阿部ブログ

日々思うこと

「ゾクチェン瞑想マニュアル」読了

2019年09月30日 | 雑感
「ゾクチェンの瞑想マニュアル」を読了。この本は、チベット語のお経からダイレクトに日本語に翻訳し、これに著者ご自身の瞑想修行での経験・知見がわかりやすく説明されており、瞑想やチベットに関心のある方にオススメの本だと言える。但し、著者が「今生で一度は加行を満行することを奨める」と言われている通り、加行を満行(確かな成就の印を得て)した後に行う瞑想修行に就いてのマニュアルである。
加行とは、『ボン教の楽しい宝箱』によれば、①発菩提心、②帰依と③五体投地、④⑤⑥三種の真髄のマントラ、⑦百音節真言、⑧曼荼羅供養、⑨グルヨーガの9種類をそれぞれ10万回行うので、ブム・グ(90万)と言われるとある。

    

ボン教の加行を行うにあたり参考になるのが「光明の入口」である。百字音節真言への言及はあるものの、具体的な修行方法は書かれていないが、他の加行に就いては、その心髄が書かれている。著者がボン教を知るに参考になると推薦されているのが、『四川チベットの宗教と地域社会』である。加行を地域住民が行う様子が詳細に書かれており、とても興味深い本だ。
      

※過去ブログ:「四川チベットの宗教と地域社会を読む
       「「光明の入口」に勇気づけられ、田川健三の「新約聖書 訳と註」の訳業に感動する〜

著者が奨める本がまだある。高藤聡一郎の『神秘!チベット密教入門』と『秘伝!チベット密教奥義』である。
ボン教に就いて書かれているのは、『神秘!チベット密教入門』で「第3章 謎のセクト・ボン教の秘められた教義を明かす!」(89ページ〜116ページ)である。高藤聡一郎は仙道家として、また恐妻家として有名である。私は二冊とも手元にあるが、今でも入手可能なのだろうか? 

    

高藤は、仙道修行で培ったノウハウをチベット密教に当てはめて、今生で(道教的観点から)成果を得ることを目指したノウハウ本で、画期的な内容だと思う。
さて、「ゾクチェン瞑想マニュアル」の著者は「帰依と慈悲」が一番重要で、私達の唯一の拠り所なのだと云っているが、ワタクシは素のまま信じることができる。

北京から愛をこめて〜最凶合成麻薬フェンタニル(Fentanyl)

2019年09月29日 | 雑感
落合信彦の「北京から愛をこめて」には、中国共産党が北米や欧州に麻薬輸出している実態を報告しているが、それは今も継続している。今、売れ筋なのが最凶の合成麻薬である「フェンタニル」である。
 

フェンタニルは、粗ヘロインとフェンタニルを10:1の割合で混ぜ合わせて作られる。中国からは、フェンタニルと酢酸塩と亜塩素酸塩が一つのキットとして輸出される。現地では、粗ヘロインと塩素とアルコールなど怪しまれずに現地調達できる薬品を調達し調合する。
最初に固形に成形された茶色の粗ヘロインを粉体にする。これに中国からのフェンタニルを混ぜる。前述の通り混合の割合は10:1。ここが肝心でフェンタニルは微量の違いで効果が大きく異る。多すぎると摂取した人間を死に至らしめるし、少なすぎると合成麻薬としての顧客満足度が低下する。最凶合成麻薬フェンタニル製造業者の腕の見せ所だし、最終消費の評価に直結する。粗悪品を製造しては中長期的観点から持続的な儲けにつながらないのだ。
フェンタニルと粗ヘロインに複数の工程にて塩素、酢酸塩、アルコール、亜塩素酸を混ぜて混合、反応させ最終的に固形化するまで煮詰める。固形化したブツは、半日ほど日光の微弱な紫外線を当てて水分を飛ばし殺菌する。ヘロインの製造もそうだが、フェンタニルの調合でも特有の匂いが生じるし、フェンタニルを皮膚に付着するのを避ける必要がある。理想は軍隊が用いる化学戦防護服が必要だ。調合過程でフェンタニル依存症となる可能性が非常に高い。10:1の調合ができるスキル者は、そう多くはないだろうから、取仕切っているボスも注意するポイントではある。しかし、中国はフェンタニルの調合については失敗しないようフェンタニルの調合キットには、厳密なフェンタニル量と作業指示書を付けており、実地にトレーニングも行っている。

