桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年七月の薬師詣で・常総市

2022年07月08日 21時32分24秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では茨城県の常総市を歩きました。



 新松戸から武蔵野線に一駅だけ乗って、南流山でつくばエクスプレスに乗り換えます。



 守谷でつくばエキスプレスから関東鉄道常総線に乗り換えます。



 関東鉄道に乗るのは久しぶりです。一両だけのディーゼルカーが出発を待っていました。取手~守谷間はたびたび利用したことがありますが、守谷から先・水海道方面へ行くのは初めてです。



 新松戸から一時間かけて南石下駅に到着。降りたのは私ともう一人だけ。無人駅でした。



 電車を降りて歩き始めたあたりは、いまから七年前、2015年九月の関東・東北豪雨で、近くを流れる鬼怒川の堤防が決壊し、水没してしまった地域です。
 七年も経過しているからか、災害を偲ぶようなものはこの標識のほかには見当たりませんでした。浸水深(高さ1・5メートル)を示す紅いテープ(想定浸水深標示板の上)は自然に剥がれたのか、剥がされたのか、残っていたのはわずかな部分のみ。



 南石下駅から徒歩八分。この日、最初に訪ねたのは浄土真宗・東弘寺です。



 これまで数多くの薬師如来を訪ねてきましたが、親鸞さんのお寺で薬師如来を祀っているというのは初めてです。



 次に参拝したのは浄土宗・西福寺です。こちらは薬師如来には関係がありませんが、平將門と関係があるので寄ってみました。
 寛永九年(1632年)、了学上人(芝・増上寺十七世)の隠居所として建設されました。
 了学上人(1549年-1634年)という方は小金城主だった高城胤吉の三男で、私がよくお参りに行く東漸寺で出家され、増上寺十七世になる前、東漸寺七世の住職を務められました。



 平將門公菩提供養之碑。建長五年(1253年)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が將門の祭祀がちゃんと行なわれていないことを憐れんで、当時の守護職・千葉胤宗に命じて法要を営ませ、建てさせた碑だと伝えられています。



 西福寺本堂。

 平將門の生誕地とされているところはいろいろありますが、私の受けた感じではこのあたりの臭いが強いような気がします。といって、私は霊感のようなものは殊更弱いのですが……。この小旅行の最後に、生誕の地と考えられている館跡を訪ねます。



 西福寺から三分で薬師堂。
 地図には「薬師堂」と記されているだけで、名がありません。現地に行けば、何かわかるかも……と思ったのですが、現地に行っても、扁額にはかすれた文字で「薬師堂」とあるだけ、境内というべきか、空き地というべきか、遊具は何もありませんが、「薬師堂遊園地」という掲示があるだけでした。



 格子扉に隙間があったので、カメラのレンズを突っ込んで撮影に及びました。
 祭壇には扉の閉ざされた黒塗りの厨子が三つ、薬師如来と日光・月光両菩薩が納められているのでしょう。十二神将とおぼしき仏像は十二体に満たぬ数でした。



 薬師堂への参拝を終えたあと、高所恐怖症を持つ私には今日最初の正念場が待ち受けていました。鬼怒川を渡らなければならないのです。
 橋は石下大橋。画像で見ると、歩道部分はゆったりとしているように感じられますが、幅は1メートルもありません。車道のほうだけ見て進めれば何も問題はないのですが、なかなかそうはいきません。遥か下を流れる川面が視界に入ってこないよう、極力車道近くを歩き、念のため、歩道と車道を区切っている鉄柵を手すり代わりに掴もうとしましたが、少し前から陽射しが出て、鉄柵は火傷しそうなほどに暑くなっていました。

 画像にはたまたま車は写っていませんが、道は茨城県道・土浦境線で、大型トラックがビュンビュンと行き交っていたのです。その様をカメラに収めることができればよかったのですが、カメラを構えるためには両腕を眼のあたりに上げるという無防備な体勢をとらなければなりません。すると、向かってくるトラックが行き過ぎた直後は巻き込む風が起きて、身体が吸い込まれそうになり、とても生きたた心地はしないのです。



 鬼怒川をなんとか渡り終えてホッと安堵の吐息を漏らし、振り返るとほぼ真横に筑波山が望めました。
 実際に橋に臨む前は、橋上で立ち止まって、鬼怒川の流れを入れてワンショット、と考えていたのですが、まさに這々の体で渡ったので、立ち止まることはもちろん、振り返ることはできませんでした。



 地べたに降りさえすれば余裕綽々です。かつてこの地区にあった豊田城を模した地域交流センターも遠望することができました。



 石下大橋を渡り終えて、五分ほどで峯薬師堂に着きました。



 薬師堂のかたわらには樹齢五百年といわれるシイ(椎)の巨樹がそびえています。



 シイノキの説明はあっても、薬師堂の説明はありません。
 峯薬師堂への参拝を終えれば今日のお勤めは終了ですが、もう少しだけ足を延ばします。



 峯薬師堂から十二分。最後に目指したのは向石下城跡です。



 向石下城が築かれる前、ここには豊田館がありました。平將門の父・良將(よしもち)が築いたとされ、ここが將門生誕の地とされています。



 レリーフに彫られた平將門像の髪はザンバラです。



 豊田舘跡の奥にはポツンと建つ御堂がありました。地図には法輪寺とありますが、あるのはこの御堂と右手に、お釈迦様の石像を中心とした石像と卵塔があるだけ




 豊田舘跡からは鬼怒川が見えません。しかし、帰るためにはもう一度鬼怒川を渡らなければなりません。先に鬼怒川を渡ろうとしたとき、帰りも渡ることになるのだから、渡るのをやめ、峯の薬師堂への参拝も断念して帰ろうかと思いました。
 帰りに渡るのは石下橋です。道が緩い上り坂になり、橋が近づいてくると、武者震いのような緊張感に包まれましたが、橋が見えると、ちょっと拍子抜け。歩道は幅3メートルはあるでしょうか。これなら余裕綽々です。おまけに歩く人はまったくいない。



 帰りは行きに降りた南石下の一つ下館寄りの石下駅に出ました。
 右に止まっている車は二台とも客待ちのタクシーです。利用しような客の姿はありません。写っていませんが、左にも一台止まっています。



 やってきたのは行きと同じ一両だけのディーゼルカーでした。待っていた客は五人だけでした。

2022年七月の薬師詣で・茨城県常総市

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