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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『心の健康を求めて‐現代家族の病理』より‐行動化と対象支配

2025年04月25日 01時09分21秒 | 本あれこれ

衝撃的な行動化‐

 見捨てられ抑うつないしは口愛的攻撃性が優勢な状況で動員されるのが分裂、投影同一視といった未熟な防御規制であることはよく知られている。これらの防衛規制によって作り出されるのが先に述べた部分的対象関係である。ただしかし、こうした部分的対象関係を基盤にして形成された人格構造はあやういため、患者は容易に見捨てられ抑うつを表面化させることを知っておかねばならない。

 問題は、こうした見捨てられ抑うつがどのような臨床的現象をもたらすかである。何をおいても挙げておかねばならないのは激しい衝動的な行動化である。その中でもっとも知られているのが手首自傷であろう。左右のいずれかの手首に傷をつけることであるが、その程度はかすり傷から神経ないしは血管を切断するほどの深い傷までさまざまだし、場合によると、前腕に横縞様の切傷を作ることもある。そして。遂には首に至って致命的になることもある。次に家庭内暴力がある。これまた激しい暴言から器物破損、さらには親の片方ないしは両方に暴力を振るうといったことがみられる。家庭外にあっては、驚くほど穏やかで物静かな態度をみせることが少なくない。また特殊なものとして、密かに喀血を繰り返す患者がいた。輸血の絶対的適応になるほどの貧血にまで至っているのであるが、輸血を頑強に拒否するのである。

 そして、最近とくに増えてきたのが過食である。主要症状として出て来ることもあれば、多彩な症状群のひとつとして現れることもある。一般に、食べ吐きといわれる意図的嘔吐、さらには下剤乱用、利尿剤乱用にまで発展していることが多い。また薬物その他をめぐる問題も頻発しやすい。投与された1、2週間分の精神薬物を一挙に服用してしまう過量服薬は、この種の症例の臨床においては日常茶飯である。同じ方向の行動としてアルコール乱用がある。またアメリカではコカインその他の法に触れる薬物の使用もあるようであるが、わが国ではそこまで至っていないようである。筆者は、自暴自棄になって暴力団の人間と関係を作り覚醒剤乱用に走ったボーダーライン患者を診たことがあるが、その状態は長続きしなかった。それよりしばしば見かけるのが家出願望である。この種の患者は家にいたくないといい出すことが多い。最近この志向性に対して、地域により家族の対応に違いのあることを発見した。筆者が長年臨床に携わってきた九州では、家出したがる子どもがでると我が家の恥とばかりに家の中に引き込むのが一般的であるが、東京の親はその意向をすんなりと認める傾向がある。そのため、東京のボーダーライン患者には衝動的な異性遍歴ないしは性的乱脈をみることが多いような印象がある。つまり、家にいたくないといい出すと、簡単にマンションをあてがわれるのであるが、本人は寂しいものだから誰かを、多くは異性を部屋に引き込むが、その関係もまた長続きせず、次々に新しい異性関係が展開されるといったことが起こるのである。また治療関係のなかでは約束の不履行がある。約束の時間にはやってこないで時間外の接触を求めたり、入院治療でみせる病棟の規則をやぶったり(無断離院や時間外外出など)することはしばしばである。時間外の接触要求は、治療者の個人的、公的生活の秩序を乱すものだし、病棟規則違反は病棟全体の秩序を一挙に破壊するという側面をもっている。

 そして、これらは多く多症状性だということである。過食をもつボーダーライン患者は、手首自傷、家庭内暴力、薬物乱用、アルコール乱用と多種多様な衝動行動を伴うことが少なくない。どれが主要な症状か同定するのが難しいことさえあるのである。

 そして、状態がひどくなると先の症例で示したごとく人格ないしは生活全体の「混乱」という様相を呈するに至る。解離性症状を伴っていることも少なくないのである。


行動化のもつ意味‐

 さらに忘れてならないのが、これらの行動化のもつ意味である。少なくとも二つの意味は押さえておいた方がよいように思う。

 ひとつは、行動化が内的な不安や葛藤を解決するひとつの方法だということである。手首自傷にしろ過食にしろ、それを起こす直前には一種特有の不安焦燥があって、行き詰ったような心境になっているものであるが、これらの行動化によって一挙にその焦燥が消失する。激しい行動の後、とっても穏やかな様子になることが少なくないし、患者の激しい行動を目撃した周囲の者に残っている興奮と本人のケロっとした静かさの対照的姿は印象的である。

 第二は、周囲を操縦するという無意識的意図があることである。「眠れないので薬をください」とやってきた患者に「もうすこし頑張りましょう」といった看護婦のところに、数分後、前腕に数条の切創を作って「看護婦さん、これ」といってみせにきた女子患者がいた。すぐさま当直医が呼ばれ、睡眠薬が投与されたことは論じるまでもない。


行動化にどう対応するか-

 ボーダライン患者を前にしてまず聞かれるのが、行動化にどう対応したらよいかである。それにたいして筆者は、行動化の原因より結果の後始末の方が重要だということにしている。

 これまでの神経症に対する精神療法では、行動化がみられたとき行動に走る直前の不安や葛藤をとり上げ、その行動に駆り立てた無意識的動機をあきらかにすることが常道とされてきた。しかし、この種の患者にこうした技法を使うと、なぜそんなことしたの!という叱責にしかならず、逆に患者を追い詰めることになりやすい。考えておくべきは、壊れてしまったバランスをどう立て直すか困っている状態だということである。したがって、生じてしまった心の混乱をどうまとめるかに焦点を当てるべきなのである。 

 例えば、ある症例指導の中で、患者が治療を無断で休んだ後の面接で、「(最寄りの)駅まではいったが気分がわるくなって引き返した」と報告した。そのとき、治療者は、例によって、駅に着いたときの気分や脳裏に浮かんだ思いを聞きだそうとしたが、うまくいかないばかりか、患者は部屋の中をウロウロするばかりで面接にならなかった。こうしたときは、むしろ家に帰ったときの気持ちを聞き、それを治めるのにどのようなことをしたのかを聞いた方が建設的である。ベッドにもぐりこんだのか、何分ぐらいしたらイライラが治まったのか、治療を無断で休んだことをわるいと思わなかったのか、等々である。その後で、最近、面接が辛くなってはいないかを付けくわえることもあろうか。筆者は、こうしたやり方の方が患者が自分を取り戻す手助けになると思う。

 もちろん、こうしたやり取りは、家庭において重要な意味をもってくる。一般に、子どもの行動化を前にして、心の余裕を失っていることが多い。そのため、やるべきことをやらなかったり、他人を困らせたりする行動に対して、(どうして?)を繰り返しやすいのである。しかし、ここで注意を要するのは、子どもが心の余裕を失い、ひどく混乱していることを知り、温かく包んでやることである。

 しかし、退行、混乱のつよい症例では、こうした言語的接近だけでは限界がある。こうしたとき入院させることが多い。そして、筆者はレボメプロマジンなどの鎮静作用のつよい向精神薬を使用しながら受容的な看護を行うことにしている。それでも自殺企図その他の危険な問題行動が続く場合は、保護室にて管理することになる。場合によったら、身体的拘束を行うことがある。これは、メニンガー病院のリンズレー氏推奨の方法である。保護室にしろ身体的拘束にしろ、忘れてならないのは、行動を制限されたときに患者のなかに生じてくる感情、思い、不安などに何らかのかたちで関与できる態勢を作っておくことである。頻回に治療者自身が訪ねてそうしたことを話し合おうとか、看護婦が訪室のたびに時間をとって辛さ、苦しさを支え、忌憚のない話をさせるような態度をもち続けることなどがそれにあたる。もしこうした支持態勢がないと、拘束自身が新たな外傷体験になることは留意しておく必要がある。


対象支配ということ‐

 行動化は内的不安を解消すると同時に、対象を自分の思うように操縦する側面のあることを指摘した。対象を自分の支配下におくことは見捨てられることに対する最強の防衛手段となる。支配することによって対象からの分離を体験せずに済むのである。

 ここに25歳になる独身女性がいる。高校時代より対人緊張がつよく交友関係もままならなかったが、大学3年のとき発熱、喘息、皮膚炎等の心身症を発症して以来、家にこもるようになり、母親が唯一の接触だといってよい状態に陥った。2、3のクリニックを受診したが、思うような改善がみられないため筆者の大学病院を受診したのだった。初診医は数回の診察の後、これは自分の手に負えないな、部長にでもみてもらう以外にない」といったらしい。すぐに、大学の先輩医師の紹介を取りつけ、部長である筆者の診察となった。ボーダーライン構造をもっていることは明らかであったが、数回の面接後には森田療法を受けたいといいだした。そのため、森田療法施設の専門家に紹介すると、これまた不満だったらしく、筆者のところに帰ってきた。そして「主治医を代わってほしい。T先生がいい、優しそうだったから」という。母親もそれを受け入れてほしいといった態度である。そこで、T先生に主治医を頼んだのであった。すると、その数カ月後になって、真夜中に手首を切って救急外来を受診し、再び、主治医を交代して欲しいと願い出ているという。翌朝、外来に出ると両親が揃って筆者の受診を仰ぎ、娘の願いであるM先生への主治医変更を認めてほしいと土下座せんばかりの態度である。突然のことで驚いて事情を聞くと、昨夜、再び主治医交代をいい出したので、そんなこといったら病院から見捨てられるので、それは受け入れられないと説得しはじめると患者が突然目の前で手首を切ってしまったというのである。両親には腰を抜かさんばかりの驚愕であった。動転した両親はただひたすらに部長である筆者の了解を得るべく、昨夜から待ち続けたのだという。患者本人はどうかというと、ケロッとしているのである。筆者の返事はどうであったか。これまた、両親の気迫におされて認めざるを得なかったことはいうまでもない。患者の要求貫徹は完全に成功を収めた。両親のみならず治療者までも患者の支配下におかれることになったのである。

 ただ、対象支配は激しい行動化だけで起こるわけではない。いつの間にか患者のベースに乗せられるということもしばしばである。

 18歳の過食症患者は、自分で過食の衝動を抑えることができないので外側(治療者)の力を借りないとダメだということで入院してきた。しかし、しばらくすると病棟での治療が辛くなったらしく、退院するといい出した。主治医は、最初の目的を取り上げたり、説得したりしたが聞き入れない。しかし退院許可は出せないといい出した。主治医経験をちらつかせたのである。すると患者は、どうなったら退院できるの?と聞いてきた。つい、乗せられて三週間といわれてしまった。もちろんのこと、三週間に何らかの根拠があったわけではない。しかし、いってしまった以上、三週間後には退院させざるを得なくなってしまった。主治医の無力感と悔しさは筆舌に尽し難いものがあった。

 ここで注目すべきは、治療を受けたい気持ちも中断して帰りたい気持ちも患者自身のものであるはずなのに、治療を受けたい気持ちがいつの間にか治療者のもの、つまり治療を受けさせたい気持ちに変わってしまっていることである。退院したい気持ちと治療を受けたい気持ちの相克が患者と治療者の間の取り引きと化しているといい換えてもよい。

 また、こうした対象支配をめぐるゴタゴタが繰り返されるとき、対象が拒否的になってしまうことも忘れてはならない。とくに慢性的に繰り返される衝動行為の症例の母子関係などがそうである。さらに、精神科のスタッフがこれらの患者を入院させたがらないのも、患者が繰り出す対象支配ないしは操縦の態度に対する拒否と考えてまず間違いない。対象支配の状況では、対象は一種特有の心境、ことに無力感と怒りに圧倒される心境に陥っているのである。こうなると、治療者も親も本来の機能、治療者機能、親機能を失うに至っているといわねばならない。


