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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2023年終い薬師・さいたま市岩槻区

2023年12月08日 22時10分20秒 | 薬師詣で

 今年も最後の薬師詣で・終い薬師の日がきました。今月訪ねたのは、さいたま市岩槻区です。



 新松戸~南越谷(新越谷)~春日部と乗り換えておよそ一時間、東武野田線の岩槻駅に着きました。



 名にし負う人形の街・岩槻です。早くも雛飾りが……。



 最初に芳林寺(曹洞宗)を訪ねました。岩槻駅から八分。
 十一年前の十一月、岩槻の街を歩いたとき、最後に訪れたのがこのお寺です。訪れた時刻はすでに日没後だったので、今日の機会に再度参拝しようと思いました。



 山門を入ると、右前方に馬に跨った太田道灌像が見えます。



 前回参拝時はほとんど真っ暗だったので、こんな道標があったことには気づきませんでした。

 創建年代は不明ですが、覚翁文等(1595年示寂)によって開山されたことから、戦国時代の創建と推測されています。元々は武蔵国比企郡松山町(現・東松山市)にあって「地蔵寺」と称していましたが、太田道灌(資長)の孫・資高が母・芳林院の追善供養のため、現在地に移転させ、名を「芳林寺」と改めました。



 太田道灌の墓所。芳林院と岩槻太田家の氏資が合祀されています。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。



 芳林寺から十二分歩いて彌勒密寺に着きました。



 彌勒密寺本堂。



 薬師堂。



 次に参拝する玉泉院は同じ岩槻区内とはいえ、随分離れています。バス停を捜して歩いていたら、千手院の前を通りかかりました。ここも十一年前に参拝しています。
 曹洞宗のお寺です。バスの時間が迫ってきたので、歴住の墓所への参拝は割愛。



 さいたま市というところは自転車に対する姿勢がしっかりしています。逆走防止の看板やこのような区分表示は松戸市内では見かけません。



 東町二丁目から国際興業バスに乗ります。



 乗車三十分、ウィングシティ南というバス停で降りました。



 越谷街道を東進。畷(なわて)橋で綾瀬川を渡って行きます。



 途中にこんなのがあってびっくりしましたが、建築装飾の会社でした。



 バスを降りて歩くこと二十四分。玉泉寺に着きました。創建年代は不詳ですが、開山の玉泉心泰大和尚の没年が慶長二年(1597年)であることから安土桃山時代の創建となります。我が曹洞宗のお寺で、本尊は薬師如来です。



 ここでも歴住の墓所に参拝します。手前の大きな卵塔は十二世中興・雲渓泰岳大和尚のもの。



 玉泉寺から歩いて四十分、帰りは武蔵野線の東川口駅から。
この日、歩いたところ


2023年十一月の薬師詣で・調布市

2023年11月12日 21時49分37秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣で。
 八日の縁日は所用があったので、今日十二日の縁日に日延べ。東京・調布市を歩いてきました。
 十一月十二日というと、二年前、火事に遭った日でもあります。歳を重ねて、月日の経つのは滅法早くなったと感じられるのに、この火事に関しては、まだ二年か、という思いがあります。そんなことを思いながら電車の人となります。

 常磐緩行線直通の東京メトロ千代田線で新御茶ノ水まで行き、小川町で京王線直通の都営地下鉄新宿線に乗り換えました。
 東京都民であったころから京王線というのはあまり乗ったことがありません。地下を走っていた線路が幡ヶ谷で地上に出ますが、高架になったり地上になったり、また地下になったりと忙しい。



 新松戸から所要九十分、調布の一つ前・布田駅で降りました。この布田駅は地下駅です。

 今日、最初に訪れるのは常性寺です。布田駅を出るとすぐ。



 門前を走るのは旧甲州街道。
 真言宗豊山派の寺院。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代、多摩川沿いに創建されと伝えられています。慶長年間に現在地に移転、祐仙法印が成田山新勝寺から成田不動尊を勧請して中興。調布不動尊と称されています。



 奥まったところに本堂があって、金色の薬師如来がお祀りされていました。
「調布市百年史」には、「薬師堂。方三間赤塗り、堂内正面の壇上に古色豊かな厨子が安置されている。この堂は由緒あるもので、その建立は文化(1804年-18年)のころ、一名虎薬師とも呼ばれて秘仏とされていた。高さ一尺一寸の木彫の像があり、鎌倉時代の作と推定されている」と記されているので、昔は別に薬師堂があったようです。



 地蔵堂。



 常性寺から二十四分で次の祇園寺に着きました。
 天台宗の寺院。深大寺を開創した満功上人が天平勝宝二年(750年)に創建したと伝えられています。関東九十一薬師霊場十番。



