たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出-ルーヴル美術館-「カナの婚宴」

2024年01月28日 15時21分19秒 | パリから世界遺産を訪ねて

2008年9月11日(木)ルーヴル美術館で一番大きな「カナの婚」、

 大混雑のなかで小さな「モナ・リザ」と対話しているような感覚を味わって気持ちが昂ったあと、ガイドさんの言葉にしたがって振り向くと反対側の壁一面に展示されている大きな絵、少し気が抜けたような感覚と共に見上げました。聖書の場面が描かれています。

 

(自分で撮った写真はないので、画像をこちらのサイトよりお借りしました)

「カナの婚宴」― パオロ・ヴェロネーゼ | 世界の美術館 (artoftheworld.jp)

 

 

「カナの婚礼 2・1ー12

ヨハネ福音書 第二章

 それから三日目に、ガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちと婚礼に招かれた。すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、「お酒がなくなりました」イエスが言われる、「女の方、”放っておいてください。”わたしの栄光を示す時はまだ来ておりません。」母は召使いたちに言う、「”なんでもこの型の言われるとおりにしてください。”」そこに、ユダヤ人の清めの儀式のために、石の水瓶が六つ置いてあった。いずれも、2、3メトレタ(80から120リットル)入りであった。イエスは召使いたちに言われる、「水瓶に水をいっぱいいれよ。」口まで入れると、彼らに言われる、「さあ汲んで、宴会長に持ってゆきなさい。」彼らが持ってゆくと、宴会長は酒になった水をなめてみて、ー彼はそのわけをしらなかったが、水を汲んだ召使いたちは知っていた。ー宴会長は花婿を呼んで言う、「だれでも初めに良い酒を出し、酔いがまわったころに悪いのをだすのに、あなたはよくもいままで良い酒をとっておいたものだ。」イエスはこの最初の徴(奇蹟)をガリラヤのカナで行って、神の子たるその栄光をお現わしになった。弟子たちが彼を信じた。

 そののちイエスは、母、兄弟たちおよび弟子たちとカベナウムに下り、数日そこにいっしょにおられた。」

(岩波文庫『福音書』279-280頁より)

 

 

「=ルーヴル最大の絵画はナポレオンの権力の象徴=

 『モナ・リザ』の向かい側、壁一面を覆う『カナの婚宴』。この大作のポイントは、画面の中央手前。作者のヴェロネーゼ本人をはじめヴェネツィア派の画家たちが、楽士に扮して描かれている。向って左でチェロの原形となった楽器を弾いているのがヴェロネーゼ、その右隣が9歳年上のティントレット、ひとりおいたコントラバス奏者が、40歳ほど年上のティツィアーノとされる。右下には、キリストの最初の奇跡とされる「ぶどう酒に変わった水」を注ぐ場面が描かれている。

 横が約10m、縦7m近くの超大作『カナの婚宴』は、『ナポレオンの戴冠』を上回るスケールを誇り、ルーヴル最大の絵画として君臨する。フランス軍司令官ナポレオン・ボナパルトはイタリア遠征の際、ヴェネツィアのサンジョルジョ・マッジョーレ修道院からカンヴァスに描かれたこの作品を収奪。1798年にヴァティカン宮殿の彫刻などとともに故国に持ち帰ってルーヴルに飾り、5年後にここを、自らの名を冠した「ナポレオン美術館」と改めた。

『カナの婚宴』が描かれた16世紀のヴェネツィアでは、絵画にも演劇的な空間が導入され、こうした祝宴図がもてはやされた。1000人以上が集う画面には、「アドリア海の女王」と謳われた海洋帝国ヴェネツィアの栄華が表されている。この宴会にはルネサンス期の名だたる王侯や芸術家が招待されているのだ。下士官あがりのナポレオンは、その巨大さもさることながら、この劇的な宗教画を披露することで、自らの栄光と権威を演出したのであった。」

(『週刊世界の美術館-ルーヴル美術館①』より)

 

 

旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「ナポレオンの戴冠式」


旅の思い出-フォンテーヌブロー宮殿-年代記

2022年02月09日 00時00分01秒 | パリから世界遺産を訪ねて
2008年9月10日(水)、JTBの格安ツアーで訪れました。

写真も旅日記もないので現地で購入した日本語の見学ガイドより、

「年代記-8世紀にわたる歴史

 フォンテーヌブロー宮殿は、狩猟に適した鳥獣が多く棲む広大な森のなかにあり、8世紀にわたって、国の支配者たちのお気に入りの場所であった。ルーヴルやヴェルサイユとは異なり、この王宮が政治の中枢の場になったことは一度もなく、どちらかといえば、特に狩猟シーズンに都会の喧騒の中から逃れ、家庭的なくつろぎを楽しむ館として好まれてきた。このように常に愛されてきた建物や装飾は、それぞれの時代の流行にあわせて絶えず修正や拡張が行なわれ、その美しさに磨きがかけられた。一目でここを理解するのが難しいのはこうした理由からであり、同時にまた、フォンテーヌブローの豊かさと価値も、同じ理由によって説明できる。実際、それぞれの統治者が自らの必要や欲望に応じて翼館の増築、建物の取り壊しや再建を行ったため、視点をかえるたびに、それまでとはまったく別の宮殿がそこにあるように思えるほどである。したがって、その歴史をたどれば、この宮殿をより深く理解できるであろう。

 12世紀、少なくともルイ7世の治世には、この地に城塞のあったことが知られている。聖王ルイ(ルイ9世)は都会を離れてここに来ることを好み、1259年には、病院の維持を担う三位一体修道会の修道院をこの傍らに建てさせた。端麗王フィリップ4世はこの宮殿で生まれ、亡くなっている。15世紀になると、宮殿は王妃イザポー・ド・パヴィエールによって美しく装飾された。

 1528年、パヴィアの戦いによって敗れ捕虜となっていたフランソワ1世は解放され国に戻ると、首都から遠く離れることなく狩猟を楽しめ、しかもパリから逃れることのできるこの場所に愛着をもつようになった。王は中世の建物の土台の上に新しい宮殿を建てることにしたが、正方形をした大きな塔であるドンジョン(主塔)は取り壊さずに残し、その開口部のみが採光をよくするために広げられた。ドンジョンは現在も「楕円形の中庭」の奥に見ることができる。また、イタリアで接した建築に魅了された王は、森に面する側に新しく「黄金の門」を造らせた。この門は、現代的なピラスター(付け柱)と三角形のペディメント(切妻壁)の付いた窓、そしてロッジアで装飾が施されている。さらに中庭に突き出た部分には、「セルリオのポルチコ(柱廊)」と呼ばれる堂々たる会談も造らせた。この会談は後にファサードと一体化された。」


モン・サン・ミッシェルの思い出

2020年10月19日 21時43分58秒 | パリから世界遺産を訪ねて
2008年9月7日-13日パリから世界遺産を訪ねて_モンサンミッシェル絵葉書集



 帰宅してパソコンを開くとツィッターのトレンドに、モン・サン・ミッシェルが満潮で島になったというニュースがあがっていて2008年の旅を思い出しました。パリから世界遺産を訪ねてというJTBの格安ツアー。パリから日帰りではなく、近くのホテルに一泊したので、ゆっくりと陽が落ちていくのと共に、石の要塞に灯りがともっていく光景をみることができました。お値段の違いはホテルのグレードの違いでしたが、メルキュール・モンサンミッシェルはラブリーで幸せでした。今は車で行くところを中世の時代、巡礼者たちは歩いてこの島を目指したので亡くなることも多かったいうガイドさんの話をきいた記憶があります。わたしがこの世にいる間にもう一度いくことはなさそうですがこうして一度でも旅をして、自分の足でその土地を感じた記憶はこの世にいる間ずっと体の中に残ると思います。旅するとはそういうもの。

 仕事はつらかった、いくえにもつらくて苦しくて、この旅に出ると決めて申し込んで、そのために働きました。先日歯医者に行ったついでに、ほんの少しばかりさらに電車に乗って、2年前まで暮らしていた街を訪ねたら、この旅を申し込んだ旅行代理店は8月下旬に閉店していました。駅中の他の旅行会社の窓口と統合されたようです。他にも新感線の切符を買ったり、プリンス・エドワード島への旅も一度はここで申し込んだので、働いていた方々はどうなったのかと心がいたみました。

 この旅も働いて働いて働いてようやくなんとか成田空港までたどり着いたのでかなり無理しましたが行っておいてよかったと思います。悔いはありません。モン・サン・ミッシェル、ごつごつしたところをとにかく歩くわけで、かなり足腰にきます、12年前なので歩いている時は感じませんでしたが、あとできました。ヨーロッパ観光、なんかおしゃれでいいやっていうイメージかもですが観光も街もとにかく歩くので歳くってからはきつい。ヴェルサイユ宮殿だって広くて広くて倒れそうなほど。元気な体があってこその旅、この時で正解でした。

つたない旅日記と写真、お時間とご興味がありましたらご覧ください。

旅の思い出写真_モン・サン・ミッシェル
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dca1263b690e9add5b38cb6eec823890

