今月も美浦村へ行くことは叶いませんでした。
前日 ― 七日の昼過ぎのこと、今日八日の夕方早めに所用ができてしまったのです。早く出発できれば夕方には帰ってくることができるので、行けないこともないのですが、多分(早く出発することはできないと思われるので)無理でしょうな、となかば諦めつつ、行けなかったときの身代わりに竹ノ塚周辺を歩くことに決めて、眠りに就いたのでした。
夜中こそ暖かかった前日の名残(前日の最高気温は15・9度)がありましたが、朝、目覚めてみると、七時の気温は4度台でした。氷点下を記録する日もあるのですから、4度もあれば、耐えがたき寒さとはいえませんが、一日二日と暖かい日を体験してしまうと、4度あるといっても、体感温度は氷点下です。
そしてほぼ毎日のように、目覚めた刹那はとくになんでもないと思えた体調が、時間が過ぎるとともに悪くなってきます。この日も、目覚めた直後より起きたあとのほうが頭がどんよりとした感じになってきたので、出かけるか、しばらく様子を見るか、とグズグズしているうちに、偏頭痛が出ました。抑えるための薬を服んで、さあ、いつになったら出かけられるか、と思いながら、薬師詣での日には恒例の握り飯を握りました。
やっと動き出しますか、という体調になったのは十時半過ぎでした。美浦村行は完全に諦めたあと、竹ノ塚へ行くことにして、慶林寺に向かいました。扉は閉ざされていましたが、通用門から入ってお賽銭をあげます。
常磐線緩行で北千住まで行って、東武線に乗り換え。竹ノ塚駅で降りました。
竹ノ塚駅では駅を挟んで南北にある開かずの踏切をなくすため、地上駅を高架にする工事の真っ最中です。橋の上にあった改札口は地下になり、高所恐怖症を持つ私にとっては、地上から地下にある改札口へと、改札を通ってからプラットホームへの階段が結構長くなったのです。
去年七月の薬師詣ででこの駅を利用しましたが、出発点は別の駅だったので、帰りに利用しただけ。プラットホームへの階段を上っただけです。
上り詰めて行くのに連れて、左右は壁で何も見えないのに、へっぴり腰になります。が、下を見ることはないので、下るときほどの恐怖感はありません。ただ、膝が快活には曲がらなくなっているので、のっそりのっそりと上って行きます。
見えるのは残りの階段の段数。駅によっては空が見えますが、まるで体内に高度計があって、周囲は何も見えないのに、4~5メートルの高さを過ぎると、警戒警報を発令するみたいです。腰から下がピリピリする感じが生まれます。手すりを掴まないと上れなくなります。
今日最初の目的地・林松寺まではバスを利用しました。
帰りは二体ある薬師如来に参拝しつつ、お寺巡りをしながら、歩いて竹ノ塚駅へ戻るつもりです。
バスの乗車時間はわずか十分でした。しかし、ギアチェンジの下手くそな乗務員で、急発進・急変速の繰り返し。竹ノ塚駅周辺は路駐をしている車が多いので、その車を除けて右に出ては左に戻る ― これも急ハンドルを切る、というおまけつき。
さらにあいにくなことに ― 前向きに坐る座席であれば少しはよかったけれど、下手っぴな乗務員とは思わないものだから、横向きに設えられた優先席に坐ってしまっていました。
身体が前後左右に揺さぶられる回数が増えるのに連れて、治まりかけた偏頭痛が出そうになるやら、ここで発症されては絶対に困る持病が出そうな予感が昂じてくるやらで、こりゃ~、ヤバイゾ、降りるか、と思ったところが目的の停留所でした。
わずか十分にしては、何時間も揺られに揺られた気分で、林松寺バス停に着きました。
バスを降りた刹那は頭がボーッとしていて、周りの景色が目に入りません。林松寺がどこにあるのか、てんでわかりません。
ボーッと突っ立ったまま十数秒経つと、右斜め前方に墓石が建ち並んでいるのが見えるようになりました。目的のお寺はバス通りに背を向けていました。
道を「コ」の字型に廻り込むと、浄土宗堤根山林松寺の山門です。
