伊興寺町を歩く、の〈つづき〉です。
天龍寺から東伊興小学校正門前を通り、徒歩六分で本行寺(浄土真宗本願寺派)に着きました。織田信長との戦(石山合戦)に馳せ参じた千田七郎宗順という門徒が天正八年(1570年)、現在の福井市に創建したのが始まりです。大正末期から昭和初期にかけて現在へ移転。
ここから伊興寺町巡りの始まりですが、町名は異なる(伊興本町)ものの、すぐ近くに専念寺(浄土真宗本願寺派)という寺があるので、そこを巡って歩くと、「S」の字を下から描くように歩くことになります。
その専念寺です。昭和五年、足立区本木(当時は南足立郡西新井町)に説教所として発足したのが始まり。
専念寺を出て、車一台通るのがやっと、と思われる細い径に入ると、霊園があり、さらに正楽寺(浄土真宗本願寺派)がありましたが、現在は仮本堂しかないので、素通りします。
正楽寺の隣が正安寺(浄土宗)。
元和二年(1616年)、蔵前に創建。のち浅草新寺町(現在の台東区東上野)への移転を経て、関東大震災の被災後、昭和六年に現在地に移転。
隣は東陽寺。曹洞宗系の単立寺院です。
慶長十六年(1612年)、八丁堀に創建。浅草八軒寺町への移転を経て、関東大震災のあと、当地へ移転(昭和三年)。
歌舞伎や講談で知られる塩原太助の墓があります。
二十七世住持の卒塔婆に止まって啼いていたアブラゼミ。
常福寺(浄土真宗大谷派)。
慶長元年(1656年)、浅草に説教所が開設されたのが始まり。関東大震災で被災して、昭和三年、現在地に移転しました。
易行院(浄土宗)。
草創は元亀二年(1571年)。元は浅草山谷町(現・台東区清川)にありましたが、関東大震災で焼失し,昭和三年に現在地に移転しました。
歌舞伎で有名な助六と揚巻の墓があるので、通称助六寺と呼ばれています。
ここは三年前(2009年)の十月に亡くなった噺家・五代目三遊亭圓楽さんの生家です。ただし圓楽さんが生まれたのはこの場所ではなく、まだ山谷町にあったときのことです。
易行院から130メートルほど先の蓮念寺へ向かう間に、伊興寺町巡りで最初に訪れた本行寺の裏門がありました。その向かいに、あとで訪れる長安寺の通用門があって、そういう使い方をしてもいいものかどうか、通り抜けできるようになっています。道路と道路の間隔がそれほど広くないので、寺の境内が二本の道路を結ぶ形になっているのです。
蓮念寺(浄土真宗大谷派)。
東日暮里にありましたが、戦時中に現在地に疎開、戦後、伊興山蓮念寺として創立。
木立に囲まれていて、なかなか佳い雰囲気です。
蓮念寺前を右折すると、結構広い通りに突き当たりました。左手に伊興遺跡公園があります。遺跡からはおよそ四千年前の縄文時代末ごろの縄文土器や千六百年前の古墳時代前期の遺物が出土しているそうです。
突き当たりを右に折れると、直前に通用門前を通ってきた長安寺(浄土真宗本願寺派)があります。明確な創建年は不詳ですが、江戸時代初期と考えられています。築地本願寺の寺中寺だったということです。
長安寺前からこのあとに訪れる法受寺前まで、白壁の下には疎水が流れていました。
正安寺から蓮念寺にかけては小粋な石畳の径がありました。
疎水の流れる径といい、石畳の径といい、京都の寺町を歩いているような気分にさせてくれます。
地図を見て、「卍」印がいやにたくさんあると知って訪ねた町でしたから、落ち着いた雰囲気に浸ることができるだろうと期待はしていましたが、予想以上に満ち足りた気分です。
長安寺の隣は善久寺。当初は浜町御坊に創建されました。明暦の大火(1657年)で浜町御坊が築地に移転(築地本願寺)にともなって築地に移転。関東大震災後、現在地に。
その隣には浄光寺。前の善久寺、ここ浄光寺、ともに浄土真宗本願寺派の寺院です。元和二年(1616年)、赤坂に創建、元和七年(1621年)、浜町へ移転、前の長安寺と同じく浜町御坊が築地へ移転する際に当寺も移転。関東大震災後、現在地に移転。
浄光寺の隣は浄土宗の法受寺(ほうじゅうじ)。
正暦三年(992年)、恵心僧都が豊島郡下尾久に開創。宝暦三年(1753年)、豊島郡谷中に移転、新幡随院法受寺と称しました。浅草にあった田島山誓願寺の別院・安養寺、下谷の法受寺と合併して、昭和十年に現在地へ移転。
榮壽院(曹洞宗)。関東大震災後、墨田区東駒形から現在地へ移転。「本所區史」によると、創建は明暦元年(1655年)。
本尊は将軍延命地蔵で惠心僧都一刀三禮の尊像です。新田義貞の家臣・篠塚五郎の守り本尊だったので、篠塚地蔵と称しました。妊婦がこれに祈ると靈験新たかなりといって安産を祈る人が多いということです。
榮壽院でも歴住の墓所を訪ねて焼香しました。本日の寺巡りはこれにて終了として、竹ノ塚駅に戻ることにしました。
尾竹橋通りを竹ノ塚駅に向かって歩いていたら、持参の地図には載っていましたが、訪ねるべきところとして、蛍光ペンでマーキングしていなかった寺院が目に入りました。
曹洞宗系単立寺院の東岳寺です。慶長十八年(1614年)、浅草鳥越に創建されましたが、寛永十年(1633年)、現在地に移転。
境内に入ると、左手に「東海道五十三次」などで名高い初代・歌川広重(1797年-1858年)の墓がありました。
東京都の指定文化財です。
広重の本名は安藤鉄蔵。ある説によると、江戸の定火消しの安藤家に生まれて家督を継ぎ、その後に浮世絵師となりました。安藤広重と記述する文献がありますが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそのように名乗ったことはないそうです。
言い換えてみると、立川談志こと松岡克由が決して松岡談志と名乗ったことはない、というのと同意。
このあと、夕暮れの道を竹ノ塚駅に急ぎました。
➡この日の行程(天龍寺から竹ノ塚駅まで)。
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