たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『木靴の樹』とバッハの音楽_「木靴の樹」より

2014年07月31日 23時17分23秒 | 映画『木靴の樹』
1990年公開映画のパンフレット(フランス映画社発行)より引用します。

 「時は変わらずに流れ続けていく。人が生まれ、成長し、子を生み、やがて年老いて死ぬ。人間や動物の誕生と死のサイクルもまた自然のサイクルの一部だ。教会の鐘の音が一日の区切りを知らせ、季節の移り変わりが人々に何をすべきかを教えてくれる。そこでは進化する時間や歴史の概念はありえず、人々は悠々と反復する自然のサイクルに従ってただ生きること、それだけである。

 オルミ監督は、こうしたベルガモの農民の姿を、始めも終わりもないかたちで、何の意味づけも解釈もほどこさず、ただ見つめ続けている。そこには個人と個人の自我のドラマはなく、ただ生活する姿だけが描かれている。画面に現れる音楽も、地主が蓄音機で鳴らすモーツアルトの「ドン・ジョバニ」のアリアと息子のピアノ以外は全て生活に直接結びついた民族音楽ばかりである。

 するとバッハの「芸術」音楽だけがどうして、この画面の別の次元で鳴らされているのだろうか。それが最初に頭に浮かんだことであった。それに、ベルガモの人々の信仰はカトリックのマリア信仰であり、バッハはドイツ・プロテスタントの伝統音楽である。

 いっさいの心理ドラマ仕立てを避け、見る者の感情移入を拒むような抑制された画面に対して、バッハの音楽だけがエピソードの情緒的な内容を補う効果音楽として用いられているのだろうか。うっかりすると私たちはそのようにだけ聴いてしまいそうだ。ところが、使われている音楽、特にオルガン・コラールの題名を詳しく調べてみると、オルミ監督はもっと周到な別の意図をもって扱っていることがわかってきたのである。

 彼はバッハの音楽から8曲を選び出したが、冒頭の有名なト短調の小フーガと後半に一度だけ現れる無伴奏チェロ組曲(第3番よりサラバンド)(マッダーレとステファノが小舟でミラノへ向かう場面)のほかは、全て象徴的な題名をもった宗教作品によっており、この題名の象徴する意味こそが、実は音楽の選択の基準になっていたのである。

 彼はまず全体の中心となるテーマとして<片足は墓穴にありて我は立つ>(カンタータNo.156の冒頭のシンフォニアとチェンバロ協奏曲第5番第2楽章に用いられているもののオルガン編曲、通称アリオーソ)を選んだ。冒頭の小フーガのあとテレジーナとアネッタが町から洗濯ものを運んで帰ってくる川べりのシーンで初めて現われ、バティスティの一家が農場を追われ、わずかばかりの家財を積んで黙々と闇の中を去っていく最後に延々と流れ続ける曲である。題名の意味をどのようにも解釈できようが、人間の生と死、幸いと悲しみはいつも隣りあわせにある、ということであろうか。

 貧しいけれど、とりわけ信仰の厚いルンク未亡人。おじいさんと6人の子供をかかえ、毎日の洗濯の仕事でようやく一家を支えるこのルンク未亡人の二つのエピソード(下の二人の子供を養育院に預けるかどうか、食卓を中に15歳のベビーノに語りかける。「俺が昼も夜も働くから・・・」。そして、たった一つの財産である牛が病気にかかり、マリア様の奇蹟で回復する話)には<我を憐れみ給え、主なる神よ>(コラール前奏曲BWV721)を用いており、これは、この二つのエピソードに先立ってアンセルモじいさんが畑の雪の下ににわとりの糞をうめる場面にも現われるので、ルンク未亡人の家族のテーマとも考えられる。

 そして、バティスティとミネクをめぐる”木靴の樹”のエピソード。子供を産みおえたバティスティーナの安らかな顔。一方、学校の石段でミネクの木靴が割れる。バティスティは深夜、ポプラの樹に斧を打ちつけた。そして、台所で蝋燭の火をたよりに木靴の底を削る。これらのシーンには<来たれ安き死、来たれ安らかな憩いよ>(シェメッリ宗教歌曲集よりBWV478)を選んでいる。日々を精いっぱい生きる貧しい小作農に安らぎの時はいつやってくるのであろうか。