旅の思い出写真_モン・サン・ミッシェルの夕暮れ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ffad3f4f3afac853489ee982de42cc42

ささやかなブログへの訪問、ありがとうございます。

月曜日、朝方5時頃お手洗いで目がさめたあと、遅れてはいけないという緊張と上の部屋の足音でもう一度眠ることができず5時間あるかないかの睡眠でしたがなんとか一日生き延びました。
わずかな稼ぎながら必要とされるならやるしかありません。
ようやく一か月分の最低生活費を稼ぐことができたでしょうか。
最初のお給料日はまだ一カ月先、気温のアップダウンがすごいです。
明日もなんとか生き延びていけますようにと思います。

生きてさえれば、命さえあれば、また大好きな旅に出ることもできる、いつかまた、きっと。

旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「メデューズ号の筏」

2019年05月17日 20時21分13秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 こんな解像度の低い写真を今さら、しかも暗いです。気がつけば10年余り前のことで記憶が薄れつつあります。でかい絵でしたね。


《メデユーズ号の筏》

ジェリコー

1819年、491 × 716 ㎝


「画家が28歳の時、3年前の6月に起きた海難事故を題材にして描いた。重病人や死体収容所の死体を写生して迫真感を出した、ロマン派の話題作。」


(『週刊世界の美術館―ルーヴル美術館』より)




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旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「瀕死の奴隷」

2019年04月25日 18時04分18秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 今さらこんな解像度の低い写真でなくても・・・からの旅の思い出整理、ルーヴル美術館で何をみたのかな。また少し、自己満足の復習タイム。


『瀕死の奴隷』
ミケランジェロ、1513‐15年、ドノン翼1階4室

「教皇ユリウス2世の霊廟を飾るため制作された。本作と対をなす荒削りな未完作品『抵抗する奴隷』もある。ともにドノン翼1階4室に。」




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旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「サモトラケのニケ」

2019年04月21日 22時15分41秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 今さらこんな解像度の低い写真でなくても・・・からの旅の思い出整理、ルーヴル美術館で何をみたのかな。完全に自己満足の復習タイム。


『モナ・リザ』『ナポレオンの戴冠式』『民衆を導く自由の女神』『カナの婚宴』などの大作が並ぶドノン翼2階の階段ホールに展示されていました。ものすごい人だかりで、間近にいくことはできず、遠くからこうしてなんとか写真を撮ることができました。大きいので遠目からもみることができました。美しく躍動感にあふれていました。



『サモトラケのニケ』
紀元前190年頃、大理石、台座73㎝、高さ245㎝

「ドノン翼2階、ダリュの大階段を上がると姿を現す勝利の女神像。右斜め下方から鑑賞するのが美しいといわれている。

 1863年に在トルコのフランス副領事シャンポワゾーが、エーゲ海北東部のサモトラケ島では発見し、ルーヴルに送った古代ギリシアの勝利の女神像。台座である船の舳先(へさき)の石灰岩がロードス島産であることから、紀元前2世紀頃、アンティオコス3世率いるシリア軍を破ったロードス島民が、海戦の勝利を祈願、あるいは感謝して奉納した像ともいわれる。サモトラケ島は航海者の守護神とされたカベイロイ崇拝の中心地でもあった。失われた右腕を前方に伸ばし、勝利を告げるポーズをとっていたと思われる。


鑑賞のポイント

・ニケは戦いの勝利を祝福する有翼の女神。

・造られたのは紀元前190年頃。

・エーゲ海のサモトラケ島で1863年に発見された。

・100個以上の破片をつないで復元された。

・ヘレニズム彫刻特有の躍動感。」


(週刊『世界の美術館-ルーヴル美術館』、講談社発行より)



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旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「モナ・リザ」

2019年04月12日 20時03分19秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 これまた古い携帯で撮ったこんな解像度の低い写真でなくとも、いくらでも写真があふれかえっているルーヴル美術館、「モナ・リザの部屋」。2007年に続いて訪れたルーヴルで再び『モナ・リザ』と対話するという体験をしたことがわたしにとっては心の宝物。色々な意味で無理しましたがやはり行ってよかった、この時しかなかった旅だと思います。

『モナ・リザ』

レオナルド・ダ・ヴィンチ
1503‐06年頃、板得 油彩 77×53㎝
ルーヴル美術館ドノン翼2階


「「絵画」は一瞬のうちに視力をとおしてものの本質を君に示す、と言ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452‐1519)である。絵画の賛歌というべき言葉だと思う。明らかに絵画は、見ることと視力のドラマである。それは深まりゆく空間と時間であり、光と色と形の浮上である。絵画は人間のゆるぎない個性であり、アイデンティティ(存在証明)なのである。