対象支配に対する対応‐

 対象支配とはいわば患者に呑み込まれてしまった状態であるから、それからの脱出を図ることが大切になってくる。

 そのためには、まず、自分の内部に起こっている心的状況は、つまり無力感と密かな怒りの感情に気づくことが重要である。そして、その無力感と怒りが実は患者自身のものであることを知っておくことである。先に、治療を受けたい気持ちの相克で片方を治療者に背負わせるからくりのあることを述べたが、こおの無力感も怒りも患者のものなのである。したがって、不機嫌な赤ん坊を抱っこしあやす母親のように、患者の万能感と無力感を併せだき抱えることが必要なのである。こうして治療者機能を回復させるわけである。

 治療者が自らを回復した後、今度は、治療を受ける患者自身の機能、つまり闘病精神とでもいいたい自らの精神発達に挑戦していく患者自身の姿勢を育てるための接近が必要になってくる。先の隊員したがる患者の例を取り挙げると、退院したがる患者を制止するのではなく、退院がもたらずであろう結果を十分に話し合い、それを知らせた上で退院させても構わない。多少とも面倒な入退院が繰り返されることになるであろうが、この種の患者には、この程度の面倒さを引き受けるだけの寛容さが必要である。こうした面倒な遣り取りを繰り返していくうちに、治療者のだき抱える姿勢を取り入れて、自らの葛藤や不安を自らのもの、自分の内部に存在するものとして、対処することができるようになるのである。その過程で、治療者がやってあげられることには限界があることをそれとなく知らせることも有効な技法のひとつとされている。ただ、この場合、非常にしばしばこうした推奨を根拠に、「大したことはできませんよ」を連発する治療者をみかけることがあるが、この不必要な連発は無力感の反映にしか過ぎないことは知っておいた方がよいであろう。

 これが家族となると様態は一層複雑になっている。患者の言うままに父親が母親を殴打し、母親が耐えられなくなって出奔してしまうほどに深刻なものから、何かをきっかけに親機能喪失に陥りやすかったり、子どもの訴えに拒否的になっていたり、あるいは逆に迎合的になっていたりしているようなものまでさまざまである。あるいは子どもと一緒になって被害者になっていることもある。例えば、ある少年はナイフ事件を起こして、学校当局から謹慎処分としかるべき医療機関の治療を受けることを求められた。そのとき、この少年は「どうせ、ボクだけが悪者になるのだから!」といった。他の友だちはこの事件にかかわりがなかったが故にこの処分を受けなかったのであるが、患者からすると、他の友だちもわるいことはしていたのである。こうした場面でこの言葉を聞いた両親は患者と一緒になって、診察室で「この程度のことで何故にうちの子どもだけが処分をうけなければならないのか」と怒りをあらわにしていたのであった。もしこの両親が親機能を維持していたならば、きっと自分の行った行為に対する償いないしは罰を受けて、人間としての道を歩むように説得していたに違いない。筆者がそれを指摘すると、両親は理解を示して、自分の子供が学校の処分を受けることを説得する態度を示すようになった。親機能を回復したといってよかった。

 このようにボーダーライン心性をもった子どもを前にして、親もまた等しく、無力感と怒りを内に秘めた親機能喪失に陥っているものである。無力感と怒りのワナにはまり込んだら、どうしても肯定的な社会機能を維持することは難しいのである。そのためには、まず無力感と怒りの認知からはじめ、大人の感覚を取り戻したら、それを基盤にした状況判断ができるようになることが重要になる。

 最後に述べておきたいことは、筆者がここで述べた対応の仕方がすぐさま効力を発揮して、目前の状態を改善させてしまうわけではないことである。これらの対処法を状態に応じて活用しながら繰り返していると、自然に、部分対象関係が全体対象関係に変化してくる、正確に表現すれば全体対象関係的な部分が多くなってくるといったものである。」

(牛島定信『心の健康を求めて‐現代家族の病理‐』慶応義塾大学出版、 147~157頁より)





 








                    


『岩手昔話』より-石割桜

2025年04月23日 16時53分27秒 | 本あれこれ
「むかし、おさつという大変力の強い娘が南部にやってきて岩手山に登ると、岩手太郎と力くらべをすることになりました。
太郎が五百貫(1.8トン)もあるかと思う大石をムンと持ち上げると、おさつは、赤いたすきをかけて7.8メートルもある大石を持ち上げてポーンと空高く投げ上げてしまいました。大石はうなりをあげてみるみる小さくなり、南部の町のお城の庭にドスンと落ちました。

びっくりした殿様の命令でお城にとらえられたおさつですが、悪びれもせずにお城をさわがせたことをあやまり、石は真上に投げたつもりだったことを話しました。

「お庭の庭に石をおとして城の者達を驚かせたことは許してやろう。そのかわりお前の手でこの石を日本中に知れわたる有名な石にしてみるがよい。」
という殿様の言葉におさつは、ハッとこぶしで大石を打ち、中ほどまで割れた石にすばやくそばにあった桜の若木を植えつけました。

 年月がたつにつれ、おさつの植えた桜は大きく石を割り美しい花をつけ、それはみとごな桜になりました。

 これが今、盛岡の内丸、盛岡地方裁判所の庭にある「石割桜」にまつわるお話です。」














『心の健康を求めて‐現代家族の病理』より‐同一性の形成と危機‐見捨てられ抑うつ

2025年04月03日 17時12分01秒 | 本あれこれ

見捨てられ抑うつとは‐

 ボーダーライン患者の基本にある感情は何か。O・F・カンバーグは「口愛的攻撃性」であるといい、J・F・マスターソンは「見捨てられ抑うつ」であるといった。いずれも非常に未熟な攻撃性である。口愛性攻撃とは、「無慈悲な攻撃性」ともいわれ、対象への思い遣りがみられない。つまり自らの攻撃的行動の結果に対する配慮を欠落した攻撃でる。対象に対する思い遣りをもった攻撃、手加減を伴った攻撃とは異なるのである。それだけにかけがえのない対象を破壊してしまう危険を伴った攻撃といってもよい。また、「見捨てられ抑うつ」とは、マスターソンによると、離乳期の幼児が母親に見捨てられたと感じたときに体験する感情で、抑うつ、怒り、恐怖、罪業感、無力感、空しさの七つの感情が混じり合ったものだという。いわば、成人にみるような憎しみとか悲哀といった姿かたちをとるに至っていない未熟な感情体験である。この感情体験が凄まじいまでの行動化を引き起こすといってよい。それだけで最近では、この見捨てられ抑うつはボーダーラインという言葉とともに有名になっている。

 問題は、臨床的にどのようなときに起こりやすいかである。一般には、治療者が休暇をとるとか、予定の日に治療(面接)ができなくなったとか、母親が何かの理由で留守をすることになったとかいった分離不安が起こる状況で出現してくることが多い。

 またこの種の患者では、治療者がよくなったと思ったり、現実にそれを伝えたりしたときに見捨てられ抑うつが起こりやすいことも注意を要する。例えば、ある女性患者は、妹が家に帰ってきてから自分のいる場所がないと訴えて何かとゴチャゴチャすることが多く、病棟で数カ月にあたって、医師や看護者、さらには家族もまたすべてが気を許せない状況が続いていた。ところがそれも一段落ついて、比較的平穏な状態がみられるようになった。主治医もひと安心といった感じで、教授回診においても、そうした報告をしたのであった。ところが、その日の夕方、患者は行方不明になったのである。翌日になっても家にも帰っていないというころで、警察に捜索願いを出すことになった。ところが、その二日後になって患者一人で帰院したのであった。聞くと、「先生たちが安心しているのをみたら不安になって死にたくなった。それで、ホテルに行って手持ちの睡眠薬を10日分ほど飲んで寝ていたのだ」という。これほどひどい行動化がしばしば起こるわけではないが、普通の面接のなかでも、治療者がよくなったとか元気になったとか、神経症患者やうつ病患者であったら喜ぶような言葉が逆に不安を引き起こすことはよく知られている。


母親の内的世界から抹殺される体験‐

 ところが、この見捨てられ抑うつは面接のなかでもしばしば起こることも忘れてはならない。面接中ないしはその後に荒れる状態が非常にしばしば認められるが、多くは何故に患者が荒れるのか治療者自身もよくわかっていないことが多い。若い精神治療家の場合、指導を受ける中ではじめて明らかになるとい うこともしばしばである。

 私の指導した次のような症例がある。

 患者は5年ほど治療を受けている26歳の独身女性である。数回前に、「先生と結婚したらってこと考えたら、それだけで頭が一杯になった」という患者の言葉があった後、面接が推移するなかで、「先生と結婚したらゲーム」でいろんなパターンを考えた。「先生が忙しくてあまり家に帰れそうになかったら友だいと遊ぼうかとか・・・」という患者に、治療者が「実際に結婚となると、性格が合うとか共通の趣味があるかとか考えねばならないしね」といってしまったのであった。患者は、次回、無断で治療を休んでしまった。そしてその次の回に「面接の後、三回ほどテレクラへ電話して、三人の男性と寝た。そしたら、そういう自分が嫌になって死んじゃえと思って薬を飲んでしまった。途中で怖くなって、先生の顔が浮かんできて30錠で止めたが、数日ベッドで苦しんでいた」と報告した。もちろん、治療者には何故にこれほどの激しい行動化を起こしたのか分からなかった。その次の回「しかし、男の子がいないとダメだし、それはそれでまた振り回されて感情が波風立って、それに耐えられなくなる。そんなことしていたら、やはり病気を治すのが先だと思った」という。さらにその次回には「男女の友情ってないのかしら。・・・映画のラブシーンと思っていたら、現実となってしまうと全然違うから、嫌なものを見てしまったという感じ」と述べている。さらにその次回には「先生に焼きもちを焼くのが特別にある。・・・先生には七人の入院患者さんがいるでしょう。空いた時間に思い出すのは誰だろうって気になる。ふと思い出してほしいのです。自然と入り込ませてほしい。先生のなかで自然に浮かんでくるような。それがあると、安心していられるというか、頼れるというか」となり、その次回に「寝てばかりいるけれども、調子はわるくない。何か夢を見ていたような気がする。先生は現実の人だなあと思えてきた」と述べるに至っている。

 混乱を起こして、何とか自分を取り戻したのは六週後である。この間を回復過程とみてその心理的意味を読んでいくと、見捨てられ抑うつの実態がよくわかってくる。

 まず混乱の原因となった遣り取りは、患者が「結婚したらゲーム」と述べたことに対して治療者が「結婚するときの現実」でもって反応してしまったことにあるといってよいであろう。そして、引き起こされた混乱は、治療者の内裏を得るべくテレクラに走ったわけであるが、それは混乱を治めるどころか、倍増させてしまった。遂には、自殺を企図ないしは意識を無くしてしまおうとする行為に走らせてしまったのである。ときに経過とともに、彼女は、自分が真に求めているのは「男と女の関係」ではなく、「友情」に似たある種の支えであることに気づくようになる。そして、その友情とは、先生が自分のことを忘れないことだという洞察に到達するが、それは「自分が先生の内的世界で生きる」ことといってよい。

 いわば、「見捨てられる」とうことは「対象(母親)の内的世界から抹消される」という体験といってよいであろう。見捨てられ抑うつは、母親が留守をしたり、他のことで忙しかったり、母親が他のことに心を奪われていたり、患者の訴えたり話したりすることによってピントのはずれた返事をしたりしたときにしばしばみられるが、母親に「抹消された」という気持ちになるのは、もっと深いところの感情体験というべきであろう。おそらく、幼いときの「抹消体験」に裏打ちされたものと考えていた方が自然である。

 例えば、幼児の心身症や小学生の不登校などで、母親が兄弟の病気や受験のことで心がいっぱいになっていたり、夫や義父母との軋轢に心の余裕を失っていたりといったことがしばしば認められるが、これらの症例にある寂しさや不満は状況をある程度は理解しているといったところがあるし、一方の母親もときにはその子のことを思い出してはいるが故に、こうした神経症水準の反応に留まっている。必ずしも見捨てられ抑うつとはいえないのである。母親の内的世界から抹殺されるという体験にはもっと強烈な契機が含まれているとみなければならない。


