たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

秋のプリンス・エドワード島への旅_7日目(帰国)(2)

2014年04月29日 21時46分59秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月19日(金)

シャーロットタウン空港⇒ハリファックス行
エアカナダAC8869便 8時45分発

少しおくれている。ハリファックスまで2列・2列の小型機。25分ぐらいだったが飲み物の機内サービス有。
低い所を飛んでいるので窓からの景色を楽しめた。
通路側だったが、わたしが一生懸命に窓の外を見ているので、隣の女性が席を替われないか、乗務員にきいてくれた。前のシートが空いていたので窓側に坐って、サンライズとパッチワーク、紅葉を楽しむ。
遠く遠くはるかに遠く、海の彼方の朝陽がまぶしくてほんとうにきれいだった。
サヨナラPEI。
あっという間に海を渡ってカナダ本土へ。ハリファックスの紅葉も美しかった。

親切にしてくれた女性は、PEIからニューファンランド島に行くそうだ。北だなあ。
英語が簡単なことでも全部は聞きとれない。英語ができないと旅はきびしいわね、という感じもあったが、PEIの人たちはお喋り好きで人なつっこい。
少ししか喋れないのが残念だが、始まったら終わらなそうだからちょうどいいかな。

なんとも陽気な人たちが暮らす田舎街だ。
みんな瞳がすごく人なつっこい。PEIだなあ。
変わらないでいてほしい。
紅葉の当たり年でもあったようだ。

ハリファックス⇒トロント行 
エアカナダAC611便 11時発

トロント⇒成田空港行
エアカナダAC001便 14時21分発

トロントでの乗り換えが遠い。
途中パスポートを見せて、エレベーターで上がったりもしなければならない。
縁あってカートに乗って楽してしまった。
時間に余裕がなかった。


**********

旅日記には書いていませんが、島を出発する日84歳の誕生日を迎えたという日本人女性と
ご一緒させていただきました。ツアー会社の方からお祝いがあったようです。
娘さんとの二人旅でした。

半世紀以上前、『赤毛のアン』を読んでいつかプリンス・エドワード島に行きたいという夢を
はじめて叶えたそうです。
成田空港でお別れの挨拶をした時、「すごく楽しかった。また行きたいわ」と素敵な笑顔を
みせてくださいました。

春のプリンス・エドワード島を訪れた時にも、80代半ばの日本人女性とご一緒になりました。

心身ともに健康で費用があれば行けるんですね。
次の旅の予定を今は立てることができませんが、またいつかきっと行けるという希望を持ち続けたいと思います。

ようやく秋のプリンス・エドワード島への旅日記は終わりです。
写真がまだまだありますが、書きたいことがあれこれとあるので、気長にお待ちいただければと思います。

厳しい状況が続いている私を心配し、応援してくださる方々のいることに心から感謝です。
ここまできたのだから、きちんと終われるよう今しばらくエネルギーを振り絞って進んでいきます。

プリンス・エドワード島からハリファックスへ向かう機内からです。
黄葉が美しいですね。


今日も新緑が輝いていましたね

2014年04月26日 22時05分03秒 | 日記
土曜日になり少しほっとしています。
ようやくまた平日が終わった、そんな感じです。

昨日ようやく失業保険を申請しました。
自己都合ではないので、特定給付が認められました。
十数年間一生懸命に働いてきました。
今まで払ってきた税金や保険料を取り戻すと思って堂々と受け取ればいいんです、と職員の方に言われました。
でも、あまりの理不尽さをまだ受け入れることができておらず、失業という言葉の響きに強いストレスを感じてしまって、気持ちがどうしようもありませんでした。
明確な理由がわからないまま気がついたら失業者になっていました。
これが通ってしまうなんて社会の仕組みが悪すぎる、怒りもまた自分の中にあふれかえってしまい、どうしようもありませんでした。


