阿部ブログ

日々思うこと

ミャンマーのラカイン州問題 ~さまよえるロヒンギャ族~

2013年01月03日 | 日記

ロヒンギャ族は、旧日本軍の第55師団(-1Bn)が第1次&第2次アキャブ作戦を展開した地であるアラカン地域に古来住むイスラム教徒。ロギャンの由来は、アラカンと言う地名の前の呼称であった「ロハンス」が由来と言う。
ミャンマーに限らず少数民族の問題が発生する要因は、西欧による植民地支配、2度の世界戦争、当事者を無視した勝手な国境線画定。そして必ず宗教問題が絡む事となる。民族紛争、これが現在の途上国における成長を妨げている。

現在のバングラデシュ南東部とミャンマー南部は、アラカン王国が15世紀から1784年までイスラム国として勢力圏をして確立しており、当時のロヒンギャ族は、北アラカンの峻険な山域に住む民族だったが、アラカン王国と経済交流しつつ、傭兵などとしてもある一定の役割を果たしていたようだ。
1784年以降、アラカン王国は、仏教徒の新興勢力であるビルマ王・バダワファヤによって軍事的に征服されその支配下に下った。故にビルマ王国内部には仏教徒とイスラム教徒が混在する事となったが、ロヒンギャ族もバングラディシュ南東部からミャンマー国境地帯に継続して生活の基盤を得て、民族と宗教の違いを超えて交流・交易して自活していた。しかしそこにイギリスがインドからバングラディシュを超えてビルマに侵入し状況が一変する。

イギリスの統治下に下った植民地ビルマに対し、イギリス総督は「分割して統治せよ」を地で行く施策を下す。それは現在のラカイン州に相当する地域の農地を仏教徒とから取り上げてロヒンギャ族などイスラム教徒に再配分し、同地からにおける経済主体としての仏教徒を排除したのだ。これが現在に至までの宗教紛争&民族紛争の原因である。因にイギリスが1824年にビルマに侵攻し植民地化した当時のアラカン地域の人口は約1万人程度で、その3割がロヒンギャ族などイスラム教徒であった。またビルマ全土における民族数は135族と当時のビルマ総督府は結論している。

さて、1942年、日本軍がビルマに進攻し、同国を掌握するとイギリスとは逆の施策を打ち出すのだ。即ち、我々になじみの仏教徒を支援するのだ。これに呼応して旧アラカン、旧ビルマ王国の仏教徒が、イスラム教徒の追放を企て、実際にバングラディシュ地域のイギリル占領地域に追い出してしまう。これに至り民族問題と宗教問題に加えて土地問題も加わり怨恨が怨恨を呼ぶ結果となり現在に至る。

日本は、ビルマの占領政策としてアウンサンスーチーの父親であるアウンサンを日本に招聘して様々訓練を施し、ビルマ現地に親日的軍事勢力を確立しようと試みるのだが、日本は早くも1943年以降、ウインゲート空挺団による神出鬼没のゲリラ戦や、第2次アキャブ戦、雲南戦、インパール作戦などにより第18軍は壊滅状態となり、シッタン川渡河を経て1945年8月の敗戦を迎える。
そして1948年、ビルマは独立する。
新生ビルマの市民権法によりロヒンギャ族もビルマ国民と認められたが、1962年の軍事クーデターによるネ・ウィン将軍により民主勢力は一掃され、非民主化の一環としてイスラム教徒であるロヒンギャ族の市民権を剥奪し無国籍とすることを断行した。更にロヒンギャ族にとって不幸にも1966年にはバグラディシュとビルマとの国境がナフ川に決まり、これを期にロヒンギャ族は両国に分断される形となってしまった。