 山門を入ると、すぐ左に薬師堂がありました。



「新編武蔵風土記稿」には、「薬師堂。三間に三間半、客殿の東にあり、虎柏山(祇園寺の山号)の三字を扁す立身の木像、長一尺許、行基の作と云、并せて日光月光立身の木像あり、長一尺許、同作、又曇花大師の木像あり、いかにも古色なり、薬師の胎内に弘法真跡の心経一巻を蔵む、前立薬師佛立身の木像長一尺七八寸、是は恵心の作といふ、往古はこれより巽の方、冷田耕地の内虎ヵ鳩といふ所にありしを、後にこの地へ移せりとぞ」と記されています。
 格子の扉の奥に薬師如来がお祀りされているのが見えましたが、暗くてよくわかりませんでした。



 薬師堂に相対して閻魔堂がありました。



 最後の清教寺(天台宗)に向かう途中、しばらく野川の河畔を歩きました。桜の枝が傘のように覆い被さって、春はさぞ賑わうだろうと思えますが、いま、歩いているのは私だけでした。



 帰りの電車に乗る予定の京王線柴崎駅近くで、この墓所を見つけました。周りを見回してみましたが、寺の伽藍らしきものが見えません。周辺を歩き回ってみましたが、やはり寺らしきものはありませんでした。墓所に入ると、スマートフォンのグーグルマップは私がまさに清教寺に到着していることを示しています。



 さほど広くない墓域を巡ると、一番奥に歴住の卵塔がありました。この墓所が境外地だとすると、歴住の卵塔を置くはずはないので、ここが清教寺だと知れます。ただ、「清教寺」と彫られた石柱の画像を見たことがあるのに、ここにはそのようなものはないので、ちょっと狐につままれたような感じが残っています。

「新編武蔵風土記稿」には「開山開基詳かならず。本尊弥陀」と記されていますが、「調布市百年史」には本尊は薬師如来と記され、「本寺薬師仏は秘仏とされ、行基作と伝えられるが俗にかわらけ薬師と呼ばれ、乳の足りない者が土器を供え、祈願すれば乳がでるようになるといわれ、信仰を得ていた」とつづいています。



 帰りは行きに降りた布田のふたつ新宿寄り・柴崎駅から。この駅は地上駅でした。

 薬師詣での日はやはり佳きことがあります。
 庵を出るときは小雨でしたが、調布に着いたときには熄んでいました。天気がよくなかったこともあったのでしょうか、電車は空いていて、行きも帰りも全線座席に坐ることができました。すべて待つことなくきました。ことに帰りの千代田線は二分の一の確率でしかこない常磐線直通の電車に待つことなく乗ることができました。

この日、歩いたところ。


2023年十月の薬師詣で・さいたま市桜区

2023年10月08日 21時24分53秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では、先月につづいてさいたま市の桜区を歩いてきました。

 

 京浜東北線
北浦和で下車。西武バスに乗ります。
 このバスの終点は大久保ですが、時間によっては浦和北高まで行く便があります。

 先月の薬師詣で ―。
 帰るとき、バスに乗った(系統は違いますが)のが浦和北高でした。
 埼玉県の天然記念物・薬師堂のマキがあることで有名な塚本薬師堂を訪ねて、すぐ近くまで行きながら、それまであまりにも歩き過ぎていたために、腰痛に見舞われてしまいました。捜すのを諦めて、帰途に就こうと戻ったところが浦和北高バス停だったのです。
 北浦和まで電車に乗ると決めたとき、そこまで行って、もう一度塚本薬師堂を捜してみようかと、ふと考えたのでした。
 ただし、浦和北高バス停と塚本薬師堂間は往復約3キロ、時間にすると四十分。一昔前ならともかく、いまの私にとっては、なるほど四十分ですか、などと気安くいえるような距離ではありません。

 この薬師堂が有名なのは、天然記念物のマキがあるからではなく、むろん薬師堂でもなく、幽霊が出るらしいという心霊スポットであるからなのだそうです。
 何人かがブログに取り上げていて ― さすがに幽霊が写った画像の紹介はありませんが ― そのうちのいくつかには入口に当たるらしきところに「薬師堂のマキ」という立て看板があるのが写っています。
 と、いうことなら、グーグルのストリートビューを見れば、入口がどんな様子なのかわかるはず ― そう思って、グーグルマップを開いてみましたが、荒川堤防を下るところから進んで、薬師堂の真横にきているはずなのに、立て看板はない。
 先月途中で案内を乞うた人も「作業小屋のような小屋があって、看板がある」と教えてくれたのですが、何度か行き帰りを繰り返してみても、看板はない!
 昨日もストリートビューを開いて挑戦してみたのですが、やはり看板は見当たらない。

