先週、博論審査の後の飲み会で私の所属する文学部ではアイヌ語と琉球語をやれるところという話をした気がしますが、萱野茂さんが6日の昼過ぎに79歳で亡くなりました。
ちょうど実家に戻っていたところで、翌朝の北海道新聞は第1面の大きな扱いでした。実家は白老のカムイ古潭からも30分のところ、萱野さんの二風谷からも2時間ほどのところにあります。直接の面識もなく、私の手元には1988年に出版された『カムイユカラと昔話』(小学館)しかありませんが、尊敬すべき人の一人でした。
北海道新聞の扱いはその見識の高さを示していますが、東京の新聞では最終面の片隅です。萱野さんは、単に北海道にとってなくてはならない人であっただけでなく、世界の少数民族にとっても、大切な人であったはずです。萱野さんの播いた種からたくさんの萱野さんが生まれることを祈らずにはいられません。
ちょうど実家に戻っていたところで、翌朝の北海道新聞は第1面の大きな扱いでした。実家は白老のカムイ古潭からも30分のところ、萱野さんの二風谷からも2時間ほどのところにあります。直接の面識もなく、私の手元には1988年に出版された『カムイユカラと昔話』(小学館)しかありませんが、尊敬すべき人の一人でした。
北海道新聞の扱いはその見識の高さを示していますが、東京の新聞では最終面の片隅です。萱野さんは、単に北海道にとってなくてはならない人であっただけでなく、世界の少数民族にとっても、大切な人であったはずです。萱野さんの播いた種からたくさんの萱野さんが生まれることを祈らずにはいられません。