今日が何日の何曜日なのかわからなくなってしまうのが辛くてなりません。
自分の足がどこにもついていないような、ふわふわした状態で今週も過ぎました。
平日ふらふらしている自分がどうしてもみじめに思えてしまって、今はどうしようもない状態です。本当は働ける力があるのに、この間までばりばり働いていたのに・・・そう考え始めると、迷いがあったとはいえ悔しいばかりです。
世の中からはじき出されてしまったように感じてしまいます。


生活のリズムができないし、かといって、まだ混乱は終わらないので、具体的にどこをめざして進んでいけばいいのかがわからなくて身動きをとることができません。
履歴書を書いて次に向かって進んでいこうというエネルギーがどこからも湧き出てきません。
もう力が尽き果ててしまった感じが昨日はしました。


住んでいる所がマンションといっても単身者用の賃貸で壁が薄いのでご近所の音が筒抜け状態、なおさら疲れます。
でもここまできて折れるわけにはいきません。
少し動きも出てきたことが今日わかりました。
かなり苦しいですが、もうしばらくふんばります。


応援してくれている方がたくさんいることを心の支えにします。
心から感謝しています。


また、卒業論文の参考資料から拾いました。
長くなりますが、よろしかったら読んでください。


「ザンギョーという国際語もあるくらい、日本人のワーカホリックは名高い。そのようななかで、ふと、なぜ働くのかという問いがもし自分の中から否応なく頭をもたげてきたら、わたしたちは、生活するため、自分や家族の豊かで安らいだ将来の生活のためといった理由を挙げるにちがいない。少なくとも、わたしたちの社会が高度成長期をむかえるまではそうであった。満ち足りた老後をむかえるために、ひとはきばる。あのときがんばっておいたから、いまこのように安楽にしていられるのだ・・・というわけだ。ここで幸福な老年とは、過去の「業績」の上にのっかっている。それは過去の記憶と過去から蓄えた財によりかかって生きるということなのだ。皮肉な見方をすれば、これは別のいきかたというものをあらかじめ封じ込める生き方である。それは、すでに確定した過去の延長線上で生きるということであり、したがってその満ち足りた老いの生活は、ますます枠を限られた狭い世界に入っていくともいえる。成年のあいだは未来のために働き、老後は過去によっかかって生きる。どちらにも、<現在>の充溢というものはない。働いても、働かなくっても、どちらの場合も、生が輝いていないと、当事者は心のどこかで感じている。」

(鷲田清一著『だれのための仕事』岩波書店、1996年発行、7-10頁より引用。)


「社会から下りるという定年退職者の意識も、もうすぐ社会に出る就職予備軍の意識も、ともに<社会>に出入りするというイメージで自分のいまの堺位をとらえているわけだが、年齢とともに人々が出入りするような<社会>とはなにか、そのようなものがほんとうに存在するのだろうか。いまこの問題にただちに答えることはできないが、いまさしあたってここで注意しておきたいのは、<社会>に入る前と出た後との、対照的なふたつの意識が、ともに同じ時間意識に囚われているという事実である。それも幾重にもそうなっているということである。」

(鷲田清一著『だれのための仕事』岩波書店、1996年発行、10-15頁より引用。)


小川はさらさらと流れ続けています。

写真は春のプリンス・エドワード島、バルサム・ホロウ・トレイルを流れる小川です。



新緑のまぶしい日に徒然に・・・

2014年04月23日 16時29分24秒 | 日記
いつの間にか新緑の輝く季節になりました。
季節は移り変わっていますが、年明けからの混乱はまだ続いています。
詳細を書くことはできませんが、極度な緊張感を強いられる日々です。ものすごく肩に力が入ってしまいます。自分一人の力ではどうすることもできない状況なので、今は仕方ありません。
残念ですが、直接雇用ではないので話がややこしくてなかなか終わりません。
まだまだ終着点は見えません。
生活のリズムをつくることができないのはきついですね。
十数年間月曜日から金曜日まで会社に行くという生活を続けてきたので、
平日に時間があるということになかなか慣れません。
慣れていく練習が必要です。慣れすぎてしまっても社会復帰できなくなりそうですが、
しばらくお休みするために慣れていくようにしたいと思います。
心からお休みできるまでにはまだ時間がかかりそうです。