粗ヘロインではなく、純度を高めたヘロインと混ぜる「エル・ディアブリート(El Diablito)も売れ筋のようだ。

Fentanyl is made by mixing crude heroin and fentanyl in a 10: 1 ratio. From China, fentanyl, acetate and chlorite are exported as one kit. The company will procure and mix locally available chemicals, such as crude heroin, chlorine and alcohol, without any suspicion.
First, the brown crude heroin formed into a solid is powdered. Mix this with fentanyl from China. As mentioned above, the mixing ratio is 10: 1. This is the key point, and the effect of fentanyl differs greatly depending on the minute amount. If the amount is too large, the ingested humans will die, and if the amount is too small, customer satisfaction as a synthetic drug decreases. It is a highlight of the virtuoso synthetic drug fentanyl manufacturer and directly linked to the assessment of final consumption. Producing inferior goods does not lead to sustainable profits from a medium- to long-term perspective.
In a plurality of steps, fentanyl and crude heroin are mixed with chlorine, acetate, alcohol, and chlorous acid, mixed, reacted and boiled down until finally solidified. The solidified butter is exposed to the weak ultraviolet rays of sunlight for about half a day to remove moisture and sterilize. As with the production of heroin, the formulation of fentanyl also produces a unique odor, and it is necessary to avoid attaching fentanyl to the skin. Ideally, you would need the chemical warfare suit used by the military. It is very likely that fentanyl dependence will occur during the compounding process. It's important to note that the boss in charge may not be able to make a 10: 1 mix. However, China has strict fentanyl dosages and work instructions in its fentanyl brewing kits to ensure that fentanyl brewing does not fail.

Mixing with pure heroin instead of crude heroin, "El Diablito seems like a hot seller.

内藤湖南(内藤虎次郎)の満州に関する文章が稲葉岩吉の『満州発達史』の冒頭に掲載されている

2019年09月22日 | 雑感
内藤湖南(内藤虎次郎)の満州に関する文章が稲葉岩吉の『満州発達史』の冒頭に掲載されている。
稲葉博士は、序文を内藤に頼んだのだが、かえってきたのは、下記のような長文を含む序文であった。当然、内藤虎次郎の下記序文はポイントを落として(多分9ポイント?)掲載されている。

