阿部ブログ

日々思うこと

インドの対アフガニスタン戦略

2012年01月29日 | 日記
今、パキスタンの現政権であるザルダリ大統領/ギラニ首相と軍部との対立が激化しており、クーデターの可能性は低いものの、アフガニスタンを巡るアメリカとの関係悪化も相まって、混迷を深くしている。

そんな中でインドの対アフガニスタン戦略を考えてみたい。

インドは米軍がアフガニスタンから撤退した空白を自らの影響力を最大にする好機と考えている筈。
つまりインドは、アフガニスタンと自国でパキスタンを挟み撃ちにすると言う、非常に分かりやすい構図を考えており、粛粛とアフガニスタン国内での経済工作や情報工作を行っている。

パキスタンの情報機関ISIによればインドのアフガニスタンにおける経済援助は10億ドルを超える規模としているとしている。それと農業国であるアフガニスタンに対してインドは農業学校の生徒1000人以上をインド国内で農業など灌漑技術を含めた人材の育成を進めており、アフガニスタンに帰った彼らはインドに友好的な情報収集の人的基盤となりうるだろう。日本の中村さんの活動にも見られる通り、単純な経済援助よりも人心に与える影響は抜群である。

また、インドはパキスタンの国内や国境地域で分離独立運動を煽動し資金を提供している。特にバルチスタンでの活動はパキスタン当局も懸念を隠せない状況。

これに脅威を感じたシラジ・ハッカニ率いる組織が2008年7月7日にカブールのインド大使館に対しテロ攻撃(自爆テロ)をかけ58人が死亡し、100人以上が重軽傷を負う事件が発生。勿論、この背景にはパキスタンのISIがいる。

しかしアフガニスタンにおけるインドの影響力は、政府中枢まで浸透しているようだ。聞くところによるとアフガニスタンの情報機関のサレフ長官がインドの協力者だという。但し、二重スパイの可能性もある。それは中国人民解放軍の第二部と呼ばれる軍情報機関がパキスタンISIの支援を受けつつ浸透工作を展開しているからで、現政権が米軍の撤退と共に倒れる可能性もあることから、インドは第二、第三の政治勢力、それと農業学校OBなどのネットワークを活かした土着する民衆への積極関与を行っているようだ。

さてインドの動きにパキスタンは如何に対処するのか? 米国・英国との関係悪化もあるなかで。。。
ここで出てくるのが中国。
インドとは今でもマクマホンラインで紛争の火種を持ち、ミャンマーやパキスタンなどで港湾建設を進め、アフリカ東部沖のセーシェルに中国海軍の燃料補給中継地を設定するなどインド封じ込めを狙った「真珠の首飾り」戦略を進めている中国が出ない訳がない。しかもアフガニスタンでは、今やレアメタル化しつつある最大級の銅資源を確保しており、中国の中央アジア戦略ともあいまって、パキスタン=中国連合形成は当然の帰結である。

このパキスタン=中国連合に対して、日本はと言うと「デリー・ムンバイ間産業大動脈構想」により間接的な関与を行っている。
この「デリー・ムンバイ間産業大動脈構想」を、社会インフラの輸出やスマートコミュニティの実証検証などと考えるのは浅慮の謗りを受けるだろう。この構想は国家安全保障に関するもので、だから政府は資金を提供する。つまり我が国のシーレーン防衛と言う海洋安全保障での日印関係強化の施策の一つ。この視点を外すとビジネスにならない。つまり日本は、米国海軍と共にインドの「ダイヤのネックレス」戦略を共に支援し、中国の海洋権益拡大阻止と中国封じ込めを行うのだ。これを理解すれば何処に投資すれば良いかわかる筈。。。

インドの「ダイヤのネックレス」戦略には、イランも絡むが、これから動きがあるので、今は語らない。

インドのアフガニスタン戦略は、中国の中央アジア戦略と拮抗する極めて重要なもので、今後も注視することとなる。

ソフトウェア開発におけるインタラクション・デザイン

2012年01月20日 | 日記
今日、情報処理振興機構(IPA)主催の『ユーザー指向設計の新潮流』と言う講演会に参加した。
この講演会では、思いがけず様々な気づきを得る事が出来た最近では珍しい体験をした。
それは『ソフトウェア開発におけるインタラクションのデザイン』と言うテーマであり、(㈱SRA 先端技術研究所の所長である中小路久美代女史がお話をされた。

