たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『1789バスティーユの恋人たち』_寄せ書き

2016年07月31日 16時04分33秒 | ミュージカル・舞台・映画
『1789バスティーユの恋人たち』観劇時の写真をようやく整理。5月12日に募金箱の横に立てかけられていた寄せ書きの写真をアップします。二か月半が過ぎた間に世界ではテロ事件が、日本ではおかしな事件が絶えません。何もできませんが忘れたくないという想いを込めて・・・。


 エピローグの「悲しみの報い」が想いだされます。歌詞を知りたくてネットを検索していたらこんなサイトがありました。

「悲しみの報い」の歌詞を教えてください、というもの。
http://lineq.jp/q/31942093

悲しみの報いとして
人は夢を見る権利を得る
憎しみを乗り越えて
新しい時代を築き上げる

 10月に発売予定のCD。モノが増えてしまうのでまだ予約していませんが断捨離がんばって進めてすっきりしたら購入してかみしめたいです。


トップの写真は劇場内の巨大パネル。


こちらが寄せ書き。





沙也加ちゃんオランプ、和樹さんロナン、花ちゃんアントワネット




かなめさんアントワネット、徹平君ロナン、ねねちゃんオランプ




キャストボードの写真は観劇日記に追加します。

夏祭りの夜、土曜日・・・

2016年07月30日 22時29分08秒 | 日記
 いつもの、ひとりで過ごす週末。人と話すことはほとんどない。最寄り駅へ行までの途中にある小学校では今日と明日の夜、盆踊り大会。近所に知る人もなく、住んでいる場所にほとんど密着していない生活を送っているわたしが顔を出すわけもなく、買い物帰りにただ様子をみるだけ。子供たちの元気な姿に色々な想いがこみあげてきました。子供の頃、8月最後の土曜日か日曜日だったと思いますが家の近くの神社で、毎年盆踊り大会がありました。中学2年ぐらいまでかな、すっごく楽しみでした。妹とわたしは母に浴衣を着せてもらって出かけていました。今思えば片田舎のほんとにこじんまりとしたお祭りでしたが、どんな提灯が出ているかなとか、楽しみでした。出店で綿菓子買ったり、楽しみでした。あまりにも家族が当たり前だったころの思い出の一頁。今の業務で、世の中には色々なご家族があることを知りました。少子化社会ですが、お子さんが3人、4人というご家族がたまにいらっしゃいます。男の子が多いと走り回ってほんとに賑やか。お母さん、すごいなあと思います。

 思えばわたしも3人姉妹、姉弟でした。同級生には二人姉弟が多かったと思います。子供が3人はすでにめずらしいことでした。母は3人の子を生んで育てました。3人のうちの一人が自死というかたちでこの世での旅にピリオドを打ってしまったことは残念でしたが、3人の子を生み育てたことはすごいことだったんだと今さらながら気づかされました。そんな想いで元気に走り回っている子供たちをみていると昨日も一昨日も心の中では涙が出そうになっていました。でも生むことがすべてでもありません。時には血がつながっていなくても法律上親子となっているご家族もいらっしゃいます。事務手続きを淡々と進めながら、お子さんが血はつながっていなくてもお母さんに慈しみ大切に育てられているであろうことを感じることがありました。どんな事情があるのかはわかりません。今目の前にいるこのお子さんに幸多かれと心の中では祈るような気持ちになることがありました。世の中にはほんとにいろんな人がいていろんな家族模様があります。ただひとつ想うのはみんな一人一人かけがえのない命。子供は親を選んで生まれることはできません。生まれてきた命が大切に育まれていくことを祈らずにはいられない、そんな夏祭りの夜でした。

第二章_日本的経営と近代家族_⑦近代家族は女性を抑圧した

2016年07月30日 15時33分04秒 | 卒業論文
 普通、私たちにとって、「家族」は、個人や社会にとって、その存在自体がプラスであると意識されている。逆に家族は個人の「幸せ」にとってマイナスであるという考え方は、つねに異端の側にあった。たとえ、現実の家庭生活で、何らかの苦しみを感じていたとしても、それは、現実の家族が理想的にない状態にない、つまり、問題家族のせいにされ、家族自体の是非は問われない。家族を構成する個人の責任か、家族をとりまく社会環境のせいにされる。家族は、何よりも、守るべきものと考えられてきた。それゆえ、家族の存在自体が女性にとって、「抑圧」の装置だというフェミニズムの発想は、普通の人びとにとって受け容れ難いものであり、逆に、私たちが持つ「家族への思い込み」を相対化する視点を提供している。家族こそが人間の抑圧の装置ではないかという思想は少数派ながら近代社会の成立以来つねに存在し、実践面でも様々な試みを生み出してきたが、マルクス主義フェミニズムの登場によって、装置としての「近代家族」の存在理由を、資本制という近代社会の基本構造と「家父長制」という女性の抑圧構造から解明する視点が生まれたのである。1)