ボーダーライン・マザーと鏡像現象-

 こうしたことを考えるなかで思い出されるのが(Ⅰ・第三章で紹介した)K子の症例で出てくる鏡像現象である。彼女によると、電車の窓に映った自分の姿を見ていたら窓の中の自分の方に生気が吸い込まれて、現実の自分の中身が空になり、パニックになった。これをきっかけに、彼女は自分の中に《死んだ人々》がたくさんいることを想起し、次第に買って欲しいものを次々と要求できるようになった。ここで死んだ人々とは、母親に欲しいものを要求してしりぞけられた自分のことを指すことは論じるまでもない。

 最初、筆者はこの鏡像現象が何を意味するのかよくわからなかった。しかし後で振り返ってみると、かなり重要な意味を秘めたものであること、ことに見捨てられ抑うつをめぐる心性と密接に関連していることを知るに至った。それを説明するために、ここでK子と母親の関係の推移を再び追うことにする。

 入院してきたK子は、最初、「母は私の病気を理解してくれない。私は父親似だと思うけど、母のように振る舞うように仕向けられてきた」といい、家に帰ることをかたくなに拒んでいた。そんなある日、母親との同席面接をもったが、そのとき母親はK子の過剰服薬や手首自傷を「病気ではありません。甘えですよ」と断じてはばからなかった。そして、「子育てだって、食べるもの、着るものすべて、私の手作りだった」という母親に、K子は「そうです。うちの親は非の打ちどころがない。だから家を出たくなるのです」というのが精一杯であった。

 ところが、治療的変化が起こって家族そろっての生活が可能になって退院した後、入院中に知り合ったH君との付き合いを母親や治療者に反対されているような気持ちを訴えるようになった。そして、他の患者が治療者に甘える詩型をみて、甘えてもよいことを知ると、今度は、母親に対して「ムカッ」とくるようになったと報告し、「中学1年のころから、怒らない、泣かない、笑わない、感情のない子どもだったけど、このごろよく怒るようになった」と述べるまでになった。さらに激しいのは自分だけではなく母親もまた激しいことにも気づくようになった。「すごくお天気屋で、ひどいときは手がつけられなかった」と語るまでになった。

 そして、「父と母がTVの前で酒呑みながらいろいろ頼むので前掛けをしてサービスしはじめたら母が私の欠点をあれこれ挙げつらうようなことばかりいうので、そんなら止めるといったら、母が怒りだして大喧嘩になった。それで部屋に帰ってむくれていると、父がはいってきて話を聞いてくれた。母は感情的で、父は冷静なんですよね。母の中に自分をみるような気がする。最近、感情が戻ってきたと思っていたら、ときどき見境をなくして感情的になってしまう」と述べている。さらに、地下鉄のホームで自分を批判する声が聞こえて気分がわるくなったといって、外来治療になってはじめて母親が同伴したが、そのとき「H君の電話がいけなかったのよ」と断じる母親に激しく食ってかかるのが印象的であった。このように母親と烈しくわたり合えるK子の姿は、かつて入院中の母親同席面接のときの「甘えですよ」と断じる母親に何もいえないK子とは別人のようであった。

 このように感情を取り戻し、母親ともわたり合えるようになるなかで発生したのが、鏡に映った自分の中に生気が吸い込まれる体験をした先述の鏡像現象であった。この空っぽになった自分の内面の感覚は考えてみるとずっとあったが、これは幼稚園から帰ったとき、母と弟が一緒に庭で遊んでいる光景をみて、全く見知らぬ世界に入ったような気になった思い出と密接に関連するという。その後、「最近、つまらないものを欲しいといい出したら聞かないことがよく出てくるようになった」と報告している。これを境にK子は治療者からの出立の道を歩きだした。

 この経過は、母親の激しい感情の突出に圧倒されて、反撃もできないままに従っていたK子が治療のなかで自らの感情を取り戻し、「自分を」取り返していくプロセスを示しているといってよいであろう。そのなかで、筆者は母親がK子に向かって激しい感情を浴びせる場面に二度ほど遭遇した。ひとつは入院中の同席面接で、自傷・自殺行為を「甘えだ」となじった場面であり、もうひとつは地下鉄で幻聴らしき体験をしてパニックとなり付き添ってきたときで、「友だちのせいだ」と断じた場面である。最初の場面では母親の感情に圧倒されて返す言葉もない様子であったが、付き添いの場面では激しく反論するK子がいたのであった。おそらく、子どものころK子が激しい母親の感情に圧倒されずに、大声で「ワッ」と泣くという反応でもできておれば、成人してボーダーライン患者となることもなかったのではないかと思われる。

 また、注目すべきは鏡像現象の起源ともいえる、幼稚園のときの母親と弟が庭先で遊んでいるのを目撃してまったく別世界にいる自分を体験したと述べている思い出である。これを理解するのにK子に成育史上に特異な問題のあったことを挙げておく必要があろう。それは次のようなエピソードである。K子には、生後まもなくして死んだ兄がいたが母親の悲しみようなただごとではなかった。その悲しみのなかでできたのがK子であった。そのため、彼女は兄代わりにそだてられたという。中学生になってボーイフレンドを家に連れていくと、母親は喜んで彼らをもてなしたが、それが習慣化していた。つまりK子は母親を喜ばすためにボーイフレンドを家に連れてきていたのであるが、それは母親に兄をあてがう以外の何の意味もなかったのである。彼女は「幸せになると不安になり、嬉しいと終わりを考える。これは兄のことが関係していると思います。母は私の中に兄をみているでしょう。だから、私は母のなかにはいないんですよね」と述べているほどである。

 こうした現象に気づいて注意してみていると、症例の指導や学界発表会などでも、治療がある転換期にさしかかると、母親が激しく退行を起こして、死んでやる ただではおかないゾ!と息巻く姿を前にして、子どもが戸惑っている場面が出てくる症例をままみかけるのである。また前節の症例においても、勉強しないとヒステリーをおこしたり髪の毛を引っ張ったりする母親の姿を描いて、ただ脅えていたと患者は述べている。多くはこの場面で誰かに支えられると感情が回復し、自分を取り戻してくるのである。そしてこの種の症例では、この母子間で展開される感情的爆発の背後に、子どもが母親の世界に住めないなんらかの事情があるという前史があるのである。

 J・F・マスターソンは、ボーダライン・マザーという概念を提唱してボーダライン理解に貢献した。子どもだけではなく、母親もまたボーダライン構造をもった人格であるということであるが、筆者の経験からみると、これらの母親には、ただ単に感情的でひとりよがりな母親というだけではなく、将来ボーダライン患者になる子どもを自分の世界に住まわすことのできない側面のあることを念頭にいれておくことが大事なような気がしている。

 そして、それからの治療的回復が可能となるのは、母親の激しい感情が爆発する場面で誰か仲介的な役割をしてくれる人間がいて、子どもにも反撃するチャンスを与える機会を作ってくれる状況だということである。この症例では、先述したように、母子同席面接のときと母親の付き添いのときの治療者と、TV前での激しい母子間の大喧嘩のときの父親の仲裁とがそれに当たるということができる。」


(牛島定信『心の健康を求めて‐現代家族の病理‐』慶応義塾大学出版、 138~147頁より)


 

 
















 































「これまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」

2025年03月30日 23時03分07秒 | 本あれこれ
 キキちゃんの退団記念でオンデマンド配信中の『群盗』の中で華妃まいあちゃんが言っているこの台詞、有名なことばなんですね。日本ではアメリカとヨーロッパで失敗した社会の共産化が自公政権により周回遅れで進められようとしています。多様性、多文化共生、ジェンダー平等・・・、一見とてもいいようにきこえるところが怖ろしいと思います。共産主義とはなにか、高校の入学祝いで親が買ってくれた岩波文庫の白帯、ここまで生きていてやっと読めるようになりました。昔の文庫本は小さい字がびっしり詰まっています。今は使われていない漢字も出てくるし、なかなか進みませんが少しずつ読んで積読本を制覇中。『神々の土地』『アナスタシア』『ドクトルジバゴ』、ロシア革命が描かれた宝塚作品のおかげで頭の悪い私でも入りやすくなりました。トルストイの『アンナ・カレーニナ』が出版されたのは1877年。



(エンゲルス著 戸原四郎訳『家族・私有財産・国家の起源』岩波文庫、1965年10月16日第一刷発行1978年12月20日第16刷発行、解説-273-274頁より)

「マルクスは1870年代にロシアの土地制度・農業問題の研究に着手し、そこから共同体一般、さらに原始・古代史へと研究を拡げていった。そしておそらくはこの関係から、80年代初冬に彼はモーガン・の『古代社会』やその他の関係文献を読み、詳細なノートをつくっていたが、83年3月、彼の死とともにその研究は挫折してしまった。他方エンゲルスは、当時マルクスに代わってドイツその他の社会主義運動を指導するかたわら、『自然弁証法』とならんでドイツの古い歴史の研究をもおこなっていた。その内容は、81、2年に執筆された『原始ゲルマン人の歴史によせて』と『フランク時代』の二つの草稿(マルクス・エンゲルス選集』大月書店版に所収)にうかがうことができるが、この研究にもとづいて82年後半には『マルク』と題する村落共同隊の歴史についての論文が書かれ、翌年早々『空想より科学へ』の付録として公刊された。ここで注目されるのは、エンゲルスがこのときはじめて原始共産制社会の存在を結論し、「従来の一切の歴史は・・・階級闘争の歴史であった」という有名な命題に「原始状態を除けば」という限定をつけ、さらにこれとの関連で、原始状態の遺制とされるマルタ制度のうつに血縁的編成を見出していることである。これは、彼独自の研究の到達点を示すものとして重要な意味を持つ。そしてマルクスの死後、その遺構を整理し、『資本論』の刊行を急いでいた彼は、84年2月、前記の『古代社会ノート』を発見した。当時エンゲルスはまだモーガンの著書に接していなかったと思われるが、別の道を通じて同じ結論に達していた彼が、それに深い関心を抱いたのは当然であった。」


 
 

 
 

第二次世界大戦-世界大戦への拡大

2025年03月28日 16時59分48秒 | 本あれこれ
(慶応義塾大学通信教育教材-『西洋史概説Ⅱ』より)


世界大戦の第一段階-ヨーロッパ戦争

 最初の二年間は戦場は主としてヨーロッパであった。ドイツ軍のポーランド進攻作戦は約四週間で完了し、翌40年4月に開始された西部戦線でのドイツ軍の行動は、デンマーク、ノールウェ、オランダ、ベルギーを短時日で圧倒し、フランスも約二週間で降伏した。つぎにドイツはイギリスへの攻撃にふみ切り、40年8月より烈しい爆撃を加えたが、イギリスは耐え抜き、ドイツ軍のイギリス上陸をゆるさなかった。このギリスの頑強な抵抗にあって、ドイツの短期戦の思惑ははずれ、長期戦に移行した。これが枢軸国敗北の第一の要因であるとともに、ここに第二次世界大戦の最初の転換点がある。


世界大戦の第二段階-独ソ戦争の勃発

 1941年6月22日、ドイツはソ連邦へ進撃を開始した。すでに第一段階においてドイツは、東はポーランドから西はフランス、北はノールウェから南はオーストリアに到るヨーロッパを支配していたが、長期戦遂行に必要な戦時経済体制を維持するためには、農・鉱産物資源の獲得が必須であり、バルカン諸国の制圧が不可欠であった。そのために始められたバルカン作戦は41年4月にはほぼ完了したが、これは独ソ関係を急速に冷却させ、ユーゴスラヴィアの支配をめぐって両国は、決定的にに対立するようになった。それに加えて「イギリスの抵抗の望みを粉砕ためには、ロシアを打ち砕かなければならぬ」とのヒットラーの決意もあり、独ソ戦争の勃発を見た。