中小路さんは、人間の知的創造活動 (Creative Knowledge Work) を支援し、また促進するためのナレッジインタラクションデザインの研究、インタラクションデザイン指向のソフトウェア開発支援研究に従事しているとIPA事務局から説明があった。また奈良先端科学技術大学院大学客員助教授、東京大学先端科学技術研究センター特任教授など歴任しているとも。
中小路さんは、ノンフィクションライター最相葉月氏の著書『ビヨンド・エジソン12人の博士が見つめる未来 』(ポブラ社刊) の1人として取りあげられているが、小柄ながら流石にインタラクションデザインを語るその語り口と身振り手振りには何かしら感ずるものがある。

中小路さんの語った事は、以下をご参照下さい。これは是非とも社内で共有したいと思うし、この視点からエンタープライズシステムの在り姿を考えたい。

総括的に言えばソフトウェアには、「作るものの世界」と「使うことの世界」という、個別に存在する二つの世界が関わると考えている。前者はシステムによって実行される対象としての世界であり、後者は人間がやりとり(インタラクション)をする対象としての世界。今回の講演では、ご自身で関わってきた研究ツールの構築や産学連携プロジェクトの経験を踏まえながら、「使うことの世界」をデザインしていく際の課題や、そのための表現、ツールおよびプロセスについて説明。
「使うことの世界」という視座から、ソフトウェアの品質というものを、操作性やインタラクティビティという点を中心にして話をしていた。

以下は、徒然なるままに...

・ソフトウェアシステムを作るときには「作るモノの世界」(the world of making)のデザインに加えて、「使うコトの世界」(the world of using)のデザインをするべき。「作るモノの世界」というのは,計算機から見たときに、プログラムとして処理をする対象としての世界だ。こういうアーキテクチャに基づいて、こういうアルゴリズムを利用して、こういうプログラム構造でといった世界。

・「使うコトの世界」というのは,使う人から見たときに、人がインタラクション(やりとり)をする対象としての世界だ。ユーザがこういう気持ちでこういう操作をして、そうするとシステムがこんな感じの表示をして、するとユーザがじゃあ次はこうしてと考えて、といった世界。

・インタラクションデザインという言葉は,「使うコトの世界」を造形していくアクティビティを指すもの。使って楽しい,使い心地が良いといった,ユーザがシステムを使ってどんなことをどんな風にしていきたいか,から出発するのがインタラクションデザインである。

・「使うコトの世界」には、さまざまな時間粒度でのインタラクションがかかわる。
指をタッチパネル上でクィッと動かすとオブジェクトがすーっとついてくる、といったような、ミリ秒単位の細かい粒度のインタラクションから、これを決めて,次にここを選んで、といった操作の手順を表すような、秒とか分単位の粒度のインタラクション、更にツーソフトウェアにおける2つの世界。

・この「端から端まで」というところが「使うコトの世界」をデザインする際の最も重要なポイントだと思っている。
面白い、楽しい利用場面を思いついてシナリオを書いたり、鍵になるインタラクティビティをスケッチすることは、デザインアイディアとして重要なコンポーネントとはなるけれども、それだけで「使うコトの世界」ができ上がることにはならない。地味な場面のインタラクションも含めて,あり得るインタラクションをできるだけ網羅して,全体を通して一貫性のある<使うコトの世界>を作り上げることが大切だと考える。

・プログラムに1個バグがあるだけでシステムを実行できなくなるのと同様に、一連のインタラクションに1 カ所不揃いなところがあるだけで全体としてのユーザの利用体験が損なわれる。「作るモノの世界」を造形するプログラミングと同様に「使うコトの世界」の造形にも,地道なコツコツとした作業の側面がある。

・「使うコトの世界」を考えていないばっかりに「作るモノの世界」に携わる人が振り回されているように見えることがしょっちゅうある。それぞれの世界を,それぞれの世界の専門家が造形することで、豊かなソフトウェア体験が増えていくといいなと思っている。

・「機能品質」とは「このシステムでユーザーは何ができるか」という、機能に関する品質を表すもの。
より多くの有益な機能が問題なくきちんと実装されていることが、高い機能品質を保証することになります。家電製品のパンフレットにずらりと並んだスペック表のチェック項目は、まさにこの機能品質を表現したもの。
ソフトウェアアーキテクチャやテスト手法、プロセス管理といった、現場でも取り入れられているソフトウェア工学技術や手法の多くは、この機能品質を向上させることを目指したもの。