 まず、資本制経済においては、資本家の組織する企業を生産の単位として、市場での生産及び労働によって商品として経済的富がつくりだされる。経済活動はいずれも市場活動として社会的な分業と交換の網の目のなかに編成されており、市場(交換)を通して社会的価値が形成される。そこでは、賃労働の成立によって労働力もまた商品化しているのである。賃労働者は自分の所有物である労働力を時間決めで売り、その報酬である賃金を得て生活している。ここで注意しなければならないのは、労働力も原料や機械など他の生産諸要素と共に商品を生産する過程で資本によって最も効率的かつ合理的に使用され日々消費されるが、他と異なるのは労働力は生きている人間のもつ属性であり、資本によって市場で「売られるもの」としてつくりだされるものではない点である。すなわち、労働力の生産・再生産とは、生きている「人間の生産・再生産」を意味する。しかし、全てがモノとして扱われる市場経済の内部では、労働力の再生産は、そのために必要とされる多様な生活資料の生産というモノの次元でとらえられる。したがって、資本制経済では労働力の再生産については、その機能を社会的装置としての「近代家族」に委ねているのである。そこは、市場関係の外の私的な領域である。資本制経済のもとでは「近代家族」は賃金を得て購入した生活資料を消費することにより労働力の維持・再生産を行うという商品の消費単位となっている。一定の消費労働をとおして労働力の日々かつ世代的な再生産が可能となっている。「近代家族」に委ねられた労働力の再生産労働は、市場経済の外の「非賃金労働」である。なぜなら、資本制的市場経済と家族とをつなぐ「労働力の提供―賃金の取得」についてみると、資本が支払う賃金はあくまでも市場の中で購入した労働に対するもので、そもそも市場で労働力を売るために市場外でいかに再生産の労働が不可欠であっても、その労働に対して資本が直接対価を支払うわけではないからである。しかし、マルクス主義フェミニズムからみれば、それは広義の社会的な生産労働として位置づけられなければならないものである。市場経済のもとではそれは「見えざる労働」になっている。この「見えざる労働」をめぐって性別役割分業が形成されているのである。 2) マルクス主義フェミニズムは、「家事労働」に注目することによって、家族は物的(特に経済的)な装置であることを強調した。女性は、家事労働者であることを強制され、搾取される。この「家事労働の発見」によって、「家族」が近代資本制の物的な(経済的な)存続に不可欠な装置として分析する視点が生まれた。

 「近代家族」を単位として営まれている労働力の再生産労働とは、日々のと同時に世代的な基盤の上に、人間の生命や生活を維持し再生産することであり、第一に種の再生産、第二に生命や生存を維持し再生産するための様々な活動と労働が含まれる。これら再生産の労働、とりわけ種の再生産労働は、その生殖機能と結びついて、女性に振り分けられてきた。男性が経済的責任を担い、女性が家庭責任を担うということは、つまり男性は生活資料の生産労働へ、女性は再生産労働へという性別役割分業が形成されたということである。そこには男性による女性支配の物質的基盤が存在し、さらに女性の労働力に対する男性の支配という家父長制が形成された。マルクス主義フェミニズムによれば、「近代家族」は再生産労働をめぐり家父長制的関係が維持されている制度であり、女性の担う「見えざる労働」の発見は、「女性役割」という性別イデオロギーや家族間の「無償の行為」「愛情」「母性」という名のもとにこれまで覆い隠されてきた再生産労働をめぐる物質的関係を明らかにした。3) 家父長制的関係が維持されている近代の結婚と家族は、女性にとって抑圧として機能していると考えられるのである。