つらいときは誰にもある、自分だけじゃないんだ、そう言い聞かせながらもう少し、もう少しと
なんとかふんばり続けます。



昨年、「レ・ミゼラブル」でバルジャンとジャベールを演じた福井さんのブログをのぞいたら
体調不良で4月後半の舞台を降板されるとのこと。レミゼでは怪我から驚異的な早さで舞台に復帰され、今年の1月末には突然所属事務所が経営難により閉鎖されたりと、試練がたびたび訪れています。
神様はなぜか選んだように試練を与えますね。
福井さんの声は舞台を安定させます。
ゆっくりと体を休めて舞台に戻ってきていただきたいです。


一人でいるとどうにかなりそうなぐらいきつい時もありますが、なんとか乗り切っていきたいと思います。もう少し先に次のこともみえてくる、きっと大丈夫、妹が守ってくれていると信じ続けます。

卒業論文の参考資料からまた拾ってみました。
よろしかったら読んでみてください。



「女性というのは、男性と「結婚」することにより、自分の力では得ることができなかったものを、一瞬にして手にすることができるのだからすごい。積み重ねなくして生活パターン、生活そのものを、180度、転換することができるのは、女性の強みだろう。だから女性は迷うのだ。結婚しだいでまったく異なる人生を歩むことができるのだから。
 沈没しかかった自分の船を、自分の力で復元させることなく、通りかかった船にのりうつることで自分を救うことができるのだから。」

(松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、106-107頁より。)


「さらに、30すぎても、女性が仕事を得ることが、人材派遣会社の進出により可能になった。アルバイトなどという聞こえの悪いものでなく、派遣社員として、一流企業で働くことは可能である。好きな時間だけ働ける、人材派遣会社のシステムは、クロワッサン症候群の女たちに、ぴったりの働き方である。結婚までの時間つぶしとして。
 現代は豊かな時代である。そういう意味で素晴らしい時代である。女性たちも昔と違い、結婚以外の生き方を選べる時代になった。女たちにとって、今ほど自由で豊かな時代がこれまであっただろうか。
 豊かということは素晴らしい。自由ということは、それ以上に素晴らしいことである。
 しかし、こうした選択が広がった分だけ、皮肉にも女性にとって、生き方を見つけることが難しくなった。」

(松原惇子著『クロワッサン症候群(文庫版)』文春文庫、1991年発行、原著は1988年発行、220-230頁より。)


「晩婚化が進むにつれ、従来、固く結びつけて考えられてきた結婚と退職とのあいだに、乖離が見られるようになった。結婚のための退職ではなく、より多くの女性がOLをやめて新しい職業につくようになった。派遣会社に社員として登録する女性もあれば、日本企業よりも男女平等という点において一歩先をいくと見られている外資系の会社に勤める女性もいる。また、その外資系企業勤務に必要な語学力を磨く目的で、海外留学を志す女性もいる。さらに、なんらかの専門的な職業を目指す女性もいる。」

(小笠原祐子著『OLたちのレジスタンス』中公新書 1998年発行、53-54頁より。)


「27歳の春、彼女は残業した後と同じように「ごくろうさま」の一言を背に幼稚園を去った。
 
 転職したい女性が皆そうするように、彼女も「とらばーゆ」を買い求め求人欄をさがした。27歳ともなると、正社員の募集は少なくほとんどが契約社員。「とらばーゆ」を見ればわかるが、一見、女性たちの救世主のようだが、こちらの世界も年齢制限がある。