・これに対して「ユーザーが何をどうしながらシステムを操作していくか」という、操作性に関する品質が「操作品質」です。操作品質とは、ユーザーがシステムとの一連のインタラクション(やりとり)を通して得る“体験”の品質を表すもの。

・「使うコトの世界」で重要なのは「認知的・体験的・一貫性」があること。

・インタラクションデザインに関わるところは、「開発者もユーザーも、自分の役割だとは思っていない。けど、部分的には、こうしたほうがいいんじゃないかな、というアイディアはある」というところ。現状の開発の進め方では、全体を網羅して考える役割もフェーズも、すっぽりと抜けがちな部分ではなか?

・インタラクションのデザインによる仕様:システムに関する「機能仕様」があるのと同様に、ユーザーがどのようにそのシステムを使うのかに関する「インタラクションのデザインの仕様」というものを作っていくべきである。

・インタラクションデザインの仕様は、
(1)そのシステムに対してユーザーが行う操作の流れ
(2)操作する対象がどんなふうに画面に表示されるか(もしくは音声応答では何がどう聞こえるか)
(3)操作した結果がどう表示されるか
(4)どんな状況で、何に対してどういうアクションをとると、何がどうなるか
といったことを、システム全体を網羅して記述したものとなります。

・インタラクションデザインの仕様書があれば、そういった要望が出されたときに、その仕様書と照らし合わせながら、「あなたの変更要望はココをこう変えたい、といっていることで、その結果、これらの部分もすべて変えなければデザイン的に破綻してしまいます」と説明することができるし、「それを踏まえた要望でしょうか?」と確認することもできます。
そうすることによってユーザーインターフェイスの一貫性を保つことができ、その結果、こういった一部分だけを見た変更要望の多くは撤回されることになるのではないかと思う。

・つまりインタラクションデザインはソフトウェア開発に先立って行うべきことがらであると言う事。
ソフトウェア開発においては、ユーザーインターフェイスは最後に調整すればよいと考えられがち。表面のところあり、また、できあがりのイメージがある程度できてくると、開発者でない人やユーザーでも、こうしたほうがいい、あぁしたほうがいい、とサジェスチョンを出しやすい部分でもある。

・インタラクションデザインは、北欧が進んでいる・・・スウェーデンなど インダストリアルデザインとソフトウェアデザインの融合連携してる。逆にアメリカはインタラクションデザインの意識は希薄と言うか、あまり必要性を感じていない。

またまた徒然なるままに~

ジャン=ミシェル・バスキアを知るには良い DVD 『バスキアのすべて』

2012年01月02日 | 日記
ジャン=ミシェル・バスキアをご存じだろうか?
彼はモダンアートの伝説的アーティスト。バスキアは、1960年ニューヨーク生まれ。
生きていれば52歳か。そう、彼は27歳で死んだ。麻薬中毒者の彼の死を夭折と言えばそうなるか。
夭折する者は、何かしら美しいし、その残した仕事も後生に長く影響を及ぼす例が多い。

例えばレイモン・ラディゲ。14歳の時に『肉体の悪魔』を書き、ジャン・コクトーに認められ一躍サロンの寵児となった。その後、遺作となる『ドルジェル伯の舞踏会』の執筆を開始したが、刊行は叶わずわずか20歳で死去。バスキアと同様に薬チュウ。尤も彼の場合にはヘロインではなくアヘンだが。
ラディゲの詩集は読んだことがないが、高校生の時に文庫本で読んだ『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』は「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」とは異なるが新鮮・斬新な新感覚を与えてくれた。今でもその文庫本は手に取る事がある。

それと同じフランス人エバリスト・ガロア。彼も21歳で決闘で死んだ。即ち決闘で負けた訳だが、そんな彼は数学を志す者だった。彼、ガロアの功績は偉大だ。それは数学史に燦然と輝く。
既にアーベルによって「5次以上の方程式にはべき根による代数的解法は一般には存在しない」ことが証明されていたが、ガロアの凄いのは「1つの方程式は、その群が、その方程式の係数を含む体に対して、可解群であるとき、かつ、そのときに限って、ベキ根によって、解法する事が可能であるとした点。特筆すべきは「nが>=5」のときに、交代群Anは単純群であるという事実を示した事。
但しガロアの事績を感得するには、群論を知る必要がある。この群論には、群の次数・位数、対称群(これは置換群とイコール)、巡回群、アーベル群、若しくは可換群と呼ばれる興味深い群、そして部分群。それから偶置換、交代群、正規部分群を経て円分方程式、拡大体、ガロア拡大、ガロア関数、ガロア分解方程式に至る道のりがあるが。。。