 まず、種の再生産労働について考えてみると、たしかに妊娠・出産は、女性の身体に生じることではある。しかし、男性なしには生じない。したがって当然妊娠に関わることは両性の問題であるのに、不妊の原因が女性のみにあるかのように考える社会通念など、子産みにかかわる事柄を女性のみの責任に帰するかのような社会通念が根強く存在する。女性労働者は「生む性」として母性機能をもち、この特性を十分発揮するには、労働において母性の保護を必要とするとして、母性を保護する目的で昭和23年に本人の申し出により取得可能な生理休暇という日本独特の女性保護(当時の各国の労働法にはどこにも見当たらない)が労働基準法に取り入れられた。さらに、子育てにおいても、母親には子どもを育てる本能が備わっているのだから、母親が子育てにあたるのが当然であるとする「母性神話」が根強く存在し、男性には育児責任も必要性もないかのような社会通念を蔓延させてきた。母親には、身体の機能としての子どもを産む行為の他に、実際の行動として子どもを育てるという行為、無償の愛・包容力・慈しむ心・自己犠牲などという概念としての母性という意味が付与されている。「女は子どもを産んで一人前」という社会通念は今も根強く、「母」という絶対的な地位は、女性の性役割の中核をなしているし、また、性差別を正当化する根拠にもされている。女性が仕事で得られる社会的評価に対しては、その分何かを失っているというところに目が向けられがちだが、「母」であることは、それだけで社会的にすでに評価される。子どもを産んでいない女性には、女性の中にあるというあったかい雰囲気、よい属性がないというようなマイナスイメージがつきまとい、女性自身も女性として足りないところがあると思ってしまうのである。日本型企業社会においては、このような女性たちの子産み・子育てに関わる行動をあたかも単に生物学的に規定されたものであるかのように位置づけてきた。

 さらに、育児も含んだ家事労働を考えるとき、男性が家事を分担しないでよい理由として使われてきたのが、家事労働は「女性の愛情表現」であるという考え方である。そこには、女性は男性に比べ「愛情深い」ので市場労働での競争には向かないという「女らしさ」のイデオロギーが含まれている。欧米において、17世紀以来、発展しつつある市民階級の知識人たちが描いた受身的で温和で友好的な妻、主婦、そして母という女性の理想像は、女性に対し、家政と一家団欒とを自然で唯一の活動分野として指定するものであった。市民の私的領域である親密で居心地のよい家庭生活の中心に、夫や子どもへの慈愛行為を「美しいふるまい」として行うことを仕事とする女性を縁起よく位置づけるようなイデオロギーが誕生し、やがてこのイデオロギーは一つの哲学にまで高められた。「美しいふるまい」としての家事労働は、女性の本性からただちに生じるものとみなされるようになり、その「本性」は情欲をはっきり抑制した恭順な性質を示していて、定式化できるほどに家庭生活の属性にピッタリ一致した。というのも、家庭生活は、敵対的だとみなされる外部世界から隔離された「上品で、穏やかで、閑静な」暮らしを意味するからである。やがて、女の本性と「美徳」が家庭生活及び女性の家事労働と分かちがたく結びついているという見解が市民的思考としてはっきり示されるようになるのである。 4)

 家事労働と市場労働とを内容によって分けることはできない。近代社会において、家族の中で行われる有用労働が家事労働である。同じ活動であっても、例えば洗濯をクリーニング屋が他人の物を洗えば市場労働になるように、家族以外の者に対して行われれば家事労働ではない。対価を取れば市場労働であり、とらなければ、ボランティアと呼ばれる。つまり、家事労働は市場における賃労働との対比でしか定義することができないのである。賃労働は、その労働の価値が市場によって計算され、対価が支払われ、通常労働の担当者に関して競争がある。これに対して、家庭の中で行われている労働が家事労働であるという認識は、市場労働と逆の性格を帯びているところから生まれる。まず、家事労働に対しては対価としてお金が支払われることはない。妻の家事労働分は、夫の稼いでくれる給料との交換というイメージがあるが、給料分しか働かないということはない。家事労働は、無償の「贈与」として行われる。次いで、賃労働は時間・密度・質が厳しく計算されるのに対して、家事労働はその量や質が計算されることがない。さらに、家事労働には競争がないので、下手でもクビにはならないが、いやだからといってやめることもできない。

 以上のように公の評価を受けないからこそ、日常生活場面での意味づけ、そして、感謝や文句など周りの人の反応の重要性が増す。それゆえ、家事労働は「意味づけ」がなければすぐ最低のレベルまで落ちてしまう。「意味づけ」とは、「対人的」なもので、生活責任を分かち合う相手がいる場合に家事労働を行う動機づけといえよう。特に、子どもなどの弱者がいる場合、「やってあげたい」「かわいそう」「相手が喜ぶのが楽しみ」といった「情緒的動機づけ」が家事労働を最低水準以上のものに押し上げている。「愛情表現」という意味づけが付与された家事労働の成否は、他の家族成員の反応にコントロールされる。相手の感謝や喜びの反応や、不満・文句が戻ってくることによって家事労働を担当する人の欲求が充足されたり、されなかったりする。少ない労働であっても相手が感謝する場合もあれば、長時間かけても文句を言われることもある。「お金」という物差しがないため、家族という小さな領域での主観的反応が、評価として返ってくる唯一の手がかりである。それゆえ、家事労働はあくまでも「私的」なものとして営まれる。結果的に、労働力再生産という形で社会の再生産に寄与しているとしても、その動機は「私的」なものだという暗黙の了解がある。5)無報酬で「私的」な活動ゆえに、ほとんど技術も要らない仕事だと決め付けられている。

