フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

毛沢東故居

2005-12-04 23:32:25 | visiting hunan uni
朝、目を覚まして魔法瓶のお湯を飲みます。もう1日経っているのにまだ十分に熱いのはどんな魔法でしょう?

さて、2日間の授業見学と講演が終わって、翌2日は遠足となりました。
最初は洞庭湖湖畔の町、岳陽を考えていたのですが、この時季は水位が低くてあまり観光には適さないだろうということで、長沙から40キロほどの毛沢東の生まれ故郷韶山を訪ねることになったのです。

長沙を過ぎて20分もすると、もうそこは農村地帯です。このあたりは稲作が盛んで二毛作が可能なのだそうです。すでに稲刈りが終わり、稲を乾燥させる作業が行われています。時々、街道沿いに商店街のように軒を並べていますが、そこでも乾燥作業が見られるので農業従事者も住んでいることがわかります。

もやの中にかすむ遠くの山並みを見ながら、さして広くもない街道を車は疾走していきます。街道の両脇には途切れることなく街路樹が植えられて涼しげです。

1時間余りで韶山に着きました。韶山の山懐から下ってきた丘と丘の間に畑が作られ、その畑の下の丸い池の畔に毛沢東の故居があります。となりには同じ黄土色の土壁で出来た当時の小学校も残っています。生家は真ん中に玄関と土間があり、そこから右と左に母屋が延びるかたちの小さな農家です。向かって左側だけが毛沢東家族の住むところで、中にはいるといくつかの部屋があり、長男だった毛沢東には個室が与えられていました。中庭の向こう側には農具などを入れておく納屋と家畜の部屋が同じ屋根の下にあり、まさに自分たちで生きていけるだけの資産をもつ小農家だったことがわかります。

故居の地形的な配置を見ると、適度に狭く視野が限られ、近くの池や丘に抱かれるように家が建っていて、遠くには高い山が見える、というじつに理想郷的な美しさがあります。この場所が毛沢東にとってどのように目に映り、後半生にどのように影響を与えていたかのかは興味ある問題ですね。毛沢東にとって外に飛び出す誘因は遠くに望む高い山だったでしょうか。彼が作り出そうと夢見た共産とは山々に囲まれた小さな村の独立だったでしょうか、...。

家の裏には竹林から丘となっていて、その山道にはみやげものを売る屋台が何軒か並んでいます。狭いトンネルをくぐり丘の反対側に出て、少し歩いたところには金色の巨大な毛沢東像が建っている記念公園が見えてきます。じつはこのあたりはほとんどの家が毛という名字を持っています。そして記念公園の向かい側には毛一族の祠が祭られています。祠と言っても、お寺のような建物で、ここに移った当時の先祖の墓が祭壇にありますが、それだけでなく、お祭りなどで京劇をするための舞台や、夜間学校として使われた教室もあるのです。つまり、この祠は村のセンターだったわけです。夜間学校の壁には岳麓書院に書かれてあった廉の字や孝の字が同じ字体で書かれていましたが、毛沢東の最初の奥さんはこの夜間学校で学んだ最初の女子だったそうです。

さらに足を延ばして、風光明媚な滴水洞に作られた共産党幹部の会議施設(じつは毛沢東の別荘)も見て歩きました。

このあたりを歩くと、さまざまな毛沢東伝説が聞こえてきます。毛沢東はひげの生えない女性の肌を持つ特別な人であった。40歳のときにあごにいぼができて、そこから天命の仕事に邁進した。記念公園の銅像の除幕式のときには、秋だというのに春のツツジが一斉に咲き誇り、太陽と月が一緒に昇ってきた(毛家のお堂の売店で「証拠」のビデオが流されていました)。リレハンメル・オリンピックでは、直前に滴水洞に参って毛沢東のバッジを買った射撃の選手が、目が見えないほど視力が弱っていたのに見事優勝した。中国発の有人飛行を成功させた宇宙飛行士もやはりその前に適水洞を訪れていた、...。

人々の毛沢東を愛する気持ちがよくわかる伝説です。いっしょに回ってくれた先生たちはじつは私と年齢がほとんど同じです。お二人は小学生のときに紅小兵として毛沢東語録の小さな手帳を胸ポケットに入れて活動していたそうで、あのころはみな誰に対しても親切でよかったんですよと懐かしみます。

多くの古代中国の武人や王が神様として祭られたように、毛沢東もまた神格化の途上にあるように思います。

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