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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

立花誾千代

2008年11月22日 11時14分58秒 | 歴史

 私のブログのタイトル「桔梗おぢさんのブラブラJournal」を略して「桔梗ブラジャー」と呼んだ人がおります。略して呼んでくれと頼んだ覚えはないのですが、その方はアルファベットの部分を英語読みされたらしい。
 Journalというスペルは一緒なので、間違われても仕方がないのですが、これはフランス語なのです。従って「ジャーナル」ではなく、「ジュルナル」と読んでもらわないといけません。そして略すなら「桔梗ブラジュル」であります。面白くともなんともない。だから、普通は略さないのです。

 さて、中庵宗巌のことは宙ぶらりんのままです。ブログに記したほかにも材料はあるのですが、いずれも一国の領主として情けない時代のことばかり。
 共感を覚えるところがあるからこそ取り上げようと考えているわけですが、このまま筆を進めても結果的には、けなすようなことばかり書いてしまうことになります。
 そこでちょっと趣向を変えてみようと思いました。

 中庵宗巌より十一歳年下に立花誾千代(たちばな・ぎんちよ=1569年-1602年)という女性がおりました。大友家三老の一人・立花道雪(1513年-85年)の娘です。
 親子の生年をみればわかるように、道雪五十七歳のときという、現代でもまず考えられない晩年の子です。晩年にもうけた子ほど可愛いというのは親の常らしいのですが、単に可愛いという理由だけではなく、男勝りの女傑であったようです。姫でありながら家督を譲られ、立花山城という城の城主になりました。
 亀菊丸という兄も政千代という姉もいたのに、道雪は誾千代を自分の後継に選んだのです。ただし、二人の兄姉は道雪の子ではありません。後妻に迎えた仁志姫の連れ子です。
 このころ、中庵はまだ家督を継いでいませんが、大友家の重臣の一人となる誾千代には会っているはずです。

 いまのところは史料を得られないので、想像するだけですが、ここから私の空想が始まります。
 姫で領主だったという例はいくつかあります。
 たとえば誾千代とほぼ同世代に井伊直虎という女性がいます。彦根三十万石(当初は上野高崎十二万石)の祖となった井伊直政の養母です。
 このころの井伊家は彦根でも高崎でもなく、いまの静岡県井伊谷(いいのや)に館を構えています。父と男兄弟が次々に死んでしまったため、女である直虎が跡を継いだのです。
 しかし、直虎といういかめしい名からわかるように、生存中は男として通したのだそうです。
 女だったと判明するのは江戸時代に入ってから……。女だからといってなにゆえに? と訝しく思う人もいるかもしれませんが、井伊家何代と代数を数えるとき、直虎は数に入れません。
 従って、女で
城主というのは、日本史上この誾千代と淀殿しかいないと思いますが、淀殿の場合は妾宅として与えられたのが城であったということですから、誾千代が史上ただ一人の女城主だったといってもよいでしょう。

 道雪が娘に家督を譲るという異例の行為に出たのは、男勝りだったという理由だけではなく、どうやら婿として眼鏡に適う男がいなかったということもあったようです。道雪は誾千代が十七歳のときに死んでいますから、後継をつくるのを急がなければならなかった、ということもあったのかもしれません。
 が、やがて立花宗茂という男を婿養子に迎え入れて、家督は宗茂が継ぐこととなります。誾千代十三歳の年です。
 宗茂は秀吉、加藤清正、小早川隆景なども手放しで褒めるほど勇猛果敢な武将だったようです。
 秀吉から筑後柳河藩主の座を賜って、大友家から独立します。天正十五年(1587年)、ぎん千代十九歳の年です。

 しかし、誾千代は宗茂に心を寄せることがなかったようです。婿に選んだ道雪の目は確かであったのですが、なぜか肝心のぎん千代の眼鏡には適わなかったのです。
 柳河移封後、ほどなくして夫婦は別居状態になります。別居したのは文禄四年(1594年)と慶長四年(1599年)と二つの説があります。
理由ははっきりとはわかりませんが、二人の間には子どもがなかったということが要因らしい。
 世継ぎがないのは大名家には致命的なことです。それを憂えた誾千代みずから身を退いたとも、宗茂がのちに瑞松院と呼ばれる側室を入れたので、プライドを傷つけられたとも。

 宗茂は関ヶ原の戦では西軍に味方しました。戦後、改易されて諸国流浪の旅に出ますが、誾千代は行を共にしませんでした。柳河からは少し離れた現在の熊本県長洲町に隠居しているのです。
 そして関ヶ原の戦からわずか二年後の慶長七年(1602年)十月十七日、三十四歳という若さで逝去。
 八日前の十一月十四日が旧暦十月十七日。誾千代姫の祥月命日に当たります。
 法名・光照院殿泉誉良清大姉。

※誾千代の画像は「立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
から拝借しました。


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (くのいち)
2008-11-22 15:54:25
来た~~千代さん!!
童 大好きです♪
あの 男勝りさ(^^♪

 夫が留守してる間に秀吉に 呼び出された
ときも 自らも武装した ってエピソード
が 童的 すんごく かわいい♪(^^♪

 でも 旦那様の 宗茂殿と 仲はよくなかったってのだ。。。若干 悲しいです((+_+))

 仲良しで あってほしかった 童。
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