たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『「甘え」と日本人」より_(2)

2014年02月16日 12時40分17秒 | 土居健郎・齊藤孝著『「甘え」と日本人』
 甘え上手の基盤には、他者に「触れる」身体感覚がある。お母さんのおっぱいを吸ったり、体にくっついていて離れないのは、甘えている典型だ。このとき自分の体とお母さんの体は一つに張り付いている。張り付かれているほうからすれば鬱陶しい気もたまにはするが、基本的にはかわいく感じる。自分の体重を軽く相手にあずけてみるのも甘えの行為だ。恋人同士でもこれが見られる。おねだりを上手にするのも甘え上手だ。おじいちゃん、おばあちゃんは、孫におねだりされると弱い。相手のいわば「お世話欲」を誘発するのが、甘えの技である。

 甘えはいわば一つの技だ。使うタイミングや加減が肝心になる。成人式で大暴れをすれば告訴もされる。もう子どもではなくなるという境目の日にあばれてしまうのはタイミングが悪すぎる。暴れた側には甘えの心理が働いたであろうが、甘えの技があったとは言いにくい。甘えを技と見たときに、彼はあまりに甘え下手だと言える。

 
 従来日本の庶民の家屋は狭く、お互いが関わり合わずにはいられない空間になっていた。そのうえ、外からも家の様子が丸見えの開放的な家屋であった。皆が嫌でも関わり続けなければやっていけない状況の中での甘やかしは、一人部屋で勝手に快楽だけを享受する環境を与える甘やかしとは自ずと質的に異なってくる。

 
 日本の親は子どもをむち打たない。これは西洋人には不思議なことのようだった。こうした「子どもの楽園」は、基本的には悪いことではないとわたしは思う。ただしかつては、そこに礼儀作法のしつけが伴っていた。他人に対してどのように挨拶をしなければいけないのか、きちんとした席ではどのように振る舞わなければないけないのか、といった事柄が作法として身体に教え込まれていたのだ。特に公共的な感覚についてはしつけが行き届いていたように思われる。そうしたしつけができていれば、あとはかわいがればよかった。こうした風土の中から甘えが上手に生まれ、それを可能とする大人が育っていった。
 
 過去の日本社会をすべて肯定するわけには当然いかないが、甘えを一つの技と見ることによって、この社会に起こっているひずみの在処を明らかにすることができるのではないだろうか。

 
 土居健郎・齋藤孝『「甘え」と日本人」(2004年朝日出版社、5-10頁より抜粋)

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 いつの間にか数字、数字で一握りの人だけが得して、一生懸命に働く人たちが置き去りにされるような仕組みになってしまった。勝ち組・負け組といういやな言葉も生まれた。
ここで短絡的に論じることはできないが、今すごくどこかおかしい。

 昨日の夕方本を読むために入ったカフェのお隣の席で、日本の良さを見直していこう、歴史を見直していこうという動きが今生まれてきている、という内容の会話をしているのがきこえてきた。
おかしいと気づいている人たちはいる。気づいた人から声を上げていくことはできないだろうか。弱い立場の人が置き去りにされている流れを食い止めることはできないだろうか。
具体的にどうすればいいのかわからないが、自分自身の雇用さえ守れなかったら話にならないが、そんなことを考えずにはいられない。
人は機械のパーツのように一方的に都合よくいつでも取り替えられるものではない。
雇用するということは、雇用形態にかかわらず、その人の人生の一部をあずかるということであるはずだ。仕事=生きる。何をすべきか、何ができるのか考え続ける。

『「甘え」と日本人』より

2014年01月13日 10時26分37秒 | 土居健郎・齊藤孝著『「甘え」と日本人』
「甘え」という言葉は、日本文化の本質をえぐる概念であった。日本は、「甘え」ることができることを積極的に評価する文化を持っていた。上手に甘えることができる人間は、甘え下手なしっかり者よりも得をする傾向があった。しかし、甘え上手というのは、相手との距離感を上手に肌でつかんでいる人間ができることだ。ここは甘えても大丈夫だと思った瞬間には、すっと相手の懐に飛び込んでみる。そうすることで親近感が生まれ、相手もかわいがってくれる。しかしタイミングを誤れば、単になれなれしい不作法な人間として低い評価を受ける。これはちょうど相撲で押したり引いたりのかけひきをしているのに似ている感覚だ。(5頁)

土居健郎・齊藤孝『「甘え」と日本人』(2004年、朝日出版社)より。


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日本はこんな小さな島国。大きな自然災害といつも背中合わせ。
遥かなる大草原がひろがり、州が違えば国が違うようなアメリカと気候・風土が違う。
アメリカ式のドライなやり方をそのまま持ち込むのは日本人には合わないと思う。
つつましく肩寄せ合って助けあいながら生きていくのは無理なのかな・・・。

大震災の後、東北の方々がみせてくれた互いを思いやり、いたわりあう姿。
あれほどのことがありながら自分は大丈夫だからと笑顔をみせる。

乳幼児精神保健学会のW先生が大震災の後、日本人には甘えの文化があるということを
強くおっしゃられています。
土居健郎さんの『甘えの構造』をもう少しいろいろと整理がついたら読んで、わたしも考えていきたいと思います。

自分にごはんを食べさせながら、なにかできることはないだろうか、厳しいかな。
考え続ける・・・。