たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

宙組ライブビューイング_終わりはせつないもの

2017年04月30日 23時04分49秒 | 宝塚
 またまた宝塚のライブビューイングを観劇してきました。宙組公演『王妃の館』『VIVA!FESTA!』、オリジナルの二本立て。主演、朝夏まなとさん、実咲凛音さん。トップ娘役である実咲凛音さん(みりおんさん)の退団公演でした。最後にサヨナラショー。先日2010年花組の『EXCITER』をオンデマンド視聴して、若手のお二人が花組時代にダンスでコンビを組んでいた場面をみたばかりなので、初見でしたがトップコンビの同志感、幼馴染感、安心感に胸が熱くなりました。歌、ダンス、芝居と三拍子そろった実力派の娘役さんはいいですね。きっと努力の塊の方なんだろうなと感じました。サヨナラショーで、ベルバラから男役が歌う「我が心のオスカル」を歌われたが印象的でした。エリザベートから「わたしだけに」は、この歌を歌いこなすのは本当にむずかしい、ただ上手だけでも違う、役者そのものを問いかけるほんとにむずかしい歌なのだと感じました。蘭ちゃんとも花ちゃんとも違う、それぞれの「わたしだけに」。デュエットダンスで、背丈のある朝夏さんがリフトした最後にやさしくそっとみりおんさんを降ろす姿も印象的でした。最後に大階段を下りてきた袴姿のみりおんさんはやりきった感でしょうか、涙を浮かべながらキラキラの笑顔でした。一度辞めてしまったら戻ることはできないので勿体ないなあ、もう少し・・・という感もありましたがタイミングだったんでしょうかね。「朝夏さんの広い心と大きな懐でのびのびとやらせていただきました、ありがとうございました」と朝夏さんをふりむいてお礼。「宝塚は青春の全てでした」「夢の世界で夢のような時間を過ごすことができて幸せでした」「一生忘れません」「宙組の仲間と二度と一緒に舞台を創ることができないのがすごく寂しいです」。こんなことを語られました。涙浮かべているのに、笑う時は「あっはっは」なのもきっとみりおんさんらしいんでしょうね。とびっきりの美人さんというわけではないけれど、実力で観る者を納得させてきたという感じの娘役さんで好感がもてました。三回目のカーテンコールで、みりおんさんが朝夏さんからの指名で、ショーの中にあった「ソーラン宙組!」の掛け声。照れながらも元気いっぱい。花束を隣の男役さんが代わりにもったまま幕が下りました。それでも拍手はなりやまず、舞台袖に朝夏さん登場、「それでは同志を呼びたいと思います、みりおん!」でみりおんさんも袖に登場。みりおんさん「ありがとうございました」朝夏さん「こちらこそありがとうございました」みりおんさん「次の公演は必ず観に行きます、これからもよろしくお願いします」朝夏さん「こちらこそよろしくお願いします」。あやふやですがこんな会話をされていました。同志感が強いだけに、こうして二人のコンビが終わっていくの、なんだかすごく切なくなって涙が出てしまいました。物事には必ずいつか終わりが訪れて、終わりは切ないもの、同時にあらたな始まりでもあると信じたいです。若いみりおんさんは人生のまだまだ始まりの方。これからどんな道を歩まれるんでしょうね。もうすっかり若くなくなってしまったわたしですがキラキラの笑顔に心あらわれ、元気をいただきました。

 わたしもまたあらたな道を歩き出さなければなりません。一昨日までと同じように明日の朝も出勤してしまいそうな感覚がありますがもうわたしが行く場所ではありません。厳しい現実を受けとめてちらっとちらっと少しずつ新たな一歩へと。わたしにはその勇気とエネルギーがあるのだと自分を信じましょう。社会から孤立することを考えるとつらくって、一日も早くまた生活の基盤と日中の居場所を確保したいです。あせっても仕方ありませんね。幸いなことにGWだし、お隣の女性は今日引っ越したみたいなのでとりあえず朝仕事に出かける様子がないと噂されずにすむので少し気持ち楽。この一年3か月朝早かったので出かけなくなるのは丸わかり。カーテン開ける音も水道の蛇口をひねる音も電話の声も洗濯機を使う音も玄関のドアの開け閉めの音も、一部屋が手狭な集合住宅では丸わかり、生活の音、生活時間帯丸わかり。前の部屋では、カイャを使い捨てにされたので、平日も部屋にいなければならなくなり、平日の昼間労働局に電話していたら隣の女性に丸聞こえで電話で噂をされ、平日の朝ベランダの洗濯機を使ったら上の階の男子学生に電話で噂をされ、電話の声もなにもかも筒抜けなのがわかって耐え難い日々でした。心が全く休まることのない日々でした。少し心穏やかに休みつつ、次の居場所と生活の基盤を確保したい気持ちでいっぱいです。そしたら少し旅にも出たいと夢見ています。二年前とは違うわたしがいます。今のわたしでなにができるでしょうか、どんな出会いがあるでしょうか。一か月前、花組の地方公演のチケットを取ることできてからわたしにも運が向いてきたとおめでたく思って、きっと大丈夫と信じます。だから安心して眠りませう。明日は電話したら出かけるつもりなのが二か所。10時ごろにはでたいなあ。大丈夫、安心して眠りませう。大丈夫、大丈夫・・・。