 このバティスティの家族のエピソードの途中、生まれたばかりの子供とベッドに横たう母親がミネクに語りかける場面には、中心テーマ<片足は墓穴にありて我は立つ>が挿入されている。

 以下に用いられている音楽を列挙すると-

 冬が過ぎ野や畑に草花の芽がふく春がやってきた。人々は畑仕事に精を出し、子供たちは生き生きと動きまわっている:<いざ喜べ、愛するキリスト者たちよ>(コラール前奏曲BWV734)

 マッダレーナとステファノの結婚、二人を乗せた馬車が教会へ向かう場面:<愛するイエスよ、我はここにあり>(コラール前奏曲BWV731)

 ミラノの修道院で初めて夜を明かした二人に、捨て子が託される場面:<いざ来ませ、異邦人の救い主よ>(コラール前奏曲BWV659)
 
 あえてこれらに解釈をほどこさなくてもオルミ監督の意図はおわかりだと思う。ただ、チェロのサラバンドだけが例外で、ほかの場面と違って、ここでは全く抒情性を排しているように見えるが、それはおそらく近代的な結婚にまつわる観念、あるいはロマン風情愛の表現を抑制するために、あえてこれを選んだように思われる。

 この映画で用いられているバッハのオルガン曲を集めて編んだフェルナンド・ジェルマーニの『木靴の樹』と題するアルバムに寄せたコメントの中で、オルミ監督は次のように言っている。

「私はモンタージュのリズムを支えるために、いつもあらゆる音楽を映像の個々のシーンに近づけてみる。従って(私の映画では)音楽はいつも多少とも機能をもつようになっている。しかし今回は不思議なことに、映像の方はどんなタイプの音楽をも拒否したのである。つまり、田園の雰囲気や農村の推移がまるで別世界の出来事(別の文化)のように見えてしまうのだ。そこで結局、ほとんど諦めた気分で、バッハのオルガン曲を使ってみることにした。するとたちまち、自分の映画の音楽は見つかった、という気持ちになったのである。」

 オルミはここでは、具体的にどのように音楽を配置したかは語っていないが、まずト短調のフーガを冒頭に置くことで、この映画の世界を象徴的に暗示する。そして、<片足は墓穴にありて我は立つ>を農民たちの生活世界全体を包む主題として導入部と終わりのシーンの両端に置いた。個々のエピソードに対応するテーマはすでに述べた通りだが、この映画の中心エピソードであるバティスティとミネクの「木靴の樹」のテーマは<来たれ安き死、来たれ安らかな憩いよ>が選ばれており、この三つのテーマが音楽の面から全体の構造を作っているように思われる。

ところで、バッハの音楽の源泉は大雑把にいえばコラール(ここで用いられているオルガン・コラールのもとになった賛美歌。オルガン・コラールは会衆が旋律を覚えて歌いやすいように、歌の前奏として作られた)にあるといってよいが、このコラールは16世紀初頭ルターによって聖書のことばを民衆にわかりやすく理解させるために考えられた、いわば宗教的民謡であり、200年後にバッハがカンタータなどで用いたものはほとんどが、そうした歌が自然に淘汰されて歌い継がれてきたものであった。そして、その旋律はさらにルター以前にまでさかのぼる、素朴な生活感情から生まれたメロディでもあった。コラールはこうして永い伝統の中でかたちづくられた、民衆にとっての民族的な、また宗教的な象徴としての意味を持っていたものなのである。

 そして、その永い民衆の伝統の上にバッハの音楽が築きあげられたとすれば、最初に感じられた疑問はここではじめて氷解する。

 バッハの音楽は個々の感情と時代を超えて、何かより“大きな感情”を私たちに与えるとよく言われるが、冒頭のト短調のフーガは、いわば土とともにえいえいと営まれるベルガモの農民たちの生活世界を象徴するにふさわしい音楽であり、また、この映画の中心テーマとして用いられた<片足は墓穴にありて我は立つ>のアリオーソも、バティスティの家族のエピソードに用いられている<来たれ安き死、来たれ安らかな憩いよ>のオルガン・コラールも、この常民の世界を大きく包む象徴的な音楽として私たちに響いてくるのである。