 幼稚園の先生をやめてから、とりあえずの会社勤めの連続。とらばーゆ人生である。

 有名な会社で働いている。それが唯一、彼女のプライドを支えているものなのだ。しかし、同じ会社で働いていても、社員と派遣社員の間には、渡れない川が流れている。会社と彼女の間に何の雇用契約もないのです。しかし、それでも町の鈴木商店でパソコンを打っているよりは、何百倍も気分がいいということなのだろうか。」

(松原惇子著『クロワッサン症候群』文芸春秋 1988年発行、172-175頁より引用。)

秋のプリンス・エドワード島_ハロウィーン(2)

2014年04月23日 08時32分58秒 | プリンスエドワード島への旅
秋のプリンス・エドワード島の中から、以前にも載せている民家の庭先から写真をアップします。

落ち葉と黄葉が本当に美しいですね。幸せな気持ちになります。










フロム『自由からの逃走』

2014年04月21日 10時36分08秒 | 日記
我々は自ら意志する個人であるという幻のもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感ずる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。

(E・フロム『自由からの逃走』279頁より。)

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(4)

2014年04月20日 14時57分42秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん


2014年4月15日からの続き

 夜まで話し込んではいたが、熟睡したせいか、それとも貰った元気のおかげか、さわやかに2日目は始まった。旅館らしい朝ご飯に、見慣れない肉。不思議な味だったが、聞けばクジラのベーコンだったそうだ。珍しいものをいただいた。夕食もそうだが、いかにも港、というものを出していただけるのは本当に嬉しかった。これまで学生の貧乏旅行ばかりの身であったから、これが心からのもてなしというものか、と何もかもありがたかった。今日は、安藤さんが自宅を中心に当時のことを語ってくれるという。海にも入れるそうだ。


 海パンを下に履いて、荷物をまとめる。2日目は別の民宿に移るのだ。次の宿は、被災地に新築したそうで、一か月前にオープンしたのだと言う。本当にピカピカの宿だった。最初はこちらの宿に2日という予定だったようで、その方が良かったかな、とも思いかけたが。それぞれの背景がある2つの宿に泊まれてラッキーだったと思い直した。どんなときでも得したと考えるのが僕のやり方だ。どちらの宿も本当に居心地が良かった。

 港から少し歩く。宿のある小さな丘を越えるようにして歩くと、隣の浜がすぐ見えた。リアス式海岸を足でも感じた。すると、安藤さんが足を止めた。「あれが、仮設住宅」少し奥まったところに、豆腐が並んだようにプレハブが見える。「あの家の壁、あの緑の線まで水がきたんだよね。」今下りてきた丘の中腹、しかもその2階を越える部分にその線はあった。全く色が違っていた。想像してまた、水の底に沈んでいるような気持ちになった。昨日からあれほど感じ入っていたはずなのに、それでも風景として眺めてしまっていた。遠くからでも傷は見えるだろうが、間近で、注意深く見なければその傷がどれほどか、何によるものかはわからないだろう。いわんや癒し方をや。そう考え、目を見開いて歩いた。」

*********

まだまだ続きます。

徒然に・・・

2014年04月17日 21時56分51秒 | 日記
次へ進んでいくための生みの苦しみの時を過ごしています。
まだ終わりがみえないので身動きとれません。どこにも行けず、どこに行けばいいのかもわからない苦しい日々が続いています。生活のリズムが定まらず、平日の昼間は緊張しています。
自分なにしているんだろう、わけがわからなくなりそうです。
まだ実感がないので、健康保険の変更手続きなどもぼんやりとしていました。

これ以上無理だと何度も思いながら、めげちゃだめよ、というカウンセラーの先生の言葉を
自分の中で繰り返します。
これでもかこれでもかと試練が訪れます。
その試練を乗り越えられる人にしか神様はその試練を与えないそうです。
もうヤダーっていいながら立ち向かうしかありません。
大丈夫、きっと守ってくれている、そう信じ続けるしかありません。
緊張が続きますが、がんばれ、わたし・・・。