 客観的な評価基準がない家事労働は、手を抜こうと思えばいくらでも抜くことができる。しかし、家事を自分の仕事だと思っている多くの主婦たちは滅多に手抜きをしないどころか、手抜きをしないように自分で基準を決めてその基準の達成に追われる場合さえしばしばある。こうした主婦の自分で自分を縛りつけるメカニズムを解き明かしたアン・オークレーの分析を井上輝子は次のようにまとめている。人は自分のやっている仕事を無意味だとも無価値だとも思いたくはないから、仕事に対する評価や報酬を期待する。家事労働に与えられるのは経済的報酬ではなく、夫や子どもの愛情や感謝という、私的で心理的な報酬のみである。しかし、愛情や感謝は毎回表現されるわけではないし、たとえ表現されたとしても量的に測れるものではない。ゆえに主婦は自分で自分を激励し、満足感という自己報酬を見つけださなければならないことになる。自己報酬と自己評価を得るために、主婦たちは「おきまり仕事と規準」を自ら設定し、やがてその規準をどうしても従わなければならない義務と考えるようになって、もともとは自分で設定したはずの仕事のリズムにがんじがらめにされてしまう。家事ほど自律的に見えて、その実最も他律的な仕事はないのである。6)  

 以上、家事労働についての概観が少し長くなった。主婦が行っている家事労働とOLが会社で行っている仕事との類似性については、第四章で検討したいと思う。

引用文献

1) 山田昌弘『近代家族のゆくえ』24-26頁、新耀社、1994年。

2) 竹中恵美子編『新・女子労働論』8-11頁、有斐閣選書、1994年。

3) 竹中恵美子編、前掲書、11-14頁。

4) B・ドゥーデン・C・ヴェールホーフ著、丸山真人『家事労働と資本主義』4頁、岩波現代選書、1986年。

5)山田昌弘、前掲書、143-146頁、154-155頁。

6)井上輝子『女性学への招待[新版]』150頁、ゆうひかく選書、1997年。



夏色の空が広がった日、金曜日・・・

2016年07月29日 22時45分17秒 | 日記
 お昼休憩で外に出てみると青空が広がり夏色の雲が流れていました。木陰では風がそよぎ、散歩するには気持ちのいいお天気。今日はなぜかいつもよりさらに冷房で体が冷える感じがあったし、地下で陽のあたらない生活をしているので公園をぶらぶらとするとすっごく気持ちがいいだろうなっていうお天気でした。残念ながらそんな猶予は許されず冷房効きすぎのお店で時間気にしながらお昼を食べたら、そそくさとまた戻らざるを得ませんでした。のんびりと散歩したかったなあ。裏山からは夕方帰ってくるとかなかなとひぐらしの鳴き声がきこえてきます。夏ですね。かわいい清史郎君の動画に癒された金曜日の夜。少しのんびりしながら断捨離と英語を少しがんばれたらいいなと思います。明日と明後日はまた連休。

 全くどうでもいいことですが、陽のあたらない生活で今ふっと前職で、デジカメをメーカー修理に持っていってほしいと頼まれてお使いに行ったときのことを思い出しました。うろおぼえです。国内大手メーカーの修理を受け付ける窓口でしたが、ビルの入り口にはセキュリティがかかっており、入口にある電話でまずは連絡をしました。そして入口のロックを解除してもらって中に入ってみると受付窓口は地下にありました。全く外からの光は入らない場所。窓もなかったと思います。そんな場所で30代らしき女性一人と男性(おじさん)一人だけが働いていました。あとは受け付けた品物や段ボール箱がところ狭しとあるだけ。わたしがその女性だったらこの閉塞感に耐えられるだろうかとその時考えてしまいました。その女性は正職員ではなかった可能性も高いと思います。契約社員、あるいは派遣。わたしにはできない仕事だと思いました。世の中にはほんとに色々な仕事があります。どこでどう折り合いをつけながらわたしは働き続けていけばいいのでしょうか。一般的には年齢で完全にアウトなんですよね。何してきたかとか大学卒業したとか関係ありません。ほんとにどうしましょう。母の病気を理解したくて、受け入れたくて必死に勉強した結果精神保健福祉士の国家試験に合格しました。あの日々はわたしにとって何だったんだろう。いつか答えの見つかる日が訪れるのでしょうか。あれやこれや思いめぐらしていますが、睡眠不足の限界みたいです。とりとめもなく思いつくままに書き連ねてしまいましたがこれでおしまいです。お読みいただき、ありがとうございました。