 独ソ開戦は即座にソ連邦と英仏米の西欧民主主義国家との提携を生み出した。ファシズム国家イタリアも、すでにフランス降伏直前にドイツ側に立って参戦しており、露骨な国家エゴイズムで始まったこの戦争は、少なくとも表面的かつ理念的には、ファシズム陣営対民主主義陣営の戦という大義名分を獲得した。これが第二段階を劃する要因であるとともに、枢軸国を敗北に導く第二の要因である。


世界大戦の第三段階-太平洋戦争の勃発

 開戦当初アメリカのは戦争に静観的態度をとっていたが、フランスが降伏し、ドイツのイギリスへの攻撃が烈しくなるにつれ、次第に積極的にイギリスに援助するようになり、41年1月の「武器貸与法」の成立とともに、公然と連合国に武器援助を開始した。それ故この頃からアメリカはこの戦争における民主主義陣営の有力メンバーになったといってよい。そして同年8月、大統領ルーズベルトは英国首相チャーチルと大西洋の洋上で会談して、「大西洋憲章」を発表した。これはファシズム陣営に対する戦争目的と戦後世界の平和構想を声明したもので、第一次世界大戦における「14カ条」に対応するものであった。

 一方東アジアでは日本は、中国において抗日民族統一戦線の頑強な抵抗にあい、打開に苦慮していたが、ヨーロッパでのフランスの降伏を機会として、仏領インドシナの北部に進駐し、独伊と三国同盟を結んで枢軸国との提携を強化した。さらに仏領インドシナ南部にも進駐して、南進の意図を明確にするや、日米関係は決定的に悪化した。アメリカ合衆国は在米日本資産の凍結、日本への石油輸出禁止の強硬措置をとり、イギリス、オランダ、中国にも働きかけてABCD包囲陣をつくり、あくまで日本の南進を阻止しようとした。このような状勢は、もし日本の根本的な譲歩がなければ、外交交渉による両国の利害関係の調整が不可能になったことを意味する。日本は遂に対英米宣戦布告にふみ切り(1941年12月8日)、独伊も三国同盟に基づいて米英に宣戦した。太平洋戦争の勃発である。これによって今まで参戦していなかったアメリカ合衆国も戦争に加わり、従来別箇のものとして戦われていた日中戦争も直接的にヨーロッパ戦争と結びつくこととなり、戦争は文字通り世界大戦となったのである。このようにアメリカ合衆国を戦争に導き入れ、連合国の戦力を飛躍的に増大させたことが、枢軸国敗北の第三の要因となった。


連合軍の反攻と枢軸諸国の降伏

 太平洋戦争の当初は、世界の各地域の戦線において枢軸側が優勢であった。しかし42年半ば頃から、アメリカ合衆国の優勢な生産力に掩護されて、独ソ戦争におけるソ連軍の根強い抵抗もあって、連合側は次第に反撃を開始し、43年頃から戦況は、ヨーロッパにおいても、アジア、太平洋においても逆転していった。43年7月米英連合軍がイタリアに攻撃を開始するや、ムッソリーニ政権は崩壊し、43年10月イタリアは無条件降伏する。そして44年6月米英連合軍が北仏のノルマンディに上陸して第二戦線を形成するや、ヨーロッパの戦況は決定的に逆転し、東西両戦線において東方よりドイツに進撃するソ連軍、西方よりの米英連合軍の前にドイツ軍は総崩れとなり、45年5月ドイツは無条件降伏した。

 ドイツが降伏するや、日本の降伏はもはや時間の問題となっていたが、45年8月の広島と長崎への米空軍による原爆投下が、日本の降伏を決定的にした。1945年8月15日、日本政府はポッダム宣言の受諾を申し入れ、第二次世界大戦は終った。ここで全世界に平和がおとずれたのである。」

 小学校から大学まで、こうしたわたしたちは戦後教育によって自虐的な歴史観を刷り込まれてきました。日本は侵略戦争をして負けたのだと。日本の再生は戦後教育のやり直しからです。





第二次世界大戦-戦争への道

2025年03月27日 15時14分59秒 | 本あれこれ
(慶応義塾大学通信教育教材-『西洋史概説Ⅱ』より)

世界恐慌とブロック経済

 1925年以後の世界経済の相対的安定によって回復した、金本位制を基盤とする自由貿易体制は、世界恐慌と慢性的不況によって深刻な動揺を経験し崩壊するに到る。不況克服のため各国が競って強行した輸出強化策は、到る処で摩擦をひき起し、より安定した輸出市場と原材料の輸入先を確保するため、ブロック経済圏の結成を促進する。その代表的なものはイギリスを中心とする「スターリングブロック」であるが、その外にアメリカ合衆国を中心とし、南北アメリカ大陸を経済的に一体化しようとする「アメリカ大陸ブロック」、フランスを中心とし、小協商国(チョコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ルーマニア)やアフリカのフランス植民地から成る「フランスブロック」があり、日本を中心とする「大東亜共栄圏」や、ナチスドイツが東南欧に求めた「生存圏」もこれに教えてよいであろう。20年代後半の国際連盟を中心とした国際協調の風潮は影をひそめ、閉鎖的な経済ブロックによる排他性がとって代った。第二次世界大戦に帰着する30年代の険しい国際政治の対立とその破綻は、このような状勢と雰囲気を背景としており、安定期には潜在的緊張要因にとどまっていた。ヴェルサイユ体制の構造的欠陥の主要因であったドイツ問題が、より新たな装いとよりいっそうの露骨さで顕在化し、クローズアップされてくるのである。


ドイツの外交行動とヴェルサイユ体制の崩壊

 ヨーロッパの国際政治はドイツを中心に急速に不安定化する。政権獲得後ヒットラーがとった最初のラディカルな外交行動は、国際連盟よりの脱退と国際軍縮会議よりの脱退(1933年10月)であった。そして秘密裡に進捗していた再軍備が隠蔽しがたくなるや、ヴェルサイユ条約の軍事条項のは木、徴兵制の復活を宣言し(1935年3月)、ラインランド非武装地帯への進駐を決行する。空しく傍観していた英仏はもとより、国際連盟の威信は地に落ち、ヴェルサイユ体制は瓦解したのも同然であった。


人民戦線陣営と独伊枢軸陣営の対立

 ナチス政権の成立は大きな国際的波紋をまき起した。それは一方では国際的次元におけるファシズム運動の激化であり、他方ではソ連邦の「国際政治の次元における人民戦線方式」への外交路線の転換であった。例えば反ファシズム陣営強化のための社会主義国家と自由主義国家との提携、具体的にはソ連邦の国際連盟加入(1934年9月)と仏ソ相互援助条約の締結(1935年5月)であった。この転換はフランスとスペインにおける人民戦線政府の樹立を促進したが、フランスとは異なり、スペインでは人民戦線政府に反対する右翼ファシズム勢力の反乱が勃発した(1936年7月)。その指導者フランコは独伊両国の援助を得て内戦を有利に戦った。一方人民戦線政府は、人民戦線政府を支持するが、党派的態度をとり続けたソ連邦の姿勢と、それに対立した英仏の傍観者的態度によって、最終的に敗北へとおいやられた。またイタリア・エチオピア戦争(1935年10月‐36年5月)を通じてドイツへの依存を強めつつあったイタリアは、スペイン内戦によってドイツとの利害関係の一致を見出し、ドイツとの提携を強めた。ベルリン・ローマ枢軸の形成(1936年10月)がこれである。


東アジアにおけるワシントン体制の崩壊

 ヴェルサイユ体制の解体過程の進行と並行して、東アジアにおいても国際秩序が崩れ始めていた。ヴェルサイユ体制(ロカルノ体制)に対応して連動するワシントン体制に束縛されていた日本は、中国における5・4運動以後の民族運動の昂揚・第一次国共合作(1924)、中国国民党の北伐による中国統一行動(1926年9月)によって中国大陸への進出に困難を感じるようになった。それを打開しようとしてワシントン体制への挑戦を強行した満州事変は、日本をして国際連盟よりの脱退を余儀なくさせた(1933年9月)。これ以後も日本の大陸への進出はやまず、1931年の日本軍の上海への進攻、ついには日中戦の発端となった盧溝橋事件の勃発(1937年7月7日)を見、日本と中国間の全面的な戦争となった。


ヨーロッパ大戦の勃発

 ヨーロッパにおいても、ヴェルサイユ体制に対する力による挑戦は着々進行する。独墺合併(1938年3月)、チョコへのドイツの侵略と続くドイツの行動に対抗すべき英仏両国は、宥和政策に傾き、ミュンヘン会談(1938年9月)において事態は収拾されたが、その後もドイツの膨張はやまず、チェコスロヴァキアは解体する。

 このようなドイツの侵略行動に脅威を感じたソ連邦はこれを可能にした英仏に疑惑を深め、自国の安全保障の見地から対独接近を模索する。一方ドイツも、ミュンヘン会議以後の対独強硬政策への転換、徳にダンフィッツヒ及びポーランド廻廊地方に対するドイツの分割要求に、英仏がとった強硬な反応によって、二正面戦争に入ることを恐れ、ソ連邦との提携を試みる。このようにして成立した独ソ不可侵条約(1939年8月)は、ドイツを二正面戦争から解放し、条約調印10日後の39年9月1日、ドイツはポーランドに進撃を開始し、大戦の火蓋が切って落された。」





 




【大阪】中国人集団、マクドナルドの専用駐車場に無断駐車 注意すると逆ギレ

2025年03月25日 20時57分36秒 | 本あれこれ

「本件を拡散して頂いた全ての皆様、有難うございます ここは大阪市鶴見区と大東市の局地的な地域問題と見られがちですが まさに世界中が失敗した移民政策の素地でもあり 日本社会が未だ夢見る、幻想に過ぎないグローバリズムの現実です。

ここは日曜早朝から正午にかけてのマクドナルドだけでも、中国物産店へ行く目的の無断駐車が3〜40台近くになり 注意しては二言目には逆ギレで声を荒らげる。 こんな粗暴な連中に対しマクドナルド店員さんも孤軍奮闘状態でした。 
 
もう誰かの助けが入っていいでしょう。 いや、入るべきです。 真面目に務めてるだけなのにこんな連中に業務を妨害された挙句、悪態をつかれるいわれはありません。」


『心の健康を求めて』より-ボーダーライン心性-部分的対象関係

2025年03月21日 22時51分36秒 | 本あれこれ


ボーダーラインとは

 ここ20年ばかり、まさにボーダーラインの大流行である。これまで境界性といわれていたが、最近ではボーダーラインという英語読みが専門語を脱して一般の間でも通用するようになった感がある。ボーダーラインといわれて相談にきたといって外来を訪れる患者ないしは家族も少なくないのである。いわば誰もが知っている精神科の「病気」のひとつになったわけである。そして、よく聞かれるのは、「彼をどう扱ったらよいか」ということである。多少とも心の問題にかかわりをもつ人であれば、関心のあるところのようである。

 そこでボーダーライン患者に特徴的ないくつかの心性を取り挙げ、その対応の仕方を検討することにしたいと思う。

 ボーダーラインとは、もともと神経症と精神病、ことに精神分裂病の境界という意味で使用されていたが、1968年にO・F・カンバークがボーダーライン人格構造という概念を提唱して以来、一般人格より低い水準で機能している人格として捉えられるようになった。そして、1980年、米国精神医学学会の疾患分類第三版DSM‐Ⅲにおいて人格障害の一つとして収録されるに及んで広く一般に知られることになった。この背景には、この種類の患者の急増がある。さらに彼らは、厳しい行動を起こして周囲を巻き込むという特徴をもつだけに、臨床現場での注目を浴びることが多くなった。この事情はわが国でも同じである。

 

