三月に薬師詣でをした川口三薬師のうちの二薬師になぞらえて、四月は印西市にある二薬師を巡ることにしました。詣でるのは松虫寺と栄福寺。
奈良時代、聖武天皇(701年-56年)の第三皇女に松虫姫という姫君がいたそうです。
年ごろになって重い病に罹りました。それは現代でいうハンセン氏病とも、瘤(こぶ)のできる病だったともいわれています。そういう病に罹ってしまったので、姫はもとより父帝や母の后の嘆きはひとかたではなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが、病は重くなるばかりでした。
ところがある夜、天皇が見た夢に、坂東の下総に効験あらたかな薬師如来があるというお告げがあり、天皇は藁にもすがる思いで松虫姫を下総に下向させることにしたのです。
しかし、当時の坂東は都から見れば聞くも恐ろしい化外(けがい)の地であったので、心細いこと限りなく、進んで行くうちに、従者は一人逃げ、二人去りして、下総の国府(現在の市川市)に着いたときには、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
一行は国府をあとに、疲れた足を引きずるようにして、印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上にありました。
都を遠く離れて、見知らぬ坂東の、人家もまばらな貧しい村里にたたずむ心細さはたとえようもなく、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりでしたが、松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかに生きる望みがないわけです。
必死に祈ることだけが、ただ一つの生きる証しなのでした。
姫は気を取り直して、薬師堂のかたわらに草庵を結びました。
雨の日も風の日も、粉雪が舞い乱れて寒風吹きすさぶ冬の日も、その草庵で朝夕一心に祈りつづけたということです。
乳母や従者たちも、近くに小屋をかけて、姫と行をともにしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝えて、生活の糧としながらかしづいていました。
瞬く間に数年の歳月は流れましたが、姫の一念は御仏に通じて、さすがの難病もあとかたもなく全快しました。
姫はもとより従者たちの喜びは一方でなく、また都の技術を教わった里の女房や娘たちも、すっかり松虫姫を慕うようになっていたので、ともに喜んで、病気全快の報せはただちに都へ届けられました。
都からはさっそく迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は見知らぬ下総の地で途方にくれる自分たちを親切にいたわってくれた淳朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自をこの地に残し、都の技術を広めよと命じて、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
都から姫を乗せてきた牛は年老いていて、乗るのに耐えられなくなっていたので、乳母とともに残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたといいます。
村人はその牛の心根を哀れみ、いまも「牛むぐりの池」と呼んで語り伝えているということです。
松虫姫から詳しい様子を聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師仏を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧・行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立しました。それが松虫寺です。
その後、松虫姫がどのような運命を辿ったかというと ― 。
異母兄・塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争にまきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えました。
北小金発九時五十二分の我孫子行に乗って、終点の我孫子で成田行に乗り換え。六つ目の小林駅に降り立ちました。
松虫寺の最寄り駅は北総鉄道の印旛日本医大駅です。それなのに成田線に乗ったのは……。
目的は薬師詣でではありますが、その前に吉高というところまでバスに乗って、有名な吉高の大桜を見ようと思ったのです。