 オルミ監督はさきほどのコメントに続けて言う。
「農村を描いたその画面に対して、バッハの音楽は優雅でありすぎるのではないかという意見もあった。だが私はそうは思わない。詩的な存在としてのバッハの偉大さは、貴族的でもなければ、世俗的でもなく、ただ真実のごとくに簡潔で本質的なことなのだ。だから私は確信するのだ。農民の世界とバッハの音楽はたがいに通じ合うもので、『木靴の樹』を音楽的に支えるという以上に、完全に調和するものであるにちがいない」と。」


 安芸光男(音楽ジャーナリスト)





 

秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(12)

2014年07月31日 13時55分21秒 | プリンスエドワード島への旅
海辺を離れても、残照が名残惜しくて、ドライバーさんが途中の丘で車を停めれくれました。




やっとここまで・・・

2014年07月30日 09時36分58秒 | 日記
詳細を書くことはできませんが、私が気持ちを切り替えたので収束への道筋が見え始めた感じになってきました。

あとはわたしがどこでどう納得できるか、納得できる着地点を見つけられるかが大きく左右してくるようです。
私にとって10年以上一生懸命働いてきて日々はなんだったのか、もう一度自分と向き合い、気持ちを整理し直すプロセスを踏まなければなりません。

まだまだきついことが続いていくと思います。

これからどこでどう生きていくのか、年齢が上がってくると臆病になって新しい一歩を踏み出していくにはかなりの勇気が要りますね。新しい人間関係を構築していくのはきついです。
最初の一歩をどうやって踏み出していくのか。
今は擦り切れてしまっているので、無理しない方がいいのかもしれません。
断捨離もまだまだ続きます。でもほんの少しずつ新しいことへと動いていきたい気持ちもここまできてようやく生まれてきました。生活があるのでぼやぼやしてもいられないです。

生きていくってむずかしいですね。
家族ってなんだろう、血のつながりってなんだろう、そんなことを考えたいと思っていたことを思い出しました。


写真は、モンゴメリさんが『赤毛のアン』を書いた家の跡の前に広がる農場です。
モンゴメリさんは、書くことで自立できたカナダではじめての女性です。
結婚しなくても生活することはできたけれど、幼くして母と別れ、再婚した父と一緒に生活することはできず、親戚の家に預けられたので家族がほしくて結婚したのでは、という女子力ラボでの松本先生のお話でした。

気持ちを落ち着けて・・・

2014年07月28日 11時08分32秒 | 日記
詳細を書くことはできませんが、あっちへこっちへと気持ちが揺れ動き、混乱しながら
やっとさらに気持ちの整理がついてきました。

一人で部屋にいて考え込み始めると孤独で悶々としてきて、お前なんか要らないよ、と社会から言われてしまっているような、負のスパイラルに入ってしまいます。
ちょっと大変ですが、外に出て人に話をきいてもらったり、話を聴いたりするようにしています。

昨日の夕方は、女子力ラボに出かけ、『赤毛のアン』のセミナーで何度もお会いしている
松本侑子先生のお話を聴かせていただき、いろいろと学ぶところがありました。
ライアーという竪琴の演奏にのせて、先生の『赤毛のアン』の朗読もあり、ずっと全身で
緊張しているので、心休まるひとときともなりました。

今の自分の経験は決して無駄ではない、あの時のことはこういう意味があったんだと思える時がきっとくる、自己否定に走ってしまうとおしまいなので、大丈夫、大丈夫と言いきかせてこれからへと目を向けてながらがんばっていこうと思います。
具体的に何をやればいいのかほんとうにまだわかりませんが、私にはまだやり直せる時間があります。
限りある一度きりの人生、より良き道へと向かっていく、そのための今は苦しみの時なんだと
思います。
いたずらに過去を悔やんでも仕方ありません。終わりにしていこうと思います。
ここまでやってきたことには何かしらちゃんと意味があると思います。
もう少し、もう少し・・・。