 このような経緯があったので、行くのは諦めるか ― なかばそう思いながら電車に乗っていたのですが、乗っていた武蔵野線は新三郷の駅で六分も発車待ち。さらに南越谷でも四分延発。
 車掌は後続の電車が遅れているので、時間調整のため……とアナウンスするだけで、なぜ遅れているのか理由をいわない。まあ、理由を聞かされたところで仕方がないのではありますが。
 電車が時刻どおりであれば、一本前の浦和北高行のバスに乗れたのですが、次に浦和北高まで行くバスは一時間後。とても待てません。やはり諦めるしかないようです。
 私にとっては別の意味での心霊スポットなのかもしれません。



 北浦和駅から乗車二十四分。終点の二つ前・片町バス停で降りました。

 

 バス停から程近いところに今日最初の目的地・大久保領家薬師堂がありました。
 しかし、上の画像にあるように、立派な石碑が建立されているのに、自治会館らしき建物があるだけで、肝心の御堂が見当たりません。しかも、入口にはチェーンが張られていて、入れません。グルリと廻って自治会館の横から入って境内を見渡してみましたが、墓所があるだけで、御堂はありません。
 石碑をよくよく見てみると、標題は「薬師如来由来」とあって、「薬師堂由来」ではありません。踵を返して自治会館を眺めてみれば、縁台に賽銭箱が置かれてありました。雨戸が立てられてあって、中を窺うことはできませんが、きっとこの奥に薬師如来が祀られているのであろう。そう考えてお賽銭を投じました。
 先の石碑には、明治五年の廃仏毀釈令によって廃寺になるまで薬王山光明院満願寺という寺があり、本尊の薬師如来は行基の作、と記されています。



 自治会館後ろにあるヒイラギ(柊)の樹。さいたま市指定の天然記念物で、高さ9メートル、幹周り1・72メートル。説明板には「十月にキンモクセイよりも穏やかな香りがする白い小花を咲かせ」とありましたが、見たところ花らしきものは何もありませんでした。

 次に目指すのは重圓寺です。

 

 途中、通りがかった道路には街路樹にハナミズキ(花水木)が植えられていて、真っ赤な実が熟していました。



 大久保領家薬師堂から重圓寺までは徒歩二十七分。途中で左に折れるべきところを右に折れ、しばらく気付かぬまま歩いてしまったので、事前のシミュレーションより十分も多くかかってしまいました。



 重圓寺は無住でしたが、真言宗智山派の寺。「
新編武蔵風土記稿」には「新義眞言宗、與野(与野)町圓乗院の末、薬王山と號す、本尊薬師を安じ、傍に運慶が作れる如意輪観音を安ず」とあります。
 文中にある圓乗寺は2010年の十一月五日、与野へオオカヤ(大榧)を見に行ったついでに参拝しています(与野の大榧を見に行)。

 最後に訪ねるのは上ノ宮薬師堂です。今回はすべて北から南へ下る行程でした。
 昔はプリントした地図を持ち歩いていましたが、スマートフォンを持つようになってからは地図アプリが頼り。北から南に向かうときはスマートフォンの上下をひっくり返さなければなりません。文字が見づらくなるのと面倒臭いのとで、つい頭の中だけでひっくり返していると、右と左を間違えてしまいます。それに歩きつづけていると、当然のことながら疲れも発生。足腰だけではなく、脳も疲れるとみえて、逆方向に曲がってしまったことにはすぐに気づかず、無駄足を踏むということになります。それも一度のみならず、二度も三度も……。



 この薬師堂に到着する前も右に曲がるべきところを左に曲がる始末。必要以上に疲れて辿り着きました。

 

 上ノ宮薬師堂の創建年代等は不詳。「新編武蔵風土記稿」には「醫王寺(真言宗智山派)の持」と記されているだけで、詳細はよくわかりません。
 さいたま市を中心として十三ある関東東向寅薬師の第三番で、この薬師堂を最後に十三すべて参拝済ということになりました。



 帰りは埼京線の中浦和駅に出ることにしました。上ノ宮薬師堂からは十分足らずのところですが、この行程も北から南に向かう形になるので、ここでも右折と左折を取り違え。
 しかし、随分長く歩いた割に腰痛は出ず、それほどの疲労にも見舞われませんでした。
 出だしは電車の遅れに祟られた上、幾度も方角を間違えるというミスを犯しながら、ヘトヘトにならずにお勤めを終えられたというのは、やはり薬師如来のご加護があったからなのかもしれません。