 絵を描くこと、絵を見ること、こうしたことは、光と影/陰、色と形、コンポジションにおいて、そうしたものをとおして、人間と世界が、さまざまな現実が、姿を現わすこと、いろいろなものが見えてくることなのである。

 レオナルドは絵画を「もの言わぬ詩」と呼んでいる。彼が見るところでは、絵画は美しく空想に富み、内容豊富であり、無限の思案で飾られているのである。(レオナルド・ダ・ヴィンチの手記)上、杉浦明平訳、岩波文庫、196頁、201頁、209頁「絵の本」から、参照)。レオナルドは、壁の染みや汚れなどにさまざまなものの姿や形、人物や風景や出来事などを見ることができる、と言う。創造力をはたらかせることによって、いろいろな形態が浮かび上がってくるのである。

 レオナルドの「モナ・リザ」を思い浮かべてほしい。絵画史を飾る作品である。モナ・リザは、いったい何を、誰を、どのような方向を眺めているのだろう。モナ・リザの表情についてはさまざまに語られてきたが、これまでこれほどみごとな視線が描かれたことがあったのだろうか。驚くべきことは、彼女の視線ばかりではない。この絵のポイントは、モナ・リザの手にも、背景に描かれた山岳風景にもある。モナ・リザの手も、着衣も、まことに魅力的だ。

 レオナルドの光と影がたっぷりと体験される絵であり、立体感と距離感の表現にもレオナルドの視力と技法がうかがわれる。モナ・リザの視線はレオナルドの方に向けられているが、モナ・リザの視線とレオナルドの視線が一点においてぴったりと結ばれていたならば、レオナルドはこの絵を描くことが困難だっただろう。「モナ・リザ」を見るとき、私たちはモナ・リザの視線とレオナルドの目と手と身体を体験するのである。」

(山岸健著『絵画を見るということ』、NHKブックスより)

絵画を見るということ―私の美術手帖から (NHKブックス)
山岸 健
日本放送出版協会


旅の思い出写真_凱旋門(2)

2019年04月08日 19時14分09秒 | パリから世界遺産を訪ねて


2018年雪組『凱旋門』東京公演プログラムより、2000年初演時の柴田俊治氏寄稿文

歴史の証人「凱旋門」より引用します。


 1989年、ベルリンの壁が崩壊した。

 大戦後の世界を分断していた冷戦時代は終わる。

 つぎに来る時代は、欧州連合(EU‗15か国)を基盤にする統合の時代である。2002年には、各国のお金は消え、ユーロという単一通貨の新時代が来る。

 ラヴィックたち亡命者を、あんなに苦しめた国境やパスポートは、形だけのものになってしまう。域内のひとびとは、もう夜になるまぎれたりせず、真昼に堂々と、なんの警戒心ももたずに国境をこえている。

 凱旋門は、ナポレオン軍の戦勝を記念して、1830年代に完成した。

 全長約2キロのシャンゼリゼ大通りは、コンコルド広場から凱旋門のあるシャルル・ドゴール広場まで、歩いても気づかないほどのわずかな勾配で上りになっている。

 だから、コンコルド広場の端に立っても、車道とおなじほど広い歩道をぶらぶらしていても、いつも真っ直ぐに延びる大通りの全部が見通せる。中央をひしめいて上り下りするクルマ、背の高い並木、散策する人の群れ、キャフェの軒、デザインを均質化した建物‐それらが弓の弦の上にのったようにせりあがって尽きるその先に、凱旋門がある。

 角張った角型のアーチの下には、無名戦士を悼む火が、昼も夜も、青白い炎となってちろちろ燃えている。

 パリがドイツ軍に占領された時代も、連合軍に解放された日も、凱旋門はそこに立っていた。毎年7月14日の革命記念日(パリ祭)のように、パレードが催されるときは、いつも凱旋門が出発点か到着点になる。

