桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2012年八月の薬師詣で(1)・荒川区から台東区へ

2012年08月08日 23時18分43秒 | 薬師詣で

 去年一月、知人二人が無事息災であることをお願いするのと、自身の健康が恢復してきたのを感謝しようと始めた毎月一度の薬師詣でです。今月で二十か月目になりました。
 利己ではなく、利他を願うとは殊勝なり、と薬師如来さまが思ってくださるのか、

 今月の薬師詣では西日暮里にある真言宗豊山派の寺院・浄光寺に行こうと決めました。西日暮里の隣は谷中で、我が宗門(曹洞宗)の玉林寺があるので、そこにも参詣。さらに谷中ではもっとも有名だと思われる全生庵とそのすぐ近くに、やはり我が宗門の永久寺があるので、ここにも参詣することにしました。そのほかにも行く路々にお寺があれば寄って行くつもりなので、長いブログになるかもしれません。

 電車を降りるのは西日暮里。ここは浄光寺の最寄り駅ですが、ここで降りるとすると、玉林寺はもっとも遠いところになります。いつものように路々お寺を訪ねて行こうかと地図を取り出し、谷中(一丁目から七丁目まで)にあるお寺の数を数えてみました。
 見落としがあるかもしれませんが、その数なんと七十一か寺。



 西日暮里で降りました。



 西日暮里駅を出てわずか四分で諏方神社に着きました。隣り合わせてあるのが今日の目的地・浄光寺で、この神社の別当寺であったので、参拝して行きます。
 元享二年(1323年)の創建。祭神は信濃国諏訪神社と同じ建御名万命(たけみなかたのみこと)。日暮里、谷中の総領守です。ちなみに「すわ」の「わ」のほうですが、「訪」ではなく「方」の字が使われています。



 その浄光寺。本尊は薬師如来。
不詳ですが、諏方神社の別当寺であったことから、同神社の創建年代と同時期の元久二年(1202年)前後の創建と推定されています。
「新編武蔵風土記稿」には次のように記されています。
新義真言宗田端与楽寺末、法輪山法幢院と号す。本尊薬師。元文二年四月十四日、有徳院殿御遊猟の時始て当寺へ成せ給ひ、同五年正月二十五日御膳所に命せられしより、今も此邊放鷹の節は御膳所となれり」
 有徳院殿とは八代将軍・吉宗です。

 寺を建立したのは太田道灌とか豊島経康とかいわれているようですが、道灌は十五世紀の人、先の推定とは時代が違い過ぎます。
 豊島経康だとすれば、経康の生没年は明らかではありませんが、父は豊島有経(ありつね)です。この人も生没年は未詳ですが、源頼朝が鎌倉幕府を開くのに功のあった人です。その人の息子なのですから、年代的な辻褄は合います。

 眺望のすぐれた諏訪台の上にあって、展望がすばらしく、とくに冬の雪景色が美しく眺められることから、「雪見寺」と呼ばれてきました。



 江戸六地蔵の一。浄光寺の銅造地蔵菩薩。



 浄光寺前には根津のほうへ下って行く富士見坂があります。いまでも富士山が見えるのだそうですが、一体どの方角に?
 最初は坂下を覗いただけで通り過ぎましたが、あとでこの坂を上ってくることになります。

 


 浄光寺から三分で
養福寺(真言宗豊山派)の仁王門と本堂。元和六年(1620年)、法印乗蓮が創建。
 仁王門は宝永年間(1704-11年)の建立。

 養福寺を出てさらに先へ進むと、日暮里駅から谷中に到る御殿坂上の交差点に出ます。交差点の左角が延命院(別名・月見寺)。三年前の三月に訪れて以来、二度目なので画像は割愛。
 ここから谷中です。



 呑処「桔梗」。
 こんな店が近場にあれば、是非とも贔屓にしたいものですが、帰りの電車の時間を気にしつつなおも呑む、という年齢ではなくなりました。



「夕焼けだんだん」から見下ろした谷中銀座の入口です。

 平日で、しかも暑いのに、結構な人出がありました。形の上では私も「谷・根・千」散歩を試みていることになりますが、谷中銀座には入らず、下り切ったところ・谷中銀座の入口で右折。しばらくは谷中地区には入らずに荒川区西日暮里を歩きます。



 谷中銀座の入口から三分ほどで南泉寺(臨済宗妙心寺派)門前です。元和二年(1616年)の創建。
 南泉寺の北隣には法光寺(法華宗)、その先には谷中七福神のうち、布袋尊を祀る修性院(日蓮宗)とありますが、パスします。



 南泉寺から一分で青雲寺。
 ここも臨済宗妙心寺派の寺院。江戸時代から花見寺として親しまれており、谷中七福神の恵比寿神が祀られているほか、滝沢馬琴の筆塚碑、硯塚の碑があります。

 青雲寺でUターンして先ほどの富士見坂を上り、浄光寺前の道を経由して再び御殿坂上の交差点に出ます。前は交差点を右折して「夕焼けだんだん」を下りましたが、今度は交差点をまっすぐ突っ切って、いよいよ谷中に入ります。



 谷中最初の寺は臨済宗妙心寺派の霊梅院。山号は百丈山。



 霊梅院からこの海蔵院(臨済宗系単立)、次の観音寺まで墓所を挟んで繋がっています。



 観音寺(新義真言宗)。慶長十六年(1611年)、神田に創建。廷宝八年(1680年)、現在地に移転。



 観音寺にある赤穂浪士供養塔。赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第六世・朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われたため建立されました。



 観音寺の築地塀。二百年前のもの。関東大震災で一度崩れましたが、復旧されています。



 新義真言宗・加納院。尊慶(寛永十三年・1636年寂)が開基となり、慶長十六年(1611年)、神田北寺町に創建、延宝八年(1680年)、現在地へ移転。



 興禅寺(臨済宗興聖寺派)。

 慈眼大師・天海によって天台宗寺院として開基しました。慈眼大師が京都の興聖寺を訪れたことを機に天台宗・臨済宗兼学となっていました。



 長安寺(臨済宗妙心寺派)。



 長安寺にある狩野芳崖(1828年-88年)の墓。



 了俒寺(天台宗)。
 寛永元年(1624年)、日安尼によって現在地に草創されました。日安尼は徳川家康の異父弟・松平康元の長男・忠良の側室で、信濃国袮津(長野県小県郡)に五千石を領した松平忠節(忠利)の生母です。



 了俒寺の隣は谷中霊園です。



 功徳林寺(浄土宗)。明治二十六年建立という新しい寺です。



 真言宗豊山派観智院。慶長十六年(1611年)、照誉法印が神田北寺町に開山、慶安元年(1648年)、現在地へ移転。



 永久寺(曹洞宗)。
 このあと訪れる予定の王林寺の中興開山・風室興春和尚(慶安三年・1650年遷化)が隠居寺として創建しました。



 墓域は石段を上がったところにあり、仮名垣魯文(1829年-94年)の墓がありました。



 歴住墓所に参拝して永久寺をあとにします。〈つづく〉


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