「(略)古代から満州は、支那の大部の方に聞こえて居つた。三千年も前から、粛愼と云う名で聞こえて居る。日本の歴史にも、大分後に即ち千二三年も前に、この粛愼という文字が現れて居る。粛愼の人が渡つて来て佐渡ヶ島へ来たとか、北海道地方に居つたといふことが書いてある。併し其頃は、本当の粛愼の本部があつたのは極く古いので、松花江へ入る河に通称牡丹江と伝ひ、満州語では呼見○河というふがある。其の牡丹江の沿岸地方に大きな湖水がある。是は支那人は昔から鏡泊と言っているが、其湖水の少し北の方に、粛愼の昔の痕がある。勿論それは、粛愼の首都で、粛愼種族は、其處を中心にして、大分満州各地に廣がって居つたものに相違ない。此の粛愼として支那に知られた間は、幾年位かと云うことは分明せぬが、略ぼ三千年前から二千年前までの間、粛愼又は稷愼等の名で聞えて居った。
其次に起こったのは、漢の末頃、即ち今から千八百年位前に知られて居った國で高句麗、是は日本の古史で知られて居る高麗と同じで随分大国である。其時分、漢では遼河の沿岸の今の奉天以北までも版図を広め、鴨緑江の沿岸も、海口の処に朝鮮へ交通する路が開けて居ったが、高句麗は、鴨緑江の沿岸地方を主なる部分として國を樹てて居った。今一つ扶余と云う國があり、高句麗よりも少し古く開けたらしく前漢の末から知られて居るが、それは今の南満州鉄道の終点、長春府の西北に農安懸と云う所があるが、此處が中心で、夫から西遼河の沿岸に廣がって居った。此二國は漢の中頃より末頃にかけて満州で有名な大きな國であった。其の歴史は随分長く続いて居るが、扶余の方が先づ亡んだ。扶余が亡くなった後に、高句麗は益々大きくなって、七百年間も継続した。其晩年には朝鮮の方まで繋がって、今の平壌に都をして居って、併せて満州まで手を廣げて居った。此國も鴨緑江の沿岸を中心に其の晩年には朝鮮の方まで廣がって、今の平壌に都をして居って、併せて満州まで手を廣げて居った。此國も鴨緑江の沿岸を中心にして起こったが、此國が滅んだのは、唐から攻められた為で、其際に日本と支那との勢力が朝鮮満州地方で始めて接触した。其時から、日本は、満州に対して何事か出来ると云う運命を現はし始めたのである。是が唐の高宗の時、日本の天智天皇の時である。
高句麗が滅んで、又満州の種族が直ぐ之に代って、高句麗より遥かに大きな國を樹てた。それは、日本とも永く交通した國で渤海国である。勿論種族から、言葉から、高句麗と少しも変わりはない、今の満州種族である。何故に唐が一方に盛であるのに、亡んだ高句麗よりも大きな國が満州に於いて樹てられたかといふと、唐の則天武后の頃、満州と支那大部との間に一種の種族が中に入って来た、即ち契丹種族が、北から下って来て遼西の地方に迫ってきたので、此の地方から支那の本部の交通が頗る困難に陥った。それで支那の勢力が満州に加はることがなくたぅったから、渤海が大きな版図を領して発起することを得た。鴨緑江から今の奉天辺にかけてー奉天は其時に渤海の一州であって、既に小さい城市を成して居った。奉天は元、明の時から瀋陽と居たが、これは渤海の時に満州といったのから起因して居る。兎に角、此の瀋州辺からかけて、北の方、扶余の故士たる長春から農安懸付付近、松花江の流域までかけて、余程広大なる國を樹てた。年数も三百年位続いて、日本には余程親密に交通をして居た。其大國である割合に、日本に対して恭順の意を表した。高麗とか新羅とかが、日本に対して縷縷無体の行動のあったのに比して頗る温順い國であった。蓋し当時支那との直接の交通が困難で、随て貿易上支那の優秀な産物、即ち絹綿其他を輸入することも困難である為めに、日本との貿易で、其の輸入を試みたのであろう。渤海の使が来ると、毛皮其他満州の産物を齋らして絹布など交易することを許され、其外に朝廷から特別に銭を賜って、物を買はせた例がある。