14。歴史マーケットや野営会場には入場券(€2.50)が必要。

 「マイスタートルンクの祭り」は例年聖霊降誕祭(5‐6月頃)に行われるが、2008年は5月9日‐12日の開催予定。

 詳しい日程やプログラムはインターネットでも入手でき、劇のチケットのオンライン予約も可能。www.meistertrunk.de

 旅行日程にお祭り見物を加えると、より思い出深い旅ができる。」

  気がつけば十数年越しで、やっと書けました。先が全く見えない不安な毎日。捨てたもの、失くしたものを数えても時間は戻らない。生き延びて、落ち着いた時何をしたいのかを念じる。

 一日も早く世界に平和が訪れますように・・・。

 一日も早くまた大きな翼に乗って安全に飛び立つ日が訪れますように・・・。 










旅の思い出写真_ヴェルサイユ宮殿

2018年04月30日 16時47分37秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 今日はちょっと曇り空、先週の睡眠不足を取り戻すかのように眠る休日、よかった、眠れたよかった。明日はまた稼働日で緊張感が少し高まりつつある月曜日、断捨離は少しずつしか進まず部屋のなかでちっそくしそうになってきたのに耐えられず、つかれてしまってまだまだ荷物ありますがまたスパに逃げ出してきた月曜日。

 ツアー中の2007年10月27日、一人で日帰り英語ツアーに参加しヴェルサイユ宮殿をはじめて訪れました。久しぶりに旅日記、といってもヴェルサイユ宮殿はとてつもなく広いので通常のツアーでプチトリアノンまで行くのは不可能。近くに一泊して自転車で回らないと無理なんですね、見学できるのはほんの入り口部分に過ぎません。だからここまで来たのに、という未練が残りながらも奥の奥までの道のりは果てしなく遠く、現地で購入した日本語ガイドブックからの振り返りです。先日の舞台で、ポリニャック伯爵夫人の「王妃様、お仲間がプチトリアノンでお待ちです」ということばをきいて書きたくなりました。

 二年前の『1789バスティーユの恋人たち』の観劇日記になんども書いたように思いますが、この壮大なヴェルサイユ宮殿を築いたブルボン王朝の負の遺産を背負うことになったのが、アントワネットの子どもたち、とりわけ長男の王太子が病気で亡くなり、革命後次男のルイ・シャルルの人生は悲惨なものだったことを思うと胸がいたみます。その想いを先日の『1789~』の観劇で思い出しました。政略結婚によって嫁いだアントワネットもまた大きな運命のうねりにあらがうことができずにのみこまれてしまいました。舞台では「悲しみの報い」を歌うときの、なにもかも失い、潔く運命に受け入れて天に召されようとする王妃の姿が一番美しいと思いましたが、肖像画でも質素な装いの王妃が美しいなと思います。この肖像画は、2017年1月の「マリー・アントワネット展」にもあったかな。ほんとにきれいな人だったんだあと。王太子が亡くなったあとの、王妃の「わたしは盲目だった」ということばがずんと胸に響きました。語り始めると長くなってしまうので、あとは観劇日記にいつかまたあらためて書ければと思います。

 とにかく広いヴェルサイユ宮殿、鏡の間とその広さを二度も体感できてよかったかな。振り返れば、あの時しかありませんでした。旅もまた一期一会。今のわたしには海外に飛び立てるだけの気力と資力がありません。行っておいてほんとによかったです。まだまだ写真を整理し切れずですが、休日の時間はかぎりがあり今日はこんな感じかな・・・。