ラディゲやガロアと同じ夭折の天才アーティストであるジャン=ミシェル・バスキア。
彼の生前の若々しい姿をうつしたインタビュー記録を映画化し、それをDVDにした『バスキアのすべて』を「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」を読了した後に視聴した。

何でもこの作品は、2010年サンダンス映画祭のドキュメンタリー部門に出品された作品で、ジャン=ミシェル・バスキアを知るには良い作品と思う。

レイモン・ラディゲと同じように有力者の知己と支援を得る。ラディゲの場合はジャン・コクトーだが、ジャン=ミシェル・バスキアは、御大アンディ・ウォーホルであった。
ウォーホルの支援が無くとも、多分バスキアはブレークしたと確信出来る。

夭折したバスキア。彼はニューヨークの落書き小僧から現代アート界のアイドルとなったが、その作品は短い創作期間からは思いもよらない程に量が多い。量をこなさないと質は生まれないと言う事か。
バスキアは、実に900点を超える絵画と1250とも言われるドローイング残し死んだ。

1980年代における現代アーティストの寵児ジャン=ミシェル・バスキア。彼が死んで20年以上経過し、既に時は21世紀であるが、彼の作品は今でもアーティストにインスピレーション、霊感を与え続ける止めども尽きぬイメージの嵐。
バスキアを20世紀で最も重要なアーティストであると言う人も多いが、早く逝った人の在りし若々しい姿をみるにはこのDVDはお勧めである。

ジュノ・ディアスの「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」を読了

2012年01月02日 | 日記
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読了した。

この本は書店では品切れの為、アマゾンの中古本で購入したものだが、ピュリツァー賞と全米批評家協会賞をダブルで受賞している作品だけに一気に読み切った。

感想は、さぞかし翻訳が大変だったろうと言う事。
英語とスペイン語。それと日本発のマンガ、映画、ゲームなどのサブカルチャーの知識、トールキンの『指輪物語』など幻想文学、SFやファンタジーなど、この所謂「オタク系」の分野の臭いと言うか、感触と言うか雰囲気が分からないと読むのも辛い本である。
何しろ「ガッチャマン」や「超時空要塞マクロス」、「AKIRA」などが出てくるのだから~

サブカルには、トント縁のない生活なので、翻訳者と編集者の注釈はとても役立ったし、無かったら読み切れずに終わっただろう。
しかしまあ、あきれる位に同書は暴力とセックスとオタク用語に満ちあふれている。

著者のジュノ・ディアスは、ドミニカ出身で1968年生まれの43歳。現在は、マサチューセッツ工科大学の創作科の教授。
彼には超がつく程に美男子のお兄さんがおり、オスカーとは真逆の楽勝人生を送っているらしいが、この『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は21世紀のアメリカ文学における一つの事件であると評されており、今後の創作が期待される。

謹賀新年 2012年が始まりました~開運と福寿~

2012年01月01日 | 日記
あけましておめでとうございます。と、誰に挨拶してるのかわかりませんが~

年頭は、通常開運と福寿について考えるのが恒例でして、それについて徒然なるままに書いてみます。

開運と福寿?で思う人物は~それは“白隠禅師”である。
白隠禅師を知らない人も多いかも知れない。でも静岡県出身者で白隠さんを知らないのは、少々問題だ。。。

少々問題は、さておき何故か、開運と福寿というテーマとなると、白隠さんの子供の頃の話を忘れられない。
それは、こうゆう話し。。。

白隠さんは、沼津近郊の出身で臨済宗の僧侶ではあるが、白隠さんの影響は宗派の壁を軽くを超えた。白隠さんが亡くなった時、時の後桜町天皇は『神機独妙禅師』の贈り名を賜った程。さらに下って明治天皇も「正宗国師」の号を贈っている。これは凄い。
その白隠さんが、子供頃の話し~

