たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート-歴史(西洋史)

2022年12月19日 12時53分23秒 | 日記
課題-フランス革命の原因と、テルミドールの反動に至るまでのその経過について論述せよ。

「絶対王政と呼ばれる革命前の旧体制社会は、僧族・貴族・平民の三つの身分に分かれていた。このような身分制秩序とならんで、絶対王政における支配体制は、土地に対しては領主が強力な支配権を維持し、国王は行政権を握っていた。しかし、総合的な体制は整えられず、いたるところに無秩序と混乱があった。18世紀になると、僧族・貴族の領主としての支配が弱くなり、封建的土地所有関係が崩れ、国王の封建的な性格も失われつつあった。この過程で、農業・工業において、資本制生産様式が、急速に発展してきた。同時に、ブルジョワジーの社会的地位が向上し、経済的な自由を求めるようになった。旧体制に対する批判精神が、思想運動として展開され、国民全体にひろがっていった。

 18世紀末、アメリカ戦争以来の財政赤字が、上流階級の浪費によってひどくなった。中央政府は、特権階級にも平等に課税して、財政的危機から脱出しようとした。しかし、領主としての支配権を失った貴族は、自己の特権を守るために反対し、ブルジョワジーの自由主義者たちを従えて革命運動を組織した。王権はこれに屈服し、三部会が召集されることになった。しかし、第三身分が全面的な平等を要求したのに対し、特権階級は、権利の平等を認めなかったので、両者の対立が激しくなった。さらに、第三身分内では、代表議員の増加が認められたが、農民と庶民の代表はいなかった。自らを国民の代表とみなしていたブルジョワジーは、身分制議会を否認し、三部会の名称を改めて、国民議会とすることを議決した。国王はこれを破棄しようとするが、議会は憲法制定まで解散しないことを誓い合った。法律の面では、国民主権が絶対王政にとってかわっていたが、国王と貴族は、武力によって第三身分を、もう一度屈服させようとした。

 武力に対して、物価高騰による経済危機に苦しんでた民衆は、自ら武装して、専制の象徴だったバスティーユを攻撃した。バスティーユ占領の結果、民衆の勝利を利用してブルジョワジーが権力を握り、地方自治体が新しく構成された。さらに、飢饉を直接の契機として、全国各地で農民が反抗運動を起こし、領主制に致命的一撃を与えた。このあいだにも、公的権力をもたないブルジョワジーは、国民議会で、特権階級の封建的諸権利を放棄させ、『人間と市民の権利の宣言』の採択により、旧体制は廃された。しかし、国王は、諸法令を認めようとしなかったことと、経済上の困難により、再びパリの民衆が蜂起した。国王は法令を認め、パリに移った。

 国民議会は、フランス再建の事業を進め、憲法が制定されるにいたる。これは、革命の中核となったぶるの自由主義貴族との妥協、民衆や貧農との同盟の拒否を反映し、国民主権を打ちたてながらも、持てる階級の支配を確保した。人権宣言は、ブルジョワジーの所産なので、持たざる者については考慮されていない。これを前文とする憲法において、直接税を支払う能動的市民にだけ、選挙権が与えられ、民衆は政治から除外された。一方、経済的自由主義により、私的所有を確認し、資産主義的生産の増大と、ブルジョワジーの経済的躍進をはかった。このように、議会は、ブルジョワジーの政治的・社会的優越性を、しだいに確立していった。

 亡命貴族たちと僧侶による反革命勢力が増大する中で、国王は、自己の権力回復をヨーロッパ諸国に訴え、国外逃亡を企てたが失敗した。この結果、民主主義運動がいっそう進み、議会は要求どおり、フランスを事実上共和国にきりかえた。しかし、デモクラシーを恐れ、ブルジョワジーの支配権の強化と王政維持のため、反動的政策をとった。これに対して、反革命の一掃とデモクラシーの樹立を要求する革命的ブルジョワジーと、民衆とは、各種の政治的結社を結成した。すでに、議会において最有力だったジャコパンクラブは、保守派が離反して以後ロベスピエールら民主主義者に指導され、革命的ブルジョワジーを結集する有力な拠点となった。また、サン=キュロットと呼ばれるパリの民衆は、各種の〈人民協会〉に結集し、コルドリエークラブが最有力だった。新憲法により開会された立法議会では、右翼がフィアン派、左翼は、ジロンド派を中心として、ジャコパン・コルドリエ派に属していた。