10年前に書いたた卒業論文の参考資料からまたひろってみました。
よろしかったら読んでみてください。



「80年代に入り、好景気のおかげで、女性たちは簡単に職業につくことができるようになった。一見、職業についているので自立した大人にみえるが、実際は、社会人だというのに親の家に住み、お給料は全部、おこづかいという生活をしている女性が多かった。」

(松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、148頁より。)



「35歳というのは、女性にとってひとつの大きな転機である。なぜなら、そろそろ先がみえてくる時期であるからだ。
 
 20代はなんとなく楽しく過ごしていたが30代に入ると、自分の位置というものが、いやがおうでもみえてくる。

 「結婚」という二文字は、私にとって「かけこみ寺」のようなものだった。何かあったら結婚すればいい、逃げ道だったのである。
 振り返ると30代は結婚というマンモスに追いかけられ苦しかった。たぶん、現在、30代の女性は、みんな同じ心境だと思う。
 いい人はいないかしら、たえず、心のどこかでいい人を求めていた。しかしそう求めている時というのは、いい人に出会わないものである。不思議なもので、そんな呪縛霊からとりはらわれた時、人生というのは好転していくようである。
 結婚も大事なことかもしれないが、もっと大事なことがある。要するに、結婚するか、しないかが問題なのではなく、してもしなくてもいいから幸福な毎日を送ることが重要なのではないだろうか。それに気がついた時、私は40歳になっていた。」


(松原惇子著『クロワッサン症候群(文庫版)』文庫版のためのあとがきより。文春文庫、1991年発行、原著は1988年発行)



「職場に機械が導入されたことによって、機械の作動が最優先される結果、人間は機械のアシスタントないし奴隷と化してしまった感がある。OA機器のオペレーターは、疲労が激しく、また機種が変わるたびにそれに対応しなければならないため、長い年月にわたって勤め続けることが難しい。ここでも女性は、使い捨て要員なのである。男性の補助をするにせよ、機械の補助をするにせよ、OLの仕事は補助的であり、とりかえ可能の消耗品扱いされていることに変わりはない。」

(井上輝子編『新版・女性学への招待』ゆうひかく選書 1997年発行、113-114頁より。)


「そもそも多くの職業は、家事や育児責任を負わない働き手を前提としている。そのため、多くの男性は、家事や育児をしないという想定のもとで組まれた仕事のスケジュールと雇用の形態に従って働いている。

 男性が、仕事を第一に考え、他のすべてのことをかえりみず仕事を最優先させるという非常に硬直的な生き方をするためには、一緒に生活する別の誰かの生活が、それを許容できるような柔軟性を持たなければならない。今のところ、男性の硬直的な職業生活を可能にするため自身の生活を適応させているのは、女性なのである。夜遅くまで残業や接待、休日出勤をする夫に代って、家事や育児をする妻。夫の転勤が決まれば、仕事を辞めて一緒に任地に赴く妻などなど。つまり、男性が仕事から家庭を切り離すことができるのは、女性が仕事と家庭を切り離して考えないからである。そして男性に仕事最優先の働き方を要求している多くの企業は、そのような男性の働き方を可能にする生き方を、間接的に女性に要求していることになる。だから、仕事と家庭が男性にとって可分であるのに女性にとって不可分であることは、企業の経営方針と密接な関わりがあると言える。


 企業で働くOLの場合、そのような「女性固有の性質」(女性は度量が小さく、近視眼的であるなど)と言われるものが、女性同士の団結を妨げている主因であるとは思われない。OLたちの連携を難しくしているのは、学歴の異なる女性の人事方針が矛盾に満ちたものであることや、仕事と家庭の不可分性によって互いの課題や目標、心配事や悩み事などが異なることであると考えることができる。職場で男性と女性が置かれている状況が異なることをよく認識せずに、女性は嫉妬深いとか、女性の勤務態度は男性の勤務態度に劣る、などの通説を安易に受け入れるのは危険である。」

(小笠原祐子著『OLたちのレジスタンス』中公新書 1998年発行、56-60頁より。)