此等の関係から我為に対して尊敬を表したものと見えて、唐の皇帝に対するように陛下という語は用いてなかったが、天皇と云う語を用いて居った。日本に渡航するには、今の露領ウラジオストクの辺りから出帆して、着く處は敦賀辺である。時には山陰或は北陸などに漂着し、甚だしきは出羽に漂着した。我が朝廷では、毎年十二年に一度来るように指定したが、渤海では、この指定の期間を守って居ない。頻々来航し、又縷縷難船して死んだ者が多いにも拘らず、絶えず交通を続けた。此出帆地の付近今ニコリスクあたりに、渤海では東京府を置いた。是は渤海が立てた五京の一で、其他南京府の一は、近年朝鮮と支那と交渉結果、有名になった間島に、延吉即ち俗に局子済と云う處の附近である。此地から鴨緑江へ出る道を、朝貢道と云って居った。朝貢道とは、即ち唐に交通する道の義で、鴨緑江を下って、南満州の沿岸を伝って旅順へ出て、老鉄山の海峡を渡って、山東の登州府へ着き、それから長安の方へ行くと云う道筋を通ったのである。勿論海を渡ることは、当時としては余り望ましいことではなかったに相違ないけれども、前にいう通り、寮西の道は、契丹に塞がれて居るので、皆鴨緑江を通ったのである。この朝貢道と云う事実は当時の史乗にも現れて居り、又近年旅順の黄金山の下にあった鴻臚井に、古い刻石があって即ち唐の使者崔折が祈念の為に刻したのである。日本でも、当時唐に交通をしたが、当時の航海術で大海を横切って、支那へ行くと云うことは、非常なる危険なことで、縷縷難船をする。遠くとも陸行が宣いと云う所から、日本から渤海の都へ出て、夫から鴨緑江を下って旅順を経て山東へ出て、長安へ行ったことがある。今から考えて見ると、非常なる迂回であるが、渤海と親しく交通をして居るので成べく海を通る道を少なくしようと云う考からしたものと見える。又今の南満州鉄道附近の開原から東に向って永く分水嶺になる山脈を越えて、朝暘と云う處がそれである。是は唐に交通する道であるけれども、契丹の逼迫の為に、実際後になって用いらなかったのである。又モウ一つ北に道がある。即ち扶余府から西へ行く、是は契丹道である。扶余府は即ち今の長春府の西北の農安懸である。以上は渤海が当時の交通路であるが、其外五京の中の中京府は、松花江の支流、揮発河の沿岸地方に在り上京府は、昔し粛愼の有った○址の辺に置いた。此の如く五京を立てて今の南北満州かけた大国であったが後に契丹に近い地方へ移して満州の地を捨てた状態になって居った。故に渤海の國は亡んだが、残った民族は依然○地に居って、契丹の治外に立て居つた。契丹が衰えて来ると、この民族が代って起こったのが金である。金國は、八百年ばかり前に起ったので、、今のハルピンの傍なる阿什○又阿勒楚○城の南方にある白城、それが昔金の都の跡である。此地が金、都の跡と云ふことは、余の老友なる支那人○廷○云う学者が考へ出して、其後になって白鳥博士が、白城の跡に於て金碑を発見して、愈よ金の上京○寧府の跡に違いないと云うことが定まった。金の時は其民族を女真と云ったが、勿論高句麗、渤海同様の満州族で、白城附近に根拠を置いて、これから東南、朝鮮の○鏡北道まで有って居った。夫から阿骨打の時に急に大きくなって、○ち西の方へ侵略して、契丹即、遼國を滅し、更に宋 打破って、支那の半分を取る位に発展したが、此後百余年続いて、金 滅びて、蒙古種族から起つた元に取られた。元が滅びて明になり,清朝になったが、元明の間は、満州は女真種として、大に退歩を来した。清朝の起つたのは、奉天の南を流るる○河の上流地方で、元の高句麗の起った土地の一部分である。古代から段々満州に於て起った國はザツと右の如くであるが、一時清朝の初め、今から百年ばかり前までの間は、歴史が中絶したのが妙である。其の中絶した所以は、満州に起った清朝が間もなく北京に乗込んで、支那を統一することになると、其の発祥地方の人民を多数引連れて、その禁軍たる八旗兵を組織する関係から、殆ど満州の土地を空虚にしてしまった。