苦しかった日々を思い出す

2017年04月29日 19時42分20秒 | 祈り
平成18(2006)年12月17日
精神保健福祉士養成講座
スクーリング
「心理学」科目修了試験解答用紙より

①自分の中のイラショナル・ビリーフを例を挙げて説明せよ。

職場の上司は、非常に神経症でいつもイライラしており、部下への要求レベルも完璧を求めており、部下への要求レベルも完璧を求めている。時にはストレスのはけ口として八つ当たりすることもある。その度に、私は、心の中で自分はこんなにがんばっているんだぞ、と腹を立てる。そうやって自分を正当化することで私は自分の立場を一生懸命に守っている。と同時に、怒りの感情を外に出さないよにと蓋をしていることには無理があり、アパシー(無感動)へとおちいりかねない。こうしたことに気づけたことは大切なことだ。


②ホーナイの神経症的悪循環を自分に当てはめて述べよ。

行動のワンパターン化、潜在能力と実際の業績との不一致、の二つが特徴。有期契約雇用として働いているのでいつ仕事がなくなるのだろうという不安が常にある。自分の立場を守るために、無表情・無感動になろうとする。上司や同僚との関係は、敵対関係になってしまっている。自分はここにいていいのだろうか、とさらに不安は強くなる。こうした悪循環から抜け出せないでいる。


③授業を受けての気づきと感想。

日常生活の中では、自分自身をゆっくりと振り返ることがなかなかできないまま、自分を守るために、素直な感情を押し殺さなければならないとずっと思い込んできた。そのために、無表情な自分にあえてなろうとしているようなところが私にはある。そんな自分は、とても無理をしており、ストレスが胃の痛みとなって現れている。
10月・11月の地域生活支援センターでの実習の中で、あらためて気づかされた。
「少し見方を変えてみようよ、そうしたら気がついたら自分が変われているよ、もう少し楽になろうよ」。
施設長が繰り返し私に伝えてくれたことだ。
私は自分で自分をがんじがらめにしばりあげ、こんな自分ではいけない、あんな自分ではいけない、と足りないところにばかり目を向け、己を鞭打ち続けてきた。それは、自分をしっかりと見つめ直し、反省し、向上心をもって前に進むこととは少し違っていたようだ。怒りの感情を表現することは難しいが、少なくともこんな自分もあんな自分も自分なんだよと、素直に心の中では認めてあげたい。そしてこれからはもっと自分をかわいがってあげたいと思う。
国家試験を離れて、是非先生のお話をもう少しゆっくりきける機会があれば、と思います。
短い時間でしたが、身近にひきよせて考えさせられるお話で面白かったです。
ありがとうございました。
自分の素直な感情を表現できるような場や関係性をつくっていければと思います。

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 11年前の自分と再会してみました。授業の内容を思い出すことはもうできませんが職場生活の中で必死に蓋をしていた自分の気持ちがすごく揺れ動いたことを思い出しました。契約社員の仕事をみつけたはずだったのに、気がついたら特定派遣会社から登録派遣会社へと派遣元移籍までしてクソなカイシャで働き続け、名目上事務派遣だったわたしの二人分労働の日々。カイシャには一言も言わずに国家試験の勉強をし、実習でさんざん休んだ直後のすくりーリング、ピリピリ上司からのプレッシャーを受けながらも休むために、出勤日は働いて働いてスクーリングのために休みました。名目上の雇用主だったハケンカイシャにタイムシートを送るの忘れたことに気づいて、あわててカイシャに電話して社員の男の子にファックスで送信してもらいました。その男の子は、わたしが働き始めた年の新入社員でしたが、わたしよりも先にカイシャを去りました。8年目ぐらいだったかな。幾重にも重なりあったねじれの中で窒息しそうになりながら勉強と両立させていた苦しい日々でした。こんなに苦労して取得した資格。今たまたま運とタイミングで、自分の想いにかぎりなく近い場所との出会うことができるのか、わかりません。出会えなくてもそれはそれでよし。また一円も稼げなくなったと思うとすごく不安ですが必要とされる場所、日中の居場所との出会いは必ず訪れると信じます。妹と両親が守ってくれていると信じます。

 明日は自分へのご褒美に宝塚のライブビューイング。ずんこさん以来の宙組なり。

 

