フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

カフカ『アメリカ』『失踪者』

2008-09-25 00:47:53 | my library
『決定版カフカ全集4 アメリカ』(千野栄一訳、新潮社)1981年12月25日 3刷 1984年5月5日
『失踪者』カフカ・コレクション(池内紀訳 白水ブック)2006年4月25日

カフカは好きな作家で、アメリカ留学の最後にヨーロッパに行ったときも、最初の目的地はカフカのプラハだった。まだ東欧という響きが国境の堅い警備を意味していた頃で、プラハの人々にとってカフカはいわば禁句だったのだと思う。プラハには市街区広場を囲むアパートの壁にカフカがそこに住んでいたことを示すレリーフがあるだけで、他にはカフカを感じる場所はどこにもなかった。第一、カフカはチェコ人でもなかったのだから、チェコ人がカフカを国民的英雄とするわけもない。ただし、プラハの春の象徴的存在だったことは確からしい。だからカフカは当時のプラハで、とてもカフカ的だったわけだ。

そんなわけでカフカについては新潮社版の全集を買いそろえていたが、唯一最後まで読了できずにいたのが、この『アメリカ』だった。この題名はカフカにとっては「例のあの話」程度の意味で使った題名で、彼自身は『失踪者』という表題を考えていたらしい。カフカを世に出したマックス・ブロートの編集では『アメリカ』となっていて、その編集された形は長い間、変更出来なかったという。そのため、新潮社版も『アメリカ』となっている。

もう1冊は最近手に入れたもので、池内紀個人訳の全集の廉価版。こちらはようやく各国の研究者の成果を盛り込んだ新版にそった内容となり、題名も変わった。そこで、少し池内訳を開いたわけだが、読み始めて何ページとすすんでも、どうもカフカを読んでいる気がしない。ふつうの誰か知らない作家の作品という印象。おかしいなあというわけで、千野訳と冒頭の1段落を比べてみたのが、下の引用だ。ついでに、原語のテキストもインターネットで見つかったので載せてみる。

「女中に誘惑され、その女中に子供が出来てしまった。そこで17歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカにやられた。速度を落としてニューヨーク港に入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた。剣を持った女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした。像のまわりに爽やかな風が吹いていた。」(池内紀訳)

「女中に誘惑され、そのために女中に子供が出来てしまったので、貧乏な両親にアメリカに送られた16歳のカール・ロスマンが、すでに船脚をゆるめてニューヨークの港に入りかかっている船の上から、もう長いこと自由の女神の像をながめていると、ふいにそれが輝きを増した太陽の光に照り映えて見えた。そして女神の剣を持った腕が前方にあらたにさしのべられ、像のまわりには自由な風がそよいでいるように思えた。」(千野栄一訳)

"Als der sechzehnjährige Karl Roßmann, der von seinen armen Eltern nach Amerika geschickt worden war, weil ihn ein Dienstmädchen verführt und ein Kind von ihm bekommen hatte, in dem schon langsam gewordenen Schiff in den Hafen von New York einfuhr, erblickte er die schon längst beobachtete Statue der Freiheitsgöttin wie in einem plötzlich stärker gewordenen Sonnenlicht. Ihr Arm mit dem Schwert ragte wie neuerdings empor, und um ihre Gestalt wehten die freien Lüfte." 
(http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1347&kapitel=2&cHash=fb27b01e53ameri11#gb_found)

ぼくはドイツ語はほとんど出来ないけれど、ドイツ語のテキストと比べてすぐにわかるのは、千野訳が一文を一文で訳す直訳主義であるのに対して、池内訳は上からどんどん句点をつけて区切っていく、どちらかというと意訳主義だということ。このどちらが良いかはぼくにはわからない。しかし、これまでぼくが読んでいたカフカは千野訳調のものが多かったから、池内訳にはカフカの香りが感じられなかったのだと思う。

どちらにも言語感覚のするどい訳語があり、どちらにもこれはちょっとと思う訳語もありそうだが、池内訳の「おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら」は主人公にかかってしまうので、これは誤訳かもしれない。それからこれはどうかと思うのは、最後の部分のfreien Luftの訳。千野訳は「自由な風」としているが、池内訳は「爽やかな風」となっている。カフカの小説にはよく役所の風景が描かれていてそこには必ずと言っていいほど、澱んだ息の出来ないような空気が強調されていると思うけれど、ここでは旧大陸から新大陸に降り立とうとする主人公の気持ちがあるわけで、その対照を考えれば、ここはやはり「自由な風」ではないかと思う。

というようなことを素人のぼくは思うのだが、ドイツ語のわかる人の意見を聞いてみたいところ。池内さんのものについては最近、同じような経験をしたことがある。例のカントの『永久平和論』を池内さんが訳していて、きれいな写真つきの、とても読みやすさを考えたものだけれど、読んでいるとどうも意味不明なところが出てくるのだ。そこで、岩波の訳を見ると、難しいけど論理はわかる。だから難しいものがわからないわけではないのだと思った次第。

なので、千野訳のほうをぼくはやはり買いたい気持があるし、そこにカフカを感じたいと思うけれど、果たしてその判断は正しいのだろうか?案外、池内訳のほうがドイツ語の堪能な人々にはカフカらしさを感じさせるものだったということはないのか?カフカのドイツ語は難しくない、と遠いどこかで聞いた言葉が気にかかる。

それがぼくの大きな疑問。
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