写真は、春のプリンス・エドワード島 銀の森屋敷の青空と緑です。


「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(3)

2014年04月15日 13時57分15秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん(4月7日からの続き)


 そして乗り継いだバスが、海沿いを目指し走りはじめる。ここから、見知ったような風景の中に、ぽつん、と違和感のあるものが目につくようになった。盛り土され、最近整地されたであろう開けた区画。何かを解体したらしい資材の山。そして、廃屋。海に近づくにつれて、それらは数を増していった。海に面した工業地帯の横を通る時には、日常と非日常が一本の線で区切られたような、唖然とする世界であった。「ここまで波が来た。」「ここまではガレキをどかした。」そういった線をそこかしこに引けてしまうのだ。住宅、草の茂る広い空き地、ガレキ、工場、ガレキ、海。こう色分けされた帯のように風景が見える。バスが海岸に沿って淡々と走る。何十分と走る。帯も続く。ずっと続く。計り知れない恐怖を感じ、手のひらがあせばみ、冷たくなっていた。

 石巻港の工場地帯、であった場所、何も無い場所で一度バスは止まった。津波を正面から受けた門脇小学校の前であった。降りてすぐ、その何も無さに立ちすくんだ。世界が消えてなくなってしまったような気がした。そのはず、ここにはかつて街があったのである。コーディネーターの安藤さんが、かつての姿を、被災直後の姿を写真とともに語ってくれた。人が、車が、建物が、海が。押し寄せる混沌の中で何があったのかを教えてくださった。パニックの中、人を殺めることになった人もいると。何が起きるのか考えることが出来なくなり、左側通行だとか、普通のルールを守っているうちに呑み込まれて亡くなった人もいると。そして波が押し寄せ、混乱ごと押し流した・・・。波を受けた小学校は、グレーの目隠しがされていた。遺構として保存するか、癒えようとする心を乱さぬよう取り壊すか、議論の最中だと言う。海岸沿いの建物は取り壊しの最中であった。このような建物を見ていると、まるで深海に沈んだ遺跡のようにも見えた。「津波は、水の壁ではない。ずっと分厚い。ずっと続いてやってくる。」「10メートル高くなるということだ。」震災の後に聞いた話を思い出して、頭ではなく心と体で理解した。この場所は一度、海の底になったのだ。流され、潰され、沈む。壊れる。耐えられようも無い。ガンダムも、ウルトラマンも、決して勝てないだろう、自分が10メートルの海の底にいる想像をしながら思っていた。未だ傷痕は深く、乾いていない。ただそう思った。

 そしてバスは再び、旅の宿、復興したというその民宿に向かい走り出した。山道に入った。と思いきや湾が開け、海が見える。山道。漁港。山。海。これがリアス式というものなんだなあと、NHKの朝の連続ドラマ、あまちゃんのブームのことと重ねてぼんやり思った。先ほど恐怖に震えていたはずなのに、海の美しさに心は癒されつつもあった。漁港で生きる人たちが働いているのが見える。海が与える、奪う、与える。自然と人間のくり返すリズム。そういうものをリアス式海岸に重ねて思っていた。港の壁に、卒業制作らしい、子供たちの似顔絵が描かれていた。後で母にその写真を見せると、年度を見て、僕と同じ位だと言った。すこやかであれ。遅ればせながら、そう祈る他なかった。