またひとつの終わり

2017年04月28日 23時19分19秒 | 日記
 終わってみればあっという間の一週間、普通の金曜日の夜、また月曜日は普通に出勤してしまうような感覚がありますが本日で業務終了、怒涛のようなほんとにあっという間の4カ月でした。なんとなく慣れてきたのかなあというところでの業務終了はなんとも中途半端。なんかこういう使い方勿体ないですね、なんてわたしが言うのもヘンですが、なんか勿体ない使い方をしているなって思っちゃいます。今までもこんな感じでアルバイトが出入りしてきたみたいですが、ほんと勿体ない。ここをアルバイトとして通過した人たちは今どこでどんな仕事をしていらっしゃるのか、ディープなきつい仕事なので全くダメな人はダメでしょうね。わたしは客観的にみてどうだったのか、自分ではわかりません。役職者が最初の頃とか途中に、実に中途半端に、次のこと考えてますか、とかわたしにきいたのは結局何だったのかよくわかりません。年度替わりのバタバタで結局それどころではなくなった感ですっかり忘れ去られたのか、なんとなく逃げたのか、わかりませんが、たった4カ月しか働いていないのに、恒例行事ではあるようですが花束もらいました。13年間心身をすり減らしながら働いたカイシャを、一言の挨拶もできないままひっそりと去らなければならなかったわたしが、その傷をまだ背負っているいるわたしが、たった4カ月なのに花束もらいました。公にいうことはできませんでしたが、素直に嬉しかったです。こういう世界があるのか、なんかまた働きたいなって思っているわたしがいます。

 去年の2月から一年3か月、よくここまでがんばってきたよ、また働けるんだよ、働きたいよ。またすぐにでも次の居場所がみつかりそうな錯覚に陥っているわたしがいます。そんな筈はなくって、ふとみつかるのだろうかと不安におそわれますが、また社会から孤立することを思うとつらくなりますが、幸いなことに連休。断捨離しながら次の居場所をみつけていきたいです。ちょっと気になる情報があってよかったです。月曜日まではなかったのでタイミングでしかありません。ちらっ、ちらっと気にし始めつつ次の道へと少しずつスィッチ切り替え。次の居場所はきっとある、妹が守ってくれると信じるしかありません。月曜日は午前中から動き始めるつもりです。クソなカイシャのことはもういいやね、こうして履歴をアップデートすることができたんだからもういいやね。人生の時間には限りがあるからもういいやね、やり直しの道へと歩み出したいです。ひと言もいうことはできませんでしたが、ずたずたのすり減りからここまでくるの苦しかったさ、ほんとに苦しかったさ、ここまでよくやってきたよ。カイシャの5年分ぐらいが凝縮された4カ月、色々と勉強になりました。お疲れさまでしたね、わたし、よくがんばったよ、ほんとにお疲れ様でした!!

よくがんばってきたよ

2017年04月27日 22時34分11秒 | 日記
 うすぐもりの木曜日、朝は雨がふったんですね、わたしが出勤する頃道路はしっとり、夕方には晴れていました。機能に続いて傘は使わなかったなあ。今日もなんとか一日が終わりました。電話応対で無理に大きな声を出さなければならないので喉が痛いです。うがい薬をつかってうがいしていますが喉が痛くてむせます。時々電話応対しながら限定的な作業。すっかり引き継いでしまったのでわたしがやることはもうありません。あと一日。どこに坐って何をすればいいのだろうと思いながら、一応明日休暇をとる人の席に荷物を置いてきました。ほとんどもうなにもないのですがまだ持参した文房具や印鑑やクッションにしているブランケットがあるのでね、置く場所は必要なんですよ。有給休暇さえあれば、もうわたし必要ないから行かなくていいんですよね、なんかこういうの、仕方ないとわかっていても傷つきます。クソなカイシャで13年間も心身をすり減らし尽くして働いたのに、結末がクソな部長からいつでもかんたんに若い女の子とお取り替え可能なモノ扱いされたのに対して、ひどいんじゃないですかってもの申したから、最終出勤日は誰にも挨拶することなく、なんか後ろめたい悪いことをした人みたいにひっそりと退社した3年前をどうしても思い出してしまい、いやな気持になってしまいます。ほんとにねカイシャに傷つけられましたよ。カイシャはね、売り上げの数字が全てですから、売り上げをあげなければいきのこっていけませんから、そりゃあエライひとたちは自分の身を守るために必死でしたよ、とにかく売り上げの数字、そのために食うか食われるかの闘いでした、同じカイシャの中でもね。そんな中で心身をすり減らし尽くしました。数字の犠牲になったという気持ちが今もわたしの中にあります。被害者意識でもいいです。被害者意識をもつのはやめてほしいとか言った上司はその後保身に走りました。立場が変わればコロッと態度豹変。人は勝手なものでございます。実際にわたしは被害者となりました。13年間とその後一年ほどの意に反した争いの代償はわたしにとって大きすぎました。たまたま一昨年の秋不採用通知を受け取ったところから繰り上げ採用となり、その流れでたった4カ月だけど資格をもっていることで働くことができて、次のことをまだなんにも考えられないでいるときに心が動く募集要項が出て、ここまで歩んでくることができただけても奇跡、ほんとによく立ち直ってきたし、よくがんばってきました。まだまだ傷は癒えませんが、またわたしの役割に妹が導いてくれているのでしょうか。自分の立場でほんとにいいのだろうかと思いながら、ようやくメールの返信有。詳細は取りに行かなければ知ることができないとわかったので1日に行くつもりですが、その時に自分の立場をどこまでどう話せばいいのだろうかと考えています。その時の状況で自分の感性を信じて決めていくしかありません。どんなものが待っているんでしょうね。どきどきします。いい仕事ができそうだ、やってみたい、やりたい、そんな出会いが待っているのでしょうか。マイナスにばっかり考えても仕方ないですね。まずはあと一日。居心地悪いですがなんとかのりきりたいと思います。次のこと、もしきかれたら迷っているものがあることを話しますがきかれない限りは話すつもりありません。話しておいた方がいいのかどうか微妙すぎてよくわからないです。なかなか微妙な感じがしています。早く明日の夕方になりますように・・・。