臨床的特徴-症例より-

 ここに繰り返される手首自傷を訴えて来院した23歳の未婚女性がいる。

 問題がはじまったのは、中学2年の半ばにニキビを気にするようになってからである。とくに男の子の目が気になりやすかったというが、男性への関心が高まったという意識はなかった。そして、ニキビのために登校するのが辛くなり、家に引きこもるのであるが、次第に登校をめぐって母親に暴力を振るうことがみられるようになった。それと前後して不潔恐怖による強迫洗浄も始まった。種々の症状として激しい感情(怒り)の突出に家庭内はかなりの緊張と混乱がみられたようです。父親は、単身赴任が多かったことに加え、子育てに関与することはなかった。

 ただ、そうした状態にあっても、中学は何とか卒業し高校に進学した。しかし、学校では異常に緊張するためいよいよ外出が難しくなったという。そのうち、太ることへの恐怖が生じ、拒食の傾向も出てきた。そのため、17歳のとき某大学心療内科に入院したが、今度は手首を切るようになった。前腕内側に縦縞模様に裂創を作るのである。そのため、精神科に転科となったが、そこでの人間関係もつらくて本人のつよい希望で退院となった。

 その後、拒食、手首自傷、家庭内暴力を起こしては三度ほどの入退院を繰り返している。その過程で高校を中退しているが、注目すべきは、そんな中である劇団の研究生になったり、大学受験検定試験を受けて合格したりしえいることである。もっとも、大学受験に失敗してから人間恐怖がひどくなり、チック様症状、オナラ恐怖、手首自傷などを織り混ぜながら、次第に引きこもりと家庭内暴力が全面に出る状態がみられるようになった。しかし、家にこもっていると取り残される不安が生じてきて、近くのデイケアに通ったり、恋人が欲しいといって教会に通ったりするところがある。ただ、長続きはしない。

 そして付き添った両親によると「最近になって母親を傍らから離そうとしないため食事の準備さえ支障をきたしている」という。

 また、二、三回目の面接で次のような話をしている。母親は、第一回目の妊娠のときひどい妊娠中毒症で、しかも死産であった上に、その後は三年ほど病人生活であったらしい。そして自分の妊娠のときもまた妊娠中毒だったのでひどく不安だった。未熟児で逆子であった。また小学二、三年のころからすでに、友達は遊んでいるのに、勉強しろというし、できないと髪を引っ張るなどのすごいヒステリーであった。とっても怖かった。しかしそれは本当の強さではなく、感情的になってひきつけをおこし、自分が水を持っていってやったことさえある。このように、生々しい昔の想い出が早期に出てくるのである。

 そして、治療がはじまってしばらくしたところで、母親が突然行方をくらますという事件を起こしてしまった。母親が耐えられなくなって、母親機能を放棄したのである。

 これは、かなり重症例のボーダーライン症例である。一般の適応のよい症例では、普段は何とか仕事なり社会生活なりを送れているが、ちょっとしたことで衝動的、不安定になるといった程度で治まるのが普通だである。しかしこの症例では、恐怖感におののいて家から外出できないほどの状態が長い間つづいている。それだけに、ボーダーライン患者の特徴がよく現れているといってよいであろう。

 まず彼らは非常に衝動的で不安定である。経過をみていると、想い叶って恋人ができると調子よさそうにみえるが、まもなくすると関係がこわれ抑うつ的に、さらには家庭内暴力、手首自傷、過食などが突出してくるのである。そして何よりも出現する賞状なり問題行動なりが多種多彩で、激しいのである。

 こうした症例をどう扱ったらよいのであろうか。いくつかの特徴的な心性を挙げながら、その対処法を検討することにする。

 

部分的対象関係ということ

 先の症例の特徴のひとつは特有な母親像であろう。患者は幼い頃から母親に支配的、感情的、そしてサディスティックな印象をもって生きてきたといっている。確かに、この種の症例には感情的になりやすい母親がいるので、この母親にもきっとそうした側面があったに違いない。しかし、治療者の眼前には子どもに圧倒されて困惑してしまった母親しかいない。これを併せ考えると恐ろしい母親の真の姿は、患者が人間恐怖ともいっている感情状態を考慮に入れないとみえてこない。いわば患者の激しい感情が投影されてできた母親像でもあるのである。したがって、この母親像は非常に主観的な性質をもっているといわねばならない。しかし、妄想のように患者の主観が現実を無視して描いた像ではない。母親の感情的な姿は確かにあったのであるが、しかしそれがすべてではないということである。感情的な面が異常に誇張されているのである。したがって、患者の感情状態がよくなって依存的な母子関係がでてくると、優しい母親像も出てくるのである。比較的安定したとき、この患者に「ひどいお母さんといっていたが、優しいところもあるんだ」といえば「そうですね」と簡単に同調するのである。大切なのは、一般の成人のもつ「うちの母はときどき感情的になるけれどそれなりに私たちのことも考えてくれている」といったよいところとわるいところをブレンドして描く能力がないことである。ひどい母親となればそれ以外の側面は考えられないし、優しい母親となればひどい母親の姿がみえないのである。

 このように一面だけしかみえない母子関係を「部分的対象関係」といい、対象のよいところもわるいところもブレンドして描く能力を備えた人格を全体的対象関係的と呼ぶのが一般的である。

 

部分的対象関係の精神力動

 問題は、こうした関係がどのような推移のなかで生じてくるかである。ここに20歳になる未婚の女性がいる。治療中のある日、次のような訴えをしてきて私を驚かした。面接室に入るなり「先生、私の母ほどひどい親はいませんよ。私に死ねといいます」と興奮気味である。不思議に思って事情を聞いても、「ひどい親」をいい張るだけで、話が進まない。「やさいいこともあるじゃない」というと、「先生まで母の味方をする」と激しい言葉を筆者に浴びせかけてくるのである。「何かあったな」と思いつつ興奮気味の患者を治めるべく温かく包むより他なかった。

 その数日後、母親がやってきて、「先生、この頃、荒れて困っています」という。聞くと次のような遣り取りが母子間であったことがあきらかになった。治療の前の日に、「ねえお母さん、治療にったら何を話したらいい?」と聞くので、思ったこと何を話してもいいのよと返事をすると「何も話すことないもの」という。その後、そんなことないでしょうというと「何もない」といった遣り取りをしていると、鉛筆の先でフスマを突き始めたのであった。そのため「ユキちゃん、止めなさい」と制すると、「お母さんは私が嫌いになったでしょう」といい出すのである。それで「そんなことないわよ、大切な子どもだもの」と返事をするが、これまたエスカレートしていくのであった。ついには、「お母さん、私はいない方がよいと思っているでしょう」「私は死んだ方がよいと思っているでしょう」「死んでやる」と執拗なのである。たまりかねて「そんなに死にたければ、死ねばいいじゃない」といってしまったというのである。これが「うちの母はひどい親です」の起源であることが判明した。

 ここで注目していただきたいのは、物語が前半と後半に分かれていることである。「ねえお母さん、何を話したらいい?」と語りかけているときの温かい母子関係と「死ねばよい」といったときの険悪な母子関係という質的に異なった二つの関係があるのである。そして、治療者のところに来たときの患者の頭には物語の後半しかない。「だって、お母さん、優しいときだってあるじゃない」というと「先生まで、母の味方をするんだから」とひどい剣幕になるのである。

 もしこれがかつてのヒステリー患者であったら、たとえ「私の夫は女遊びはするは、金使いはあらいは、何とひどい人間でしょう」と訴えて来て興奮していても、話を聴きながら「だって優しいところもいろいろあるじゃない?」といった対応をしえいると、「そうね、そういうこともあったわね」と治まってくるものである。ところが、ことボーダーライン患者となるとそうはいかないのである。ひどい親と、その親に虐待されるかわいそうな子という関係の部分は固定してしまっていて、それを無理に修正しようとするとかえって事態をわるくするばかりである。

 このような温かい人間像(親子)と邪悪なそれとが水と油のごとく混じり合わずに別々に出現することを、私たちは分裂減少と呼び、そうした親子関係を部分的対象関係と呼んでいることは先述した通りである。

 こうした関係は、非常に不安定で、憎しみ、怒り、抑うつといった陰性の感情状態を引き起こし、ともすればゴタゴタしやすいので、治療関係が危機に瀕するばかりか、ときには身体的な危険さえもたらすことさえあるのである。それだけにその対応が重要となる。

 

部分的対象関係の扱い方

 険悪な対象関係が状況を支配する場面でどのような対応の仕方があるのであろうか。もっとも有効な方法は、関係者があつまって、部分と化してしまった物語を筋の通った全体に統合することである。先の例を取り上げると、母親と患者と治療者の三人が集まって話し合ったことで、母親に向けていた患者の高まった感情も治めることができたのであった。これに似た事態は入院にしろ外来にしろ、いくつかの職種(医師・看護師・臨床心理士など)がかかわるチーム治療においてしばしば起こってくる。看護師や心理士との間で部分的対象関係を基盤にした激しい遣り取りが発生することが少なくないのである。こうしたとき関係者が寄り集まって、患者を温かく支えながら、ことの成り行きを明らかにしていくのである。この手続きは欠かせないように思う。

 それでゃ外来での一対一の関係のときの対応はどのようなものになろうか。関係者を集めることが容易でないことが多い。こうした場合、筆者は、語られている物語が全体の一部にしか過ぎないことを自分で意識することが大切だと思っている。そして次いで仮想の第三者を頭の中に準備するようにしている。こうした心構えをとるだけでも、こうした状態の患者を前にして治療者自身がずいぶんと楽になるのである。この楽さ加減が大切である。もちろん、よい関係においてもやはり別の隠れた部分のあることを承知しておくことは大切である。

 これは家庭内の関係についても同じである。一般に母親と子どもの間が険悪になっていることが多いが、そうしたときは父親なり兄なりが第三者の立場から仲介的な役割を演じる場を作るように心掛けることである。ただ、ここで示した症例の場合、母親の対応が子どもに何らかの不安、あるいは見捨てられ抑うつを引き出さないように心掛けることが大切であるが、すでにでき上がっているボーダーライン症例の母子関係ではそうした遣り取りを避けることは大変に難しいことと言わねばならない。専門家の指導を仰ぐことも必要になってくるが、避けがたい見捨てられ抑うつにどう対処するかが重要になってくることは間違いない。そのためには、二人(母子)だけの世界に父親ないしはその代理者をどう参加させるかが鍵となる。

 

対象関係のスィッチング

 部分的対象関係には、もうひとつ別の側面のあることも忘れてはならない。それは、もうひとつ質の違った二つの対象関係が展開していることである。

 例えば先述の症例で、患者がうちの母はひどい親といって部屋に駆け込んできたとき、治療者が「そうとばかりはいえないだろう。優しいときだってあったじゃない」と返事すると、猛り狂ったように「先生まで母の味方をする」と激しい感情を治療者の胸倉に投げ込んできたことを述べた。注目すべきは、うちの母はひどいといっているときの治療者患者関係はいたいけな子どもがお父さんに助けを求めているがごとき雰囲気があるが、治療者の返事に「先生まで母の味方をする」といきり立ったときの患者は獰猛な野獣のごとき雰囲気をもっていて、治療者を圧倒してしまっていることである。いわば主客が逆転しやすくなっている。これが対象関係のスィッチングと筆者が呼んでいるものである。投影同一視という未熟な防衛規制のなせるわざである。

 こうした状況にどう対応するか。

 まず心得ていなければならないことは、激しい感情を胸倉に投げ込まれて麻痺状態になっている治療者の心自身を回復させることである。萎縮して弁解がましくなったり、治療者の方が怒りを突出させたり、役割を放棄したりさまざまな状態に陥るわけであるが、できるだけ早く本来の<自分>を取り戻すことが大切である。また激しい言葉を浴びせ掛けながら、目の前で手首を切ってみせたある患者がいた。このようになると、治療者一人では手に負えなくなっている。補助者、ことに看護婦の手助けが必要となる。ともあれ、こうした状況では治療者自身が治療者としての機能を喪失しているわけであるから、誰かの手を借りてでも、できるだけ早く治療者機能を回復させることを図らねばならない。