『ミス・サイゴン』が帝劇で開幕しましたが、市村正親さん休演とのこと。
先日ラブネバのことをようやく書きましたがとても元気だったので驚いています。
日本のミュージカル界の宝、彼が舞台に立つだけで空気が変わります。
また元気に舞台に戻ってきてほしいです。

自作童話『コスモスゆれて』(3)

2014年07月28日 09時09分16秒 | 自作童話
 家々の灯りが小石の道を所々照らしている。ぼくはひとりぼっちなんだ、でもさびしくなんかない、マサオはつぶやいた。

もうどれぐらいたっただろうか、ふと月を仰ぐと、月は雲にかくれてみなくなってしまっている。ひんやりとした風がマサオのからだをなでてゆく。マサオは一瞬びくっとした。まるで妖怪女の、おそろしくとがったつめのある指でそっとさわられたみたいだ。

道端では大好きなコスモスの花が揺れている。マサオは、その中の一本をポキッと折った。なんてたくましい花なんだろう、コスモスは。このまえの台風のときだって、屋根より高い大きな木がかたむいたのに、この花は風にたおされてもおきあがった。ぼくも強くならなくちゃいけない。ぼくはこれからひとりで生きてく決心をしたんだ。
(マサオは、ゆうきをふりしぼって歩いて行く。)

やがて、細い通りに出た。目の前には、大木がふさがっている。ここを通りぬけると、神社がある。今夜はそこでとまることにしよう。マサオはどんどん前へ進んだ。マサオのまわりでは木々がざわめいている。妖怪たちがささやきあっているんだろうか。もしかしたらぼくを殺そうとしてそうだんしているのかもしれない。そうしたら、ぼくは、氷の山をかけのぼってお姫さまを助けてあげた騎士みたいに、勇かんにたたかってやる。

母さんは、ぼくが三時半になんかおきれっこないといった。姉ちゃんもちひろもぼくを笑った。ぼくは、みんなにぼくがおとなだってことをみせてやるんだ。

マサオは、足もとに何かしらふれるのを感じた。ぎゃっ、思わず声を出してしまった。なんだ木のはしくれか。マサオはそれを拾うとベルトにはさみ、刀を抜くまねをした。
よし、これがあるから大丈夫だ。妖怪だってなんだって、どこからでもかかってこい。片っぱしから切りたおしてみせるぞ。マサオは、ももを思いっきり高くあげて歩いた。

と、目の前を何かしら黒いものが通りぬけてゆく。今のはなんだったろう、きっと野良犬にちがいない。ひょっとすると仲間がいっぱいいるかもしれない。ぼくをゆうれいとまちがえてほえかかってきたらどうしよう。なにいってるんだ。そんなときには、この剣で切りたおしてやればいいじゃないか。

一じんの風がさあっと吹き抜けていった。木々のささやき声はますます大きくなり、どよめきに変わった。大木がゴリラになった。枝は妖怪の手になりぐんぐん伸びてくる。ぐんぐん伸びて、ぼくに向かってくる。大きな目をつりあげ、ぼくをにらみつけている。裂けそうなほどに大きな口をあけてぼくをのみ込もうとしている。

負けるもんか、負けるもんか、つかまれてたまるもんか、マサオはめくらめっぽうに棒きれをふりまわした。
おや、あの木のすぐそばに白いものがゆらゆらしている。足がない、だんだんぼくの方に近づいてくる。
アッハハハハ・・・、妖怪たちが、どす黒い声で笑っている。老女のしわがれ声がきこえる。


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高校三年生の私が書いたつたないお話の続きでした。

アン・シリーズを繰り返し読んでいた夏、縁側で原稿用紙に汗をたらしながらほんとうに楽しく書いた夏、家族は幸せだと信じて疑うことなどなかった夏。

その時間は、大切な幸せな記憶として私の中に今もずっとあります。

今の混乱はかなり苦しくなってきていますが、自分にとって納得できる終着点を目指して
もうしばらくがんばっていくしかありません。
お星さまになった妹と両親が見守っていてくれると信じてふんばっていこうと思います。