 今日も徒然日記でした。

あと2日

2017年04月26日 22時26分53秒 | 日記
 落ち着かない季節に変わり目、今日は雨降りませんでしたが、風が不気味にうなり声をあげています。わたしの気持ちも落ち着きません。次のことを考えていくために、問い合わせメールを送ってみましたが返信はなく、やはり電話で問い合わせるしかありませんが、稼働時間が同じなので電話することができません。おトイレに行きがてら電話するのでは落ち着かないし、昼休みは先方も昼休みだし、できれば今週中に詳しいことを知りたいですが、その上で考えたいですが無理だよなあ。終わってからではちょっと遅いです。自分が望んでいた想いに近いところではありますが、近すぎて、想いばっかりありすぎて戸惑い。自分にとってほんとうにいい選択なのかわからないです。冷静に考える時間は必要。今の時点でどこまで自分の立場を明らかにすることが適当なのかよくわからず、相談したい人がいるのですが来週にならないと会いにいくことができません、電話をすることもできません。情報だけ知ったうえで考えたいし、相談もしたいですが無理だよなあ。有給休暇もないってつらいですね。最後にたぶん全員の前に立って、挨拶をしなければなりません。その時次の生活の基盤を確保できていないの情けないですが有給休暇がない今は身動き取れないので仕方ないです。この一年三か月。誰かと約束して食事するとか全くなく、ひたすらやり直しの日々を邁進してきました。誰にもわかってもらえないし、わかってもらう必要もなく、自分がわかっていればいいことですが、13年間ずっぽりからなかなか抜け出すことができず、すり減るだけすり減ってもやり直しの道が全く見えず、ずっと暗いトンネルの中を彷徨っていました。たまたま運とタイミングでここまでやってきて、ようやく少しやり直しの灯りをみえてきたでしょうか。この世の旅を終える時、いい仕事ができたと思えるような生き方をこれからしたいきたいですが叶うでしょうか。あと二日。気が抜けちゃっていますが、なんとか役割を全うします。今はそれだけです。明日もなんとか無事に一日が過ぎていきますように・・・。

 今日も徒然日記でした。

あと3日

2017年04月25日 22時35分44秒 | 日記
 外は春の嵐、落ち着かない季節の変わり目、実感がないといえばないですがあと3日でまたひとつ仕事が終わっていきます。明日から金曜まで固定の席もなくなり放浪の旅人。ひたすら限定的な作業で、外に出かける機会はもうないので息詰まりそうです。ずっと執務室の中の、しかも真ん中あたりに引っ越したので息詰まりそうです。息抜きにお昼に出られるところもないのでつらいなり。あと3日。この業務内容で4か月はあまりにも短すぎて、そもそもそんな短期間のスポットでやるような仕事ではないのでほとんどなにもわからないまま終わっていくことになります。短期間ではとてもわからないということがわかって終わっていくことになります。なんとなく担当の方々とお互いに慣れてきてかなあという感じがし始めたところで終わるという意味では、正直やり残し感があります。たまたま運とタイミングで、初めて資格を生かして仕事をすることができただけよかったと思います。なんか最後は席もなくなるようなやり方すごくいやでやらなければよかったと思ったりもしましたが、なかなか出会う機会のないこと満載で色々と勉強になったし、ずたずたのすり減りからこうして社会に戻ることができただけよかったと思います。1-2カ月で次の生活の基盤を確保することができるのか、そのエネルギーがわたしの中にまた湧き出てくるのか、考え始めるとすっごい不安におそわれる瞬間がたびたび訪れます。できなければかなり厳しいです。わたしのようにカイシャと争いにまでなってしまった人たちはどうやって立ち直っていくのでしょうね。まだまだ争いの代償は大きいと感じています。ここまでやってきただけえらいよ、わたし。電話応対で無理に声を出すので喉がいたくて、朝は喉の渇きで目が覚めてしまいます。よくないね。あと3日。先のことは今は考えない、考えない。鉄筋コンクリートのマンションとはいえ、せまい一人住まいの住居空間。生活の音も生活時間も丸わかりで、また部屋にずっといるってお隣に噂されるようになるのもまた時間の問題。いやだなー、今は考えない、考えない。あと3日をなんとか・・・。