この後のビルマ軍政府のロヒンギャ族への対応は苛烈を極める。軍政府、ロヒンギャ族などイスラム教徒の財産を没収し、強制労働収容所に隔離し、スターリン並の無害化(殺害)を執行した。そして彼らは、ロヒンギャ族の教育や就職などへの権利を剥奪し、公的サービスへのアクセスを拒絶した。勿論、結婚するにしても当局の許可が必要だった。このような状況に耐えきれずロヒンギャ族は1978年と1991年にバングラディシュなど難民として多くが流出するに至っている。

国連はこの事態を看過しなかった。1992年に国連決議144/47を通過させ速やかに国連難民高等弁務官事務所、UNHCRが行動起こしバングラディシュのコックスバーン地区に大規模な難民キャンプを設立し2万8000人のロヒギャン族などを収容している。しかしビルマ軍政府は96年には7万人規模の軍隊をラカイン州に投入しロヒギャン族への弾圧を行って、更なる難民を生み出している。

バングラディシュ政府は、自らも貧困状態にある途上国ゆえ、大量の難民を受け入れる事は非常に難しく、実際に難民キャンプ周辺地域の住民と紛争が発生するようになっており、ロヒギャン族をビルマに移送するようになったが、彼らはこれを嫌い小型船で近隣のタイやマレーシア、それと裕福なイスラム教国に難民亡命する事態となっている。天災も彼らに災いする。2010年に発生したのラカイン州北部の山崩れとモンスーンの影響でで約7万5000人の難民が発生しており、昨年中盤からの国内紛争で更に大量の難民が発生する事態となっている。

この天災以降もミャンマー国内ではロヒギャン族が関係するトラブルは多発し拡大の一途であったが、現在のような大量の難民を生起せしめた事件は、昨年5月28日に発生した。ラカイン州中部の村でロヒンギャ族などイスラム教徒が、アラカン族の女性を強姦した上、殺害したことに端を発している。これ受け6月3日にラカイン州南部においてのアラカン族が報復としてロヒンギャ族が多数の乗っているバスを襲撃して10人を殺害、重軽傷者多数を出す事件が再発。これ以降、ロヒギャン族などイスラム教徒とアラカン族など仏教徒との対立は激化し、6月末時点で死者約80人、負傷者約90人を数え、仏教寺院やのイスラム教モスクなど宗教施設も3000棟以上が襲撃や放火などで破壊れると言う宗教&民族紛争に拡大している。

この地域民族紛争は10月21日更に拡大する。原因はミンビャー市のとある村での些細ではない夫婦喧嘩で発生した火事。この火事騒ぎが、アラカン族(仏教徒)とロヒンギャ族(イスラム教徒)との擾乱に更なる業火を降り注いだ。この紛争拡大の結果は、死亡者90人、重傷者約150人、破壊された家屋5400となり、同地から3万2300名がバングラディシュなどに脱出している。

この10月は、ラカイン州だけでなく、ミャンマー国内では各地の工場労働者によるストライキが多発しており、小銃などで武装するものたちが現れ過激化するなどして当局と暴力的に対峙するなど、明らかに外国勢力の支援を受けたと思われる事例が散見され、ミャンマー政府は刀狩りならぬ銃器狩りを行って治安の安定に躍起になっているが、今後も余談を許さない。

現在もラカイン州には国境警備隊と警察、それと陸軍部隊も含め同地の治安維持にあたっているが、ロヒギャン族のバングラディシュへの脱出は続いている。しかしながらバングラデシュ政府は、国境警備隊に命じて国境沿いで捕まったロヒンギャ族をミャンマーに送り返している。ラカイン州の民族&宗教紛争が終息しなければ、ロヒンギャ族のミャンマーからの脱出は増える事があっても減る事はないだろう。アウンサンスーチーも同州の問題については言葉を濁しており具体的な解決策を口にする事はない。

インド海軍の伸張とアメリカ、日本など中国封じ込めを企図する勢力による旧援蒋ルート封鎖と、それを阻止しようとしている中国・華僑集団との勢力争いが激化するすれば、ラカイン州においては、また様々な悲劇が同地において繰り広げられるだろう。