此の空虚の地に、若し支那人が代って入って、これを開拓することになると、其の根拠を失うと云ふ考えから、支那人に一切満州へ入ることを禁じた。即ち之を封禁地と称した。一カ年の内、数次、満州人だけに此地に入りて満州の産物たる人参を掘らせ、及び満州人の武器たる矢を造る鷹の羽などを取らせる、即ち天産物を採取する為めに一カ年数次封禁地に入る必要があるので許すが、其の公用で入るものの外は、一切中に入って開墾することも出来ず、狩猟をすることも許さない。其の政策は、約百年以上継続して居った。それが為満州の歴史が中断して、総て昔の事が分からなくなった。昔盛であった土地も皆荒れて仕舞ひ、都会は全くなくなって、公用で行く満州人などは、全く無人の地を行く困難があるから、点又は○○という宿場に行人の寝るだけの用意した家屋を造って置いた。支那人の旅行には、総て食物調度品を持ってあるくから、其の官設の小屋に宿る。其小屋だけが残ったが、満州の歴史は一旦中断して仕舞った。
其の中絶した歴史が、如何にして復活して来たかというふと、是は自然の結果である。此中絶した歴史の初めて復活したのは、清朝の嘉慶四年だと思ふ、今より百十五年前である。此の時に初めて満州の開発の歴史が復興した。其復興が長春から始まったのが面白いので、これが扶余の地である。満州の歴史は、勿論扶余の前に粛慎があるが、清朝の封禁時代にも、寧古塔即ち粛慎の古地だけは開けて居り、満州種族も住居し、又漢人の犯罪者の流さるる土地になって、開かれて居った。ソコで此は取除として、其他の最も古い歴史を有って居る扶余の初めて起った所から歴史が復興したのが妙である。長春附近は当時蒙古の郭爾羅斯の公の領地で、蒙古人の習俗として、牧地として領有して居たが、かくて田地として耕作した方が利益だろうと考へたものと見える。そこで僅かに山東から百姓を呼んで耕作をした處が、段々大きくなって、清朝の官吏も倒頭発見した。発見した時には戸数が二千余戸、田地が二十六萬余○と云うものが開かれて居る。そこで此二千余戸の人民を追い出して開いた田地を潰すと云うことは、全く智慧のない話であるから、是は寧ろ許してしまほうといふことになった。そこで初めて開発されたのが長春府である。長春府が開発せられ、満州地方でも耕作をすることの利益だと云ふことを政府でも考へることになった。其際北京では八旗の満州人が北京に入ってから、既に二百年近くになるので、人口が殖えてきたが、是に定禄を宛行って居るので、数が殖えたからとて禄を多く宛行うといふ訳には往かぬ。殊に定まった政府の牧人では、多く金穀を支給することも出来ない。此の始末に困って居った。處で考へ附いた。蒙古の王公が長春を開墾をして、大変利益があると云ふことだ。それから考へると、満州の或る地方を開墾するが宜しかろうと云うことになった。其時に初めて開墾されたのが、ハルピンから少し西南の方に当たる変城子と云ふ今の露西亞の東清鉄道の驛のある所、其所に屯田を開いた。又今の第二松花江驛から少し西北に当る伯都訥にも開墾した。それが政府が手を下してやった開墾の初めである。勿論其時も漢人に開墾を許したのではないので、単に満州八旗に開墾を許したのであるが、兎に角満州の封禁地に開墾をするようになつたのは、此時が初めである。處が妙なことには、最初に満州の開発されたのが長春府で第二に開墾に着手されたのが金の起った地方に近いのである。夫らく暫く開墾の沙汰もなかったが、道光の末から