 ラヴィックたち避難民、亡命者たちの苦難の日々も、凱旋門は黙ってみつめていた。

 霧と雨の季節には、凱旋門の頂上は灰色にかくれて見えなくなる。そんなとき、凱旋門は歴史の証人の役に疲れるのか、重苦しく、沈鬱な表情にみえる。

 冬の晴れた日、空の位置の低い夕陽が、セーヌをこえてさっと射し込むと、巨大な門が、一瞬、バラ色に燃えあがる。

 このときの凱旋門は美しい。







 たしかにシャンゼリゼ大通りを凱旋門に向って歩いた道は、かすかにゆるやかな上り坂でした。凱旋門の前に立つシャンゼリゼ大通りを見渡すことができました。

 イギリスのEU離脱は、あらたな欧州統合時代の夢がついえたということになるのでしょうか。時は流れました。世界は動き続けています。パリで英語が話せないのでタクシーの運転手にぼったくられたり、地下鉄の駅をたずねたパリジェンヌに笑われたり、間抜けなことだらけですがまた旅に出て世界を、大陸を感じたいです。遠い夢・・・。

旅の思い出写真_凱旋門

2019年04月07日 19時42分36秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 ようやくまた久しぶりに2008年9月に訪れたパリの思い出振り返り。今さら携帯で撮った解像度の低いこんな写真でなくても、凱旋門の写真はいくらでもあるのですが、有給休暇をとるために会社でストレスに耐えながら働いて働いて働いて、ようやくたどり着いた旅先を自分の足で歩いたということ、シャンゼリゼ通りを一歩一歩踏みしめながら歩いたということ、その感覚を今も体が覚えていることが大切ということで・・・。

 EU圏内の通貨がユーロに統一されて、ユーロの価値が高かった頃でした。確かにEU離脱で揺れ動いているイギリスだけが自国の通貨のままでした。



2018年雪組『凱旋門』東京公演プログラムより、2000年初演時の柴田俊治氏寄稿文

歴史の証人「凱旋門」より引用します。

 あれから、ラヴィックとモロゾフは会えたのだろうか。

 フーケの角に立つと、ふとそう思ってしまう。物語は、ラヴィックをのせたトラックが走り去るところで終わっている。

 答は、たぶんノーである。

 ラヴィックを連行したのはフランスの警察であり、その先の収容所もフランスのもの。ドイツではないはずだ。

 しかし、戦争がはじまって、パリはドイツ軍に占領された。ドイツに協力するペタン政府がヴィシーにでき、フランスは対独協力派とレジスタンス派に分かれた。

 こうした情勢下に、ドイツの手に渡され、ドイツの収容所に引き戻されて、悲惨な最後をとげたユダヤ人たちが数多くいた。

 ラヴィックのその後の運命が、明るいものだったとは想像しにくい。

 第二次大戦が終わると、ドイツは東西に分割される。

 冷戦のはじまり。東ヨーロッパと西ヨーロッパの間は「鉄のカーテン」によって遮られることになる。

 その一方で、西ヨーロッパではフランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクなどで、欧州共同体結成の動きが起こる。国境をこえて、ひと、ものの移動を自由にしようというのである。

 大戦は欧州に屍の山を築き、都市も田園も焦土と化した。しかも、二度まで。

 三たび戦争をおこせば、ヨーロッパは壊滅してしまう。ギリシャ、ローマ以来、文明の伝統を伝えてきたヨーロッパは、週末を迎えるだろうーひとびとの深刻な危機感が、ヨーロッパ統合の原動力となった。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊した。

 →もう少し続きます。






旅の思い出写真_ヴェルサイユ宮殿

2018年05月03日 14時38分51秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 本日二度目の投稿、息抜き。

 こちらは2008年9月8日に訪れた時のヴェルサイユ宮殿。当時はデジカメなんてまだ持っていなかったので、解像度の低い携帯で撮った写真ですが、とてつもない広さの一端が伝わればと


 トップの写真はバスを降りて駐車場から門へと向かっているところ。これだけでもかなり歩いたんだなと。


 門を入ってから宮殿の入口へと向かっているところ。たしかお手洗いが少なくって、入口の右手にあったかな。女性用は長蛇の列。お手洗いに並んだのが大きな思い出のひとつ。アントワネットが生きた時代にはなかったんですよね。
 


 宮殿内部。日帰りで見学できるのは正殿とせいぜい正殿のすぐ近くの花壇ぐらい。奥のトリアノンは果てしなく遠いです。





 もう10年の前のことになりました。大会社で二人分労働が続いていたので苦しみ抜きながら働いてた日々。いくえにも無理がありましたが行っておいてよかったと思います。振り返ればこの時しかありませんでした。苦しみ抜きましたが、こうして旅立つエネルギーを振るい立たせてくれたという意味ではわたしにとってプラスだったのでしょうか。使い捨てという結末はさみしすぎますけどね。今のわたしにはこうして旅立つだけの体調と資力と気力がありません。いつかまたこの世にいる間に地球の反対側に飛び立てる日は訪れるのかしら・・・。