むずかしい・・・

2014年07月27日 09時50分33秒 | 日記
自分で判断し自分が決めたことならだれも責めることはできない、全て自分の責任としてどうなっても自分で納得できる-ある方にこう言われましたが私はわかっていなかった。
十分過ぎるぐらいにがんばってきたつもりだけれど、どこかにまだ人に甘える気持ちがあるんだと思います。
何年にもわたって組織に依存しながらやってきたので、組織で決められたことをやればよかった。
そんなつまりはなかったけれど、いつの間にかしみついてしまっていたんでしょう。
誰かが何とかしてくれる、誰かが教えてくれたりすることを期待するような甘えが私の中にはあるんだと思います。切り替えていかなければならないことから逃げたい気持ちもあるのかもしれません。

ここから切り替えていくのはまだ簡単ではありませんが、人を頼ることはできない。
自分の感性を信じて、自分で判断していくしかない。
とても厳しいことですが、終わっていくためにこれをやらなければならない。
誰かに代わってもらうことはできない。
とっくに自分の器を超える、自分では判断がつかなことの連続ですごく難しいことになっていたのに、まだやれると思っていた。
人を頼りにやろうとしていた。
夜もあまり眠れないし、これ以上無理なので、理不尽さをどこかで納得して受け入れて、終わりにしていかなければならない。次の一歩をほんとうに考えていかなければならない。どうやったら一円稼げるか、考えていかなければならない。

ミュージカル『ラブ・ネバー・ダイ』

2014年07月26日 14時25分36秒 | ミュージカル・舞台・映画
『オペラ座の怪人』パート2。いよいよ日本登場である。ロンドン初演は2010年だが、翌2011年にはメルボルンで、オーストラリア版が登場。今回は、このオーストラリア版をベースにしての上演である。演出=サイモン・フィリップス、美術・衣装=ガブリエラ・ティルゾーヴァ。初日にはアンドリュー・ロイド=ウェバーも来日。舞台挨拶があった。

 パリのオペラ座から、怪人が姿を消して10年。ファントムはアメリカに渡り、コニー・アイランドで見世物小屋の経営者として成功していた。いきなりのファントム登場で、「君の歌をもう一度」を歌う。この段階では、まだ明快ではないのだが、マダム・ジリーと、その娘メグ・ジリーの協力があって、事業は成功したらしい。この頃は、電気の時代の始まりで、美術が電飾がキラキラ。

 だがファントムの想いは、いまだクリスティーヌひとすじ。なんとクリスティーヌをアメリカに呼んでしまうのだ。ラウル子爵との暮らしは厳しいらしく、お金のためにクリスティーヌは、夫と息子を連れてアメリカに来た。

 ドラマのポイントは二つ。マダム・ジリー母娘との関係と、クリスティーヌの息子は、いったい誰の子供なのかということ。ファントムってなかなかやるなあとも思うが、この人間関係が、ラストのドラマに向かっていく。

 (月刊『ミュージカル』2014年5月ー6月号、小藤田千栄子のミュージカル・ダイアリー
 『ラブ・ネバー・ダイ』怪人の想いは今も続く)


今年の3月12日から4月27日にかけて日生劇場で上演されました。
混乱の只中でもやもやの真っ最中でしたが、実は3回も観劇してしまいました。

ダブルキャスト、トリプルキャストで演じる方によって同じ役でも全く雰囲気が違ってくる楽しさを堪能できる舞台でした。全ての組み合わせが違っているので、田代万里生さんラウルを見逃したのが心残りです。

3月16日(日)昼の部

 ファントム:鹿賀丈史
 クリスティーヌ・ダーエ:濱田めぐみ
 ラウル・シャニュイ子爵:橘慶太
 メグ・ジリー:彩吹真央
 マダム・ジリー:鳳蘭
 グスタフ:松井月杜

4月6日(日)昼の部

 ファントム:市村正親
 クリスティーヌ・ダーエ:濱田めぐみ
 ラウル・シャニュイ子爵:橘慶太
 メグ・ジリー:彩吹真央
 マダム・ジリー:香寿たつき
 グスタフ:加藤清史郎