 今日も徒然日記でした。

落ち着かない季節の変わり目

2017年04月24日 22時43分53秒 | 日記
 普通の月曜日の夜、落ち着かない季節の変わり目、人の入れ替わりなどで誰もがストレスフルモード、不安定な方は一段と不安定になって電話応対だけで冷や汗ものの一日でした。明後日から金曜日まで固定の席はなくなり放浪の旅人なるわたしもストレスモード。できるだけ表に出さないようにとがんばっていますが出てしまっていると思います。それは伝わってしまいます。そういうのどんなんでしょうかね、と思いながらの一日。仕方ないこととわかってはいても、前々職のカイシャからポイ捨てにされたわたしにとっては、もう用なし、洋梨、って言われているみたいでけっこうつらくっていやだなあ、いやだなあって思ってしまいます。あと4日ですけどね、なんとかガマン、ガマン。できるだけ笑顔でやりすごしたいです。なんだかなあと思うことがたくさんあるのは、どの組織に入っても同じなんだとあらためてよくわかりました。また社会から孤立する日々がまっているのかと思うとつらいですが、あと4日。なんとか全うしたいです。角が立つようなことはできるだけ言わないようにしないといけないです。笑顔、笑顔、むずかしいですが笑顔、笑顔・・・。たまたまちょっと気になる募集要項をみてちょっと気持ちがそっちに向き始めています。資格をもっていることで応募要件は満たしていますが、自分にとってほんとうにいいのか、自分がほんとうにいいのか、想いとあまりにもドンピシャすぎてこわいぐらいでわかりません。もしやれたら妹のいのちをつないでいくことができます。そんな気持ちでほんとうにいいのか、わかりません。今の業務を終えてから少し考える時間はあります。相談窓口に行って、13年間カイシャで働きましたからアップデートできた自分で何ができるのか相談しつつ考えてみます。一昨年カイシャの弁護士と闘うことになりずたずたになったわたしの話をきいてくださった方お二人を、それぞれ訪ねる予定。どうしようもなくなったところからここまでやってきたことをきっと喜んでくれると思います。13年間の業務過多と一年余りの闘いの日々ですり減ってしまった代償は大きくてここまで立ち直ってくるの苦しかったです。苦しくって、苦しくってたまらなかったです、わたしえらいよ。どこに希望があるのかいまだみえませんが、どこかに希望があると信じたいです。妹が導いてくれると信じたいです。今は信じるのみ・・・。

 今日も徒然日記でした。

最後の一週間

2017年04月23日 22時53分07秒 | 日記
 ダラダラと現実逃避していましたが時間切れとなりました。最後の一週間、水曜日からは席もなくなります。入れ替わりのタイミングで仕方ないとはいえ、すごくなんだか屈辱的に感じてしまってもう行きたくありません。有給休暇があればもう行く必要なんてないんですよね。一応やることはありますけどね、もういい。電話応対も喉がいたいのでやりたくありません。昨日はかかりつけ医の処方箋でうがい薬を出してもらいました。買い物ついでにあれやこれやとやりたく色々ともって出ましたが結局お茶も飲まずに帰ってきました。結構高いのでね、非結局ひきこもり。わたしなにやっているんだろう、わたしに普通に結婚して子供を産むなんていう人生はなかったですかね、気がついたらこうなっていたんですけど、なんて考えるのはやめましょう。人と比べ始めたらきりがないです。わたし自身が幸せだと感じられるように生きればそれでいいんだと思います。今は最後の一週間、苦痛の日々をなんとか耐えること、できれば、できるだけ笑顔でね。他に書こうとしていたことがあって、ようやく新しくプリンス・エドワード島の写真をアップしたのですがお茶しなかったので書けませんでした。今度の休日に、ってまたずっと休日になっちゃうか・・・。さっさと支度して休めよ、ですね。

 徒然日記でした。

 


花組地方公演『仮面のロマネスク』(2)

2017年04月22日 23時35分53秒 | 宝塚
(1997年雪組初演『仮面のロマネスク』プログラムより、脚本の柴田侑宏先生の記事)

「=原作について=

 恋の情熱を、人間が生きていく上に最も価値のあるものと謳い上げたのは、「赤と黒」 のスタンダールだが、そのスタンダールが注目し称賛した作品がこのラクロの「危険な関 係」であるというのは領ける話だ。この一時代隔たりのある両者が、ある時パリのオペラ 座で出会うシーンが伝えられている。すなわち年配の将軍となっていたラクロの客席(ボックス)に、年若い少尉のスタンダールが訪れて、挨拶し握手を交わしたという。後世作られた話としても 興味深い光景である。さて、このラクロの「危険な関係」は発表の後、発禁の憂き目をみた。その理由は不道徳・反宗教的な恋愛心理を、十八世紀フランスの貴族社会の衣を剥ぎ取るように描いたためとされている。だが後年レイモン・ラディゲやT・S・エリ オットに影響を与え、またジイドやサルトルやマルロオらにその価値を認められている。