 これは家庭内での親子関係もでも同じで、突然に感情を突出させて親の胸倉に激しい感情を投げ込まれて自分を失ったら、できるだけ早く親機能を回復させるべく心掛け、状況が混乱してきたら恥ずかしがったり遠慮したりせずに日頃親しい人の助けを求めるよう心掛けることが勧められる。

 その上で、目の前に起こっていることを可能なかぎり視覚的に描いてみせることが次に必要になってくる。視覚的とは、漫画的といい換えてもよい。そのために筆者は、民話や童話を援用することも少なくない。例えば、大国主命に助けを求めるような皮を剥がれたかわいそうなウサギが急変して可愛い子羊を襲う狼のように変わってしまったというような表現を用いるのである。勧善懲悪がはっきりした(水戸黄門)や(遠山の金さん)などに出てくる悪徳代官や商人、善良な市民といったキャラクターも使用しやすい。こうしたメタファーの使用はわかりやすいだけではなしに、患者の心に負担をかけることが少ないために、受け入れやすいのである。こうした遣り取りを繰り返していると、ある場面の自分だけしかみえなくなっていた患者も全体とのつながりのなかでの自分を観察することができるようになるのである。これがバラバラになった心の統合や安定化に役立つことは論じるまでもない。」

(牛島定信『心の健康を求めて‐現代家族の病理‐』慶応義塾大学出版、127~137頁より)

 

 


ジェンダー(性差)とコミュニケーション-文化と性差コミュニケーション研究:日本の場合

2025年03月21日 00時18分00秒 | 本あれこれ
慶応義塾大学通信教育教材-三色期2001年1月(No.634号)より

「ラジオたんぱ慶応義塾の時間-ジェンダー(性差)とコミュニケーション-高橋良子

第3回文化と性差コミュニケーション研究:日本の場合

 皆さん今日は。前回は性差とコミュニケーション研究の中で、西欧の場合。女性語はどのようにみられてきたか、女性語の研究はいつ頃、何がきっかけで始まったか、そしてどの言語理論が女性語の研究に大きな影響を与えてきたかなどをお話ししました。今回は日本語の女性語の成立とその特徴、日本語の女性語研究の始まりとその変容について、そして現代の日本の女性語の特徴とそれが示唆することなどをお話ししたいと思います。

 まず、日本の女性語の起源についてですが、日本語の男女の言葉遣いの違いを最初に記述したのは清少納言と言われております。彼女は『枕草子』(996年~1012年)の六段の中で「同じことなれどもきき耳ことなるもの。法師の言葉。をとこのことば。女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり」として平安時代(794年~1185年)にすでに職業、階級とともに日本語では明らかに性別によっても言葉遣いが異なっていることに言及しています。実際に現代の日本語の女性語の中に、平安時代の「女房詞(ことば)」に原形をたどることの出来るものがかなりあります。「女房詞」とは、主に天皇や皇族に関係する人々に奉仕する女官たち、例えば、清少納言や紫式部ら平安時代の内裏(宮中)で働いていた女房と言われた、元祖「キャリア・ウーマン」と言ってもよいかと思いますが、女性達が内裏で使っていた言葉で、敬語の「お」(「御(ご)」あるいは「御(み)」の多用や、食べ物、衣類などに独特の語えいを用いたことに特徴があるとされています。少し例をあげますと、「しろもの」(塩)、「かちん」(餅)、「おひや」(水)、「おなか」(お腹)、「かか」(鰹)などがそれにあたります。

 さて、この「女房詞」は室町時代(1336年~1573年)になりますと、急速にその数を増やし、そして体系化されてゆきました。「女房詞」を伝えるまとまった最初の文献は、恵命院宣守(えみょういんせんじゅ)によって書かれたとされる『海女藻芥』(1420年)であり、その他の資料としましては、『海女藻芥』より少しおくれた室町時代、足利義政の時代に書かれたとされる『大上葛御名之事』や、15世紀後半から17世紀初期まで続いた内裏に勤めた女官たちの日記の『お湯殿の上の日記』があります。また、「女房詞」とは異なりますが、日本イエズス会が長崎学林で1603年と1604年に刊行した日本語・ポルトガル語の辞書『日葡(ぶ)辞書』にも、方言、卑語、幼児語とあわせて女性が使う言葉についての言及があり、約150語の女性用の言葉が採録されています。

 次に、この「女房詞」が一般に普及していった経路ですが、およそ次のようなものと考えられています。まず、平安時代に内裏などで使われていた「女房詞」は鎌倉・室町時代に、将軍家に仕える女房たちの間に入ってゆき、その後、地方の大名・武士の家庭内に広まったと推測されます。また「女房詞」は応仁の乱などさまざまな内乱を経て朝廷の権威が下がり、内裏と一般の庶民の間の垣根が低くなるにつれ、都の庶民の間にも広まったと思われます。そしてこの「女房詞」は江戸時代に入ると「女中詞」と呼ばれ、将軍家、大名家、一般の武家で広く使用され、また武家奉公をした町民の娘などを通じて、上層町民階級の家庭に上品で、良家の子女が学ぶべき「お屋敷ことば」として普及してゆきました。江戸期の「女中詞」は女性のための作法書・教養書であった『女重宝紀』(1692年)に多く記載されています。また、『浮世風呂』などに、この「お屋敷ことば」を庶民が使うのをからかっている場面などが出てきたりしますので、このあたりのことに興味のある方は一度お読みになることをおすすめします。

 さて、「女中詞」と平行して、後の女性語に影響を与えた言葉遣いとして遊里の言葉「廓ことば」も挙げることができます。「廓ことば」は江戸時代の初期に遊女の言葉として発生し、「ありんす言葉」や「ござんす言葉」とも呼ばれました。この特別な職業についている女性の言葉遣いは元禄の頃(1688年~1704年)には次第に「若い当世風の女性や通り者のしゃれたコトバとして、土方を中心に用いられていった」と考えられています。そしてこの江戸期の「女中詞」と「廓ことば」の一部が明治時代に伝承され、女性の使う言葉としてだけでなく、「山の手ことば」として日本語の標準語の基礎となり、また敬語の基本となったと言われております。

 このように日本語の女性語の歴史をひもといてみますと、どの時代においても女性語は「上品で」、「丁寧で」、あるいは「しゃれた」言葉として認識され、男性も含めて模倣されるべき言葉として受け取られていた様子をうかがえます。したがって、日本語の女性語は、その成立の起源から女性語が蔑視されてきた形跡はどこにも残っておりません。これが常に否定的にみられてきた西欧の女性語と大きく異なる点です。


 次に、日本語の女性語の研究の始まりとその変容についてお話したいと思います。日本語が学問の研究対象として本格的に研究され始めたのは江戸時代からです。そして1970年代に米国のフェミニズム言語理論が日本語の女性語研究に適用されるまでは日本の女性語の研究はこの江戸時代に始まった国語学の伝統の中で、前述の「女房詞」、「廓ことば」や「尼門跡ことば」など特殊位相の言葉の研究を中心に行われました。1970年代までの日本における女性語の研究については寺田(1993年)にすぐれた概要がありますので、それを参照していただければと思います。西欧と比較した場合、日本の女性語研究の大きな特色の一つは、「女房詞」、「廓ことば」という独立した女性語が古くから存在していたこと、そしてそのために西欧の言語学の伝統と異なり、女性語が古くから研究の対象とされてきたことでしょう。

 この国語学的な女性語研究の伝統の中で、初めて本格的に女性語を社会における女性の地位と関連づけて研究したのは、寿岳章子さんという言語学者です。彼女は『現代国語の位相~男性語と女性語』(1963年)、『女性語と敬語』(1966年)、『日本語と女』(1979年)など女性語と性差別との関係を示唆する論文・著書を多数発表し、日本語の女性語研究に大きな足跡を残されています。寿岳さんの研究はいわゆる西欧型の社会言語学の枠組みの中で行われたわけではありませんが、日本文化における「女らしさ」という概念がどのように社会で意図的に作られてきたかを、古典(『源氏物語』、『枕草子』、『泉式部日記』など)に描かれた好ましい女性の在り方や言葉遣いを通して、また歌謡曲の歌詞や諺の中に見出そうとしました。寿岳さんはこれらの一連の研究で日本の女性がいかに「しとやか」で、「かわゆく」て、「でしゃず」そして「忍ぶ」ことが身美徳であると信じるように仕向けられていったかを示そうとされました。この寿岳さんの一連の研究は米国型のフェミニズム言語理論の枠内で研究されたわけではなく、また日本語でしか発表されませんでしたので、後続の日本の女性語研究者や西欧の女性語研究者の間で余り脚光を浴びるということはありませんでしたが、日本語の女性語研究のパイオニアとしておおいに評価されるべきだろうと思います。

 さて、1970年代、特に後半以降になりますと、それまでの国語学的な視点でなく、アメリカのフェミニズム言語理論を基礎にした日本語の女性語研究が圧倒的に増えました。しかも米国の場合と同じように、この時代から女性の言語学者による女性語の研究が盛んになってきました。これは1970年代に入り、日本女性の米国留学が増えたこととも関連があるのではないかと思います。この時代に米国に留学した学生は女性の場合、多くは外国語としての英語教育学や言語学を専攻することが多かったのですが、言語学を専攻した学生が当時、最もエキサイティングな学問分野のひとつとして脚光を浴び始めていた女性語の研究を目指したのは当然だったのではないでしょうか。

 それから、この時代の女性語研究のもう一つの特色として、女性語研究者
たちがその優れた研究成果をも、日本語だけではなく英語でも多数発表し始めたということも挙げておきたいと思います。1970年代以前は、日本の言語学者の優れた研究も、海外の研究者には発表言語が日本語ということであまり知られていなかったという経緯があります。1970年代以降になりますと、数々の社会言語学の論文が日本の学者によって英語で発表されるようになり、日本の女性語の特徴や研究の実態、そして研究成果が海外に照会されると同時に、日本の女性語も海外の研究者、日本語を母語としない研究者達の研究対象にもなってゆきました。

 このような新しい女性語研究の潮流の中で日本語の女性語研究に大きな影響を与えた言語学者を、一人ご紹介しておきたいと思います。この方は井出祥子さんという言語学者で、1970年代、80年代、90年代と積極的に英語で研究成果を発表し、海外での日本の女性語および女性語研究の紹介に貢献された方です。この方の初期の頃の論文・著作をみてゆきますと、『ウーマン・リブと女性語研究』(1975年)や『女のことば男のことば』(1979年)などのタイトルが示しますように、アメリカのフェミニズム言語理論の影響を直接うけたような研究が目立ちますが、ここで井出さんが1990年に発表された”How and why do woman speak more politely in Japanese?”と題された論文をご紹介しておきましょう。この論文では、なぜ日本語の女性語が男性語と比較して丁寧に響くか、またなぜ女性がそのような丁寧な話し方を好んでするかを説明するのが研究の焦点になっています。

 まず、日本語の女性語が丁寧に響く理由として、第一に代名詞の使用が問題にされています。例えば、一人称代名詞に《わたし》という言い方がありますが、《わたし》というのを男性が使った場合かなり丁寧に響きますが、女性が《わたし》と言っても特に丁寧には響かない。男性の《わたし》というのに対応する丁寧度の一人称代名詞を使用するときは、女性は《わたくし》と言わなければいけない。また男性が《あなた》と言うときは女性の場合は《あなたさま》というふうに男性の使う丁寧表現より常に一段上のフォーマルな表現を用いないと男性と同じ丁寧度の印象を聞き手に与えることが出来ないと井出さんは主張します。また、女性語のレパートリーには「俺」「お前」「貴様」などの荒っぽい人称代名詞がないので女性の言葉は必然的に男性の言葉より丁寧に響く、と井出さんは説明されていますが、なぜ男性と同じ位丁寧に話しているという印象を聞き手に与えるために女性はより丁寧な人称代名詞を使わなければいけないか、なぜ男性語には荒っぽい人称代名詞があって、女性語にはない点についての井出さんの明確な説明はありません。