ちょっと暑い夏の夜、木曜日・・・

2016年07月28日 22時21分52秒 | 日記
 午後お昼休憩で外に出てみるとは久しぶりに夏らしい青空がひろがっていました。暑くあってきていました。でも入道雲は見られなかったような・・・。ここしばらくが一番暑い時期のはず。梅雨も明けて夏本番ということになっていくのでしょうか。なんだか落ち着かない天候の変化。突然ゲリラ雷雨がやってきたりするのでほんとにおそろしいです。昨夜は12時近くにまたまた地震。わたしのところは震度2だったようですががんと突然突き上げてくる感じがあり、不安と緊張であまり眠れませんでした。眠ろうとする準備にはいっていたところでしたがものすごく落ち着かなくなってしまいました。3.11の余震とか。3.11の揺れがいかにすごいものだったのか、あらためて実感。あの時の、ほんとにもうだめだと思った恐怖心を忘れることができません。震源地からこんなに離れていてもこうなのですから震源地に近いところはどれほどすごかったことか・・・。

 今日もあまり忙しくありませんでしたが空気はピリピリしているので疲れます。ストレス度が高くなると、ものすごく怒っていると、その声どっから出ているんですかっていうものすごく甲高いキイキイ声になるのでびっくりします。今日はわたしたちではなく4月に全く畑違いの部門から異動してきた役職者がすごく怒られるのを聞いてしまいました。ものすごくかんだ高い声とものすごい言い方。はあっ、勘弁してほしい。知らない人はほんとにびっくり。ほんとはこんな人からの評価などどうでもいいんです、わたし。でもボスだから、その立場を利用して何を言われても我慢するしかない、流すしかない。イメージに100%こたえるなんて無理なので流すしかない、時にはそうじゃなくって、って言うべきことも言うべし。まあ滅多にできませんが、今日はちょっと言ってしまいました。こんなボスの下でもうすぐ折り返し地点。いやもう過ぎたのかな。人から評価されなくても自分で評価できる、わたしはよくぞここまで立ち直ってきたと・・・。気力が尽き果ててどうしようもなかったところからここまで這い上がってきたんだ、自分をほめてあげよう。

 明日は久しぶりに三十度越え。お昼休みは毎日同じお店。遠くに行ってしまって一分でも遅刻するとものすごい言われ方をするので迂闊に知らない所へいくことはできない。何も言われないように戻れるか、毎日プレッシャーとの闘い。明日は金曜日ぞい!無事に週末を迎えられますように・・・。木曜日のグチ日記でした。

涼しい夏の夜、水曜日・・・

2016年07月27日 22時12分54秒 | 日記
 ムシムシしていますが明日も三十度いかないみたいです。助かります。まだ梅雨?八月に入ってどかっと暑くなったらこたえまする。そういうの勘弁してほしいなあ。たぶんそうなんでしょうけどね。職場の空気は何気によくないです、いいはずはない。そりゃそうだ。でも他よりはまだマシなのかな、どうなんでしょうか。人はほんとにわかりません。人はほんとに色々で十人十色。そんな言葉に過剰反応するんですか、っていうおじさんが現れて、話も長いし、社会への不満を他で吐き出せないからここで吐き出しているんだろうなと思いましたが、ここで吐き出してもお詫びにっ、っていって何かが出てくるわけではないしよせばいいのに、って思いました。そういう自分も過去に言っても仕方ないとわかっていながら不満を吐き出したことありますけどね、だからほんとは自分のことを棚にあげて人のこと言えないんですけどね・・・。

 接客業はほんとに大変。だから仕事を求めている人はたくさんいるはずなのに常に人を募集しているのかな。接客業だと銘打ってしまうと人がこないから事務作業のようなあいまいなイメージを与える求人内容にしたのでしょうか。正確には接客が主で付随して事務作業があると銘打つのが正しいように思えますが・・・。

 なんとか水曜日。ネットの中のかわいいイケメンに癒されるのが息抜きです。あと二日。なんとかかんとかやるしかない。わたし立ち回りが下手だから目立ってしまって怒られる理由なんてないはずのところでも怒られる理由をつくってしまって怒られちゃっているみたいです。あはっ。どこにっても結局おんなじ・・・。今日もとりとめのないグチ日記でした。

