東京新聞のコラムは、面白い。
考えるな、二宮尊徳の教え。言葉。
よくよく、勘違いしていた。
感染の渦中のなか、感染戦争のなか、生活は、普通できないものだ。
脚、まげて、風呂に入るという意味が、生活の低く考えることだ。
「切ったときは、気分がいいかもしれないけれど、後の道のりには、苦労が待っている。なぞかけではないが、世の中にいくつかある。しら、啖呵(たんか)、空の手形に大見得(みえ)
…▼同じ列に加えたいわけではない。むしろ拍手を送りたいが、後に続く道のり、やはり厳しそうである。先日の米国主催の気候変動に関する首脳会合で、菅首相が切った温室効果ガス排出に関する「46%減」のカードである
▼二〇五〇年の排出実質ゼロ実現に向けた三〇年度の一三年度比の目標だ。国際的にもそれなりに迫力のある野心的な数字であっただろう。大見得か啖呵か。表明する首相には誇らしさがあったという
▼気候変動対策に背を向けていたトランプ前政権から、意欲的なバイデン政権へと米国が変わったことで、わが国に求めるものも厳しくなった。目標を厳しくした一因らしい。従来の目標が26%減だったことや経済界に難色を示す声があることからも、困難のほどは予想される
▼競争力を損なわないようにしながら、目標達成はできるか。再生可能エネルギーを導入するだけでは及ばないだろう。切り札を切った首相に具体的な筋道はみえているだろうか
▼風呂の湯が少なければ、ひざを曲げてつかれ、そうすれば、肩まで湯が来る−。そんな話で欲望のほうを伸縮させよと説いたのは二宮尊徳だったか。社会の側にも、影響は大きそうである。」
感染戦争のなか、危機感のなか、のんきに、酒、飲酒、外、居酒屋で、飲んでいる場合ではないこと、
知ることがもしれない。
今に、感染した、ほっとかれる時代がもうすぐ、そこだ。
風呂も生活できる水、生活は、最低の私生活が、問われること。
働かないでも、食える、感染対策だろう。
感染対策は、食事も、避難生活の食事かもしれない。
自分で、飯、作るしかない。
政府、市、など、当てにならない、感染しないためには、自分で、生活するしかない。