足立区発行の「ブックレット足立風土記」によると、創建は永正三年(1506年)。芝・増上寺第四世・乗誉上人がこの場所に精舎を結んだのが寺の起こりとされています。
このあたりは古くは堤根といわれていました。その名付け親は乗誉上人で、精舎を結ぶときに、「ここに堤あり、故に堤根山とす。境内に松の大樹多く、故に林松寺と名付く」と述べたからだ、といわれています。
本尊は阿弥陀如来ですが、寺宝として薬師如来像があり、眼病に効験があるといわれて、参拝する人が多いそうです。しかし、この日は縁日であるのにもかかわらず、山門は閉ざされ、参詣者は私一人でした。
寺号の由来ともなった松の樹ですが、現在残るのは画像に映るこの松だけのようです。
※なお「新纂浄土宗大辞典」によると、増上寺四世は隆誉光冏上人という方です。増上寺の歴代住持の中にも乗誉上人という名は見当たりません。
林松寺から四分ほどで浄土宗西光寺。
「南足立郡誌」には、西光寺はいまから五百五十余年前、長誉上人によって建てられた、とあります。
次の玉蔵院までは西光寺からわずか一分。
創建は文明十八年(1486年)、九州出身の空眼法師と名のる方が、笈を負って巡行し、この地に小庵を結んだのが始まりである、といわれています。
本尊は開運地蔵菩薩。
玉蔵院から阿弥陀院までもわずか一分です。本尊は阿弥陀如来。
須賀外記という人が寛永年間(1624年-43年)に創立したと伝えられていますが、詳細は不明。須賀外記が何者であるのかも、いまのところは調べがついていません。
次の目的地・十三仏堂を目指すために、しばし立ち止まって、タブレットでグーグルマップを開きました。私が向かおうとしている方角に史跡を示すマークがあり、「流山道」と表記されています。
流山道と聞いて、私に馴染みがあるのは、松戸から野田へ走る通称・流山街道です。もちろんそれとは異なる道でしょう。
細い道を進んで行くと、何か特別なものがあるとは思えないような場所に説明板がありました。建てたのは「大門まちづくり研究会」となっていました。かなり大きな説明板です。
前の画像の左手に写っている説明板です。いまから七百年前の付近の様子が描かれています。
描かれた絵の右上方には寺があり、長い参道があって、大きな門が二つあります。参道を歩いている人の中には、烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)、括袴(くくりばかま)という出で立ちの男が何人か描かれています。平安時代の民衆の典型的な服装です。
記されているところを読むと、クネクネとうねっている小径の先に大乗院という寺があり、薬師堂がある、という記述があるので、行ってみることにしました。事前にインターネットで調べ物をしたとき、「足立区&薬師如来」ではヒットしなかった寺院です。
長い参道を歩いて、大乗院に着きました。帰ったあと、グーグルマップで計測してみたら、参道の長さは500メートルはありそうです。
山門は閉ざされていたので、通用門からお邪魔しました。
新義真言宗単立の寺院です。創建の時期は明らかではありませんが、鎌倉時代を下ることはないとされています。
室町時代の文明年間(1469年-86年)と江戸時代の文化年間(1804年-18年)と、二度火災に遭って、諸堂宇は焼失しましたが、本尊の聖観世音菩薩立像と薬師如来立像は災いを免れたということです。
毎年正月七日、初薬師の早朝、大門厨子の人々が持ち寄った藁で長さ6メートルほどの大蛇を編み上げて、木の枝に渡す、「じんがんなわ祭り」という行事があるみたいです。五穀豊穣と無病息災を祈願する行事です。
昔、薬師堂には白蛇がいたのですが、文明年間の火事で御堂が焼失すると、蛇も消え失せ、以後、飢饉、疫病が絶えなかったので、その蛇は薬師如来の使いであったとして、藁を持ち寄って蛇を編み、樹にかけたところ、疫病飢饉がなくなったという言い伝えによるものだそうです。
初薬師が正月八日ではなくて七日?