 次に井出さんは、日本語の女性語が丁寧にそして上品に響く理由として、日本語の女性語には男性語にみられるような「罵り言葉」だとか、悪態をつくのに便利な接尾辞《なんとかしやがる》や、《ぜ》、《ぞ》という終助詞、また「でかい」が「でけえ」になるときのような音韻弱化のルールがなく、逆に女性語には特有の終助詞《わ》や《の》があり、これら終助詞の使用が語尾の感じを和らげ(例-「私は夏が好きだ。」に対し「私は夏が好きだわ。」)聞き手に対し押し付けがましい印象を与えず、そのため女性語が控えめで丁寧に響くと説明しています。

 そして最後に井出さんは、女性は接頭辞の「お(御)を多用し、そのため女性語は丁寧に響くという説明をされています。確かに女性は男性に比べ「尊敬語」とか「謙譲語」の多用のほかに、「美化語」の接頭辞の《お》をよく使うと言われています。「美化語」というのは例えば、《お金》《お野菜》《お酒》などに使われている《お》などを指し、特に通常の敬語のように尊敬の対象となる人や、その人の行動や持ち物などについて話したりするときに接頭辞の《お》を使うのではなく、何となく自分の言葉をきれいに響かせるために使う言葉の総称ですが、井出さんはこの女性の美化語の多用を許して、女性は言葉以外に自分の社会的地位を誇示する手段がないので、自分が実際に属している社会より一ランク上の社会階級に属しているような話し方をして自分のアイデンティティを保とうとするからと説明されています。

 
 さて、フェミニズム言語理論を日本の女性語研究に直接応用した研究というのは、1970年代後半、80年代に多くみられましたが、1990年代以降になりますとレイノルズやスミスの研究にみられるように、研究の方向が変わってゆきました。例えば、前述のレイノルズやスミスは、日本の女性語というのは男性語と比べ丁寧だということを所与のものとして、その原因は問わず、女性が社会進出したときに、女性達はどのような言葉遣いをすべきかという点に研究の焦点をしぼりました。レイノルズ(1990年)は女性の社会進出が顕著になった現在、指導的な立場に立つ、いわゆるキャリア・ウーマンが部下に指示を与えるときには丁寧にやさしい日本語の女性語では不都合を生じるとし、女性の言葉に権威をもたせるためには、男性化しているという誹(そし)りをうけても、女性は男性が命令するときに使う動詞、代名詞、終助詞などの力強い、時には荒っぽく響くフォーマルな男性の使う言葉を真似るよりほかに方法がないと主張しました。

 一方、スミスも従来、公の場で発言る機会が少なかった日本女性が社会で指導的な立場にたったときにどのようにして効果的に部下に指示を出すとが出来るかに注目し、実際にテレビの刑事ものシリーズで男性の刑事や警官が部下に指示を与えるときの言葉遣いと、女性が同じような役を演じているときのセリフ、特に命令文と指示語を比較分析しました。その結果、ここでもスミスは女性が部下へ指示を出すときのセリフの方が男性のセリフより丁寧であることを確認しましたが、女性の丁寧な指示、命令形をスミスは「強い」日本の母親が子供に対して使う、柔らかいが、しかし毅然としていて、聞き手に有無を言わせない命令形と同じタイプであると主張しました。具体的にスミスが例にあげているのは「~しなさい。」、「~てちょうだい。」、「~らっしゃい。」、「~すること。」という文末表現ですが、スミス(1992年)はこれを母親語と名付け、これまで権威ある立場から発言する機会が少なく、そのためにそれにふさわしい言語形式をもっていなかった女性が今後社会で活躍するときに使用するのは、この女性語の中でも最も力強い印象を与える母親語であろうと推測しています。

 母親語は女性語の延長であり、スミスの見解は、女性の社会進出に伴い、権力のある地位につく女性の言葉は男性化せざるをえないとするレイノルズとは対立しますが、今後の女性語はどのように変容してゆくのか見守ってゆくのは興味深いことです。

 さて、1990年代の女性語研究のもう一つの特徴が、女性語を一枚板というか、どの女性も同じようなやわらかい丁寧な言葉を使うというふうな見方だけではなくて、女性語の中の変異をみようという研究が出てきたことを挙げておきたいと思います。例えば、岡本茂子さんというアメリカに住む日本人の言語学者が1995年に行った研究ですが、18歳から22歳までの標準語を話す日本の女子大生に依頼し、彼女達が話した1500の文章をテープ録音し、その文末表現を分析されました。この世代は皆さんご存じのように女子大生も女子高生も、非常に男性っぽい言葉を使うというふうに言われておりますけれども、データ分析もそれを支持する結果が出ております。まず彼女達が使った文末表現は殆ど(68・4%)は中性語と言いますか、男性にも女性にも使われる言葉遣い(例-相手の同意を求めるときに使う「~だよね。」、疑問の気持を表わすときに使う「~かな。」)でした。また、女性語の使用は12・8%ありましたが、「~わね。」「~わよ。」などの非常に強い女性的と考えられる文末表現は少なく、大半は「~よね。」「~でしょ(う)。」などのまあまあ女性語と考えられる文末表現でした。逆に彼女達の会話の中に男性語として分類された文末表現の使用が全体の17・5%あり、これは彼女達が使った女性語の文末表現を5%以上もしのぐものでした。男性語とされる文末表現の使用の内訳をみますと、まあまあ男性的とされる文末表現(例-「行こうか。」が大半で、「~ぞ」や「~ぜ」などの非常に男性的とされる文末表現はわずか7%でした。ただし、彼女達の会話の中には、「あいつ」、「ばかやろう」、「でかい」、「食う」、「ぬかす」、「やばい」などが頻繁に使われ、岡本さんは会話全体の雰囲気は女性的とは程遠いものであったと報告しています。

 さて、女性語の変異体の話をもう少し続けたいと思います。これは私(1996年)が実際にテレビの料理番組を調べたものです。NHKの『今日の料理』を何か月間かにわたって見まして、男性の料理講師と、女性の料理講師の話し方と、どちらが丁寧かを比較した結果ですが、いろいろなことに気がつきました。まず、いままでフェミニズム言語学者達が言っていたような、女性が丁寧に話し、男性が丁寧でない話し方をするというのは、ここではあてはまりませんでした。非常に大雑把な言い方をしますと、このテレビの料理番組に関する限り、(一)男性の料理講師(40代から60代)はおしなべて敬語や丁寧語を多用し、丁寧でやさしい話し方をした。(二)女性講師(30代から60代)の話し方は非常に丁寧な話し方から、「荒っぽく」、カジュアルな話し方まで変化にとんでいて、各講師間でバラツキが大きかった。(三)女性のアシスタント役のアナウンサー(20代から40代)の話し方も相手の講師によって、丁寧からカジュアルまで大きく変化した。

 ここで、もう少しくわしく男性講師と女性講師の話し方の違いをご紹介しておきたいと思います。まず、男性講師は全体に「~して頂きたい。」のような丁寧な文末表現を多用したばかりでなく、「お」や「ご」の敬語の接頭辞も多く使っていました。また男性講師の話には「なんですが・・・」と文章を言い切らない躊躇表現も頻繁にみられました。この躊躇表現は女性がよく使用するとして女性語の特徴に数えられているものです。また男性講師は美化語の接頭辞もこの番組の中では多用していました。美化語の接頭辞使用には一般化したものも多く、例えばお塩、お砂糖、お酒などに使われている接頭辞「お」は、今日では美化語とは意識されないほど日常的に使われていて、男性も比較的一般的に使っていますが、この料理番組の中の男性講師5名のうち2名は「お卵」、「お味見」、「お惣菜」、「お作りする」、「ご用意する」など、通常、男性はまず使わないと思われる美化敬語表現を使っていました。

 一方、女性講師の話し方は、「お塩をふっていただいても結構でございます。」や「お試しくださいませ。」などにみられる非常に丁寧な話し方から「あなた、知ってんのは何?」や「この部分は何?」のように荒っぽく、話し相手に失礼な印象を与える言葉遣いまで、講師によって話し方の丁寧度とフォーマリティに大きな開きがありました。最初の丁寧な話し方をした講師は「梅干し」の付け方を教えた60代の女性で、一方の荒っぽい言葉遣いをした講師は「洋風デザート」の作り方を教えた、やはり60代の別の女性講師でした。この例とほかの例を加えて判断しますと、この料理番組に関する限り、話し手と聞き手の年齢は言葉遣いに影響を与えていないことがわかりました。さて、年齢を除外して、何が原因でこの男女の話し方に差が出たのでしょうか。男性に比べ、女性が講師、アナウンサーを問わず、全員が丁寧な話し方をしていないことを考えますと、ジェンダーも要因から外してよいような気がします。最後の理由として考えられるのは「場」という要因です。家庭料理はプロの料理人の世界と異なり、元来「女性の場」と考えられてきましたが、家庭料理を教えるテレビの料理番組も、その延長で「女性の場」と仮定して差し支えないと思います。そこで、この料理番組に登場した男性料理講師の丁寧な話し方、つまり「女性的」とも言える話し方は「女性の場」が男性講師の言葉遣いを「女性化」したと考えてみましょう。しかし、それでは一部の女性講師や女性アナウンサーの男性的な話し方の説明がつきません。ただ、この「女性の場」説を拡大解釈してみると説明がつくかもしれません。つまり、料理番組が「女性の場」なので、女性はそこを自分の領域して、どこまで丁寧であるべきで、どこでカジュアルに、またインフォーマルに話してよいのか心得ているので、自由に振る舞うことが出来る。一方、男性講師はこの「場」の訪問者であるので、伝統的な規範に基づいて、この「女性の場」にふさわしい、丁寧な話し方しか出来なかった。このように解釈すると、この料理番組に登場した全員のスピーチ・パターンを説明出来るのではないでしょうか。

 もう一つこの料理番組で興味深いと思われたのは、講師の話し方と教えた料理のジャンルとの関連でした。この料理番組では、「日本料理」、「中華料理」、「西洋料理」、「洋風デザート」などを教えていましたが、「日本料理」を教えた講師の話し方は総じて男女とも、とても丁寧で「深刻」あるいは「真面目」な印象を与え、「西洋料理」や「洋風デザート」を教えた講師はカジュアルでインフォーマルな感じを与えていました。これなども言葉遣いに対する「場」の影響と考えられるのではないでしょうか。つまり、和風のものはシリアスに、洋風のものはカジュアルに、という考え方です。このような研究結果が示唆するのは、現代のようなメディア社会では、ジェンダーや権力というフェミニズム言語理論の範疇だけでなく、例えば「場」というような新しい概念を用いることにより、女性語やその他のスピーチ・パターンやコミュニケーション・スタイルよりよく理解出来るのではないかということです。

 それから最後に、これも私の研究の一部(1995年)ですが、若い女子大生の話し方を調べた結果をご紹介しておきたいと思います。この調査は被験者が5名しかいませんので、結論を一般化することは出来ませんが、彼女達の会話をテープ録音し、文末表現を分析した結果、次のようなことがわかりました。(一)女子大生達が仲間同士で話しているときには女性語の文末表現は殆ど使われなかった。(二)彼女達は仲間同士のときにはどちらかというと、くだけた荒っぽい男性語にみられる文末表現を使った。(三)会話の場面がフォーマルになると、性差による言葉遣い、つまり女性語や男性語にみられる文末表現などは彼女たちの談話には殆ど現われなかった。

 この女子大生達に、なぜ、どのようなときに、どのような話し方をするのかを聞いたところ、彼女達が荒っぽい言葉遣いを頻繁に行ったのは、仲間との関係が最も重要であった中学校とか高校時代であるが、女子大生になっても、中学・高校時代の仲間に会うとその時代のことを思い出し、仲間意識を高めるために意図的に言葉遣いを変えると話していました。