この日、歩いたところ(大久保領家薬師堂から中浦和駅まで)。


2023年九月の薬師詣で(2)・さいたま市西区~桜区

2023年09月12日 21時22分53秒 | 薬師詣で

 今月八日、薬師如来の縁日は台風13号襲来で終日雨。出かけるのは今日十二日の縁日に日延べ。
 今月と来月の薬師詣では二回に分けて、さいたま市の西区から桜区を歩きます。

 


 京浜東北線を大宮で下車。西口から西武バスに乗ります。



 乗車二十四分。加茂川団地入口というバス停で降りて、歩くこと十三分。今日最初の目的地・東光院に着きました。



 山門を入った左手には、祠内に永禄十三年(1570年)の銘を刻んだ二基の五輪塔がありました。



 東光院本堂。「新編武蔵風土記稿」には「本尊は薬師恵心の作といふ」と記されています。



 我が曹洞宗の寺院なので、本堂に参拝したあとは歴住の墓所に焼香、参拝。



 傍らにあった歴代和尚供養碑を見ると、第一世は室町時代の僧・月江正文大和尚(?-1462年)と彫られています。埼玉県越生にある静穏寺の二世で、十一年前七月の薬師詣での折に参拝した普門院の開山でもあります。
 創建年代等は不詳とされているこの東光院ですが、開山が月江正文大和尚ということであれば、創建は十五世紀なかごろということになります。
 大和尚の人となりなど何も知りませんが、懐かしい人に出会ったような気持ちになりました。

 参道に掲げられた説明板には、「山門前から荒川まで続く風に波打つ緑一面の水田が見渡せます」と記されています。現在はさすがにそんなことはありませんが、それでも広い田んぼが広がっていました。
 この日の天候は晴れたり曇ったり。日陰がないので、太陽が出ると、暑い! 暑い!



 事前のシミュレーションでは二十二分のはずでしたが、東光院から三十分以上歩いて東福寺に着きました。
 なぜ時間がオーバーしたかというと、スマートフォンのグーグルマップでは真ん前に着いているはずなのに、寺院らしき伽藍が見当たらない。アテもなくグルグル彷徨った挙げ句、交番が見えたので訊ねることに。
 寺とはいっても、いまでは付近の自治会館の敷地に御堂がポツンとあるだけ。しかも入口は別の方角。交番からは二、三分という距離なのに、ここに寺があるとは警察官も地図を見るまで知らなかったようです。



 真言宗智山派の寺院。「新編武蔵風土記稿」には「瑠璃山と號す、新義眞言宗、植田谷本村林光寺末、本尊薬師を安ず」と記されているだけで、創建年代等は不詳です。



 東福寺があったのはこの自治会館の傍らでした。

 東福寺参拝を終え、最後に目指
したのは「薬師堂のマキ」として、薬師堂ではなく樹木の「槇(マキ)」のほうが有名な塚本薬師堂です。
 この日のさいたま市の最高気温は33・4度。ひところの猛暑のときに比べれば、暑さは穏やかになっているのかもしれませんが、雲が切れると、強い陽射しが照りつけます。一度涼しい気候を経験してしまっているので、身体のほうは暑さにはからきし弱くなっています。
 荒川の土手に上がれば多少は涼しいかと思いましたが、無風状態でした。ちょうど一年前、脊柱菅狭窄症を発症したあと、腰痛に見舞われるようになっていたので、それまでなんとか歩いてきたものの、腰の具合は最悪に近い状態になってきました。
 そして……。堤防を上り下りした挙げ句、ここでもグーグルマップでは薬師堂の真横近くにきているはずなのに、入って行けそうな径がない! 一刹那でも腰を下ろして休まなければ、とても歩くことはできない、という状態まで追い込まれていたので、農業用のポンプ小屋らしき建物の陰で休憩。ゼエゼエと息をつきながら、今日の日はここで諦めることにしました。



 堤防を下り切ったところ、行くときには気づかなかった、こんな標識があるのに気づきました。



 帰りは浦和北高校バス停に出て、国際興業バスに乗ります。車内の空調の涼しさに、まさに生き返ったような心地を味わいました。



 バスは浦和駅西口行。京浜東北線に乗って帰途に就きました。


2023年九月の薬師詣で(1)

2023年09月08日 15時39分25秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣ではさいたま市を歩くつもりでいましたが、折悪しく台風13号の襲来で終日雨。ときおり雨脚の弱まることはありましたが、いつザッとくるかわからない、という状態では、酔狂な私でもさすがに出かけるのは二の足を踏んでしまいます。
 で、今月の薬師詣では十二日の縁日まで日延べすることにして、今日は数日前に手に入れておいた薬師三尊に水のお供えをして焼香することでおしまいにしました。



 十二日は天気もよさそうです。