 それは恋愛という心の動きが、他の人間関係や社会との係わりのすべてを削ぎ落とした後に純粋な人間の心理として描かれているからだろう。そこには精神的肉体的欲求のまにまに、人智を絞り尽くしての純度の高い恋愛心理の探求がある。時にはゲーム感覚ともいえる心の動きを、理詰めに追求して行く試みや、洗練された貴族的な感覚で決めていく刹那的な切れ味の面白さもあって、これは蒸留された典型的な恋の心理と言えるかもしれない。高度な科学技術と複雑な経済構造が優先される社会の中では、恋愛が時には不純に歪められ、時には軽視され踏みつけられている。

 貴族社会であるゆえにアナクロニズムのようにさえ見えるこの作品の世界を、現代を生きる人々に見てもらうのは、軽視されつつある恋の情熱と愛の本質を、追憶ではなく感じ取ることができればと思うからである。ここに登場する人物たちの心の動きや、恋の形の片鱗は、私達の身辺のあちこちに潜んでいるのではなかろうか。

=脚色にあたって=

 なお、原作を尊重しないわけでは決してないのだが、結末が勧善懲悪的な、主人公たちの無残極まる滅びになっているのは、作者の本意ではないのではなかろうかと思えたので、脚色にあたって、その主役たちの結末を、時代の流れの中で、貴族としてそれぞれの立場を守りながら恋に殉じて行く姿に改変した。また、他の貴族の青年たちや召使たちなどの世界も、原作から抽出して少し拡げて描いてみた。ブルジョアジーたちも、この時代の貴族たちを脅かす一つの勢力として顔を覗かせてみた。このドラマには四つの舞台空間が交錯する。一つは、セシルが純真であるためにヴァルモンの標的になりながら、その処女的心情はダンスニーに捧げられる自の世界。トゥールベルは肉体も精神もヴァルモンに奪われ、その歓喜・悔恨・懺悔と行き詰まる空間、青の世界。またベルロッシュ・ダンスニーはじめ隠された男たちとの恋と欲望を知的に包み隠すメルトゥイユの空間、赤の世界。最後に原作を永遠たらしめたヴァルモンとメルトゥイユの灼熱の恋愛と絶望的な悪が混沌と渦巻く真実の空間、言うなれば黒の世界。メルトゥイユの最後のセリフのように、仮面をかぶらなければ自由に生きられない人たちの溜息を混じえて、こんな舞台を創ってみた。」

 3月31日の神奈川県民ホールから4週間。久しぶりの宝塚の舞台は楽しかったなあとよみがえってきます。気がつけば役者さんたちと親子でもおかしくないぐらいの年齢になってきたのでもう観劇することはないと思っていましたが復活してみるとやっぱり楽しくて、誰に迷惑かけるでなし、そんなことを気にするのはやめることにしました。人生の楽しみのひとつ。見逃してはもったないというわけで、また少し思い出し。

 20年前の高嶺さんヴァルモンが、トゥールベル夫人の部屋を出て、セシルの部屋に向かおうとする場面、「次はセシルだ」っていう台詞の声、今も記憶に残っています。暗転する前のほんの一瞬の場面ですが、演じる人によって違うヴァルモン子爵の色がけっこうわかる場面かなと思います。高嶺さんヴァルモンは抑えをきかせた渋い色気。明日海さんヴァルモンは華やかさのある可愛い色気。どちらもよきかな。

 初演のときにはほとんど気づいていなかったヴァルモン子爵ととメルトゥイユ侯爵夫人を取り巻く貴族、召使たちの世界も心に入ってきて、仮面をかぶらなければ生きられなかった人たちの溜息がリアルに自分の中に沁みこんできたのでした。

 メルトゥイユ侯爵夫人を演じられた仙名さん、赤いドレスを着ているときの体のラインがすごく綺麗でした。明日海さんヴァルモンと仙名さんメルトゥイユが対峙する場面、ヴァルモンの心にトゥールベル夫人への恋心がぬぐい切れていないことを見抜いたメルトゥイユが嫉妬をあらわにする場面、鏡にお二人の姿が映るようにみせる演出がすごく美しかったです。実際にはお二人の影が演じていらっしゃったのですが鏡に映っているようにみえて素敵でした。芝居・歌・様式美で魅せてくれた場面でした。明日海さんヴァルモンがトゥールベル夫人に膝まづいて迫っていくときの、横顔と伸ばした足の美しかったこと。女性が演じる男性ならではの色っぽさと様式美にあふれていました。トゥールベル夫人のヴァルモン子爵に反発しながらも惹かれていく心のせめぎあいの表情とダンスの表現もすばらしく、初演の星奈優里さんがだぶりました。『金色の砂漠』で王女タルハーミネの妹を演じていた方なんですね、素敵でした。
 