涼しい夏の夜、火曜日・・・

2016年07月26日 22時03分03秒 | 日記
 気温は高くないですがムシムシしますね。昨日の午後は晴れてきたのになぜか傘をもって出勤。今日の午後は雨がふると予報が出ていた今日なぜか傘をもっていかなかったのでした。昨日も今日も忙しくなかったです。でも責任者はすごくピリピリしているので疲れを感じます。週末に休暇を取って海外に出かけたお疲れなのでしょうか、イライラしています。わたしは珍しく当たられませんでしたが他の人たちが当たられていました。明日はわたしに番が回ってくるかな・・・?! いやですね。指示に一貫性がないところがあるので振り回されます。ずっとこの仕事をしてきているっていうわけではないし、そこまでの知識も持ち合わせていないし、研修も受けてないし、そもそもそんなに色々とむずかしいことがあるっていう前提でのスタートではなかったはず。全く聞いていないことばかり。期間限定のわたしたちに要求されてもそりゃあ無理ですよ。やたらと人に突っかかるようなときは目つきがちがう、なんだろうこの目つきは、っていう感じなのでだいたいわかります、ああ機嫌がわるいんだな、って。そういう環境のもとで働くってよくないです、ほんとに。まあどこにいってこんなことはありますけどね。指導者にふさわしい人なんてそんなにいないです、どこの組織にも・・・。

 断捨離が落ち着いてきたらゆっくりDVDみたり、英語を読んだりしたいな。ブログに書きたいこともたくさんあります。まだまだ道のりはとおい。モノは減りません・・・。

『エリザベート』今日が帝劇千穐楽。昨日から前楽の動画がアップされるなどありますが、DVD発売でツィッターのコメントとか読んでしまうとすごくもやもや。SNSって顔を知らない同士が、顔をみたら言えないこともネット上だと言えてしまって、やりあったりしてしまうものかな。なんだか哀しいですね。せっかくのいいニュースなのに。SNSは性分にあわないなあと思います。FBを昨年の秋始めてしまい今も時々投稿してはいますが、なんだか性分にあわず、FB友達を増やしたいと全く思っていません。本当に書きたいことを書くにはブログがいいです。キャストのみなさんのツィッターやインスタはチェックしますけどね。先ほど城田さんのインスタにアップされた憲史郎君の動画にものすごく癒されました。可愛すぎてとろけちゃいそうです、ほんとに。

 わたしはあまのじゃくなところがあって、自分が生で観た舞台の映像をすぐには観たくありません。雪組と宙組の『エリザベート』のビデオを買ったのはしばらく時間がたってからだったと思います。映像化されてもすぐには買いませんでした。今回の映像化もそうなるだろうと思います。予約だけで売り切れちゃうとかなければ、ですが・・・。

 明日は水曜日。長いなあ・・・。思いつくままに火曜日のグチ日記でした。

涼しい月曜日の夜、夏・・・

2016年07月25日 22時15分31秒 | 日記
 昨夜少しだけ窓を開けて就寝したら明け方少し寒かったかもしれません。涼しい夏の夜、過ごしやすくて助かりますがちょっと心配です。明日も涼しいようです。これがまた突然どかった焼けるように暑くなると体にこたえます。電車の中やお店は冷房キンキンなのでお腹がひえてしまい辛くなります。必ず一枚羽織るもの持参。就労場所も場所によってはすごく冷えるので、ほんとに難しい季節。

 月曜日、一週間が始まってしまいました。弱者切り捨てていくようにうまーく社会の仕組みができていることをあらためて思い知らされた週末。気力が失せた週末。一生懸命に働いても仕方ないんだなあと思います。クソみたいな会社で一生懸命に働いてしまった自分がほんとにばかだったと思います。自分が悪いんじゃないかって言われればなにも言い返すことができないようになっているので、自分を責めるしかありません。過ぎた時間はもう戻りません。B元部長様、あなたの軽はずみな判断がわたしの10年を取り返しのつかないものにしてしまいました。わたしの大切な10年間を返してください、ってどんだけ言っても遅すぎます。今の職場と仕事内容で棒に振ってしまった10年間を取り返せるとも思えないのでなおさら悔しいです。ある意味最先端をいっています、ほんとに。朝とお昼休憩の1分、2分にはものすごくピリピリ、キイキイなるのに、終了時刻を5分過ぎてまだ仕事を続けていても何も言いません。どころかこちらから残業としてつけてもらえませんか、って申告しないと残業扱いされません。朝の5分、10分の貴重な時間をサービス残業しているのだから終了時刻超過分ぐらいちゃんとカウントしてほしいです。おかしな話です。たった5分、10分なのかもしれませんが、貴重な時間を売っているのだからちゃんと払ってほしいです。残業時間のカウントが30分単位?おくれています。こんなことだから色々とキイキイ声で言われても流すところは流します。要求に完璧に答えることなんて無理だし、それだけのものも受け取っていないのでそこまでモチベーションはあがりません。(かといって手を抜いていい加減なことをやっているわけでは決してありません…)。