また新説が出てきた、と思ったら、足立区のホームページに「七草(一月七日)に農家は仕事を休むため、これ(祭り)を一月七日に行うこととし、長く伝えられてきました。平成二十一年(2009年)からは、成人の日に行われるようになりました」とありました。
なお「じんがん」とは、神願、あるいは蛇縄が訛ったものと考えられているそうです。
ところで、肝心の薬師如来ですが、いまから三百年ほど前に編まれた「新編武蔵風土記稿」には「薬師堂、これも未再興ならず」とあります。
大門厨子の「厨子」とは、仏像を納める容れ物のことではなく、どうやら集落とか講を指す言葉であるようです。このあと訪れる十三仏堂でも三ノ輪厨子と呼ばれる人々の集団が出てきます。
九年も前のものですが、YouTubeにこんな動画がありました。
惜しいのは、現地に着くまでこのお寺のことを何一つ知らなかったことです。もちろん祭りのことも知りませんでした。薬師如来がお祀りされている(いた?)、ということも、先の説明板で識ったばかりです。
門前に着いたとき、山門越しに本堂を撮した画像を見ると、中央やや左寄りに藁で編んだ蛇が写っています。それとは知らずにシャッターを押しているので、偶然写ったのに過ぎません。
説明板のあった場所に戻って、流山道をなおも進むと、寶積院がありました。本尊は十一面観世音菩薩。
創建は慶長年間(1596年ごろ)以前と考えられています。室町時代後期、このあたり(淵江領)を領地とする千葉一族がこの境内に妙見菩薩(千葉一族の守り本尊)を祀り、本尊十一面観世音菩薩とともに地域の信仰の中心としたので栄えたということです。
氷川神社。
ずっと歩いてきた道は、曲がりくねって、いかにも古くからの道のようではあります。しかし、果たしてこれが流山道なのかどうかと、なかば訝りつつ歩いてきたのですが、やっと説明板に出会って、間違いなく流山道を歩いてきたことがわかりました。
流山道の説明板があったところから100メートルほど歩くと、賑やかで、車の通行も多い通りに出ました。旧日光街道で、この地点が流山道の分岐点です。ここを右折します。
右折したところから200メートル足らずで、今日二つ目の目的地・十三仏堂に着きました。
この御堂は、旧保木間村の三ノ輪厨子によって守られてきたもので、建造年月は詳らかでありません。「新編武蔵風土記稿」には「庵、行基ノ作レル虚空蔵ノ木像ヲ安ズ」とあります。
右に写っている石段の上にあるのは付近の町会会館です。
十三仏とは、人が亡くなると、初七日から三十三回忌まで、十三回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦・大日・虚空蔵を指します。堂内には、この十三仏のうち、弥勒がありませんが、大日が金剛界と胎蔵界の二体あって、合わせれば十三仏。
門扉がガッシリと閉ざされているので、中を見ることはおろか、近づくことすらできませんが、納められている十三仏はいずれも高さ60センチ前後の木像で、全部同一の手法でつくられているそうです。中央には厨子に入った飯岡権現像があり、この像には「明治六年、高村東雲作」という銘があるそうです。
高村東雲(1826年-79年)とは幕末から明治初期にかけて活躍した仏師で、「智恵子抄」で名高い高村光太郎の父でもある仏師・高村光雲の師です。
十三仏堂をあとに最後の目的地・炎天寺に向かいます。流山道の分岐点を通り過ぎ、旧日光街道を増田橋の五差路まで南下して右折します。
西光院。真言宗豊山派の寺院です。
七年前の九月、伊興寺町を歩いたときにも覗いています。開基は河内与兵衛胤盛という人。河内氏は天正十八年(1590年)、小田原北条氏の没落後、竹塚村に土着し、のち徳川家に仕えて、代々名主を勤めていたそうです。
本堂前にある金剛界大日如来坐像(銅造)。
西光院の門前からは至近距離に神社の玉垣が見えました。八幡神社です。
八幡神社の隣が今日最後の目的地・炎天寺です。境内地は繋がっています。
炎天寺門前にある説明板と「日漏れては 急ぐ落葉や 炎天寺」という小林一茶の句碑です。
「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑。手前の池の中に大きな蛙と相撲をとっているやせ蛙のモニュメントがあり、彼方には一茶像があります。
炎天寺本堂。先の西光院と同じ真言宗豊山派の寺院です。「新編武蔵風土記稿」によると、本尊は阿弥陀如来。弘法大師作といわれる薬師如来を安ず、とあります。
炎天寺を最後に竹ノ塚駅に戻り、へっぴり腰になって、プラットホームへの階段を上りました。きたときと異なるのは、北千住で東武線から千代田線に乗り換えるとき、長~い下り階段に遭遇しなければならなかったことです。
私よりあとに電車を降りた客たちが足音を響かせて私を追い越して行きました。
→この日歩いたところ。