白隠さんの自宅の裏には、一遍が立宗した時宗の西念寺があり、そこに休心房と言う念仏行者が滞在していた。
休心房と言う修行者はただ者ではないようだ。禅の修行だけでなく富士修験道や道教や陰陽道などにも精通していたようで、富士、三島、沼津・伊豆などを中心として活動するオカルティックな存在だった。
この休心房を白隠さんの父親はたびたび自宅に呼んで供応したらしい。
供応を受けた休心房は、子供の白隠さんを呼んで、ある「教え」を垂れたと言う。

その教えとは、
 ①しゃがんで小便をしろ!
 ②食事の汁の残りカスまで残さず全部喰え!
 ③北方を敬え!間違っても小便をしたり、唾を吐いたりしてはならない!! この3つの教えを守れば福寿を増すだろうと。

そして白隠さんは、この休心房の3つの教えを死ぬまで守った。
休心房の教えに、所謂、科学的な根拠は無いが、実は秘伝や秘技の類は案外シンプルなものなのではないだろうか。
今の我々は北方を気にしながら生活はしないが、しゃがまないにしても、立ち小便しないことはできるだろう。
オフィスビルや公共施設を除くと、新しい住環境ではトイレに男性用があることは珍しいのではないか?

白隠禅師には「夜船閑話」と言う、これまた有名な本がある。この本には「仙人還丹の秘訣」が書かれている。
また荘子が語った「真人は踵をもって呼吸をする」を地でゆく呼吸法を説いている。これは「丹田呼吸」だ。

臍下丹田に意を込めて次の3句を唱え、通常の息より長く長く長ーく吐くのだ。

 我が此の気海丹田、腰脚足心、総に此我が本来の面目、面目何の鼻孔かある。
 我が此の気海丹田、総に此我が唯心の浄土、浄土何の荘厳かある。
 我が此の気海丹田、総に是れ我が己身の弥陀、弥陀何の法をか説く。

この丹田呼吸法はにやら体によさそうだ。白隠さんを信じて励行するのも一興。


さて『開運』については、NHKオンデマンドで見た「プロフェッショナル 仕事の流儀」から。
去年2011年に放映された“マグロ漁の神様”と呼ばれる山崎倉(おさむ)さんを紹介した番組。
山崎さんは、青森県大間で釣り糸一本を操る「一本釣り」で100キロを超す巨大マグロをつり上げる最強のマグロ漁師だ。
厳寒の津軽海峡で巨大マグロを釣り上げる山崎さんにたハーマン・メルヴィルの「白鯨」に書かれている「モービィ・ディック」と戦うイシュメルやエイハブを観ずるのはあながち間違っていないだろう。

その山崎さんは、大マクロを釣り上げるとその心臓をえぐり取り、自宅に持ち帰り「海の神様」と「ご先祖様」に捧げるのだ。
「今日もこうして大マグロを獲ることが出来、糧を得る事ができた」と「感謝を捧げる」のだ。
自分は、こう思う。開運のキーは「感謝を捧げる心」と「ご先祖様への感謝」ではないか?と。

何故かと言えば『日本人が知らない本当の道教』と言う三多道長氏の著書を読んで、それを強く感じた。
山崎さんの強運は、ご自身の努力もさることながらご先祖様への供養を欠かさない、また感謝し続けた結果が大きいのでは?
山崎さんの継続した努力も、努力出来る環境があったからであり、それは山崎さんに与えられたもの。その与えられる因は何か?

三多氏の本に書いてる事を信ずるのは、こうゆうことだ。
つまり同書から引用すると「道教的生き方の根幹となるものは、こういった人としてなんでもない当たり前の心にあります。
神を礼遇したり、先祖や親、目上を敬い、家庭を大切にできれば、その延長である学校や職場といった大きな集団の中でも「和すること」ができます。
自然と目上から引き立てられようになったり、後輩から慕われたり、順調に事が運び、万事がうまく運ぶことへとつながっていうのではないかと思うのです。」

この文章の前には「天地自然の法則に則った生き方」「理と調和した生き方」が道教的生き方であると書いています。
あたりまえの事、それは神仏に礼する事、先祖や親を敬う事、国を愛する事、民族としての誇りを持ち、民族の文化を大切にする事、であると。

人間世界には「福」「禄」「寿」を備えた人がいるが、それは万事において常に天の佑けがある人、そういった存在となるには、秘密など一切無く、三多氏が言う道教的生き方、日本的には神道的な生き方。つまり日々生かされている事に対する感謝を捧げる生き方が「それ」であると。

そのような生き方が出来るようになりたいものだ。