4月17日(木)昼の部

 ファントム:市村正親(鹿賀丈史さん体調不良で休演のため代役でした)
 クリスティーヌ・ダーエ:平原綾香
 ラウル・シャニュイ子爵:橘慶太
 メグ・ジリー:笹本玲奈
 マダム・ジリー:香寿たつき
 グスタフ:加藤清史郎


感想をまとめてうまく書くことはできないのですが、4月17日(木)の手帳のメモから拾いながら書いてみたいと思います。ちょっと読みづらい書き方になりますが、よろしければ読んでください。



2014年4月17日(木)

『ラブ・ネバ』昼の部を観劇。しばし辛さを忘れたひととき。

鹿賀丈史さんが体調不良で、市村正親さん代役、マント裁き、歌声、立ち居振る舞い、全てがファントムになりきっていた。
(3月16日に鹿賀さんファントムを観た時少し元気がないかな、まだ始まったばかりだからかなと少し心配でした。初日が明けてから喉の調子が悪くて通院しながらの舞台だったことが千秋楽でわかりました。)

平原綾香さんクリスティーヌ。濱田めぐみさんの少し強くファントムと張り合う感じのクリスティーヌと雰囲気が全く違う。「愛は死なず」の歌唱の素晴らしいこと。高音が冴えわたる。よくあんな声が出るなと思う。客席から「ブラボー」の声が飛ぶ。
(濱田さんクリスティーヌを2回観た後平原さんをどうしても観たいと思い、チケットを取りました。
俳優さんではないので最初の頃は、歌はよくても芝居になるとあれっていう感じだったようですが、この時には芝居もこなれていました。)

香寿たつきさん。鳳蘭さんよりもさらに強いマダム・ジリー。迫力があった。一幕目の終わりを背負う時の歌も芝居も安定感はさすがだ。2003年2月の宝塚退団公演以来11年ぶりに観たけれど、やはり裏切らない。2年前に宝塚版『エリザベート』のガラコンサートで皇太子ルドルフを演じたとは思えない。
(鳳蘭さんのマダム・ジリーは陰湿な感じがよく出ていて、たぶんマダム・ジリーのイメージそのものでした。香寿さんジリーは強さが出ていたように思います。
香寿さん5月の『セレブレーション宝塚』にゲスト出演されたときは、長い髪を後ろで束ねて、歌声も衣装の着こなしも男役に戻りきっているので感激でした。)

加藤清史郎君グスタフ。ラストでファントムの顔をなでるところなど演技が細やかで、歌も安定している。中学1年生にしては小さいかな。これからが成長期。うまく脱皮していってほしい。10年後には『レ・ミゼラブル』のマリウスをやってほしいな。子役はそろそろ卒業なので見納め。オペラグラスでしっかり見届けた。どんどんイケメンになっている。しっかりしているから大丈夫かな。
(『レ・ミゼラブル』で同じくガブローシュを演じていた松井月杜君を今回初めてみました。
高音がきれいに出ていて美しい歌声でした。実年齢と役の年齢とがしっくりときているグスタフでした。)



ラスト近くでグスタフの父親はファントムだということがわかり、ファントムの愛は今だクリスティーヌにあると知って絶望したメグ・ジリーはグスタフを道ずれに海へと誘われていきます。橋からグスタフを落とそうとしますが、演じる役者さんの腕はしっかりとグスタフ役をつかんでいて青筋がたっていました。
彩吹真央さんメグ・ジリーは、放心状態。笹本玲奈さんメグ・ジリーは気の狂った感じで演じられていました。

メグ・ジリーの放ったピストルはクリスティーヌを撃ってしまい、ファントムの腕の中でクリスティーヌは旅立ちます。ファントムが実の父親であることを知らされたグスタフは、ファントムの仮面をとり顔をなでて舞台は幕をおろします。ラウルはこの光景をひとことも言葉を出すことなく見つめています。
彼らはこれからどう生きていくのか。

ストーリィを追い始めるとツジツマがあいませんが、サーカスのような舞台の世界観に、そのまま浸ってしまえばいい。特にミラーガラスの柱が並ぶ非日常的な空間をファントムとグスタフがめぐる場面は引き込まれます。『オペラ座の怪人』のメロディがところどころできこえてきたりもして、終わり方はやりきれなさ感が残りますが、楽しい舞台でした。