 この頃、物価高騰と食料不足により、各地で大衆的暴動が発生し、亡命貴族が軍隊を国境に集結させるなど、さまざまな問題がおこってきた。ジロンド派は、王権の抹殺と、国民の権力強化のために、戦争を欲した。国王は、戦争の敗北により、自分に権力が返ってくることを望んでいた。商工業者は、戦争による軍需品調達等の利得を期待した。こうして、フランスは、オーストリアに宣戦したが、軍隊と指揮官の不足のため敗北した。ジロンド派は、外的危険を追い払うことができず、”祖国は危機にあり”と議会で宣言した。宣言は、民衆の団結を固くし、義勇兵がパリに参集した。彼らは、ロベスピエールの指導のもとに蜂起し、革命コミューンを設けるとともに、王宮を攻撃した。国王は議会に避難したが、議会は民衆の勝利を認めると、王権の停止と、新憲法起草のため、普通選挙による国民公会の召集を決定した。

 フランスは共和制になったが、国民公会において、商工業ブルジョワジーを代表するジロンド党と、山岳党との対立が激しくなった。山岳党は、サン=キュロットと結び、コミューンによる庶民階級の代表であり、同じくブルジョワジーとはいえ、階級的利害によって、ジロンド党とは異なっていた。フランスが国外で勝利をおさめると、経済的利害を脅かされたヨーロッパ諸国は、フランスと敵対し、イギリスを中心とする第一次対仏同盟を結成した。国内では、経済危機が重大化し、各地で暴動が発生した。これらに対して、ジロンド党は、なんら解決策を施すことができなかった。多くの共和主義者が、山岳党に移り、ジロンド派は没落した。

 民衆の支持を必要とした山岳党は、民主主義的な政策を行った。憲法制定により、民衆の優先権を確保しようとしたが、この憲法の適用は、平和が訪れるまで延期された。国内では、ジロンド党の支配していた県で反乱がおき、外国からの侵入の脅威がはっきりしてきた。さらに、経済危機が民衆運動をおこす。これらにたいして、公安委員会は、ロベスピエールの推進力により諸々の措置をとり、危機を緩和した。しかし、解決はしなかった。

 再び飢餓のため、民衆の不満が増大して商工業ブルジョワジーを攻めた。国民公会は屈服して、革命軍を編成した。旧特権階級に対する憎悪が、サン=キュロットと山岳派ブルジョワジーの同盟を固めた。相ついで革命的な措置がとられ、公安委員会の優位がはっきりしてきた。各種委員会が強力な行政機能を果たしたことは、革命政府の特徴である。共和国仮憲法の制定により、中央集権化がさらに強化され、公安委員会は、国民の生活全体に対する絶対権を決定的に握った。革命政府の体制は、全国各地の革命的な人民の組織によって、力の裏づけを与えられた独裁である。しかし、貧困な大衆の要求とブルジョワ的利害との調整は、困難なことだった。

 この頃、山岳党内部では、分派闘争が激しくなっていた。左翼のエベール派は、パリの民衆運動と結合し、食料問題などに走りつつあった。右翼のダントン派は、恐怖政治の緩和を求め、エベール派に対する攻撃をさらに進めて、革命政府を非難した。ロベスピエールは、中間に立って、共和国を危うくする両翼の分派を攻撃するとともに、革命政府を弁護した。両分派の指導者を処刑し、革命政府の独裁を強化した。ロベスピエールは、小土地所有者と小手工業者のデモクラシーを理想とし、貧しいサン=キュロットに満足を与えようとした。

 しかし、ロベスピエール派の支配の基盤は、しだいにゆらいでいった。外敵との戦いに勝ったため、恐怖政治による抑圧の必要がなくなってきた。実業ブルジョワジーは自己の利益が脅かされる革命政府の経済統制に、不満を示した。また、公安委員会と保安委員会が分裂し、さらに公安委員会内で、ロベスピエールが個人的に非難され、事態はますます悪化した。恐怖政治を恐れる反ロベスピエール派のテロリストたちが、徒党を再編した。

 テルミドール9日、国民公会において、ロベスピエールは逮捕され、処刑された。彼らは、旧体制に対する戦いにおけるブルジョワジーの優越的な役割を、無視できなかったのである。彼らの没落とともに、山岳派の課題であるブルジョワ的利害と貧困な大衆の社会的・経済的要求との調整は失われ、山岳派の使命は終わった。

 革命政府は解体し、ジャコパン派は追放され、白色テロがのさばった。最高価格と経済統制の廃止は、アッシニヤの暴落と民衆の飢餓を招いた。民衆は運動をおこしたが、かえって弾圧の強化をもたらし、革命の原動力は撃破された。デモクラシーへの道をふさぎ、個人の独裁の樹立をさまたげることを原理とする、ブルジョワ民主主義的新憲法が制定されたことにより、ブルジョワジーの支配が強化された。そして、領主制から解放されて自由となり、国有財産の売却に満足した農民による、もうひとつの社会的基盤ができた。どちらも、新たな所有を固めるため、旧体制の再興も、革命の継続も望んではいなかった。また不安定な新しい体制は、民衆に頼ることを欲しないので、自己を維持するためには、軍隊に許されざるを得なかった。」

昭和62根年3月に書いたレポート、評価はA、
講師評は、「レポートとして内容形式ともにこれで十分である」でした。