○豊年間に、長髪賊の大乱が起つて、其の為に満州などは放棄して置くような有様であった。其間に、今度は漢人が勝手に満州に潜り込んで、そこら中開墾又は金鉱採掘を始めて居った。其中最も大きかったのが鴨緑江の沿岸で、殊に其支流の混江から通化・懐仁辺の土地で、大開墾をして居った。其内に賊亂も下火になり、同治六年、今から丁度四十八年前に、封禁地に、知らぬ間に田地が出来て居るといふ騒ぎで、急に之を調べようと云うことになった時、其處へ行って開墾をして居った者が、今まで脱税で開墾して居ったけれども、脱税して罰せられるより、正当の田地として納税をした方が宜いと云うので、土地の調査、地租の賦課、即ち弁料と云ふことを願い出でた。政府でも其の開墾を認めることになった所が、百七余萬畝と云ふものが、朝鮮に近い所だけで開墾されていた。此より政府の方針一変して、封禁を開放し地方官も設けるが宜し、段々満州を開発する方針にするが宜いといふので、満州人に限らず、漢人も引入れて開墾することになった。それで鴨緑江の地方即ち昔の高句麗の起った地方は歴史が新たに始められた。以上は奉天省の事であるが、吉林省の方でも新しい土地を何処までも開墾して行く方が政府の利益にもなり収入も増すと云うことで、段々開墾すると云う手順になって来た。其時吉林省の有名なる将軍銘安が、名案を出して開墾の奏議を出した。處が之が採用されて牡丹江の上流地方を開墾して見たが、モウ一つ山脈を超すと良い土地がありさうだと云うので、行って見ると、満人が○かに金鉱の採掘をして居る地方へ出た。一時やかましかった天宝山の金坑並びに○春地方の沙金地がそれである。處が此地方に漢人よりも多く入込で盛に耕作して居るのは、朝鮮人であったので、支那の官吏は非常に驚いた。それから間島問題が起ったが、明治十三四年頃から此の問題は起こりかけて来て、近年までやかましい問題であった。ツマリ朝鮮人が先ず行って開梱し、支那の方からも行って開梱しようといふので手を附けて見た結果として、茲に国際問題が起った訳である。それから段々黒竜江の方も開墾したが、兎に角百十何年前から最近までの間、満州の開墾と云ふものは、さういふ順序で段々封禁地 開放する方針に変って来たのである。開墾された土地が、どう云う所かと考へて見ると、皆往古一時國が起って盛であった處處を段々探ねて行くように、昔の開けた跡の土地が段々開けて行くのである。歴史は繰返すと言ふが満州に於ける実際の歴史、以上述べた百年此のかたの開発の歴史はツマリ三千年此のかた二三百年前までの間に開発されたと同じ土地に開発されて居る。昔の交通路を見ても、今と余り変わりがない。ウラジオストクと日本との連絡は今日あるが如く、渤海と日本の連絡があった鴨緑江の道は、今日でも上流から材木などを下して大切な交通路になって居る如く、渤海が唐に交通する道であった。長嶺符の営州道は、近頃では、揮発河の上流の地方から、段々豆が出て来たのが、一時鉄嶺に寄り集ったが、今日では鉄道が出来た為に開原に集まることになった。扶余府より西へ向かう契丹道といふのは、今日でも、長春府から西の方へ向って奉天省の西北鄭家屯の方へ交通する道がある。近似の満州の開発は盛で日本でも露西亞でも手を着けて、鉄道も敷き、種々の事業を企つるのは、百年来の農業開発の為であるが、農業の開発された地方は、全く昔の國國の起った地方の跡を探ね探ねて自然に開けて行ったのである。勿論それを開発する人が、何人も、是は昔の國跡だからといふので、目的を定めてしたのではない。歴史も何も知らずに開いた居るが、自然に歴史を探ね探ねて開いて行くような形になって居る。交通路でも同様である。三千年前から三百年前までの古い歴史も、百年このかたの満州開発の実情 照らして見ると、溌剌として生きて居るように考へられている。それ故今日の満州を知って居ると、自然昔の歴史上を知ることが出来る。古代の満州の歴史を知って居ると、今日の満州が如何なる方面に於て開発せられて行くと云うことを知ることが出来ようと思う。随て歴史は、単に過去の死だ事実ではなく、我等の現在の実生活と顕然たる関係あるといふことを知り得ると思ふ。
(略)
大正四年四月廿九日東京旅次に於て   文学博士 内藤虎次郎」
(稲葉岩吉 「増訂満州発達史」日本評論社 昭和十八年八月十一日 第十刷発行 1ページから8ページ)※初版は昭和十年一月十四日)