 ここで今回のまとめをしておきたいと思います。まず、日本語の女性語の成立過程からみて、「女性は社会的な弱者なので、彼女達の言葉遣いは丁寧である。」という西欧型、米国型のフェミニズム言語理論は日本語の女性語にはあてはまらないこと。そして実際の丁寧語、敬語の使用に関しては、ジェンダーや年齢りも、談話のコンテクスト、つまり「場」がより影響を与える可能性の高いと。そして、現代の若い女性の男性的な話し方については、彼女達が丁寧な話し型から「乱暴な」話し方まで意図的に使い分けていることなどです。実際のところ、現代の若い女性達の言語形式の多様さを考えますと、日本語使用に関しては、女性の方が男性に比べ有利ではないかと思います。なぜなら、女性は多少荒っぽい、男性的な言葉遣いをしても、「大人達」からひんしゅくを買うだけですが、男性がもし、やさしい、とても女性的な話し方をした場合、女性に対するのとは比較にならない社会的なペナルティーが男性に課されると思うからです。このことを考えますと、自分の感情表現が自由に出来るようにと女性のふりをして仮名で日記を書いた紀貫之のことが思い起こされ、どうも古今を通じて言語使用に関する限り日本では女性の方が有利ではなかったかと思う次第です。今後、社会の指導的な立場で活躍する女性の数が増えるにつれ、日本の女性語がどのように変容するか、興味深く見守ってゆきたいと思います。」

エコフィロソフィ-共生/共死の思想

2025年03月14日 17時11分47秒 | 本あれこれ
慶応義塾大学通信教育教材-三色期1999年6月(No.615号)より

「特集、今、哲学を考える-エコフィロソフィ-共生/共死の思想-間瀬ひろまさ

はじめに

 共に生きる哲学を求めて、私は自然と人間、人間と生命、人間と宗教をめぐるさまざまな問題と取り組んできた。皆さんは私のスクーリング授業のときに、そうした問題の一部を共有してくれた。

 いま私はその哲学を「エコフィロソフィ」と呼んでいる。相互依存の関係を重視する「エコロジー」と、自分の頭で考えることを尊重する「フィロソフィ」を結んで、「エコフィロソフィ」という呼び方をしている。

 私のエコフィロソフィは「自然」「人間」「宗教」を一本の赤糸で結び、全体的に生命中心的な扱いをする現代の、新たな、21世紀文明哲学の創造に組するものだと自負している。

 通教生の皆さんと同じように、私も一人の生活者として学びつつ、日常生活のなかで生じてくる自分の問題意識を大切に育んでいる。自然との共生を基礎づけるような自然理解はどういうものなのだろうか。生命倫理的な視点から人間の生死をどのように理解したらいいのだろうか。一宗派に偏しない多元主義的な宗教理解は可能だろうか、と常日頃、生活のなかで問いつづけている。そうすることは人間精神の成熟性に結びつく大事であると、私は考えている。


 自然と人間との共生を可能にする現実的な基盤はどこにあるかと考えてみると、それはどうもエコロジカルな、生命中心の考えにあるようだ。その考えに基づくと、自然も人間も一つの生命体である。そして人間は自然を生きものとして、自分と同じように見ている。したがって、自然との共生は自然との共死をも含んでいる。「共生」とは「共死」が裏打ちにされた生命であることと同じである。けれども「死」は生のためにある。「死ぬこと」は再生することに通じている。だって、そうではないか。夜のあとには夜明けが、そのあとには春が訪れるという保証があるではないか。そのことを気づかせてくれるのが自然との共生、自然とのつながりを回復させてくれるエコロジカルな、生命中心の考えなのだ。老人の知恵はこのことを見事にうたいあげている。

   もしもおまえが
   枯れ葉ってなんの役に立つの?ときいたなら
   わたしは答えるだろう、
   枯れ葉は病んだ土を肥やすんだと。

   おまえはきく、
   冬はなぜ必要なの?
   するとわたしは答えるだろう、
   新しい葉を生み出すためさと。
   おまえはきく、
   葉っぱはなんであんなに緑なの?と
   そこでわたしは答える、
   なぜって、やつらは命の力にあふれてるからだ。
   おまえがまたきく、
   夏が終わらなきゃならないわけは?と
   わたしは答える、
   葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。

 自然との共生と共死、自然のなかで自然に敬意をはらいつつ共生と共死をともにするという健全な生き方は、いま私たちが魂の叫びとして求めているものではないのか。「死」の思想に裏づけのない「生命」の思想というものは、どこか現実性に欠けるところがあるのではないのか。



 意外なことに、西洋でも「死」という言葉は敬遠される。たとえば英語のdieという言葉はpass onとかpass awayを使う語法には、どこか人間の尊厳にたいする信仰の喪失が見え隠れしている。人間にその尊厳の意識があるかぎり、それは人間に「滅びうせる獣」のようにではなく、人間らしく「死に直面すべき」ことを要求しているのではないだろうか。

 死の忘却は生の回避にも等しい。私たちの生命は死が裏打になっている生命だからだ。死は生命の一部なのだ。「生きながら死ぬ覚悟のできている人だけが、本当に生き生きと生きているといえる」と、スイスの精神病理学者ユングはいう。人間の本当のあり方には死が含まれているのだ。

 人間の本来のあり方には死が含まれているという認識は、現代ドイツの哲学者ハイデガーによって、かれの実存分析のなかで明らかにされた。かれは、死に裏打ちされた生命の内容は人間存在の自覚からするとどういうものになるのだろうかという基本的な問題と取り組んで、死から出発する逆の時間に基づいた、新しい死の認識に到達したのである。この認識は評論家の堀秀彦が82歳のときに書いた文章に共鳴する。「70代までは死に近づいていくと思っていたが、82歳の今の心境は逆に、死が私に近づいてくる」。これがハイデガーのいう「死からの存在」ということの真意なのだ。日常性を脱した人間の主体的な自覚からすれば、自分の本来的な姿が死の側から見えてくるというわけである。

 この視点から自分の生き方を見直してみると、今生きているという場合の「今」という時間が別様に経験されるようになる。つまり死から出発する、この逆の時間に基づいた、この新しい認識からすると、この「今」は「永遠の今」、永遠と結びついた今、という別の次元における新しい「今」の時間経験になるのだ。これは永遠の相のもとに見られた一つの形じょ上学的な世界経験なのだが、これを最も具体的な実践の課題としているのが宗教である。


 仏教であれ、キリスト教であれ、信じる者の主体的な自覚においては常に「テロス」(究極的目標)が志向されている。仏教のテロスは浄土であり、キリスト教のテロスは神の国である。「浄土」も「神の国」もともに永遠の象徴であり、その収斂(しゅうれん)する先は至福の状態、無限の平静、永遠の救いである。そこで、この実践的な課題を担う者の主体的な自覚においては、「今」とは「永遠の今」のことであり、「今に生きる」とは「永遠の今と結びついた現在の今を生きる」ということにある。したがって宗教的な生においては、課題としての死はすでに解決されている。だから、芭蕉は弟子から辞世の句を求められたとき、「辞世は詠まない。平生の一句一句を辞世のつもりで詠んでいる」と答えたのだ。こうした気概に満ちた生き方、死が裏打ちになっている生命を自覚しつつ生きる生き方には、「無量寿」、量りがたき御いのち、つまりは永遠の生命が「今、ここ」にすでに始まっているのである。それは墓の彼方にまでも続くといわれる来世の生命について語ることをまったく無意味にしていると、私は思うのだ。

 ところで、「メメント・モリ」という言葉を聞いたことがないだろうか。この言葉は横浜の外人墓地の入口に銘記されている。これは「死を憶えよ」、「汝、死すべきものであることを忘れるな」という意味の言葉である。自分の死を想い、自分の死に関わることは、生死(しょうじ)を超えて解脱にいたる第一歩である。「死が始まりであるような死」、つまりは「永遠の今に生きる」ということは、こういうことを言うのではないだろうか。

 よく知られた『平家物語』の冒頭の句-「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり」-はこの「メメント・モリ」に相当する言葉である。ところが、死は常に死の期待を裏切るものである。まだ先のことかと思えば今になり、もうそろそろかと思えば後になる。だから古人は、「人みな死あることを知りて待つこと、しかし急ならざるに覚えずして来たる」と書き残したのだ。これは『徒然草』のなかのかの有名な一節であるが、兼好は、私たちが意識しようとしまいと、いつも生は死を抱いている、生を受けた瞬間から死もその足を運び始めている、死は「満ち潮」なのだ、と言っているのだ。こういう考えは兼好ひとりのものではない。洋の東西を問わず、すぐれた思索者たちはみなこの境地に達していたのだ。中世ヨーロッパのラテン語の言葉、あのmemento moriは、死は人間の親しい友人だ、片時も忘れてはなるまいぞ、という警句として、座右の銘だったのだ。



 ところが、この警句は、現代では無視されている。現代の私たちはこの警句を素直に受けいれず、反対に、どうにかしてこれを忘れ去ろうとしている。「死を忘れるな」ではなく、「死を忘れ去れ」であって、刹那的な楽しみに身をやつし、生を享受している。けれども生まれた以上、かならず死ななくてはならない。この当然の死が、ある日突然、私たちの意識にのぼってきて、死の恐怖にとらわれる。そこで私たちは死を忘れようとする。しかし、けっして本当は、忘れ去ることはできないのだ。「人間の死亡率は100パーセント」だからだ。

 私は両親の死をとおし、また兄や姉の死をとおして、死がもっている現実的な厳粛さというものを感じ、またこれを情緒的に体に覚えるという経験をしている。しかし、今ではこのような体験のできる人びと、とくに子どもや青年たちはほんとうに少ない。死が、そういう情緒的なものからきわめて科学的なものになってしまっているからだ。病院死の増加にともない、死が科学的なものになってしまっている。死という非常に複雑で大きな問題が、血圧の低下であるとか、貧血であるとか、電解質の異常であるとか、尿量の変化であるとか、そういうふうに医学的な側面だけでとらえられ、死がもっている情緒的な側面が軽んじられてしまっている。これは死の「医学化」である。死にゆくプロセスや死そのものに情緒的なものが入らず、ただ医学的にのみ処理されていく。しかし、死とはそのように、ただ単なる科学的・医学的なできごとにすぎないのだろうか。

 両親や知人を含め、人間の臨終の場に居合わせたことのないひとー人の死に身近に接したことのないひとー、このようなひとは死という現実を見つめることをしないで、あたかも永遠に生きつづけるかのような錯覚にとらわれるだろう。現実の死が人びとの日常生活から遠のいてしまうと、そこに残るのは虚像の世界における虚像の死しかない。虚像の世界での死は、すぐまた再生する。簡単に死んで、また生き返る。それは劇化された死の姿だ。死んだはずの人がチャンネルを変えると生き返って、別のドラマに出ている。私たちは、いま人の死をどう考えるかという大事なテーマを現実の死から学ぶのではなく、虚像の世界から学びとるという不自然な時代に生きている。これでいいのだろうか。

おわりに

 昔、人は家庭に生まれ、家庭で死を迎えていた。ところが現在では、人は病院で生まれ、病院で死を迎えるようになっている。誕生と死がともに家庭から病院に移ってしまっている。だから、昔は日常生活のなかで自然に学んでいたことが、今では意識的に努めなければ学べないものになってしまっている。そこで、デス・エデュケーション、死についての教育が重要だと叫ばれるようになってきている。大阪の柏木哲夫医師は「誕生日に死を思うという習慣を身につけようではないか」と提言しているが、本当にそうである。「死を思う」ということは、結局、自分の生を考えるということだからだ。死を思い、死について学ぶことの大切さは、おとなでも子どもでも変わらない。デス・エデュケーションはいま通信教育につづく大事な生涯教育ではないか、と私は思うのだ。」