 そして民宿に着く。目の前に小さな漁港が広がる場所であった。民宿の方々が明るく出迎えてくれた。入ると、様々な写真や寄せ書きが飾られていた。聞くとこの民宿は奇跡的に破壊を免れ、この港の復興の拠点としてボランティアを支えてきたのだという。そう思うと、くれびれても歴戦の勇姿。すこし年季の入った家構えも頼もしく見えた。これまでの移動と、被災地体験で疲れた気もしたが、この話を聞いて背中を押された感じがした。散歩に行こう。自分の足で、この港のことを感じに行こう。そんな力を貰えた。歩いていくと、ここもやはりあの「帯」があった。この空地は不自然だ、と思いながら見ると小さな廃墟。覗くと公衆便所であった。そうか、この草むらは公園だったのか・・・。いろいろ探しながら歩いていく。するとやはりガレキはまだある。探すまでもなく、整地され区切られた場所に積み上げられている。ガレキ置き場は港へと続く。漁船と重機が斜陽に染まっていた。港の端に立って、海の方だけを見ていると本当に美しかった。潮風が吹く。海が香る。そして・・・かすかな腐敗臭。そう、傷痕からする異臭のように、ガレキから、地面からまだ存在感を放つ。悲しみの匂いがする。明日からこの場所のために何か出来たら。力になりたい、と思わされた。夕食までは民宿の方の息子さんと遊んだ。また元気を貰った。夕食は地のものをたっぷりと使った素晴らしいもので、何だか貰ってばかりいるなあ、と思いながら1日が過ぎた。」

(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています)

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まだまだ続きます。




秋のプリンス・エドワード島への旅_7日目(帰国)

2014年04月13日 22時41分41秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月19日(金)

シャーロットタウン空港 8時45分発ハリファックス行きを待つ。

朝もやがかかってすごくきれいだ。

晴天。楽しい旅の終わりにふさわしい。
幸せだったなあ。
サンライズもゆっくり。
陽射しはかなりまぶしい。


朝もやがかかったシャーロットタウン空港です。

 ↓



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ようやく帰国日です。
続きは後日書きます。

つつじの花が開き始めました・・・

2014年04月12日 15時58分37秒 | 日記
気がつけば桜の花が散り、新緑がまぶしい季節へと移りかわろうとしています。
私のとおる道すがらも、プリンス・エドワード島の緑にはかないませんが、緑にあふれています。

今回の混乱状況はまだ線引きができません。長く働いてきました。一生懸命に働いてきました。かんたんには終わりません。まだ失業保険を申請できる状態にないし、次の仕事のあても全くないのでつらいですが、きちんと精算できるまでふんばるしかありません。
社会から取り残されてしまっているような不安感におそわれますが、私の力を必要としてくれる所はきっとあると信じて、今はこのまま進んでいくしかありません。

卒業論文を仕上げてから10年が過ぎました。捨てきれなかった参考資料をようやく整理し始めました。参考文献の中から気になる箇所を手書きとワープロで抜き書きしたカードを作成しました。膨大な量です。そのカードを読みこんで並べていくことで章立てができ、最終的に論文というかたちでまとめました。平日は働きながら4年かけてやりました。

その中から今気になる記述を引用してみようと思います。

 
「高度成長期間中、女性労働者の過半数以上が未婚女性で占められていた。彼女たちは和製英語OL(Office Lady)と呼ばれ、お茶くみを始めとする雑用や補助的作業が大半であった。男性が基幹労働者である日本的経営にあって、OLは結婚したら退職するのが慣習であった。

 しかし高度成長期が終わり、安定成長時代に入った1970年代後半からは、サービス産業の増大とともに、既婚女性のウエイトが高まりだした。その背後には、核家族化の進行につれて子子どもの数が減少したこと、電化製品の浸透により家事時間が減少したこと、戦後の高学歴化の影響が女性にも現われはじめたこと、パート労働が一般化したこと、などがあげられる。
 
 オイルショック以降、日本経済に構造変化が起きた。特に労働市場では常用労働者よりも雇用調整の容易な非常用型の労働が増大した。その傾向が基幹労働者である男性よりも女性において進行した。」

 (篠塚英子著『女性が働く社会』勁草書房、1995年発行、33頁より)



