フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

佐藤文夫 『詩集 津田沼』(作品社)

2010-02-09 23:38:29 | my library
延吉の話は1回休み。

10年以上も前、年の終わりにその年に刊行された詩集を何冊も買っていたことがある。つまり詩人たちがその年に言葉を通じて戦ったその戦績を拝読するという儀式だった。もうすっかりそんなことをやめてしまったけれど、この1月に久しぶりに買ったのが上の詩集だ。2009年4月の初版。

購入したのは残念ながら津田沼ではなくて、稲毛海岸だった。ぼくはごくふつうの本屋に行ってあまり普通とは思えない本を見つけて買ってくるのが楽しみなのだが、そのときも特にこの本を買おうと思って本屋の棚を物色していたわけではなかった。「津田沼」と目に入ってくるまで、何も知らなかったのだ。

最初の詩は表題になっている「津田沼」で、こんなふうに始まる。

津田沼
という沼は
どこだ

きみはいま
津田沼という
ない沼の上に
立っている

津田沼よ
かつて津であり
田であり
沼であった
津田沼よ

もう誰も言わなくなったことを敢えて言葉にする、まったく流行らないそのやり方は、意識的にユーモラスでもあり、かなり姿勢を正される。反骨精神だけなのかというとそうでもなく、たとえば次のような美しい言葉が紡がれる。

日和山にて風をまつ
風が吹いたら船をだす

学生時代の同人誌に、「風待ち」という小説のようなエッセーのようなすがすがしい鬱屈を書いた先輩のことを思い出す。

しかし、やはりユーモアが良い。次の詩は「動物園」の連作。

「ヒト喰い虎」

ちかごろのトマトときたら ほんとうの
トマトの味が しなくなってきたという
そういえばちかごろ人間だってさっぱり
人間の味がしなくなってきたではないか
と どこかでヒト喰い虎がはなしている

もはや詩を気取ることのない詩人の言葉は滋味深い。
ちなみに津田沼駅の周辺はむかし陸軍の鉄道連隊の敷地だったそうです。陸軍がそのあたりでレールの敷方を練習していたので、そのでき上がったレールを買った京成線は練習通りにカーブがやけに多いのだとか。
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