 役者さんの名前がわかっていませんが、ヴァルモンの従者アゾランとセシルの召使リーザが恋人どうしで、「お宅のご主人いったいどうなっているの」「一緒にみにいこか」みたいな仲睦まじいといえば睦まじいふたりのやり取りの場面。銀の食器など金目のものを盗んでいこうとしてすぐにみつかってしまうメルトゥイユ邸の召使三人組が客席の笑いを誘う場面、言い逃れの内容は毎回アドリブだったのかな。この日は頭に壺をのせたまま「これからダンスの練習を・・・」「日本舞踊の練習を・・・」といった感じでした。なにげにしっかりとした芝居が合間、合間にはいってくるのが、四つの世界が交錯する中でけっこう重要なんだなとわかりました。革命広場へと集結する市民の姿が終盤で登場するのも柴田先生の脚本の秀逸なところ。再演を観劇することは自分の中のささやかな歴史と自ずと向き合うことにもなり、幾重にも感慨深いものがあったのでした。

 稚拙ですがまた少し思い出し、オタクにしかわからない観劇ブログでした。

第三章 日本的経営と女性労働 その歴史の概観 ⑤男女雇用機会均等法制定に至るまで

2017年04月22日 15時41分53秒 | 卒業論文
先に見た低成長期に、女性労働者の差別処遇の改善に踏み出した例として75年に勝訴した秋田相互銀行事件がある。これをきっかけに78年4月までに23行で約20億円にのぼる賃金差別を是正させた。他方、昇進・昇格差別、不当な配置転換、職務配置差別など、新たな分野も開拓され、雇用期間中の差別処遇が一つ一つ改善されている。この時期、このように雇用の平等をめぐる運動が発生したのは、世界的に展開された男女差別撤廃運動に負うところが大きい。75年の国際婦人年で、現代の男女平等とは「平等・発展・平和」であり、平和で豊かな社会づくりへの女性参加であると謳われて以来、日本でも、女性の社会参加と性別役割分業の撤廃が進展した。この運動は「国際婦人の10年」(1976-85年)に引き継がれ、79年には「女子差別撤廃条約」(「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」)が、また81年には、ILO(国際労働機関)で「家族的責任条約」が採択された。国際婦人年以降の新たな男女平等理念とそれを実現するための戦略が、条約として相次いで成立したのである。このような国際情勢の下、また、直接的には、80年の「国連婦人の10年」中間年の世界会議で日本も「女子差別撤廃条約」に署名したため、これに批准するには雇用の男女平等を保障する法律を日本国内において制定せざるを得なくなった。労働組合や野党、その他各種団体は、「男女雇用平等法」の制定を要求したが、「国際婦人の10年」最終年の85年にようやく成立したのは男女雇用機会均等法」であった。 1)

均等法制定に至る経緯を具体的に見ていきたい。雇用の分野における男女平等法制の整備構想が労働省において最初に採り上げられたのは、労働基準法の施行の実情及び問題点について調査研究を行うため昭和44年に労働基準局に設置された労働基準法研究会(労働大臣の私的懇親会)の1978年(昭和53)11月の報告においてである。この報告では、表3-1のとおり、「男女平等を確保するためには、明文をもって性差別を禁止」する新たな立法を行う必要がある等の旨が提言されており、その内容は雇用の分野における男女平等法制の基本を集約したものとなっている。

続いて、日本が均等法制定を推進する契機となったのが「女子差別撤廃条約」である。世界の女性の憲法といわれる「女子差別撤廃条約」は、1979年( 昭和54)の第34回国際連合総会において採択された。国連は1945年(昭和20)創立以来、様々な文書で基本的人権と男女平等をうたってきたにもかかわらず、女性に対する差別が広く存在していることから、新たな理念に基づく積極的な取り組みが必要とされ、1975年(昭和50)を国際女性年と定め、世界が女性差別撤廃へ向けて歩み始めた。その年メキシコで開かれた第1回世界女性会議の決議に基づき、国連はこの条約を採択したのである。表3-2のとおり、1条に女子に対する差別とは、「性に基づく区別、排除又は制限」であると定義され、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、「女子に対するあらゆる形態の差別を非難し、女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求すること」が求められている。ポイントは、性に基づく区別も差別につながること、また、差別する目的がなくてもその効果がある行為は差別だということである。雇用の分野に関しては、11条で女性に対する差別を撤廃すること、婚姻又は母性を理由とする女性に対する差別を防止すること等女性に対する差別を禁止する立法そのほかの措置をとることなどを締約国に義務づけている。