「女性が一番多く就いている仕事は、事務的職業である。冷暖房のきいた都心のオフィスで、OA機器に取り囲まれて働くOL。働く女性の代名詞ともなったOLたちの職業生活は、それほどラクなものではない。企画や経営方針決定に参与できる場合はまれで、多くのOLたちは、上司や幹部候補の男性社員の必要に応じて、書類の作成や整理、コピーとりなどの補助的作業を担当し、部屋の掃除やお茶くみなどの職場環境を整える役割を担い、時にはタバコや弁当を買いに行く、使い走りまでの雑用を期待される場合がほとんどといってよい。いずれも、たいした技術を必要とせず、また成果が形に残るわけでもない補助的な仕事である。」

  (井上輝子編『新版・女性学への招待』ゆうひかく選書 1997年発行、112頁より)


「彼女はクルクルとよく回る目で私を見ると言った。

 その時、自分で自分を食べさせていくのは、大変なことだ、とつくづく思いました。

 私はしっかりとうなづいた。パートを軽くみているわけではないが、パートとフルタイムの間には大きな差がある。時間の長さの差ではない。労働に対する重さのちがいだ。家計の足しのために働くのと、自分という一人の人間を食わせるために働くのでは、同じ労働でも重さがちがう。その重さに耐えられず、「結婚」に逃げ道を求める人は沢山いる。それを悪いとは思わない。私がいいたいのは、女が自分で自分を食べさせていくのはそんなにたやすいことではない、ということだ。
 自分というたった一人の人間を食べさせていくことが、どんなに大変なことか。屋根と食物をあてがわれている女性には、わからないだろう。」

 (松原惇子著『クロワッサン症候群 その後』文芸春秋 1998年発行、87頁より)


 振り返ってみると、10年の間に社会も職場環境も息苦しい状況にすっかり変わってしまいました。十数年前に働き始めた頃は、今よりも働きやすくて楽しい感すらありましたが、削減、削減の流れが始まった頃から空気はどんどん息苦しい方向へと変わっていきました。気がつけば一般職の女性社員はほとんどいなくなり、あっちをみてもこっちをみても派遣社員になりました。
その流れの中で私自身も派遣社員に甘んじ、自分が本当に何をしていきたいのかわからないまま、生活もあるので目の前のことをクリアしていくことに一生懸命になりながら、ずるずるときてしまいました。それが私にとって正解だったのかどうか、今となってはわかりません。十数年という時間は過ぎてしまいました。長く居すぎたことが真逆の結果となってしまいました。

もう少し上手くやってそのまま派遣社員として居続けられたら幸せだったのか、5年後の自分に後悔はないのか、それはわかりません。手帳やメモ帳を読み返すと、違和感と息苦しさを私は繰り返し繰り返し書き綴っています。複雑すぎる人間関係を構築していくのが苦手な私には限界を超えていました。ただ生活があるので自分から辞めますとはとうとう言えませんでした。今また新たな道へと進んでいく機会を与えられたのだと受けとめようと思います。ただ終わり方は納得できていないので、もう少しふんばろうとしています。

パートということばは、私の中で無責任な、言いようのないやり切れなさを伴って今も響きます。完全にオーバーワークだった数年間の中で、パート:1人、派遣社員:1人という状況の中で、パートは当然毎日出社しないし、どこまで責任をもって仕事をするのかあやふやで、実質二人分に近い仕事量を一人でやらなければならなかった、その時のつらさ、苦しさを今も身体がおぼえています。振り返ってみると涙があふれてきそうです。そんなに一生懸命やってしまわなければよかったのか、仇でかえってくる結果になるとわかっていればやらなかったのか・・・。自分で納得できるように一生懸命やってしまいました。職場の誰にも言わないで勉強と両立させてもいました。自分に無理をさせ過ぎました。

繰り返しになりますが、次に自分の力を必要としてくれる所はきっとあると今は信じつづけることしかできません。

昨日状態のよさそうな本を数冊、図書館に寄贈しました。どうしても、というものは残して少しずつお別れしていこうと思います。


写真は、モンゴメリさんが「赤毛のアン」を書いた家の跡の入口です。