時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

四川省の大地震

2008年05月17日 | 社会問題
今回の地震によって、多数の死傷者が出た四川省の農村地区の様子が新聞などで報道されている。
がれきの山を重機で取り除きながら、雨の中を昼夜を分かたず不明者の捜索を続ける姿やたまたま通りかかった道で、顔面にケガをした見知らぬ小学生(7歳)を捨てておけず、バイクに乗せて治療を求めにやって来た男性の姿なども報じられている。また、崩れゆく校舎に入って、何名かの子供たちを救出しながら、自らは出血多量で亡くなった新任教師の美談も伝えられている。
極限の状態にあっても、人間としての理性の発露を見る思いで、この種の記事を見ている。日本でも、阪神大震災や上越地震の際によく見かけた行動である。
その一方で、目を塞ぎたくなるような記事もある。
住民たちが支援物資を積んだトラックを止め、荷台の物資を奪い合う事態が発生したそうだ。
幹線道路沿いに住民約100人が集まり、「災害支援」と書かれた横断幕をつけたトラックを無理やり停車させ、荷台に積んであった飲料水を箱ごと奪った。さらに、制止に入った公安車両の窓ガラスを飲料水の容器でたたく住民もいた。住民の1人は「被災者なのに誰も助けてくれない。奪って何が悪い。」と怒りをあらわにしたという。
地震後、停電と断水が続き、食料が不足するなか、政府の支援が遅れていることに被災者の不満が高まっていることが背景にあると報じられている。
数キロ離れた別の地区でも、この日初めて到着した支援物資に住民たちが殺到。支援者の制止を振り切り、ゆで卵や飲料水などを奪ったという。
建物が全壊している地域では、自宅にある食料も持ち出せず、その日の食料さえ手に入らないという状況は理解できるし、病人や子供、高齢者などの弱者にさえ食料や水がないという極限の状況の中での行為であることは理解できるが、「奪って何が悪い。」と言われると、釈然としないものを感じる。
阪神大震災や上越地震でも、多くの被災者が肩を寄せ合って助け合う一方で、「火事場泥棒」を働く不届き者がいたり、食料を法外な価格で販売した商店があったことも事実である。
極限の状態において人間の理性がどのように働くのかは、日常生活の中では想像もつかない。支援物資のトラックから支援物資を強奪した人たちを頭から非難する資格は、誰にもないように感じられる。
最近も、関東地方で小規模な地震が続いている。
日本では、いつどこで大規模な地震や火山の噴火があってもおかしくはない。また、ミャンマーのような大規模な水害が発生する危険性も高い。
大規模な災害の中では、被害者は「自分」だけではない。自分よりももっと悲惨な被害を受けた人たちがたくさん発生する。このような時に、少なくとも数日間は、公的な支援を期待しても仕方がない。混乱の続く数日間は、国や自治体の援助を過大に期待してはならない。
どのような災害に見舞われても、家族や隣近所で必要な物資を分け合うことができるような最小限度の準備を各家庭で整えておくべきであろう。
被災者になった時に、少なくとも自分と家族だけでも見苦しいマネをしなくて済むように対策を立てておきたいと思っている。