中でも、日本では戦後労基法において「保護」された女性の「母性」に関する規定に注目したい。女性に対する差別は女性のみが持つ妊娠・出産機能を理由として始まった。これは社会の存続にとって不可欠な機能だが人権の立場からみれば女性の人権の問題である。女子差別撤廃条約は前文で母性の社会的重要性を強調すると共に出産における女性の役割が差別の根拠になるべきではないとし、妊娠や母性休暇を理由とする解雇を制裁を課して禁止し、不利益を伴わない母性休暇の導入や妊娠中の保護を規定している。こうした規定から明らかなのは、条約は女性のみの保護は妊娠・出産に関する母性保護に限定してより充実させると共に、生殖機能を含む健康と安全については女性の保護を廃止するのではなく、男女共通の保護として拡大していくべきだとしている、ということである。すなわち家族的責任も健康も男女共通の保護が必要であるという考え方に基づいて、母性と健康(男女共に)が損なわれることのない労働条件の確保を締約国に義務づけているのである。日本はこうした「女子差別撤廃条約」に批准するために、均等法を制定した。11条1項には、「同一価値の労働についての同一報酬及び同一待遇についての権利並びに労働の質の評価に関する取扱いの平等についての権利」が規定され、日本はこれに批准したのである。その際、同一労働同一賃金に関しては、労基法4条に合理的理由のない男女間の賃金格差を違法とする規定があるから批准の条件を満たしているとされた。

女子差別撤廃条約の批准問題等を踏まえ、 1978年( 昭和53)から均等法の制定に係る審議を行った婦人少年問題審議会は、その審議が開始されてから6年を経過した 1984年(昭和59)に「雇用における男女の機会の均等及び待遇の平等の確保のための法的整備について」(昭和59年婦人少年問題審議会建議)を労働大臣に提出している。1984 年(昭和59)の婦人少年問題審議会建議においては、「審議の経過及び報告の内容を十分尊重して、婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約の批准のための条件整備として必要な法的整備を速やかに行うよう」要請されているとともに、「法的整備の検討にあたっては、現状固定的な見地ではなく、長期的な展望の上に立って行うことが必要であり、原則として、企業の募集・採用から定年・退職・解雇に至る雇用管理における男女差別的取扱いを撤廃し、女子保護規定は母性保護規定を除き解消することが求められるところである。」とし、法のあるべき姿が示されている。しかし、同時に、「法律の制定、改廃を行う場合には、その内容は将来を見通しつつも現状から遊離したものであってはならず、女子労働者の就業実態・就業意識、我が国の雇用慣行、労働時間をはじめとした労働条件等労働環境、女子が家事・育児等の家庭責任を負っている状況、女子の就業と家庭生活の両立を可能にするための条件整備の現状、女子の就業に関する社会的意識等の我が国の社会、経済の現状を十分踏まえたものとすることが必要である。」として、「総合的に勘案すると、法的整備は、機会の均等及び待遇の平等を確保するための法制と女子保護法制との調和を図りつつ、全体として我が国の雇用における男女の機会の均等及び待遇の平等を促進する観点から行うことが望ましい。」と提言されている。 2)

81年に採択されたILO(国際労働機関)の「家族的責任条約」にも少し触れたい。ILOは、女子差別撤廃条約の「性別による性役割分業の変革」の理念を「男女共に職業と家庭を調和させ、差別されることなく働く権利」として、より積極的に保障する家族的責任条約を採択し、日本も1995年(平成7)日本もこれに批准した。それまで長い間、家事や育児などの家族に関する責任は女性が担うものとされてきた。労働力の女性化に伴い、女性は賃労働と無償労働の二重の負担を背負いながら賃労働者としては半人前として差別されてきた。「職業と家庭」の両立は女性だけの問題とされ、そのための保護が差別の理由とされてきたのである。しかし、国際女性年以降「職業と家庭」は女性だけの問題から男女共通の問題となった。そして、家族的責任をもつ男女労働者が差別されることなく、職業上の責任と家族的責任を調和させて働けるようにすることを国の政策の目的とすると定めた(3条)条約が成立したのである。この条約の前文には2つの目的が書かれているが、第1の目的は家族的責任を有する男女労働者間の実効的な平等の実現である。第2の目的は、家族的責任を有する労働者と、シングルや子どものいない共働き夫婦などの労働者との間の実効的な均等の実現である。条約は、家族的責任を有する労働者の特別のニーズに応じた措置(特別措置)と共に、労働者の状況を全般的に改善する措置(一般的措置)をとる必要があると述べている。具体的な措置として勧告の雇用条件の最初に掲げられているのは、1日の労働時間の短縮、時間外労働の短縮である(雇用条件18)。このように家族的責任条約が目指す男女平等社会とは、家族的責任をもつ男女労働者はもちろん、世話が必要な家族のいない人を含め、全ての人が職業生活と家庭生活(私生活)を調和させ、平等で人間らしく生きていくことができる社会なのである。 3)

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引用文献

1)竹中恵美子編『新・女子労働論』87-88頁、有斐閣選書、1991年。

2) 総務庁行政監察局編、『女性の能力発揮を目指して-雇用の分野における女性の現状と課題』37-38頁、大蔵省印刷局、1997年。

3)東京都産業労働局『働く女性と労働法[2003年版]』15-16頁。