 エリザベートのDVDが発売されることになりましたが、なんだかもやもやしてしまっています。SNSもいんだかどうだか。ポケモンGOとか、スマホ持っていないなのでなんのことか全くわかりません。ただ駅前とか道とかで誰もがスマホとにらめっこしている光景が異様で気持ち悪くって仕方ないです。そんなもん、いらんでしょ、って思うのはわたしがおばさんだからでしょうか。こんな光景が当たり前な中で子供たちが育っていくことがすごく怖いと思います。そんなこんなですっきりしない月曜日の夜。

 人はみんなひとり。最期はひとり。一昨日の観劇で心の中にしみわたった限りない孤独なシシィの魂がふとよみがえってくると、かえってなぜだか安らぎすらおぼえます。まだ月曜日か。なんだかんだで乗り切っていくしかないです。月曜日のグチ日記でした。

これからが夏本番か・・・

2016年07月24日 21時33分19秒 | 日記
 これから二か月ぐらいが一番暑い時ですね。9月の上旬には父親の七回忌。それに合わせて数日間連続で休む予定にしています。それまでふんばれるかなあ。ふんばるしかないんです。もう十分すぎるぐらいふんばってきたのにさらになにをふんばればいいのかと思いますが、歩みをとめるわけにはいかないです。考えてしまうと理不尽だらけで全く進むことができないので考えない。出勤日は考えない。つまらない仕事。頭が疲れてしまうので考えない。理解できないことを無理に理解しようとしない。期間が決まっているのだから終われば関係ない。きいきい怒られても流す、流す。まじめに全部受け止めない。なかなかこうできないから毎日ストレスまみれなんですけどね・・・。生きることはむずかしいです、ほんとに。二週連続で五日間フル勤務をこなしたら祝日&振替休日&土曜出勤。その翌週はまた有給休暇をとる予定にしていて、国際フォーラムで『シカゴ』を観劇予定です。できればルノワール展にも行きたい。水漏れで貴重な有給休暇を一日つぶしてしまったのが勿体なかった。ここの大家サイテー。ほんとはもうこの部屋出たいですがお金かかるし荷物多すぎて身動き取れません。断捨離はまだまだ時間を要します。本と絶版本のコピーの量が半端ない。地道に減らしていきます。

 エリザベートの観劇日記、時間と仕事であまたが疲れていることもあり、去年ほどには丁寧に書けていないなあと思います。自分の観劇日記、読み返すの好きです。自分で励みになります。明日からまたグチ日記の連続になります。このようなブログへの訪問、ありがとうございます。

『エリザベート』My千穐楽からの徒然

2016年07月24日 17時34分19秒 | ミュージカル・舞台・映画
 お昼を過ぎたら久しぶりの青空。少し暑くなりました。わたしの中では夏が終わりましたがまだこれからなんですよね。明日からのことを思うとぞっとします。夏が過ぎ秋も通り過ぎてクリスマスが来る頃には次の収入の目途がたぶんないであろうことを思うとさらにぞっとします。去年の今頃のメモや写真に出会うたびに、社会から孤立してパソコンもちながら放浪していた日々を思い出して辛くなります。ズタズタになって心の中で涙を流し続けながら、誰にも理解されないままどうしようもなく孤独な日々を送っていました。

 一年が過ぎ、弱い立場の人間の人生なんて社会にとってどうでもいいもの。弱い立場の人間の人生を踏みつけにして巨大組織は生き残っていくもの。社会の仕組みは強い者のためにあるもの。弱い立場の人間が社会にモノ申すにはお金と時間をかけて裁判を起こす以外に方法がない。そんな大変なことをやれるのはほんの一握りの人だけ。多くは生活という人質のためになにもできずあきらめざるを得ない。そんなふうに社会はできている。こんなことを再確認することとなり、気力が失せた週末となりました。

 『エリザベート』ではミルクを歌う立場の人々。社会の底辺にいる市井の人々。今の私たちよりもはるかに、一日一日を行く抜きことに精一杯だったんでしょうね。はじめてこの舞台を観た20年前、シシィはなんて自分勝手な人なんだろう、って思いました。放浪の旅をするためにどんだけの税金使ったんだろうな、って思いました。鞄ひとつでひょいっと旅にでるわけではないからすごかったでしょうね。それを考え始めるとかなり複雑ではあります。もしも、もしも、ハプスブルク家がルドルフの養育を間違えなかったら、もしも、もしも、ルドルフがフランツのあとを次いで政治を司る人になっていたら世界はちがったかもしれない、二つの大戦はなかったかもしれない。そんなことをとりとめもなく思ってしまいます。