やってきたのはマイクロバスでした。乗客は私ともう一人の二人だけ。乗車時間は十五分。
途中、道路を外れて狭い坂道に入ります。そこは吉高台団地という分譲住宅地で、バスはクネクネと曲がりながら走り、誰も乗らず、誰も降りることなくもとの道に戻って、ひたすら走りつづけました。
教習所前という停留所でバスを降りると、畑のほかには何もないようなところなのに、結構な数の人が行き交っていました。
これが吉高の大桜です。樹高11・7メートル、枝張24・5メートル。残念なことに花はまだ咲いていませんでした。
印西市のホームページには開花状況が載せられていたのですが、そのことを知ったのは帰ったあとのこと。
この桜を観るのが今日の目的ではないので、気を取り直して本来の目的であるところの薬師詣でを果たすため、およそ2キロ先にある松虫寺を目指すことにします。
何かのおまじないでしょうか。根が二股に別れていて、絡まったりしている大根もありました。
吉高から松虫寺へ向かおうというのは私独りだったようです。径を外れると、もともと鄙だった周りの雰囲気がさらに鄙びて、行き交う人の姿も消え、こんな標識が現われました。
描かれている猪突猛進するヤツは私の干支ではありますが、テキにとってはそんなことは全然関係がない。熊には鈴が効果的と聞いたことはあるけれど、猪に効果があるかどうかは知らないし、効果があるとしても、持ち合わせていません。
たまたま長さ1メートルほどの棒切れが落っこちていたので、杖代わりにもしようと拾って、おっかなびっくり歩き出しました。
やがて径が下りになって、畑が見え、農作業をしている人の姿が見えて、やっと一安心……と思って棒切れを棄てました。ところが、今度はこんな山径が待ち構えていました。
幸いにして何にも襲われることなく、松虫寺に到着しました。吉高の大桜から歩くことおよそ三十分でした。
仁王門。仁王は運慶作。先に触れたように、松虫寺は天平十七年(745年)、僧・行基の開創と伝えられ、はじめ三輪宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属して今日に至っています。奈良・東大寺(大仏殿)の建立は752年のこととされているので、松虫寺はそれよりも七年も遡った年の開創ということになります。
薬師堂。祀られている七仏薬師如来は榧材の一本造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定されています。
瑠璃光殿。ここに薬師如来が祀られているはずです。開帳は三十三年に一度。
本堂。寛政十一年(1799年)の建立、阿弥陀如来、不動明王とともに松虫姫尊像を祀っているので、松虫姫堂とも呼ばれています。
松虫姫神社。
松虫姫の病が癒えて京に帰るとき、植えて行ったとされる樹。
近くにもう一つ薬師如来を祀るお寺があるので、足を延ばします。
松虫寺から徒歩十八分。帰りの電車に乗るつもりの印旛日本医大駅ですが、横目に見ながらいったん通り過ぎます。
松虫寺から三十七分。天台宗栄福寺に着きました。。
栄福寺薬師堂。棟札には寛正七年(1466年)六月柱立、応仁三年(1469年)霜月上棟、文明四年(1472年)二月成就と墨書銘があり、建立年代の明確な建造物としては千葉県下最古として知られています。堂内は赤や青など鮮やかな彩りで飾られており、国の重要文化財にも指定されています。
栄福寺の沿革は明らかではありませんが、本尊の薬師如来像は天平元年(729年)に造られた、とも伝えられています。
印西にはもう一つ訪ねたいと思う薬師堂があります。栄福寺と同じように国の重要文化財指定を受けた泉福寺の薬師堂です。
しかし、どこにあるのか場所がわかりません。印西市のホームページには所在地は「印西市岩戸1671番地」と記載されています。早速インターネットの地図ソフトで捜したのですが、1671番地という地番は存在しない(ことになっています)。
ウニャウニャ、どういうこっちゃ? と思いながら千葉県学事課の宗教法人リストに移動してみても、地番は一緒です。
親切な自治体であれば、リンクが張ってあって、クリックすれば地図のページに飛ぶ、というような仕掛けがしてありますが、印西市にはそういう仕掛けがありません。
観光協会のホームページがあったので、視てみましたが、市と同じく名称・所在地などが記載されているだけで、地図がありません。
北総鉄道の印旛日本医大駅に戻りました。ここから帰りの電車に乗ります。駅名表示板には松虫姫という副名があります。
印旛日本医大始発の電車。この車両に乗ったのは私ともう一人だけでした。
➡JR成田線小林駅から北総鉄道印旛日本医大駅までの行程です。小林駅から吉高の大桜近くまではバスを利用。電車とバスの待ち時間も含めて四時間半の行程でした。