やっと書けました。うまくまとめられませんでしたが、これで終わりです。
読んでくださり、ありがとうございました。



4月6日のキャスト紹介



ここから下の写真はすべて公式ツィッターより転用しています。

マダム・ジリー役の香寿たつきさん



物語のキーパンソンとなるグスタフ役の3人とファントム役鹿賀さんの後ろ姿



音楽監督のビリー山口さんとグスタフ役の3人


少し息抜きに・・・

2014年07月24日 09時31分45秒 | 日記
ずっと肩に力が入りっぱなしで緊張が続いています。
これではもちませんね。
気持ちを切り替えていかなければ、というところにようやくきました。
まだがんばれると自分で思い込んでいましたが、もう十分すぎるぐらいにがんばってきていました。
これ以上がんばろうとすると自分がこわれます。納得の方向を見出せるようにしていきたいと思います。

毎日どんよりとした空でジメジメしているので、なおさら気持ちが沈みがちです。
少し息抜きに・・・。

去年の7月、加藤清史郎君主演映画の上映後の舞台挨拶付きというのに惹かれてかなり恥ずかしかったですが、一人で行ってきました。


泣き虫与六を始めてみたときには女の子かと勘違いしてしまうほど可愛かったですが、中学生になり大人への階段を上り始めています。

『レ・ミゼラブル』のガブローシュ役、『ラブ・ネバー・ダイ』のグスタフ役、
歌声と細やかな演技を堪能しました。映画と舞台のかけもちというハードスケジュールもこなしてきていて、プロ意識に脱帽です。
これからどんなミュージカル俳優になっていくのか、楽しみです。
もうちょっと私が年をとってからも舞台を観に行きたいです。

8月に放送される『遠い約束_星になった子どもたち』というドラマに出演します。
終戦後の満州の難民収容所での子どもたちのお話で実話にもとづくそうです。
わたしのすごくお世話になっている方で、朝鮮半島で終戦を迎え収容所から
逃げのびたという体験をもつ方がいらっしゃいます。
詳細をうかがって文章にまとめ伝えていくことをしたいと思っていますが、混乱中なのでもう少し先になってしまいます。



写真は映画の公式ツィッターから転用しています。















秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(11)

2014年07月23日 21時40分01秒 | プリンスエドワード島への旅
雲がぐんぐん流れていきます。

きれいですね。夢をみているようでした。

サンセットの写真はもう少し続きます。




落ち着きませんが・・・

2014年07月21日 21時10分44秒 | 日記
どんよりとした空が続いています。雨が降りそうで降らない。
降るとなると土砂降り雨で雷も鳴って、なんだか落ち着かない天気が続いています。

ずっと緊張感が続いていて肩に力が入りっぱなしで、頭ばかり疲れてしまっていて、
就寝中もなんども起きてしまいます。すごく早く目がさめたまま眠れなかったり、反対に
おそくまで起き上がれなかったり、生活のリズムが定まらないので不安定な毎日です。
目がさめてしまった時もすごくぼんやりしているのに、混乱のことがよぎってしまって、
頭の中が緊張しています。

今まで知らなかった、普通の経験ではわからないことの連続、孤独と不安で、今の流れがほんとうに自分のためになっているのかわからなくなってしまい混乱しました。
社会のどこからも、誰からも必要とされていないような見捨てられ感をもってしまいました。
区切りがつかないので次にどこに行けばいいのかも全くわからず、お前なんか要らないんだと社会から言われているように感じてしまっていました。

今の流れがあっているのかどうか、友人夫妻に相談できて助けられました。

思っていたよりもはるかに茨の道、精神的にタフでないと続けられない道を選んでしまったようです。信じるべきものが信じられなくなるときびしいです。
何を信じればいいのか、今までの自分の経験では判断できないので難しいです。
間違ったことをしていないのに、おかしいのはわたしではないのに、おかしいことをおかしいと言うのにここまで苦労しないと言うことができないんだとあらためてわかりました。

かなりきついですが、もう少しこのまま進んでみます。

色々と書きたいことはあるので、気持ちを落ち着けてまた自分らしく書いていきたいと思います。