 帝劇の売店をみていたら、井上さんの『夜と霧』の朗読劇のCDがありました。いいお仕事されてきているんですね。断捨離が落ち着いて来たら購入してじっくりと聴いてみたいです。このブログで紹介したことありますが、ウィーンの精神科医だったフランクルはユダヤ人であったために、第二次大戦中収容所に入れられ、妻も子供も命を落とした中で一人生き延びて人生を全うしました。『夜と霧』の中で、希望を失わなかった人だけが収容所から生還することができた、それでも人生にイエスという、と言いました。井上さんの役者人生の中で苦しみと出会ったとき、『夜と霧』に救いを見出されたのでしょうか。まだ聴いていないので推測ですが・・・。わたしは何を信じて、どこに希望を見出していけばいいのでしょう。ずっと迷いの中にいて、いまだ希望を見出せずです。

『エリザベート』はお金と権力をもつ立場にある人々の孤独の物語。シシィもフランツもルドルフも果てしない孤独の海を泳ぐように生きた人たち。「夜のボート」で「ぼくたちはふたりでひとつなんだ」ってフランツは言うけれど、シシィは「無理よ」って拒絶してふたりはすれ違ったまま。想いあっているのにすれちがったまま。シシィは「わたしが踊る時」でトートに対して勝ち誇って、ものすごいツンデレで「勝ったのね」と歌うのですが、トートにあがないきれないことをすでにわかっている、無意識なのかもしれませんが、気持ちのどこかですでにトートと一体化している。そんな感じがしました。

 体操室で「まだあなたとは踊らない」って言う前の声は、ああっていうよりも、トートを睨み付けあざわらうような声だったかもしれません。なんと言葉で表現していいのかわかりませんが、フランツの不貞を知って、「命を絶ちます」と言い、悦んでシシィを受け入れようとしたトートに対しておそろしいほどの生への執着をみせた場面だったように思います。トートに背を向けて立ち去っていく時の後ろ姿が、あなたにはまだ頼らないで生きてみせる、って言っているようでした。魂を削るように言葉が発せられた場面をうまく自分の言葉に置き換えられません。

 結婚式の翌朝、リヒテンシュタインに起こされたとき、シシィがふはっ、まだ眠いのに、っていう表現をしたのはわたしが観劇したなかでは7日の夜の部だけでした。ひとつひとつほんとに細かく丁寧に少しずつ違います。

 木登りから落っこちで黄泉の世界へと迷い込みトートに見初められた場面と結婚式のあとの舞踏会ででトートダンサーに誘われトートの下へと誘い込まれた場面。どちらのシシィも表情はおびえたまま操り人形のように無重力にトートとトートダンサーに身を委ねているときの動きもひとつひとつほんとに細かく丁寧で毎回オペラグラスが手放せません。現実に引き戻されたシシィがおびえながらフランツにかけよった時、フランツは大丈夫だよ、っていう感じで背中をぽんぽんとしてあげていてめっさ優しい。同時に「早く二人きりになりたい」っていうシシィに「自分を抑えて生きるんだ」って言わなければならない。なんとも残酷で切ない。

 トートダンサーが舞踏会に紛れ込んでいってフランツとシシィを引き離し、すべての観客たちを蹴散らしていく場面のダンスが流れるように美しくって毎回見惚れます。ルドルフと革命家たちが反乱を起こそうとして鎮圧される場面にトートダンサーが紛れ込んで蹴散らしていくときのダンスもすっごいハードだと思いますが流れがあってすごいなあと毎回思います。全体を観ていると、一人ずつを観ることができないのがほんとに残念ですが、去年よりもさらに美しいダンス。

 精神病院の場面で、ルキーニはシシィが深い孤独の闇の中を漂うような孤独に触れたのかな。静かな演技にそんな雰囲気を感じました。 

 観劇日記としてまとまりのあるものは書けませんでした。徒然なるままに、また書き連ねると思います。お読みいただき、ありがとうございました。


 昨年と同様花ちゃんシシィだけをみましたが、蘭ちゃんシシィも一度はみればよかったと少し後悔。

7月23日夜の部キャスト


今日も満員御礼




花ちゃんシシィと蘭ちゃんシシィ



田代さんフランツと佐藤さんフランツ




古川さんルドルフと京本さんルドルフ